本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
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没年月日:1956/12/25 染色家田畑喜八は、12月25日京都市中京区の自宅で脳栓塞のため死去した。享年79歳。明治10年二代目田畑喜八の長男として京都市に生れ、明治24年頃より幸野楳嶺に師事して日本画を修得し、同時に京都府画学校に学んだ。明治28年より竹内栖鳳について邦画独特の毛筆画(運筆画)の研究を行い、一方父より手描友禅染全般の加工々程、技術を仕込まれた。明治31年、三代田畑喜八として家業の手描友禅染を継承して以来、友禅染の第一線で活躍した。友禅染の諸工程中、彼の専門分野は下絵、彩色であつたが、その特色は、晩年に至るまで、堰出し友禅、豆描友禅等過去の画歴を活かした筆意を見せたものが多かつた。昭和28年度無形文化財に選定され、30年度には重要無形文化財技術の保持者として認定された。
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没年月日:1956/12/20 独立美術協会々員岡部文之助は、12月20日胸部疾患のため、東京都杉並区の自宅で逝去した。享年47歳。明治42年4月16日札幌市に生れた。中学卒業ののち上京し、昭和3年東京美術学校図画師範科に入学、同6年卒業した。その後10年ほど山脇学園講師をつとめていたが、在学時代の昭和5年から林武に師事して、同5年二科展出品の「中野風景」は初入選となつた。昭和7年からは独立展に毎年作品を送り、15年独立美術協会賞、22年岡田賞を得て、翌年会員となつた。渋い色調で、風景を好んでかき、ことに北海道を描いた作品が多い。なお、殆ど毎年北海道で個展をひらいていた。作品略年譜昭和5年 第17回二科展「中野風景」。昭和7年 第2回独立展「東中野風景」「静物」。昭和15年 第10回独立展「稲こき」「草花」独立美術協会賞。紀元二六〇〇年奉祝展「サイロある風景」昭和18年 第13回独立展「収穫」「峠」。昭和19年 第14回独立展「木挽き」準会員となる。昭和22年 第15回独立展「野崎岬にて」「房州白浜」岡田賞。昭和23年 第16回独立展「牧車」他。会員となる。昭和25年 第18回独立展「牧場」他。昭和27年 第20回独立展「楡の木」「昭和新山」。昭和30年 第23回独立展「牧舎風景」「楡樹と穀倉」。昭和31年 第24回独立展「造船所」「網走港にて」。
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没年月日:1956/12/05 学士院会員、工学博士佐野利器は、12月5日肺気腫のため逝去した。享年76歳。明治13年4月山形県山口三郎兵衛の四男に生れ、佐野誠一郎の養嗣子となつた。明治36年東大工学部建築科を卒業、大学院を経て同助教授となり各国に留学した。大正7年以来、昭和16年停年退官迄工学部教授をつとめ、また、宮内省工務課長、明治神宮造営局参与、帝都復興院理事、東京都建築局長、日本建築学会長、日本大学工学部長などを歴任した。日本の建築構造学を確立した一人で、とくに、家屋耐震構造論などの研究は著名である。大正4年学位をうけ、近年は東京市政調査会理事、東京都住宅協会評議員、生活科学化協会長の役職にあつた。我国建築の基礎的技術の進歩に貢献するところ多く、昭和25年学士院会員に推された、東大名誉教授でもある。
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没年月日:1956/11/24 旭正秀(号泰弘(やすひろ))は明治33年5月6日京都で生れた。大正7年京都府立第二中学校卒業後、東京朝日新聞社に入社し、昭和5年迄在勤した。その間、川端画学校に学び、版画家を志し、日本創作版画協会に出品をつづけ、大正11年同会々員となつた。昭和6年以後は同会の後身である日本版画協会の会員であつた。大正10年9月、小泉癸巳男等と雑誌「版画」を創刊、(後に「詩と版画」と改題)大正14年迄継続した。15年、素描社を創立。のちに「デッサン社」と改名したが、版画と素描の展観、雑誌「デッサン」の刊行など、啓蒙、普及、指導に力をそそいでいた。なお、昭和5-7年、9年-10年、11年-12年と3度外遊し、外務省、文部省後援による現代日本版画展の開催委員として活躍した。作品発表は日本版画協会のほか、春陽会、文展などであるが、むしろ版画の普及、紹介に尽力していた。著書も多く「大津絵」「日本の版画」「日本版画の技法」「開化の横浜絵」などがある。
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没年月日:1956/11/21 美術史学者、歌人、書家として知られた会津八一は、胃潰瘍、心臓障害のため新潟大学附属病院に入院中、11月21日逝去した。享年75歳。号、秋艸道人、渾斎。自宅新潟市。明治14年8月新潟市に生れた。新潟中学在学中すでに俳句、和歌を学び、33年上京して更に、正岡子規の教えをうけた。39年早稲田大学英文科を卒業、有恒学舎、早稲田中学の講師をつとめたのち、早稲田大学教授となり、東洋美術史、奈良文化史を講じた。昭和4年天沼俊一、浜田青陵らと雑誌「東洋美術」を創刊、9年には「法隆寺、法起寺、法輪寺建立年代の研究」で文学博士の学位をうけ、また、早稲田大学内に東洋美術陳列室を創設した。昭和16年自作書画の最初の個展を鳩居堂でひらいた他、壷中居、或は京都大丸等に於て書道展を催すこと十数回に及んでいる。昭和20年戦災に遇い、早稲田大学教授を辞して郷里新潟に疎開した。同地では「夕刊新潟」を創刊、社長となるほか、「新潟日報」の社賓であつた。23年早稲田大学名誉教授に推され、26年には新潟市名誉市民に選ばれた。著書「南京新唱」(大正13年)「奈良美術史料、推古篇」(昭和3年)「法隆寺、法起寺、法輪寺建立年代の研究」(昭和8年)「古瓦集存」(昭和8年)「南京餘唱」(昭和9年)「鹿鳴集」(昭和15年)「渾斎近墨」(昭和16年)「渾斎随筆」(昭和17年)「山光集」(昭和19年)「遊神帖」(昭和22年)「寒燈集」(昭和22年)
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没年月日:1956/11/18 第二紀会々員井上安男は、11月18日名古屋市の自宅で逝去した。享年58歳。明治31年3月22日愛知県中島郡に生れた。大正6年愛知第一師範学校を卒業、同15年日本水彩画会々員となつた。二科会展にも出品し、昭和17年二科会々友に推されたが、19年同会は解散となつた。戦後、二科会の再建に加わらず、22年、二紀会の創立に会員として参加し、26年から審査委員に選ばれていた。作品は風景画が多い。第二紀会展出品作品昭和23年 「大正池の朝」「白樺」。昭和24年 「縞鯛」「初秋の志賀高原」。昭和25年 「尾道風景」「瀬戸内海」。昭和26年 「競輪場」「裸婦」「庭先の裸婦」。昭和27年 「キャンプ村」「乗鞍の大雪渓」。昭和28年 「庭先の裸婦」「寝覚の床」「毛皮の裸婦」。昭和29年 「滝と渓流」「海浜の松林」「南伊豆風景」。昭和30年 「伊良湖海景」「樹間の太陽」「岬端風景」。昭和31年 「岬端斜陽」「赤目渓流」。
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没年月日:1956/11/02 日本童画会々員茂田井武は、11月2日心臓喘息のため東京都練馬区の自宅で逝去した。享年48歳。明治41年9月29日東京に生れ、太平洋研究所、川端画塾に学んだ。昭和5年フランスに留学、スイス、英国を経て昭和8年帰国、挿絵をかきはじめた。第二次大戦中は報導部員として広東に駐留、のち入隊し中支に転戦、20年帰還した。作品は漫画、児童向絵本物語などで、昭和29年小学館児童文化賞、絵画賞をうけた。「絵本セロひきのゴーシュ」「三百六十五日の珍旅行」などの著書がある。
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没年月日:1956/10/30 独立美術協会々員吉川清は、10月30日脳出血で藤沢市の自宅真徳寺に於て逝去した。享年53歳。本名喜善。明治36年6月18日群馬県に生れた。時宗々学院に学び、大正14年東洋大学を卒業した。その間、川端画学校にも学び、数年は宗教、文学、絵画の間を彷徨した。昭和10年頃から絵画に専心し、11年青年美術家集団展に「花」を出品した。翌12年から17年まで春陽会に、18年以後は独立美術協会の展覧会に出品して、28年同会々員となつた。昭和5年以来、藤沢市遊行寺の真徳寺住職をつとめ、作品も殆ど宗教画に限られていたといつていい。時宗の研究家で「一遍上人」の著述もある。作品略年譜昭和11年 青年美術家集団展「花」。昭和12年 春陽会展「婦人像」「黒衣」。昭和15年 春陽会展「不動明王」「孔雀明王」他。紀元二六〇〇年奉祝展「達磨」。昭和18年 第13回独立展「稚児文殊」。再び宗教に思いをめぐらし一遍上人の研究に着手。昭和19年 第14回独立展「馬頭観音像」。伝記「一遍上人」(協栄出版社)、「遊行一遍上人」(紙硯社)出版。昭和22年 第15回独立展「婦人像」。新興美術院展「山越阿弥陀」 「伝記一遍上人伝」(福地書店)出版。昭和23年 第16回独立展「まんだら」。毎日新聞社主催連合展「婦人像」。昭和24年 第17回独立展「釈迦三尊」「涅槃」独立美術協会賞。昭和26年 第19回独立展「鳥のいる涅槃像」「十三仏」。準会員となる。昭和28年 第21回独立展「来迎」「再誕」。会員となる。昭和30年 第23回独立展「苦行の釈迦」「魔笛」「虎を殺したラマ」。
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没年月日:1956/10/09 日本美術院同人馬場不二は、10月9日肺臓癌のため国立第二病院に於て逝去した。享年50歳。自宅目黒区。本名和夫、明治39年3月1日香川県高松市で生れた。大正12年香川県立高松工芸学校卒業後、東京美術学校日本画科に学び、昭和3年卒業した。日本画の革新を志し、昭和9年創立の明朗美術連盟に加わり、また歴程美術協会にも一時参加したが、郷倉千靭の門に入つてからは、日本美術院展を目ざして研鑽をつづけた。院展には昭和23年第33回展に「朝顔」が入選し、27年院友、29年第39回展で「梅樹」が日本美術院賞・大観賞となり、無鑑査待遇をうけた。さらに翌年「冠鶴」、31年「松」を出品、いづれも日本美術院賞・大観賞を受賞し、31年、院展開催中に同人に推挙された。また、29年には美術協会展で受賞するなど、近年とみに充実した制作をみせ、清原斉とともに日本美術院の新同人として期待されていたところであつた。作品略年譜昭和23年 第33回院展「朝顔」。昭和24年 第34回院展「朝顔」。昭和27年 第37回院展「芍薬」。昭和28年 第38回院展「後庭一隅」佳作・白寿賞。昭和29年 第39回院展「梅樹」日本美術院賞・大観賞。日本美術協会展「後庭」協会賞。昭和30年 第40回院展「冠鶴」日本美術院賞・大観賞。昭和31年 第41回院展「松」日本美術院賞・大観賞。同人に推挙される。
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没年月日:1956/09/14 日本美術院同人清原斉は、9月14日聖母病院で腸閉塞のため逝去した。享年59歳。自宅東京都練馬区。明治29年9月26日茨城県竜ヶ崎市で生れた。日本画を松本楓湖、堅山南風に、文章や詩を北原白秋、鈴木三重吉に学んだ。大正12年頃から作歌活動に入り、鈴木三重吉の「赤い鳥」同人、或は昭和5年、白秋主宰「多麿」歌誌会員となり作歌、歌評、随筆を発表していた。挿絵、童画も昭和3年頃から「面白倶楽部」「幼年の国」などに筆をとつている。昭和5年、日本美術院第17回展に「苺」が初入選となつてから、日本画の制作に力をいれ、院展に出品をつづけた。昭和22年、第32回院展で無鑑査の資格を得、27年奨励賞、28年には「宴会」で白寿賞をうけた。更に29年出品の「出を待つ人々」、30年の、「宵」、31年の「アイヌ」で連続3年間、大観賞・日本美術院賞をうけ、31年、院展開催中同人に推挙された。作品略年譜昭和7年 第17回院展「苺」初入選。昭和14年 第3回文展「小松」。昭和15年 第27回院展「朝顔」院友に推される。昭和22年 第32回院展「霜の朝」。昭和23年 第33回院展「少女」。昭和24年 第34回院展「旅客」。昭和25年 第35回院展「霜晴」。昭和26年 第36回院展「抜頭」。「抜頭」舞楽図屏風一双薬師寺に寄贈。昭和27年 第37回院展「天狗舞」奨励賞。昭和28年 第38回院展「宴会」白寿賞。昭和29年 第39回院展「出を待つ人々」日本美術院賞・大観賞。昭和30年 第40回院展「宵」日本美術院賞・大観賞。昭和31年 第41回院展「アイヌ」日本美術院賞・大観賞。同人に推挙される。
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没年月日:1956/09/08 建築家吉田鉄郎は9月8日杉並区の自宅で逝去した。享年62歳。明治27年5月18日富山県東礪波郡に生れた。大正8年東京帝国大学工学部建築科を卒業、逓信省経理局営繕課に勤務した。この頃の作品に京都七条郵便局(現京都中央郵便局)がある。昭和6年7月渡欧、翌7年7月まで独逸を中心に、欧州各国、米国に留学、バウハウスでは日本建築について紹介をしている。帰国後の第一作となつた東京中央郵便局は、素直で健康な合理主義建築をとり入れた彼の最初の作品であるとともに、日本近代建築を代表する作品であつた。其後の作品には赤羽電話局、大阪中央郵便局があり、逓信省建築が他の保守的官庁建築にくらべて、最も近代的な動きを示したのは彼の功績によるところが大きい。昭和16年には第1回逓信協会功労賞をうけたが、19年逓信技師を辞し郷里に帰つた。21年日本大学教授となり25年病気のため退き、その後、北陸銀行新潟支店、同代々木寮、同長野支店などを手がけたが、病気のため著述に専念していた。著書は多く、“Das Japanischen Wohnhaus”, Berlin. 1935. “Japanische Architektur”, Tulingen, 1952. “The Japanese House and Garden” London, New York. 1955. 「日本の現代建築」「放送会館建築」、「スウェーデンの建築家」更にブルノータウトの訳書等多い。
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没年月日:1956/08/11 友禅楊子糊の技術に対し無形文化財の指定をうけていた山田栄一は、8月11日、胃癌のため愛知県愛知郡の自宅で逝去した。享年55歳。号悦堂。明治33年12月17日京都市で生れ、小学校卒業後、三越京都支店染色工場に入り、友禅染の下絵彩色を学んだ。18歳で退店、以後吉川竹翁に師事して友禅染の本格的な研究を行つた。天性器用で、友禅染の技法は、下絵、糊置、彩色、地染等何れをもよくしたため、分業によらず、独自の一貫作業で製作することが多かつた。楊子糊の糊置染法による繊細な美しい糸目にその特色があつた。楊子糊の技法は昭和28年度無形文化財に選定され、写真及び文書記録を残し、30年度には重要無形文化財技術の保持者として認定された。
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没年月日:1956/08/06 読画会々員松久休光は、8月6日世田谷区の自宅で逝去した。享年57歳。本名茂。明治32年2月8日東京で生れた。明治43年以来荒木十畝に師事し、昭和3年帝国美術院第9回展に「池畔」が初入選となつた。帝展、新文展とも毎年入選し、昭和18年第6回文展出品の「翠繍」は特選となつた。終戦後は日展に第4回展から没年迄出品していた。荒木十畝門下を主体とする読画会委員でもあり、読画会展ならびに同展改名後の一新社展にも出品、伝統的花鳥画の研究をつづけていた。作品は前記のほか、「秋韻」(昭和11年文展)、「水禽」(昭和13年)、「鹿苑」(昭和14年)、「しじま」(昭和17年)、「双牛図」(昭和15年奉祝展)、「松林」(昭和26年日展)などがある。
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没年月日:1956/07/10 芸術院会員、文化財専門審議会専門委員、東京芸大教授海野清は、7月10日東大病院で逝去した。享年71歳。自宅東京都文京区。明治17年11月8日、海野勝珉の子として東京で生れた。35年郁文館中学を卒業、39年東京美術学校金工科に入学、44年卒業した。その後、自営制作に従事し、大正3年大正博覧会に「釈迦説法之図打出額面」を出品し2等賞を得、同5年には東京府金工美術展覧会審査員となつた。大正8年東京美術学校助教授、昭和7年教授となり、昭和24年東京美術学校が東京芸術大学となつたのちも、同校教授として没年迄在職した。昭和3年第9回帝展に「鸚鵡文金属小筥」が入選、特選となり、翌年から審査員、或は無鑑査出品者として出品し、昭和22年帝国芸術院会員となつてからは、日展審査員、同運営会理事となり、日展に作品を送つていた。また全日本工芸美術家協会々長、日本彫金会々長、日本美術刀剣会常任審査員など、彫金会の長老として要職にあつた。作品は、諸派の彫法をとり入れ、精巧な技術により古典的優雅な作風をもつて知られ、昭和30年重要無形文化財の指定をうけた。略年譜明治17年 11月8日海野勝珉四男として東京に生れた。明治35年 郁文館中学卒業。明治39年 東京美術学校金工科入学。明治44年 東京美術学校卒業。大正3年 大正博覧会に「釈迦説法図打出額面」出品2等賞。大正5年 東京府金工美術展覧会審査員となる。大正6年 東京美術学校雇となる。大正8年 東京美術学校助教授となり、金工科彫金実習を担任する。昭和2年 この年以後毎年、内閣から工芸審査委員会委員、商工省から第二部員を命ぜられる。昭和3年 第9回帝展に「鸚鵡文金属小筥」を出品、特選となる。昭和4年 第10回帝展審査委員となる。「双鶴文花瓶」出品。昭和5年 第11回帝展審査員。「金銀鍍壷」出品。昭和6年 第12回帝展審査員。「双鶴紋箱」出品。昭和7年 3月、東京美術学校教授。10月、金工技術研究のため在外研究員としてフランスへ留学。昭和9年 1月、帰朝。第15回帝展「青銀花器」(無鑑査出品)。昭和11年 文部省美術展覧会委員となり、11月招待展に「青金色絵瓶」。昭和12年-13年 第1回文部省美術展覧会審査員となる。昭和17年 第5回文部省美術展覧会審査員。「雲竜硯屏」出品。昭和22年 帝国芸術院会員に任命される。第3回日本美術展覧会以後、殆ど毎年日展審査員となる。昭和24年 東京芸術大学教授、日展運営会常任理事となる。昭和26年 文化財専門審議会専門委員となる。昭和27年 第8回日展審査員。「猫」出品。昭和29年 第10回日展審査員。「牛」出品。昭和30年 重要無形文化財の指定をうける。昭和31年 7月10日逝去。
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没年月日:1956/06/20 日本画家福田恵一は、6月20日、胃癌のため逝去した。享年61歳。自宅京都市左京区。明治28年広島県福山市に生れた。大正6年東京美術学校図画師範科を卒業し、中学や陸軍幼年学校の教員生活をしばらく続けていたが、昭和のはじめ西山画塾青甲社に入り、翠嶂に師事してから一層制作に専念した。作品は、大正13年第5回帝展に「薄れゆく斜陽に暮る」が初めて入選、翌年第6回展には「豊公」(三幅対)、「使命」を出品、前者は特選となつた。つづいて第9回展「文覚」、第10展「重盛」で連続特選をとり、以後無鑑査の待遇をうけ、第15回展では審査員をつとめた。昭和18年第6回文展「御楯」、19年戦時特別文展「信長上洛」、戦後の日展では第二回展「露路の秋」、第4回展「淀の方茶々姫」などの出品作がある。晩年まで、歴史、人物を専門とし、日展出品依嘱者に選ばれていたが、近年は殆ど出品しなかつた。
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没年月日:1956/06/06 元日展審査員、日展出品依嘱者岩淵芳華は、6月6日世田谷区の自宅で逝去した。享年55歳。本名完。明治34年2月9日新潟市に生れ、大正4年新潟中学中退後、姻戚関係にあつた松本楓湖塾に学んだ。その間、巽画会で賞をうけたこともある。楓湖没後、昭和元年から蒙古、済南、北京、天津を外遊し、4年3月帰京、翌5年蔦谷龍岬のもとに入門した。然し約1年ほどで辞し、小茂田青樹の紹介で同6年12月、山口蓬春の門に入つた。以来官展に出品し、18年第6回文展の「協和」で特選、戦後の第3回日展出品の「晩帰」で再び特選をとり、26年以後は日展出品依嘱者となつた。又審査員をつとめたこともある。日展のほか青衿会にも出品している。花鳥風景にも筆をとつたが、人物を主にした作品が多い。略年譜明治34年2月9日、新潟市に生れる。大正4年 新潟中学中退後、松本楓湖塾に学ぶ。昭和元年 中蒙古、済南等に外遊。昭和4年 3月帰京。昭和5年 蔦谷龍岬に学ぶ。昭和6年 山口蓬春に学ぶ。昭和7年 第13回帝展に「少女競射」初入選。昭和9年 第15回帝展「共同洗濯場」。昭和11年 改組第1回帝展「佳日」。10月文展鑑査展「帰漁を待つ」。昭和16年 第4回文展「小車」。昭和18年 第6回文展「草原楽土」特選。昭和19年 戦時特別文展「協和」。昭和22年 第3回日展「晩帰」特選。昭和23年 第4回日展「水浜」。昭和24年 第5回日展「水沫」。昭和25年 第6回日展「姉妹」。日本美術協会展「紅衣」第1回高松宮総裁賞。昭和26年 第7回日展「水辺」〔招待〕。昭和27年 第8回日展「採集」。昭和28年 第9回日展「河畔」。日展審査員となる。昭和29年 第10回日展「春の海」。昭和30年 第11回日展「牧場」。昭和31年 6月6日没。
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没年月日:1956/05/28 洋画家坂田一男は、5月28日玉島市の自宅で逝去した。享年66歳。明治22年8月22日、岡山医学専門学校教授坂田快太郎の長男として岡山市に生れた。大正3年上京、本郷絵画研究所で岡田三郎助に師事し、同5年、更に川端画学校に入り藤島武二に学んだ。大正10年渡仏、オットン・フリエスと交友、のちフェルナン・レジェの研究所に入り研究所の助手となつた。作品は、サロン・ドオトンヌ、サロン・チュイルリイなどに出品、立体派から次第に抽象的傾向に移行した。日本人では、抽象絵画の先駆をなした画家であつたが、昭和8年11月帰国ののちは、中央画壇との接触少く、郷里岡山県に居住し作品発表も稀であつた。同地では、18年に火虹会、24年に岡山アヴァン・ギャルドA・G・Oを設立、主宰していた。郷里の度々の水害で作品の殆ど大半を損失してしまつたが、没後、昭和32年4月、東京ブリヂストン美術館で遺作50余点の展観が行われた。
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没年月日:1956/04/02 詩人、彫刻家高村光太郎は、4月2日肺結核のため、中野区の故中西利雄のアトリエで逝去した。享年73歳。明治16年3月13日彫刻家高村光雲の長男として東京に生れた。明治30年東京美術学校予科に入学、35年本科彫刻科を卒業し、しばらく研究科に在籍していた。この間、与謝野鉄幹の新詩社に入り、「明星」に短歌を発表しはじめた。また、ロダンに傾倒し、岩村透のすすめで39年に渡米、ニューヨーク、ロンドン、パリに学び、42年帰国、荻原守衛と共に、日本に初めて近代彫刻を導入した。油絵にも筆をとり、雑誌「スバル」誌上にマチスの画論を紹介し、又当時としては画期的なエッセイ“緑の太陽”を発表するなど、文筆によつても積極的に近代造型運動の先鞭をつけた。大正元年には、我国最初の印象派、フォーヴの集団「フュウザン会」を興し、また北原白秋、木下杢太郎等と交友し、「パンの会」の会員でもあつた。大正3年詩集「道程」を出版、長沼千恵子と結婚した。この頃から詩作や翻訳出版は多くなるが、彼の造型にたいするきびしさは次第に彫刻の制作を少くしていつた。昭和13年夫人智恵子を失い、翌年詩集「智恵子抄」を出版、自らもまた胸を患つた。第二次大戦中アトリエの罹災を機に、岩手県花巻市に疎開、農耕自炊の生活に入つた。昭和27年青森県の委嘱による十和田国立公園功労者顕彰記念碑の彫像を決意して上京、故中西利雄のアトリエに起居し裸婦像の制作にかかつた。28年10月完成したが、著しく健康を害し、この像が最後の制作となつた。なお詩集「道程」は第1回芸術院賞をうけ、昭和22年及び28年と再度にわたつて芸術院会員(第二部、詩の部門として)に推されたが、固辞した。略年譜明治16年 3月13日木彫家高村光雲の長男として東京下谷に生れた。明治30年 東京美術学校予科に入学。明治31年 東京美術学校本科彫刻科に進む。明治33年 鴎村、砕雨等の名で短歌、俳句をつくり「新詩社」「明星」に関係する。明治35年 東京美術学校卒業、研究科にのこる。卒業制作「獅子吼」(石膏)のほか、「薄名児」「五代目菊五郎像」など制作。明治39年 2月岩村透のすすめで渡米、ニューヨークでアートスチューデント・リーグの夜学生となる。明治40年 6月、ロンドンに渡る。バーナード・リーチ、荻原守衛と親交。明治41年 6月、パリに移る。明治42年 6月、帰国。「パンの会」に入り、また雑誌「スバル」に評論、翻訳を発表する。明治43年 東京神田に画廊「琅★堂」をひらく。明治44年 次々に詩作を発表。5月、北海道移住を志し渡道したが、まもなく帰京。長沼智恵子を知る。「父の首」(ブロンズ)制作。明治45年 6月、東京駒込にアトリエ完成。油絵の制作多く、11月、岸田劉生等とフューザン会を結成する。「松方正義の首」(ブロンズ)。大正2年 岸田劉生等と生活社展を興す。大正3年 詩集「道程」出版。12月長沼智恵子と結婚。大正4年 「印象主義の思想と芸術」出版。又、「ロダンの言葉」(翻訳)を雑誌に発表しはじめる。この頃から彫刻に専心する。大正5年 「ロダンの言葉」(翻訳)出版。大正6年 米国における彫刻展を計画して、彫刻頒布会をつくるも不成功に終る。大正7年 「手」「腕」「ピアノを弾く手」(ブロンズ)など此の頃の作。大正9年 「続ロダンの言葉」(翻訳)出版。大正10年 「老人の首」(ブロンズ)この頃の作。「回想のゴッホ」、ヴェルハアラン「明るい時」など翻訳出版するほか、11月復刊の雑誌「明星」に、「雨にうたるるカテドラル」などの長詩、或は散文を発表。大正13年 「蝉」「魴★」(木彫)制作。«木彫小品を頒つ会»をつくる。ロマン・ロラン「リリユリ」(翻訳)出版。大正14年 「鯰」「白文鳥」「蓮根」(木彫)この頃の作ヴェルハアラン「天上の炎」(翻訳)出版。大正15年 「老人の首」(ブロンズ)「鯰」(木彫)を聖徳太子奉讃展に出品。他に「大倉喜八郎の首」(テラコッタ)など。武者小路実篤とロマン・ロラン友の会を興す。昭和2年 「中野秀人の首」(石膏)、「住友君の首」(ブロンズ)など大調和展に出品。「桃」(木彫)もこの頃。評伝「ロダン」出版。昭和7年 「黒田清輝胸像」(ブロンズ)。昭和8年 「成瀬仁蔵胸像」(ブロンズ)。昭和9年 夫人智恵子は、昭和6年精神分裂症の徴候を示して以来病状次第に悪化のため、九十九里浜に転地する。10月、父光雲没す。この頃、彫刻、詩の制作は殆どみられない。昭和10年 「高村光雲胸像」(石膏)。昭和13年 10月、智恵子、粟粒性結核で没す。昭和16年 随筆集「美について」、詩集「智恵子抄」出版。昭和17年 評論集「造型美論」、詩集「大いなる日に」出版。昭和18年 随筆集「某月某日」、詩集「おぢさんの詩」出版。昭和19年 詩集「記録」出版。昭和20年 4月、アトリエ戦災にあい、多くの作品も焼失。5月、岩手県花巻市宮沢清六方に疎開、ここも8月に戦災をうけ、10月、稗貫郡に移り、小屋で農耕自炊の生活に入る。昭和22年 連詩「暗愚小伝」を雑誌「展望」に発表。昭和25年 詩集「典型」、「智恵子抄その後」出版。昭和27年 10月、十和田湖畔に建てる裸婦像制作のため上京、中野区の故中西利雄のアトリエに起居し、自炊生活をしつつ制作にかかる。11月、丸ビル内中央公論社画廊で高村光太郎小品展開催。昭和28年 右の裸婦像完成。10月十和田湖畔休屋御前浜に建立、除幕。昭和29年 ブリヂストン美術館制作の映画「高村光太郎」完成。随想「アトリエにて」を雑誌「新潮」に連載発表。昭和31年 かねてからの胸部疾患悪化し、4月2日、肺結核のため逝去した。享年73歳。
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没年月日:1956/03/08 石版画家織田一磨は、3月8日心臓麻痺のため東京都武蔵野市の自宅で逝去した。享年75歳。明治15年11月11日東京に生れ、洋画を川村清雄、石版を金子政次郎に学んだ。明治31年大阪の実兄織田東禹のもとに同居、翌32年京都新古美術展に初めて作品を発表し、「観桜の図」が1等褒賞となつた。その後、36年に上京する迄、毎回同展に出品、受賞している。上京後は川村清雄等のトモエ会に作品を発表し、また複製石版をはじめた。42年、山本鼎、石井柏亭等の雑誌「方寸」の同人に加わり、創作版画の運動をおこし、石版による創作版画を確立した。明治44年から再び東京をはなれ、大阪で帝国新聞社などに勤務していた。大正4年帰京、代表作の一つである「東京風景」「大阪風景」など情緒豊かな連作石版を発表した。また、大正7年には山本鼎、戸張孤雁等と我国最初の綜合的な版画団体、「日本創作版画協会」を組織し同展で活躍するほか、文展にも作品を送つていた。官展では、はじめ水彩、テンペラ画を出していたが、昭和以後は石版画を専門とした。昭和5年、さらに銅版、石版画家の結集を促し、洋風版画協会を設立するなど、新版画発達のためにつくした功績は大きい。昭和8年頃から登山を好み、山の作品が目立つて多くなつた。戦後は、日展出品依嘱者として第7回展から出品、晩年は仏画風の石版を同展に発表していた。題材は風景から花鳥、仏画に及んでいるが、堅実な写実をもとに、時代の雰囲気をつたえた、抒情豊かな風景石版にすぐれた作品が多い。また、浮世絵版画を好み、「北斎」「浮世絵十八考」「浮世絵と挿絵芸術」等著書も数冊に及んでいる。略年譜明治15年 11月11日東京芝に生れた。明治31年 大阪東区の実兄織田東禹と同居。明治32年 京都新古美術展に「観桜の図」出品、1等褒賞。以後34年迄毎年入選受賞する。明治36年 東京に移る。「水彩画法」「水彩画手本」刊行。明治37年 トモエ会に「停車場」「温室」等出品。明治38年 諸方の依頼により複製石版を作る。明治40年 第1回文展に「日光山の奥」出品明治42年 第3回文展に「憂鬱の谷」出品。「方寸」同人、「パンの会」会員となる。明治44年 大阪帝国新聞社に、森田恒友とともに入社。6月、中山太陽堂広告部に入社。大正2年 この頃から浮世絵の研究に着手。大正3年 第1回二科展に「河岸」出品。大正4年 第2回二科展に「竹林遠望」出品。日本水彩画会審査員となる。大正7年 山本鼎等と日本創作版画協会を組織する。「東京風景」石版連作20枚完成、「大阪風景」の制作に着手。大正8年 第1回帝展「近郊秋景」出品。大正13年 山陰旅行の途にのぼる。大正14年 松江赤山に版画研究所開設。石版画「松江大橋雪夜」。大正15年 第7回帝展に「彼女等の生活」(テンペラ)出品。「北斎」「浮世絵十八考」刊行。昭和3年 第9回帝展に「たそがれ」(石版)出品。画集「銀座」刊行。昭和5年 銅版、石版作家に呼びかけ洋風版画協会を設立。第11回定展「セメント工場」(石版)出品。画集「新宿風景」「浮世絵の知識」刊行。昭和6年 吉祥寺に現在のアトリエを新築。「浮世絵と挿絵芸術」出版。昭和7年 「東京近郊八景」(石版)。昭和8年 武蔵野雑草会をつくり、又登山に興味をもち、山の作品多くなる。昭和11年 文展招待展に「山頂雨後」出品。この年から文展無鑑査となる、以後毎年出品。昭和12年 第1回新文展に「横笛」出品。昭和13年 第2回文展に「山小屋の暁」出品。昭和14年 第3回文展に「蔵王の精華」出品。昭和20年 3月富山県に疎開。昭和24年 2月帰京、吉祥寺のアトリエへ戻る。米国ボストン美術館に自画石版216点寄贈。昭和25年 画集「舞妓」「花と鳥」刊行。昭和26年 日展出品依嘱者となり没年迄毎年出品。昭和28年 日展に「諸行無情初転法輪流転無窮」出品。昭和29年 2月、織田石版術研究所展を東京銀座資生堂で開く。10月、東京丸ビル内中央公論社画廊で個展開催。昭和30年 高尾山仏舎利塔扉原画を描く。昭和31年 3月8日、心臓麻痺のため逝去。
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没年月日:1956/02/24 自由美術家協会々員中筋幹彦は、2月24日胃癌のため逝去した。享年30歳、自宅、東京都世田谷区。大正14年8月14日大阪府南河内郡に生れた。昭和19年松江高校を経て東大に学んだが、21年中退して画生活に入つた。27日新樹会展に出品、また最初の個展を開いた。その後毎年1回個展による制作発表をつづけ、30年、第4回展を行つた。森芳雄に教えられるところ多く、30年には自由美術家協会の会員として迎えられたが、第19回展に、静物2点を出品したのが最後となつた。31年5月、サエグサ画廊で遺作10余点が陳列された。
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