本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





石黒鏘二

没年月日:2013/12/19

読み:いしぐろしょうじ  彫刻家で元名古屋造形芸術大学(現、名古屋造形大学)学長の石黒鏘二は12月19日午前7時16分、食道がんのため死去した。享年78。 1935(昭和10)年6月4日、愛知県名古屋市に生まれる。51年に愛知県立旭丘高校美術科へ入学、高校3年の時に行動美術展に彫塑の「裸婦」を出品し入選。54年東京藝術大学美術学部彫刻科へ入学し石井鶴三の教室に学ぶ。58年に卒業した後は名古屋に戻り、61年より豊橋のマネキン制作会社に勤務しながら制作を続けるが、そこでの業務を通じて様々な技術・技法を習得し、また多くの人々と交流した経験は、後に「マネキン会社大学卒業」を自称するほどに大きな糧となる。69年より身近な題材をモティーフとした鉄溶接による彫刻作品を発表、1970年代後半からはステンレススチールによる抽象的な野外彫刻を数多く手がけるようになる。79年第1回ヘンリー・ムーア大賞展佳作賞、83年同優秀賞、85年同彫刻の森美術館賞、第11回現代日本彫刻展宇部市野外彫刻美術館賞を受賞。また1989(平成元)年に愛知県芸術文化選奨文化賞を、2004年には文部科学省地域文化功労者賞を受賞。一方、名古屋造形芸術大学において67年の開学以来教鞭をとり、98年から2006年まで名古屋造形芸術大学学長を務めた。90年代には「記憶のマテリアル」、2000年代に入ると「記憶のモニュメント」と題するインスタレーションを発表。11年からは千種川歩のペンネームで小説の執筆にも取り組んだ。13年には碧南市藤井達吉現代美術館にて「記憶のモニュメント その軌跡の展開 石黒鏘二展」が開催されている。

ジョン・マックス・ローゼンフィールド

没年月日:2013/12/16

読み:JOHN MAXROSENFIELD Ⅲ  ハーバード大学名誉教授で、日本美術史研究者のジョン・マックス・ローゼンフィールドは、12月16日、脳卒中による合併症のため死去した。享年89。 1924(大正13)年10月、テキサス州のダラスに生まれる。父のJohn Max Rosenfield Ⅱはコロンビア大学でジャーナリズムを学び、キャリアを積み始めた。母となるClaire Burgerと出会ったのもニューヨークでのことだった。25年にはダラスへもどり、ダラス・モーニング・ニュース文化部の記者を勤め上げた。ローゼンフィールドは、2012(平成24)年に獲得したフリーア・メダルの授賞式におけるスピーチで、両親が博学であり、また活動的であったことは幸運だったと述懐している。 高校時代は画家となることを志して、アメリカ中西部の風景を描いていたという。テキサス大学に入学すると絵画を学んだが、41年にアメリカが第2次世界大戦に参戦すると、画家への志は妨げられることになった。アメリカ陸軍に召集され、歩兵としての基礎的な訓練を受けた後、カリフォルニア州のバークレーにある陸軍語学学校でタイ語を学んだ(1945年に最初の学士号を取得)。43年、陸軍の諜報部員としてインドのムンバイに渡航。第2次大戦が終わるまでの間に、北インド、スリランカ、ミャンマー、タイなどのアジアの国々に出征した。 戦後、テキサスに戻ると、南メソジスト大学で芸術学を修めて47年に2つめの学士号を獲得。48年にはElla Ruth Hopperと結婚、アイオワ大学美術史学の修士課程に入学。アイオワ大学在学中の50年に再び応召、朝鮮戦争のために日本と韓国に赴いた。その頃にはプロの画家になるよりも、従軍中にふれたアジア美術に魅了されるようになっていた。 54年、ハーバード大学博士課程に進学し、東アジア美術を専門とするBenjamin Rowlandに師事した。2年後にはヨーロッパを経由して陸路でインドに渡航、インドの仏教美術を学び始める。博士論文は北インドで発掘されたクシャーン朝の王侯肖像彫刻をテーマとしたもので、59年に完成。67年には、カリフォルニア大学出版よりThe Dynastic Arts of the Kushans [クシャーン王朝の美術]として出版された。 62年、生きた信仰としての仏教を経験したいと願っていたローゼンフィールドは、American Council of Leaned Societiesの助成金を得て、家族とともに京都に移り住み、約2年半の間滞在した。 65年、ハーバード大学に赴任。日本美術に関しての根幹となる学術プログラム作成の責務を負った。71年にはアビー・オルドリッチ・ロックフェラー教授に任命。在任中はアジア美術のキュレーター、学部長を歴任した。82年から85年の3年間は、フォッグ美術館(現、ハーバード大学美術館)のアートディレクターを務めた。 ローゼンフィールドは、学生に実作品を学ばせなければならないとしてフォッグ美術館に収蔵するコレクションを求めた。大学院生だけではなく学部生にも収蔵庫におさめられた作品に触れるようにうながし、展覧会準備のアシスタントもつとめさせた。また日本美術に関する情報を増やすことが自らの使命だと認識しており、月刊誌『日本の美術』(至文堂、後にぎょうせいより出版)の英訳を監修、翻訳はハーバード大学博士課程在籍の学生に担当させた。彼は、学生が作品に直に触れ、また日本における日本美術史研究の一端を直に触れさせようと実践的な教育をほどこすとともに、情熱をもって指導にあたったのだった。60年代以降のアメリカにおける日本美術史学の学問的な基礎を形づくった一人と位置づけられる。 長年にわたる日本美術史研究への貢献によって数々の賞を受賞。主要なものに、85年アジアン・カルチュラル・カウンシルのJohn D. Rockfeller 3rd賞、88年旭日章、2001年山片蟠桃賞、12年フリーアメダル賞受賞が挙げられる。 91年6月退職、ハーバード大学東洋美術史名誉教授となる。亡くなるまでハーバード大学の学術的コミュニティで精力的に活動を続けた。最晩年の12年、フリーアメダル授賞式では近世の仏師湛海に関する研究の一端を披露した。この湛海研究が彼の最後の研究となった。彼の死から3年後の2016年、Preserving the Dharma: Hozan Tankai and Japanese Buddhist Art of the Early Modern Era として刊行。その他、主な著作等に以下のようなものがある。 Japanese Arts of the Heian Period, 794-1185, Asia Society, 1967 John M. Rosenfield, Shujiro Shimada, Traditions of Japanese Art, Fogg Art Museum, Harvard University, 1970 Yoshiaki Shimizu, John Rosenfield, Master of Japanese Calligraphy 8th-19th Century, Frederic C Beil, 1985 Mynah Birds and Flying Rocks: Word and Image in the Art of Yosa Buson(Franklin D. Murphy Lectures, X VIII), Spencer Museum of Art, 2004 Portraits of Chogen: The Transformaiton of Buddhist Art in Early Medieval Japan (Japanese Visual Culture), Brill Academic Pub, 2012 没後刊行された追悼文に Samuel C. Morse “Remembering John Max Rosenfield”, Impression 36,2015などがある。(https://www.asia.si.edu/research/freer-medal/booklets/freer-medal-2012.pdf)

長塚安司

没年月日:2013/12/11

読み:ながつかやすし  東海大学名誉教授で、西洋中世美術史研究者であった長塚安司は、12月11日、がんのため東京都新宿区の自宅で死去した。享年77。 1936(昭和11)年、現在の東京都新宿区で生まれる。60年3月、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業、専攻科に進学し、62年3月に修了。在学中は、吉川逸治、柳宗玄の指導を受け、その影響もあって西洋中世美術に関心を寄せ、特にロマネスク美術を研究のテーマとした。後年、自ら生活に根差した芸術表現に関心をもち、そこから中世ヨーロッパ美術、とりわけ土着性と地域性の濃厚なロマネスク美術の研究をはじめたと語っていた。64年にパリ第一大学に留学、歴史博士号を取得する。帰国後、東京藝術大学の助手を務めながら、68、70年の同大学の中世オリエント遺跡学術調査隊の一員としてトルコ等に調査に赴いた。74年には、同大学のイタリア初期ルネッサンス学術調査隊に加わり、イタリアのアッシジ等に滞在した。77年4月より、東海大学教養学部芸術学科の助教授として赴任。翌年、同大学のビザンツ史跡調査隊に加わり、ギリシャのラコニアに滞在した。80年に同大学教授となり、2001(平成13)年3月に退職。同大学名誉教授となった。ゴシック美術、ビザンティン美術、初期ルネサンス研究を視野に入れながら、ヨーロッパから西アジアにかけて実地調査を重ね、絵画、彫刻を中心にロマネスク美術研究を進めた。主要な業績は、下記の通りである。「十字架降下について Ⅰ」(『美術史』76号、1969年3月)「十字架降下について Ⅱ」(『美術史』87号、1972年12月)摩寿意善郎監修、辻茂、茂木計一郎、長塚安司著『アッシージのサン・フランチェスコ聖堂』(岩波書店、1978年)Yasushi Nagatsuka, DESCENTE DE CROIX son developpement iconographique des origins jusqu’a la fin du XIVe siecle, 東海大学出版会、1979年下村寅太郎、長塚安司著『世界の聖域 14 アッシジ修道院』(講談社、1981年)(長塚は本文を執筆)責任編集『世界美術大全集 第8巻 ロマネスク』(小学館、1996年)「『ウィーン写本』における絵画様式試論―挿絵における衣文の表現を通して―」(『古代末期の写生画 古典古代からの伝統と中世への遺産』(研究代表者越宏一、平成11年度~平成13年度科学研究費補助金研究成果報告書)、2002年) 他に、98年に開館した大塚国際美術館(徳島県鳴門市)の絵画学術委員として中世美術の部門の監修を務めた。

吉村芳生

没年月日:2013/12/06

読み:よしむらよしお  美術家の吉村芳生は12月6日、間質性肺炎のため死去した。享年63。 1950(昭和25)年7月24日、山口県防府市で生まれる。創設されたばかりの山口芸術短期大学に進みデザインを学ぶ。71年に同大学を卒業後、山口県周南市の広告代理店にデザイナーとして勤務するが体調を崩し、5年ほどで退職。76年上京して創形美術学校に入学、版画を学ぶ。この頃より克明な鉛筆画を発表、その手法は高圧のプレス機で新聞のインキを紙に転写した後、それに基づいて鉛筆で描き起こした「ドローイング 新聞 毎日新聞 1976年11月6日」(1976-78年)や、17mに及ぶ金網を一旦描く紙に押し付けて、そこに残ったわずかな痕跡を鉛筆でなぞった「ドローイング 金網」(1977年)のように極めて機械的であり、アメリカの現代美術を紹介する展覧会で衝撃を受けたアンディ・ウォーホルの作品に通ずるものであった。80年より郷里の公募展である山口県美術展覧会を主な発表の場とし、同県を中心とする地域で活動、85年に山口市徳地に移住する。2007(平成19)年山口県美術展覧会で「コスモス 徳地に住んで見えてくるもの(色鉛筆で描く…)」により大賞を受賞。同年、東京の森美術館で開催された「六本木クロッシング2007 未来への脈動」展で、「ドローイング 新聞 毎日新聞 1976年11月6日」や「ドローイング 金網」といった吉村の出発点ともいえる作品が紹介され、多くの美術関係者に知られるところとなる。10年山口県立美術館にて「とがった鉛筆で日々をうつしつづける私 吉村芳生展」が開催されている。

堤清二

没年月日:2013/11/25

読み:つつみせいじ  文化功労者、日本芸術院会員で公益財団法人セゾン文化財団理事長の堤清二は11月25日午前2時5分、肝不全のため東京都内の病院で死去した。享年86。 1927(昭和2)年3月30日、東京に生まれる。48年東京大学経済学部在学中に学生運動に参加し共産党に入党するが、翌年除名。51年に同大学を卒業後、西武コンツェルンの創始者で衆議院議長だった父・康次郎の秘書を経て、54年に西武百貨店へ入社。64年の康次郎没後、西武コンツェルン本体を異母弟の堤義明が継ぎ、東京・池袋の西武百貨店を中心とする流通部門を受け継いだ清二は西友、パルコ等を含む西武流通グループ(後にセゾングループと改称)を創設、生活総合産業を掲げ広く事業を手がけた。しかし拡大路線がバブル崩壊で破綻、1991(平成3)年に同グループ代表を辞任し、一線から退いた。一方で55年より筆名・辻井喬として詩や小説を発表。61年には詩集『異邦人』で室生犀星詩人賞を受賞。84年小説「いつもと同じ春」で平林たい子文学賞受賞。グループ代表退任後は旺盛に創作に取り組み、93年詩集「群青、わが黙示」で高見順賞、94年小説「虹の岬」で谷崎潤一郎賞、2000年長編詩「わたつみ 三部作」で藤村記念歴程賞、01年小説「風の生涯」で芸術選奨文部科学大臣賞、04年小説「父の肖像」で野間文芸賞、06年日本芸術院賞恩賜賞、07年詩集「鷲がいて」で読売文学賞を受賞。07年日本芸術院会員、12年文化功労者となる。 特異な“詩人経営者”としての才能は、美術展をはじめとする文化事業において発揮された。60年に西武百貨店池袋店8階催事場を美術展に用いることを提案し、翌年「パウル・クレー展」を開催。その後も「ジャン・コクトー芸術展」(1962年)、「アーシル・ゴーキー素描展」(1963年)等、百貨店の美術展としては珍しい現代美術を度々取り上げ、75年、池袋店内に常設美術館である西武美術館を開館させる。同館の開館記念展「日本現代美術の展望」の図録に館長として「時代精神の根遽地として」を寄稿、生活意識の感性的表現としての多様な美術および美術館のあり方を示した。さらに78年より美術評論家の東野芳明らの協力のもと、軽井沢に現代芸術の拠点となる新たな美術館創設に向けて準備を始め、81年に軽井沢高輪美術館(現、セゾン現代美術館)が開館、開館記念展として「マルセル・デュシャン展」が開催される。西武美術館は89年にセゾン美術館としてリニューアルオープンし活動を続けるも、バブル崩壊による事業整理により99年に閉館、しかし現代美術を積極的に紹介し、さらに「時代精神の根遽地として」美術の枠を越え文化全般を対象とした展観に取り組んだ姿勢は今なお評価される。一方で87年には私財によりセゾン文化財団を設立し、演劇・美術分野に対して(1991年以降は舞台芸術のみ)助成事業を行なうなど日本の現代芸術の進展を支援。生活意識の中の感性的表現を重視する姿勢は、経営面においてもグラフィックデザイナーの田中一光や石岡瑛子らを積極的に起用した広告戦略に見出せる。時代の先端を行く美術、音楽、演劇、映画等を発信する場を店舗内に併設し、老舗百貨店の客層とは違う若い感性を持つ顧客を開拓することで、“セゾン文化”と呼ばれる個性的なライフスタイルを築き上げた。

逵日出典

没年月日:2013/11/21

読み:つじひでのり  文化史学者の逵日出典は11月21日、死去した。享年79。 1934(昭和9)年8月11日奈良県五條市に生まれる。同志社大学文学部文化学科文化史学専攻に在学中の55年には「室町時代の象徴的芸術精神について」(『美術史年報』1)、「法成寺―藤原寺院芸術の思想史的考察」(『文化史研究』2)、翌年には「一木彫成立の文化史的意義―日本彫刻史への一反省」(『同』3)、「法成寺の伽藍配置と諸堂宇の構造―文化史的研究の前段階として」(『同』4)を立て続けに発表する。57年3月の卒業時には「京都と庭園」、「室町時代―日本的庭園の源泉」(ともに『同』5)を発表。卒業後は郷里の奈良県下で教職に就くが、その後も「室生伝説成立私考」(『同』6、1957年)、「法成寺伽藍とその性格―修補再論」(『同』8、1958年)、「室生寺の真言宗系々譜完成過程について―宀一山記・宀一秘記・宀一山秘密記を中心として」(『同』14、1958年)などを精力的に公表する。この頃から論文発表の場も『文化史研究』から次第に拡大の傾向を示す。65年には京都精華女子高等学校教諭となり、以後は『同学園紀要』が論文発表の場の中心となる。70年には同学園からそれまでの成果をまとめ『室生寺及び長谷寺の研究』として上梓をみた。以後も『同学園紀要』ほかで精力的に宗教文化史の観点から論文を発表する。ことに奈良時代から平安時代に及ぶ山岳寺院研究を精力的に行い、文化史研究にとどまらずわが国の宗教美術研究を行ってゆくうえでも成果は注目されることになった。70年以降の数々の研究論文発表を踏まえ、87年には「奈良朝山岳寺院の史的研究」をまとめ、同志社大学より文学博士の号を得た。1990(平成2)年に岐阜教育大学教育学部教授に就任。91年には『奈良朝山岳寺院の研究』(名著出版)を刊行。95年頃から構想が具体化した日本宗教文化史学会を、文化史に留まらず、宗教史、美術史、建築史の研究者に広く呼びかけて97年に立ち上げるとともに初代会長に就任した。これにあわせて論文発表の場も同会の学術研究誌『日本宗教文化史研究』に移行する。その頃から発生期における八幡信仰成立にかかわる研究を精力的に進め、2003年には『八幡宮寺成立史の研究』(続群書類従完成会)として結実をみた。この間、98年には岐阜聖徳学園大学(旧称、岐阜教育大学)教育学部教授、同大学院国際文化研究科教授に就任。06年10月1日付で同大学名誉教授に、09年には日本宗教文学史学会理事長となる。主要論文・著作の全貌については業績を顕彰して略歴・追悼文とともに『日本宗教文化史研究』35、36(2014年)に収載されているが、上掲の文中で触れ得なかった主要単著として、『長谷寺史の研究』・『室生寺史の研究』(ともに巌南堂書店、1979年)、『神仏習合』(六興出版、1986年。のち臨川書店から93年に復刊)、『八幡神と神仏習合(講談社現代新書1904)』(講談社、2007年)がある。また、上掲の単著に収録をみなかった主要論文には、「天武・持統両帝の龍田・広瀬両社への御崇敬」(『くすね』6、1960年)、「神泉苑における空海請雨祈祷の説について」(『芸林』68、1961年)、「平安初期における国家的雨乞の動向」(『神道史研究』54、1962年)、「寺院縁起絵巻の構成内容に関する考察」(『精華学園研究紀要』4、1966年)、「平安朝貴族の“ものもうで”―特に浄土信仰との関連において」(『京都精華学園研究紀要』6、1968年)、「平安朝貴族の信仰形態―藤原道長の場合」(『同』8、1970年)、「『世継』の歴史思想」(『同』9、1971年)、「大丹穂山と大仁保神」(『神道史研究』168、1983年)、「龍蓋寺(岡寺)草創考」(『京都精華学園研究紀要』27、1989年)、「讃岐志度寺縁起と長谷寺縁起」(『日本仏教史学』25、1991年)、「神道習合の素地形成と発生期の諸現象―既存発生論への再検討を踏まえて」(『芸林』208、1991年)、「住吉神宮寺の出現をめぐって」(『同』227、1996年)、「『南法華寺古老伝』に見る『日本感霊録』の逸文」(『日本宗教文化史研究』3、1998年)、「天平勝宝元年八幡大神上京時の輿について」(『同』14、2003年)、「『石山寺縁起』に見る比良明神―長谷寺観音造像伝承とも関連して」(『同』16号、2004年)、「多武峯妙楽寺の草創」(『同』18、2005年)、「本長谷寺の所在に就いて―永井義憲氏説の妥当性と補遺」(『同』24、2008年)、「長谷寺創建問題とその後」(『同』26、2009年)、「室生寺の歴史―龍穴信仰から抗争のはて女人高野へ」『室生寺(新版古寺巡礼 奈良6)』(淡交社、2010年)、「古代神祇祭祀の基本形態―神体山信仰の展開」(『神道史研究』266、2012年)などがある。

齋藤明

没年月日:2013/11/16

読み:さいとうあきら  鋳金で重要無形文化財保持者である齋藤明は11月16日、老衰のため死去した。享年93。 1920(大正9)年3月17日、東京都西巣鴨に鋳金家齋藤鏡明の長男として生まれる。鏡明は佐渡出身で、佐渡の本間琢斉に学び、1909(明治42)年頃に東京に移り巣鴨に工場を設立している。1935(昭和10)年、父に鑞型鋳造の技法を学んだが、38年、18歳の時父が急逝し、鋳物工場を引き継いだ。この工房には佐々木象堂、2代宮田藍堂ら蠟型を得意とした佐渡の鋳金家が冬の間制作場としたため、彼らから技術指導を受ける機会に恵まれた、50年、高村光太郎の弟で鋳金家の高村豊周に師事し、豊周が72年逝去するまでその工房の主任をつとめた。工房では高村光太郎の彫塑原型のブロンズ鋳造を多く手掛けた。豊周に師事した年、第6回日展に「鋳銅」蝶両耳花瓶」を出品し初入選した。68年、第13回日本茶器花器美術工芸展で青銅大壺「跡」で文部大臣賞を受賞した。73年、浅草寺五重塔の建立にあたって、塔納置の舎利容器を制作する。75年、日本伝統工芸展に「蠟型朧銀流水壷」を初出品、初入選し、以後日展から伝統工芸展に移った。87年、第17回伝統工芸日本金工展に「蠟型朧銀花器」を出品、東京都教育委員会賞を受賞する。1993(平成5)年、国の重要無形文化財保持者に認定され、95年勲四等瑞宝章を受章した。 作品は縄文や弥生土器にみられえるような装飾性を抑えた簡素な造形を好み、日展時代には四分一や青銅、緋色銅を用いた作が多いが、伝統工芸展で新たに吹分(ふきわけ)の技法を発表する。吹分は、青銅に真鍮、青銅に銅など異なる金属を鋳型に流し込んで、色彩的な変化を付けるとともに、その境界の金属の交じり合う微妙な融合の美を追求したものので、明治時代以前には全くなかった技法である。日本鋳金家協会顧問・東京芸術大学美術学部非常勤講師なども勤め、金工界にも尽力した。

飯田真

没年月日:2013/11/04

読み:いいだまこと  日本絵画史研究者の飯田真は、11月4日、肺がんのため、岐阜県立多治見病院で死去した。享年54。 1958(昭和33)年12月23日、徳島県鳴門市に生まれる。77年3月東海高等学校を卒業し、78年4月名古屋大学へ入学、83年3月同大学を卒業し、同年4月名古屋大学大学院へ進学、85年3月同大学大学院文学研究科を修了した。85年4月から岐阜市歴史博物館の学芸員として勤務するが、1990(平成2)年3月に同館を退職。同年4月からは静岡県立美術館の学芸員として勤務し、98年4月から同館の主任学芸員、2007年からは同館の学芸課長となり、2013年3月に同館を退職した。 岐阜市歴史博物館では美術、静岡県立美術館では江戸時代の絵画、とりわけ18世紀から19世紀の浮世絵や文人画などを担当し、岐阜や静岡といった勤務地の地域に根ざした美術や絵画に関する堅実な展覧会を精力的に開催したが、その一方で、「ホノルル美術館名品展」など、海外にある日本絵画の里帰り展も意欲的に企画している。同様に、研究面では、名古屋大学在学中から専門としていた葛飾北斎をはじめ、歌川広重や小林清親といった著名な浮世絵師の研究を進めつつ、安田老山や平井顕斎、山本琴谷、原在正、原在中など、従来あまり注目されてこなかったような画家を積極的に取り上げ、その作品や表現の詳細な分析に基づいた真摯な資料紹介もおこなった。また、江戸時代絵画における風景表現の展開は、長年の研究テーマでもあり、展覧会・研究の両面を通じてアプローチし、特に富士山を主題とした実景表現への考察には優れた研究業績が多い。一方、静岡県立美術館では、同館の運営や、他館との連携協力といった事業にも意識的で、同館の主任学芸員や学芸課長時代には、学芸課の体制づくりなどにも大きく貢献した。 企画にかかわった主要な展覧会としては、岐阜市歴史博物館で「美濃の南画」(1988年3月~4月)、静岡県立美術館で「平井顕斎展」(1991年1月~2月)、「広重・東海道五十三次展」(1994年1月)、「描かれた日本の風景―近世画家たちのまなざし―」(1995年2月~3月)、「ホノルル美術館名品展―平安~江戸の日本絵画―」(1995年9月~10月)、「明治の浮世絵師 小林清親展」(1998年9月~10月)、「描かれた東海道―室町から横山大観まで、東海道をめぐる絵画史―」(2001年10月~11月)、「江戸開府400年記念 徳川将軍家展」(2003年9月~10月)、「富士山の絵画展」(2004年2月~3月)、「心の風景 名所絵の世界」(2007年11月~12月)、「帰ってきた江戸絵画 ニューオリンズ ギッター・コレクション展」(2011年2月~3月)、「草原の王朝 契丹」(2011年12月~2012年3月)などが挙げられる。 また、主要な論文としては、「北斎読本挿絵考」(『美学美術史研究論集』4、名古屋大学文学部美学美術史研究室、1986年4月)、「資料紹介 安田老山の絵画」(『岐阜市歴史博物館研究紀要』4、1990年3月)、「作品紹介 山本琴谷筆 「無逸図」」(『静岡県立美術館紀要』10、1993年3月)、「原在正筆「富士山図巻」をめぐって―江戸後期京都画壇における実景図制作の一様相―」(『静岡県立美術館紀要』13、1998年3月)、「原在中筆「富士三保松原図」について―江戸時代後期の富士山図をめぐって」(『静岡県立美術館紀要』16、2001年3月)、「ロダンと浮世絵―『白樺』同人による浮世絵寄贈の経緯」(静岡県立美術館・愛知県美術館編『ロダンと日本』、2001年4月)、「日本文人画にみる点表現―池大雅を中心に」(静岡県立美術館編『きらめく光―日本とヨーロッパの点表現―』、2003年2月)、「谷文晁筆「富士山図屏風」について」(『静岡県立美術館紀要』19、2004年3月)、「歌川広重«不二三十六景»をめぐって」(『静岡県立美術館紀要』22、2007年3月)、「«武蔵野図屏風»―静岡県立美術館所蔵作品の紹介を中心に」(『静岡県立美術館紀要』25、2010年3月)などがある。

ドナルド・フレデリック・マッカラム

没年月日:2013/10/23

読み:DONALD FREDERICKMcCALLUM  カリフォルニア大学ロサンジェルス校名誉教授で、日本美術史研究者のドナルド・フレデリック・マッカラムは、10月23日、前立線癌の転移による闘病後、自宅で静かに息をひきとった。享年74。 1939(昭和14)年5月23日、カナダ・ブリティッシュコロンビアのバンクーバーで生まれる。若いころはエジプト考古学に熱中し、57年に入学したカリフォルニア大学バークレー校では、中国学者のOtto J. Maenchen-Helfenの講義に触発されてアジア美術史の勉学に励んだ。62年学士号取得。ニューヨーク大学大学院に進学すると、アジア美術史家のAlexander Soperの指導のもと研究を進めた。彼は中国美術史をする予定だったが、当時は中国への渡航があまりにも難しい政治情勢であったため、専攻を日本美術史に変更。65年、J. D. R 3rd Fundを含めてさまざまな助成金を得て、博士論文の執筆のために日本に渡航。68年まで3年間の日本滞在中は、倉田文作、西川新次、久野健、清水善三、上原昭一、井上正ら日本彫刻史研究者との知遇を得、また66年には生涯のパートナーとなる宮林淑子と出会う。 69年UCLAの美術史学部に職を得て、在職期間中には学部長、UCLAの日本学センターの所長、UCLA東京スタディセンターの所長などを歴任した。73年、“The Evolution of the Buddha and Bodhisattva Figures in Japanese Sculpture of the Ninth and Tenth Centuries”をニューヨーク大学に提出し、博士号取得。当時日本国外ではほとんど知られていなかった9~10世紀の仏像に関する挑戦的な論考であった。同年には “Heian Sculpture at the Tokyo National Museum,” Part Ⅰと題し、71年に東京国立博物館で開催された«平安時代の彫刻»展の展評を発表。Artibus Asiae 35号に掲載されたこの展評が彼の最初の業績となった。その後、生涯を通じておこなわれた仏像研究は6世紀から19世紀の円空に至るまで非常に広範囲にわたり、古代日本に影響を与えた朝鮮半島の仏像についても論究し、地域的な広がりもみせた。研究対象も仏像にとどまらず刺青にまで及ぶ。Artistic Transformations of the Human Body(Marks of Civilization, 1988)に掲載された “Historical and Cultural Dimensions of the Tattoo in Japan” はその成果の一部として知られている。また日本国外で20世紀初頭の日本の近代洋画研究をはじめた最初期の研究者の一人であり、87年には “Three Taisho Artists: Yorozu Tetsugoro, Koide Narashige, and Kisida Ryusei” Paris in Japan:The Japanese Encounter with European Painting, St. Louis, 1987を公表。近代洋画家のなかでも松本竣介がお気に入りだったという。 彼は非常に教育熱心で、教えることを心より愛していた。いつも鋭いウィットと温かいユーモアとジョークにあふれた刺激的な講義が行われ、UCLAでは例年予定よりも多くの授業が開講された。博士課程の学生に対しては、厳しいながらも親身になって根気よく向き合った、実に面倒見のよい良き指導者であった。 UCLAで44年にわたり教鞭をとった後、2013(平成25)年6月に退職。その年の10月、彼のもとで学んだカンザス大学教授のSherry Fowler准教授らが「考古学・仏教・アバンギャルド:ドナルド・マッカラムの日本美術とのエンゲージメントを祝うシンポジウム」を企画し、研究者として指導者として卓越したキャリアを誇るマッカラムの業績を顕彰した。彼が学生に慕われていたことは、このシンポジウムをまとめたARTIBUS ASIAE VOL.LXXIV, NO.1, 2014に掲載される彼女の追悼文によく示されている。Sherry Fowler “Donald F. MacCallum(1939-2013),” Archives of Asian Art, Volume 63, Number 2, 2013, pp211-213も参照。 このシンポジウムの後、2週間を経ないうちに息をひきとった。 業績は論文等100編以上を数えるが、主要な著書には以下のものがある。 Zenkoji and Its Icon: A Study in Medieval Japanese Religious Art. Princeton, N.J.: Princeton University Press, 1994 The Four Great Temples: Buddhist Archeology, Architecture, and Icons of Seventh-Century Japan. Honolulu: University of Hawai’i Press, 2009 Hakuho Sculpture. Seattle: University of Washington Press, Jan., 2012

村山密

没年月日:2013/10/22

読み:むらやましずか  フランス在住の洋画家・村山密は、自宅があるパリ市内の病院で、10月22日がんのため死去した。享年94。 1918(大正7)年10月26日、茨城県行方郡大生原村大字水原(現、潮来市水原)に、父村山茂、母なみの次男として生まれる。村山家は江戸時代初期から続く地主で、祖父魁助は能書家でもあったことから、家には美術雑誌や複製絵画があり、6歳の頃にはすでに絵描きになると言い、10歳の頃には画家となってパリへ行くと両親にいっていたという。25年大生原尋常高等小学校(現、潮来市立大生原小学校)に入学。後に水彩画家として初の芸術院会員となった小堀進から図画の指導を受け、在校中の1927(昭和2)年には茨城県行方郡小学校図画コンクールに出品、入賞している。31年同校を卒業し、茨城県立麻生中学校(現、県立麻生高等学校)へ入学するも、翌32年画家を目指して上京。出版会社を経営する親戚宅に身を寄せ、仕事を手伝う傍ら絵の勉強に励んだ。同じ頃、近所にあったイヌマエル教会に出入りするようになる。33年川端画学校の夜間部に通い始めるが、36年には画学校をやめ、春陽会洋画研究所に通い、石井鶴三、木村荘八、中川一政等に学んだ。この頃、イヌマエル教会にて受洗。洗礼名をヨハネとする。37年には体調を崩し一時帰京するが、翌38年に再び上京。検事局で勤務する傍ら、木村荘八の主宰する画談会に通う。39年、福島県出身で当時東京府庁に勤務していた渡邊ミツと、イヌマエル教会にて挙式。40年には前年にフランスから帰国していた岡鹿之助が春陽会の会員に迎えられ、同年4月の第18回春陽会展にて岡の滞欧作12点が出品された。村山は岡の作品に大変な感銘を受け、また画談会において岡が村山の作品を評価したことも手伝い、岡に師事するようになる。そのなかで村山は、近代的絵画の精神や近代的技法について、岡から具体的な指導を受けた。42年には第20回春陽会展に「花」が、第5回文部省美術展覧会(新文展)に「花」がそれぞれ初入選、以後春陽会展を中心に作品を出品し、49年には春陽会会友、52年には会員となっている。その間、43年には応召のため一時画業の中断を余儀なくされ、45年終戦の年には父茂が亡くなっている。 戦後の混乱もようやく落ち着いてきた54年、予てからの念願であった渡仏を果たし、パリ到着の翌日には、岡鹿之助、さらには旧水戸藩主の直系徳川圀順の紹介状を手に藤田嗣治を訪ね、以後毎日のように藤田のもとへと足を運んだ。翌55年、経済的な問題から帰国し、57年には日本橋三越において「村山密滞欧作品展」を開催。同じ頃四谷のイグナチオ教会に通いカトリックに入信している。59年、今度は定住を決意して再び渡仏。翌60年には藤田の紹介によりルシオ画廊でのグループ展に参加、以後も出品を続ける。61年にはトゥルネル画廊の代表アンヌ・マリと知り合い、翌62年同画廊にて第1回個展を開催。同年のサロン・ドートンヌでは初めて出品した「ノートルダム寺院」が初入選し、パリ16区主催風景画コンクールではド・ゴール大統領賞を受賞、翌63年のサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールでは「ノートルダム寺院(パリ)」を出品し、外国作家賞を受賞。この間、フランスを訪れた岡とともにブルターニュの僻村コーレルや、サルト県ソーレムのサン・ピエール修道院を巡り、岡が帰国した後の経済的・精神的苦境の際には、日本からの岡の手紙に非常に励まされたという。また、弟憲市は兄を支援するために銀座に画廊を開き、村山作品の販売を手掛けた。 春陽会や新文展に出品していたころの村山作品は、花や果物といった穏やかな静物画であったが、パリへと渡った後には、パリを中心とする風景画を多く描くようになり、風景画家としてその名が知られるようになった。色彩とフォルムの秩序を重視し、パレット上での混色を避けて色彩の純度を高める手法を採るなど、新印象派を自称する村山の作品は、印象派やキュビスムといった西洋絵画の技法と、日本人としてのアイデンティティとによって構成された現代フランス絵画であると評された。 69年にはアニエール展に「ケー・ブールボン(釣人)」を出品しグランプリを受賞、70年にはサロン・ドートンヌの会員となり、72年には同展陳列委員、さらに79年には審査委員となる。81年サロン・ド・オンフルールでウジェーヌ・ブーダン賞を受賞。同年フランス国籍を取得する。翌82年には再びアニエール展でグランプリを受賞。85年日本人で初めてサロン・ドートンヌのプレジダント・ド・セクション・パンチュール(具象絵画部門絵画部長)に任命され、翌86年にはサロン・ドートンヌの最高の栄誉ともいえるオマージュ展に日本人として初めて選出、「オンフルールの旧税関」「夜のノートルダム」「けし」「睡蓮」など18点が展示された。87年モナコ王室主催国際現代絵画展にて「ルーアンの聖堂」が宗教絵画特別賞を受賞。1991(平成3)年にはパリ市よりヴェルメイユ勲章を受章した。また、同年9月には茨城県潮来町名誉町民に任命され、11月には第27回茨城賞を受賞している。93年ルールド市主催の国際ジェマイユ・ビエンナーレでグランプリを受賞。95年にはフランス芸術院よりグランド・メダイユ・ドール(栄誉大賞)を、日本国より勲四等旭日小綬章をそれぞれ授与され、97年フランス国家よりシュヴァリエ・ラ・ド・レジョン・ドヌール勲章を受章している。 フランスでは「ミュラ」の愛称で親しまれ、優秀な日本人画家をフランスに紹介し、フランス現代絵画を日本へ紹介するなど、両国の相互理解を深める上で大きな役割を果たした。

豊島弘尚

没年月日:2013/10/19

読み:とよしまひろなお  洋画家の豊島弘尚は10月19日、肺がんのため死去した。享年79。 1933(昭和8)年12月10日、青森県上北郡横浜町に生まれる。本名は豊島弘尚(としまひろたか)。40年教員をしていた父の転任で八戸に移り、少年時代を八戸で過ごす。52年に八戸高等学校を卒業し上京、翌年東京藝術大学に入学、在学中の56年に稲葉治夫、高山尚、渡辺恂三と新表現主義展(60年に新表現展と改称)を結成し、第1回展を新橋の美松画廊で開催。57年東京藝術大学美術学部絵画科油絵専攻(林武教室)を卒業、安宅賞を受賞する。その後、銀座・サトウ画廊、村松画廊、ミキモトホール、日本橋高島屋コンテンポラリーアートスペース等で個展中心の発表を続ける。60年代には頭や人体の一部を切り取ったフォルムの中に、現代人の抱える不安や孤独を投影させた内面的な世界を表現していたが、74~75年文化庁在外芸術家派遣員としてニューヨーク、ストックホルムに滞在、その折に出会った北欧神話とオーロラの美しさに魅せられ、以後それらをモティーフとした壮大で幻想的な宇宙を描くようになる。76~87年は毎年1ヶ月パリに滞在。87~1989(平成元)、91、97年ストックホルムに滞在。93年東京を離れ、栃木県の那須高原にアトリエを建て移住。98年「空に播く種子(父の星冠)」により第21回安田火災東郷青児美術館大賞受賞。2002年に八戸市美術館で「豊島弘尚展―北の光に魅せられて」を開催。さらに同館では、没後の14年に八戸市へ遺族から400点を超える作品が寄贈されたのを機に、その翌年「豊島弘尚展 北の光と三つの故郷」を開催している。

やなせたかし

没年月日:2013/10/13

読み:やなせたかし  漫画家、詩人、デザイナー、イラストレーター、絵本作家など多くのジャンルで活躍したやなせたかしは、10月13日心不全のため東京都内の病院で死去した。享年94。 1919(大正8)年2月6日東京府北豊島郡滝野川町(現、東京都北区)に生まれる。本名柳瀬嵩。自身は故郷については幼少期を過ごした高知県香美郡在所村(現、香美市)としていた。5歳のとき新聞記者だった父が32歳で亡くなり、父母の故郷高知県へ移る。小学校2年のとき母の再婚に伴い、以後伯父夫婦に育てられる。中学時代財布を落とし、15キロも歩いて帰宅途中、友人の母親からアンパンをもらったことが、後のアイデアとなる。1937(昭和12)年東京高等工芸学校(現、千葉大学工学部)に入学、40年田辺製薬宣伝部に入社、41年召集され、中国を転戦、実際の戦闘体験はなかった。終戦後、高知新聞社に入社、漫画を執筆。『月刊高知』にも4コマ漫画やイラストを掲載。47年妻となる小松暢子を追って上京、三越宣伝部に入社、また「漫画集団」に所属、しだいに漫画での収入が安定し、53年フリーとなる。54年ニッポンビール(現、サッポロビール)の広告漫画「ビールの王さま」、56年から『週刊漫画TIMES』では表紙などもてがけ活躍する。60年、ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の美術を担当、それが縁で「手のひらを太陽に」を作詞(作曲いずみたく)する。64年から3年間NHKテレビ「まんがの学校」の講師を務める。66年処女詩集『愛する歌』(山梨シルクセンター[現、サンリオ])を出版。69年手塚治虫監督のアニメ「千夜一夜物語」の美術とキャラクターを担当、70年に虫プロでアニメ「やさしいライオン」を監督し、同作で大藤信郎賞を受賞する。73年『詩とメルヘン』を創刊し、30年間編集長を務める。同年「あんぱんまん」を『キンダーおはなしえほん』に掲載、当初書店販売はなく、幼稚園などへの直販だった。「あんぱんまん」は幼児からしだいに人気となり、88年「それいけ!アンパンマン」がテレビ放映へ、翌年文化庁こども向けテレビ用優秀映画賞を受賞、1989(平成元)年からは劇場用アニメも制作された。また同漫画は90年日本漫画家協会大賞を受賞、さらに2009年、単独のアニメでは最多キャラクターを制作したことでギネス世界記録の認定を受ける。08年、やなせたかし展が山梨県立美術館ほか9館を巡回。70歳代からは病を抱えながらもそれまで以上にさまざまな活動を展開、92年から高知県が主催する「まんが甲子園」の審査委員長、2000年から日本漫画家協会理事長、12年からは会長を歴任した。 著作に『まんが入門』(華書房、1954年)、『アンパンマンの遺書』(岩波書店、1995年)、「やなせたかしアンパンマンの心」『ユリイカ』(2013年8月臨時増刊)、没後の作品集に『やなせたかし大全』(フレーベル館、2013年)などがある。また、故郷の香美市に「やなせたかし記念館、アンパンマンミュージアム」(1996年開館)がある。

鈴木雅也(三代鈴木表朔)

没年月日:2013/10/07

読み:すずきまさや  漆芸家の鈴木雅也は10月7日午後10時47分、京都市左京区の病院で死去した。享年81。 1932(昭和7)年2月26日、父貞次(二代表朔)の長男として京都市中京区に生まれる。生家は祖父の初代表朔(1874-1943)、父の二代表朔(1905-1991)と続く京塗師の家系。幼い頃から父に塗りの基本を学び、44年に京都市立美術工芸学校(現、京都市立銅駝美術工芸高等学校、学制改革のため卒業時の校名は京都市立日吉ヶ丘高等学校)漆工科に入学。卒業制作では第1席(学校賞)を受賞。50年に同校を卒業後、東京芸術大学美術学部に入学。漆芸科では松田権六らの指導を受け、家業である伝統的な塗りの仕事とは異なる表現を学ぶ。53年、卒業制作の「こでまり草の図・棚」を第9回日展に出品し、在学中に初入選を果たす。さらに専攻科に進み55年修了、日展を中心に出品、入選を重ねる。64年第3回日本現代工芸美術近畿展で京都府知事賞、66年京展で市長賞を受賞。68年、漆の新たな表現の可能性を目指し、京都にて伊藤祐司、服部俊夫(現、峻昇)らとともに若手の漆芸作家によるグループ「フォルメ」を結成、実験的な創作に取り組む。72年第11回日本現代工芸美術展で「オブジェ 連鎖するかたち」が現代工芸賞、翌73年の第5回日展で「連鎖するかたち」が特選となる。凹凸をつけた透明なアクリル樹脂の胎に不透明な漆を塗り重ね、両方の素材の特性を活かしたもので、新素材による斬新な視覚効果をねらった漆造形は高く評価された。77年、明日をひらく日本新工芸展で「森の函」が箱根彫刻の森美術館賞を受賞、翌78年には京都市芸術新人賞を受賞。この頃から抽象的な造形作品は、次第に自然を題材にした具象的な作品へと変化し、古典的な画題を現代の感性で再解釈し新たな表現を追求した。明るい色調の彩漆を何度も塗り重ねた上に、蒔絵、螺鈿、卵殻を組み合わせ、光や波、咲き誇る花々などを大胆にデザイン化した作品が多い。一方で棗や香合などの伝統的な器物や道具類の制作も続けた。88年京都府立文化博物館の新築にあたり、歴史展示室の造形演出作品の企画および制作を担当。1989(平成元)年には30年間の代表作を収録した『繚乱の漆芸 鈴木雅也作品集』(ふたば書房)を出版。92年三代表朔を襲名。93年第3回日工会展に「透胎 こすもすのはこ」を出品、内閣総理大臣賞を受賞。同年、圓山記念日本工藝美術館にて「繚乱の漆芸・鈴木雅也の世界展」を開催。96年に京都府文化賞功労賞、98年に京都市芸術功労賞を受賞。2011年第43回日展で「函・風光る」が内閣総理大臣賞となる。日展参与、日工会代表、京都工芸美術作家協会理事長などを務め、後進の育成にも尽力した。主な所蔵先は東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、ヴィクトリア&アルバート美術館(イギリス)、シアトル美術館(アメリカ)など。

堂本尚郎

没年月日:2013/10/04

読み:どうもとひさお  洋画家の堂本尚郎は10月4日、急性心不全のため死去した。享年85。 1928(昭和3)年3月2日、京都市下京区下河原町(現、京都市東山区下河原町)において、父堂本四郎、母恵美子の間に長男として生まれる。父の四郎は日本画家・堂本印象の弟で、同居していた印象には幼い頃より非常にかわいがられたという。40年3月清水尋常小学校を卒業、同年4月に京都市立美術工芸学校(現、京都市立芸術大学)絵画科へ入学する。病気による休学や太平洋戦争激化にともなう学徒勤労動員を経て、45年3月同校を繰り上げ卒業。同年4月京都市立美術専門学校(現、京都市立芸術大学)日本画科へ入学した。在学中の48年には第4回日本美術展覧会(日展)に日本画「畑のある丘」を出品、初入選する。以後ヨーロッパへ留学する55年まで、伯父印象についてヨーロッパ旅行へ出かけた52年の第8回展を除いて毎年入選を果たし、51年には「蔦のある白い家」で、53年には「街」で特選を受賞している。 49年京都市立美術専門学校日本画科を卒業、研究科に進級。51年に大阪・高島屋で開催された現代フランス美術展サロン・ド・メ日本展を見て、同時代のフランス最先鋭の表現に強い衝撃を受けた。翌52年には京都市立美術専門学校研究科を修了、新聞社の特派員として渡欧する伯父印象に随行して初めてヨーロッパを訪れた。半年の間イタリア、フランス、スペイン各地の寺院や美術館を巡り、パリではグランド・ショミエールに通ってデッサンや油絵を学び、「モンマルトルの坂道」「女」など初めて油彩画を制作。ヴァチカンのシスティナ礼拝堂では、ミケランジェロの天井画「創世記」を見て衝撃を受け、自らの制作活動に対して疑問を抱くようになる。帰国後はフランス留学を志す一方で、日本、延いては東洋を改めて見つめなおすことに力を注いだ。 54年フランス政府の私費留学生試験に合格、翌55年フランスへと旅立つ。このときの費用は留学があくまで短期間であり、帰国後は日本画家として活動することを暗黙の前提として、父四郎と印象が出資したものであったが、乾燥したパリの地での日本画制作に限界を感じ油絵に転向。今井俊満や高階秀爾、芳賀徹らと親交をもち、当時パリの地で絶頂を迎えていたアンフォルメル運動の主導者であるミシェル・タピエとも知遇を得、自身もその渦中に身を投じた。そんな中、57年のはじめ頃、腎臓結石を患い手術を受け、麻酔から目覚める際に周囲のすべてがホワイト・アウトするかのような感覚を経験する。自ら「白の中の白」と呼ぶこの体験から、堂本は白の表現を追求するようになり、「アンスタンタネイテ」などの一連の作品を制作、同年11月にスタドラー画廊において開かれた個展で、パリ画壇への華々しいデビューを遂げた。こうしたフランス画壇での成功や、伯父の印象自身が抽象画へと傾倒していったことから、堂本のパリ滞在は結局10年余りにも及ぶこととなった。 58年にはパリ国立近代美術館が新しく制定した外国人画家賞でグランプリを獲得、受賞作はパリの日本人画家の中で最も日本的であると評され、翌59年には前衛美術のみによるビエンナーレ、第11回プレミオ・リソーネ国際美術展において第2位特別賞を受賞した。また、58年にはデュッセルドルフで、59年にはニューヨークとローマで個展を開催。翌60年5月には、東京・南画廊において日本での初個展を開き、同月に東京都美術館で開催された第4回現代日本美術展で国立近代美術館賞を受賞、その存在が日本においても広く認められることとなった。しかし一方で、アンフォルメルが西欧文化の積み重ねの上に出来上がったものであることを意識するようになり、日本人である自分自身の文化とはなにかを模索するようになる。そうして生み出された「二元的なアンサンブル」シリーズは、あたかも屏風のような二連画形式を採用し、モノクロームの色面をしばしば撥ねやしたたりを伴いはしご状に反復することで構成された作品であったが、すでにタピエの許容範囲を超えていたため、彼が顧問を務めるスタドラー画廊とも契約を解除されてしまう。このような難局のなかにおいて、「二元的なアンサンブル」は車の轍の跡を連想させる「連続の溶解」シリーズへと展開され、63年の第4回サン・マリノ・ビエンナーレ展で金メダルを、翌64年の第32回ヴェネチア・ビエンナーレではアルチュール・レイワ賞をそれぞれ受賞、アンフォルメル後の新しい抽象絵画の可能性を示すものとして受容された。66年3月よりほぼ一年間、個展準備のためにニューヨークに滞在し、翌67年9月、パリのアトリエを閉鎖し日本へ帰国する。帰国後は円を主な構成要素とし、「惑星」「流星」など天体に関係するタイトルの付けられた一連の作品が発表された。同じ頃、水で溶解する素材が心地よかったとして、画材をアクリル系の絵具へと変えている。円を用いた作品は、70年代から80年代にかけて「蝕」「宇宙」「連鎖反応」といったシリーズで引き続き制作され、次第に波打つ水面を連想させる画面へと展開されていく。この間、75年9月に伯父印象が亡くなり、同年11月に生地京都での初となる個展を開催した。 86年ごろには、不規則な漣状のパターンに正方形や長方形が重ねられた「臨界」シリーズが開始され、2004(平成16)年からはカンヴァスに油絵具を垂らすオートマティズムの手法で制作された「無意識と意識の間」シリーズが開始された。 83年、国際ポスター展においてユネスコからの依頼で制作した「Peace」が平和賞を受賞、同年フランス政府から芸術文学文化勲章(シュバリエ)を授与され、88年には第11回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞する。91年、京都国立近代美術館の活動を支援する目的で発足された財団法人堂本印象記念近代美術振興財団(2003年解散)の理事に就任。95年には秋の叙勲で紫綬褒章を授与され、96年にはフランス政府からレジョン・ドヌール章シュバリエを、01年には同じくフランス政府から芸術文学文化勲章(オフィシエール)をそれぞれ受章。03には秋の叙勲で旭日小綬章を授与され、07年文化功労者に叙せられた。 食事をとるように絵を描き、描かずにいられるような人間は真の芸術家ではないと語ったという堂本は、半世紀以上にわたる制作において、断絶を繰り返しながら次々と新しい表現に挑戦した前衛の画家であった。画家の堂本右美はその娘である。

平田寬

没年月日:2013/09/14

読み:ひらたゆたか  美術史家の平田寬は、9月14日膀胱がんのため、福岡県宗像市の自宅にて死去した。享年82。 1931年(昭和6)1月3日、佐賀県唐津市に歯科医師平田亨(とおる)、小波(さなみ)の次男として生まれる。佐賀県立唐津中学校(旧制)を経て48年官立福岡高等学校(旧制)入学。この年の旧制高校入学者は学制改革により、翌49年3月をもって学籍が消滅、改めて新制大学を受験することになっていたが、平田は肺の病を得て療養生活に入る。53年、九州大学文学部入学。文学部への入学については父から強い反対を受けたと後年述懐している。57年九州大学文学部哲学科卒業(美学・美術史専攻)、同大学院に入り、59年文学研究科修士課程修了(同)、62年博士課程単位取得退学(同)。62年九州大学文学部助手(美学・美術史研究室)。同年同郷の古舘均(まさ)と結婚。九州大学在学中、中国芸術論の谷口鉄雄教授のもと、平田も中国画論を研究し、初の公表論文は60年の「謝赫の品等論の形式」(『美学』43号)、以後64年の「姚最の伝記よりみたる「続画品」の成立の問題」(『哲学年報』25)まで、3本の中国画論の論文を発表した。一方で、在学中に哲学の田邊重三教授の「生の哲学」の講義に強い影響を受け、田邊の導きによりカトリックの洗礼を受けた。この哲学的基盤と信仰は終生続いた。 64年4月、奈良国立文化財研究所美術工芸研究室に転任、70年4月同美術工芸研究室長を経て、翌年九州大学に転出するまでの7年間、南都を中心とする仏教絵画を中心に研究する。この間、作品調査を精力的に行い、「元興寺極楽坊智光曼荼羅(板絵)のX線調査」(『奈良国立文化財研究所年報』、1966年)を初めとして、調査に基づく作品研究論文を多く著した。また、当時の所長・小林剛の影響を受け、森末義彰「中世における南都絵所の研究」に啓発されて『大乗院寺社雑事記』を史料的に研究するなど、美術研究における史料研究の重要性を意識する。 71年4月、九州大学助教授に転任(文学部美学・美術史講座。教授は谷口鉄雄)。78年同教授となり、定年退官まで勤める。九州地方に残された美術作品の調査を行うと同時に、ひきつづき南都絵画の研究も行うが、九州大学転任後数年の頃、奈良や京都に赴いて仏画の調査をすることが難しくなっていたこともあり、絵仏師研究を史料の体系的な研究から行うことに着手する。奈良国立文化財研究所時代、彫刻作家の史料的研究で大きな業績を成していた小林剛から、我が国の絵仏師の実態が不明であることを教示されたことが機縁であり、「眼前の仏画の諸相に目を奪われて…花を見て樹を見ず、樹根の生命や地下の水脈のことに心が至らなかった」ことに気づいた、と回想している(『絵仏師の時代』後書)。この方向が、彫刻について小林剛が行ったことを仏画について行った平田の業績の大きな柱のひとつとなった。「絵師 僧となる」(『美学』106、1976年)を初めとして、史料から読み取れる絵仏師の業績はもとより、その消長や体制の変化を仔細に読み取り、時代の所産としての絵画作品の史的変遷、さらにはそこから美的表現の質とその変遷までを視野に入れた多くの論考を発表した。また、論考のみならず、「宅間派研究史料(稿)」(『哲学年報』44、1985年)を初めとして、その源泉となる史料そのものを整理し、研究者が共有できるものとして多く学会誌上で提示したことも、平田の学問的態度の一端を表すものであろう。これら数多くの史料およびその研究は『絵仏師の時代』(中央公論美術出版、1994年)にまとめられている。 作品研究も南都仏画のみならず、「良詮・可翁と乾峯士曇」(『仏教藝術』166、1986年)など、室町水墨の絵画史的意義にまで関心が及び、史料にもとづく歴史的研究を踏まえながらその変遷の中にあった作品の造形性に視野を及ぼす多くの論考を発表したが、これらの多くは『絵仏師の作品』(中央公論美術出版、1997年)に収録されている。 また、菊竹淳一とともに、九州・山口地方の作品の実地調査にも精力を注ぎ、調査データ、写真の整理蓄積を研究室の財産として行い、またこれによって学生の実地教育を行うことが大きかった。『九州美術史年表(古代・中世篇)』(長崎純心大学学術叢書4、九州大学出版会、2001年)は、これらの調査によって得られた資料を含む、美術工芸全般におよぶ広範な史料をまとめた800ページを超える大著である。 教育者としても力を尽くし、美術史を目指す者のみならず、常に親しく学生に接してこれに心を注ぐこときわめて大きく、説くことしばしば学問領域を超え時に数時間に及んだ。 88年九州大学文学部長、94年九州大学を定年退官、同名誉教授、同年長崎純心大学教授、2003年同大学を退職。 88~93年文化庁文化財保護審議会第一専門調査会(絵画・彫刻部会)専門委員、85~87年学術審議会専門委員、地方においては64~70年奈良市史編集審議会調査委員、70~80年同専門委員、70~71年奈良市文化財審議会委員、九州に転任後も、福岡県文化財専門委員を初めとして九州・山口各地の県、市、美術博物館の委員をつとめること多く、また宗像市史、津屋崎町史、福間町史などの編纂委員会で専門委員として地方史編纂に寄与した。 96年博士(文学)九州大学。『絵仏師の時代』により、94年国華賞、95年Shimada Prize(島田賞)、96年日本学士院賞。2002年勲二等瑞宝章。04年講書始の儀にて御進講。 美術史学会(1975~93年委員)、美学会(1977~92年委員)、九州藝術学会、密教図像学会、民族藝術学会所属。 著作は上記にまとめられたもののほか、これに収められなかった共著や作品紹介等も多い。経歴と業績が一覧できるものに、九州大学退官時の「平田寬先生 年譜・著作目録」(1994年、九州大学文学部美学美術史講座)、「平田寬 略歴とことば」(2013年、逝去時、次男・平田央(ひさし)氏編、晩年の短文やインタビュー記事を含む)がある。また折々に書かれたエッセイ風の文をまとめたものに『ふうじん帖―美術史の小窓』(中央公論美術出版、1996年)がある。 平田の学問的態度は、史料と実作品に基づく学問的正確さを期することにはとりわけ厳しくかつ細心であったが、目指すところは、単に手堅い業績を積み上げることにあるのではなかった。その根本には「美は多様の統一である」という哲学があり、研究は、作品を成り立たしめている多様な側面をみちとして、美の「直観」に能うかぎり「接近」しようとすることであり、視線の先は、美のひとにおける意義や美術史のありかたといった根底的問題に遠く向かっていた。その哲学的論を表だって発表することは少なかったが、『絵仏師の時代』、『絵仏師の作品』、『九州美術史年表』の「序言」および「後書」には、その思想の一端が濃密に語られている。このような基盤に西洋哲学におよぶ広い教養があったことは、九州大学における講読演習をE.ジルソンの『絵画と現実』、J.マリタンの『芸術家の責任』、同『芸術と詩における創造的直観』などのフランス語原典によって行ったことにもあらわれている。西洋哲学のみならず、東西のことに古典を重んじ、また幸田露伴、明恵、西行を愛した。 必ずしも健康に恵まれていたわけではないが、むしろそれだけに諸事努めることにきわめて意志的で、一般的な事柄についても強い意見を開陳することも多かった一方、内省的でもあり一面的既成的安易さをもってものごとを理解したとする態度をきわめて嫌った。 長崎純心大学を退職後は、表に出ることは少なかった。13年、体調を崩し、がんであることが判ったが、あえて積極的治療をせず自宅で静養することを選び、最期は夫人、家族にみとられながら感謝の言葉を述べて静かに亡くなったという。蔵書は九州大学に寄贈された。均夫人との間の2男の父。

日野耕之祐

没年月日:2013/09/03

読み:ひのこうのすけ  洋画家の日野耕之祐は9月3日、死去した。享年88。 1925(大正14)年4月9日、福岡県に生まれる。1948(昭和23)年日本美術学校洋画科卒業、林武に師事する。同校在学中に時事新報社に入社して美術を担当、その後産経新聞社に移り美術記者として活躍。その一方で絵画制作も続け、58年第44回光風会展に「道」「丘の家」を出品しプールブ賞を受賞、63年会員となる。62年、評論家の柳亮や田近憲三らの応援を得て具象研究会を発足、機関誌『具象』を発刊するなど、抽象が主流であった現代美術への抵抗を示す。62年第5回新日展に「河口」が初入選。以後日展にも出品を続け、67年第10回新日展で「落合晩秋」、70年改組第2回日展で「北の海」が特選を得て、76年会員となる。師の林武への共感からペインティングナイフを多用した重厚なマティエールを基調に、何の変哲もない自然や室内の一角を黄で描き出した作品、そして青を主色とする具象的な心象構成へと画風を展開させた。76年日展傘下の日洋会発足にあたり運営委員となる。83年に洋画と日本画の両方を対象として発足した上野の森美術館大賞展には企画の段階から参加し、その審査員を毎回務める。1989(平成元)年より高松宮殿下記念世界文化賞絵画部門選考委員を務める。94年彫刻の森美術館で「日野耕之祐1950-1994展 新しい具象への熱い軌跡」が開催。98年には永年の美術評論家・洋画家の活動に対して文化庁長官表彰を受けた。 主な著書は以下の通りである。『美術記者十五年』(日本美術社分室、1962年)『具象ノート』(美術報知社、1964年)『東京百景』(三彩社、1967年)『美を訪ねて』(日本美術社、1971年)

渡辺恂三

没年月日:2013/08/12

読み:わたなべじゅんぞう  洋画家の渡辺恂三は8月12日死去した。享年79。 1933(昭和8)年12月2日、東京市(現、東京都区部)に生まれる。幼少期は算数や理科が得意だったため科学者になるつもりで、兵器の絵を描き、木を削って飛行機を作り、戦争に舞台にした長編マンガも制作していたという。東京都立戸山高校在学中から絵画を制作、阿佐ヶ谷洋画研究所や新宿・コマ劇場裏辺りにあった研究所に通う。このころ、風間完や赤穴宏が好きで、大学一浪の時には朝倉摂の紹介で、赤穴と会っている。また日本国際美術展などで目にしたベン・シャーンと国吉康雄にも影響を受けた。東京藝術大学に入学後、56年銀座・村松画廊で初個展を開催。同年第20回新制作協会展に3点を初出品し「ユダ」「ヨブ」が入選、旧約聖書から題材をとり、デフォルメした人物群像で人間の不条理を描く。同年東京藝術大学同期の稲葉治夫、高山尚、豊島弘尚とグループ展「新表現」を結成し第1回展を開催。57年東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。同年第21回新制作展で「策謀」により新作家賞を受賞(1958年第22回展は「仏滅」「南無」で、61年第25回展は「記憶の裏側」で同賞受賞)。このころ題材をキリスト教から仏教へ移行するとともに、支持体にベニヤ板を用いたり、紙粘土や木版の反古紙、麻紐などを用いたミクストメディアの表現を試みる。60年第4回安井賞候補新人展に「法螺」「噂」を推薦出品。61年第1回丸善石油賞に「賢者の論点」を出品。62年第2回丸善石油賞で「内訌」が佳作賞を受賞。63年9月第3回パリ青年ビエンナーレ(パリ市立近代美術館)に「内訌」「人格」などを招待出品。60年代に入ると、支持体に厚塗りした紙粘土を引っ掻くなど非具象の作品を展開。63年新制作協会会員に推挙される。64年第15回記念選抜秀作美術展に「死んだ子の年をかぞえる」を招待出品(1966年にも招待出品)、他に第6回現代日本美術展の招待部門に「論争を積む」「世上騒然」(後者は課題作「東京オリンピック」特陳、1965年、66年、68年、69年にも招待出品)、現代美術の動向展(京都国立近代美術館)、今日の作家展’64展(横浜市民ギャラリー)などに出品。また同年中国生産力及貿易中心(台湾)で講師を務めるため、初めての海外渡航をする。このころ、晩年まで展開してゆくペン状の描具による線と明るい色面、歪んだ形態の女性像などによる戯画調の作品スタイルを確立。67年第1回インドトリエンナーレに「人間幾何」「ロンド」を出品。69年第5回国際青年美術家展において「車の中で」でストラレム優秀賞第1席を受賞。同年文化庁芸術家在外研究員として渡仏、滞在中にパリ、ギャルリー・ランベールで個展を開催。72年、東京造形大学を退職、再度渡仏(1981年まで)。72年より日本橋・春風洞画廊で個展を開催。76年サロン・コンパレゾンに出品(1978年、80年にも出品)、カンヌ版画ビエンナーレ、リト部門第1位賞受賞。80年日本秀作美術展に出品(以後1985年、88年、93年、2001年、03年にも出品)。85年、具象絵画ビエンナーレ(1987年、89年にも出品)。86年池田20世紀美術館に回顧展「渡辺恂三の世界」を開催。その他の企画展として、埼玉県立近代美術館10周年記念展「アダムとイブ」(同美術館、1992年)、日本の美術・よみがえる1964年展(東京都現代美術館、1996年)、旅―異文化との出会い(国立新美術館、2007年、文化庁芸術家在外研修制度40周年記念)などに出品。1998(平成10)年京都文化功労賞受賞、2001年第14回京都文化賞受賞、04年京都文化功労者顕彰。11年第75回記念新制作展の展覧会委員長を務める。第二次世界大戦以後の現代絵画を、技術拡散と様式混交の「マニエリスムの絵画」と捉えて絵画制作に取り組み、初期作品から晩年まで技法の実験と変遷を繰り返しながら、自身の表現を追求した。 著編書に『新・技法シリーズ デザインスケッチ』(美術出版社、1966年)、挿絵にバリー『ピーター・パン』(集英社、1966年、母と子の名作童話24)、山本太郎詩集『スサノヲ』(筑摩書房、1983年)、絵本に『こっぷこっぷこっぷ』(福音館、1995年、こどものとも.0.1.2 7号、かみじょうゆみこ文)、論文に「表示方法に於ける透視図法の実際的問題に就て」(『千葉大学工業短期大学部研究報告』第2巻第2号、1963年、協力:赤穴宏、川口泉、佐善明)がある。千葉大学工業短期大学部工業意匠科助手、同大学工学部工業意匠学科助手、東京造形大学美術学科助教授、京都市芸術大学美術学部教授、宝塚造形芸術大学教授で教職を務めた。

森浩一

没年月日:2013/08/06

読み:もりこういち  考古学者で同志社大学名誉教授の森浩一は8月6日、急性心不全のため死去した。享年85。 1928(昭和3)年7月17日大阪市に生まれる。45年3月大阪府立堺中学校卒業、46年4月同志社大学予科入学。考古学を専攻できないことと日英の地理的共通性への関心などから49年4月同志社大学英文科三年に編入し、51年3月同科卒業。同年4月大阪府立泉大津高等学校教諭となる。55年4月同志社大学大学院文学研究科修士課程に入学し、57年同課程修了。同年4月同博士課程に入学するが翌58年中退。65年8月泉大津高等学校教諭を退職し、同志社大学文学部専任講師となる。67年4月に助教授となり、72年4月教授就任。1999(平成11)年3月同志社大学を退職し、同名誉教授となる。 氏は小中学生時代に目にした遺物や遺跡を通じて考古学に目覚め、その情熱は生涯変わらずに続いたが、研究に対するその姿勢は、自身の純粋学問的好奇心から調査・研究に取り組むのであって金銭や社会的な見返りを求めるものでない、というものであった。方法論として遺構遺物の観察に基づく実証主義に依りつつ、考古学はもちろんのこと、文献史学・民俗学・人類学・神話学など様々な関連諸学に精通した幅広い視野を背景とした既成の権威や学説にとらわれない自由な発想によって、古墳時代を中心とした古代史の総合的理解に精力的に取り組んだ。遺物や遺構研究の先に遺跡や地域の歴史解明という明確な方向性が設定されていたために、関西を拠点としながらも地域史の視点を重視し、「東海学」、「関東学」といった歴史研究のための地理的な枠組みを提唱して様々な研究や成果の普及活動にも努めた。 大学に教員として勤務する頃までに携わった発掘調査には、大阪府和泉黄金塚古墳や奈良市大和6号墳、また大阪府黒姫山古墳など、戦前戦後の行政的遺跡保護体制が極めて不十分な中での手弁当による緊急発掘調査が多く、後に取り組む、いたすけ古墳保存運動などを含め、遺跡遺物の記録や保護にも多大な功績がある。主導した数多くの重要な発掘調査記録以外の主要な業績としては、窯跡出土須恵器編年の構築、三角縁神獣鏡国内産説の提示、陵墓被葬者の探求とその公開運動などがあり、幅広い学問的関心と視野の広さから生み出されたその著作物とその内容は多様で、監修・編著を含む著書264冊、論文292編、新聞寄稿118編に上る。また交流した研究者・文化人は多岐にわたり、その研究姿勢に影響を受けた考古学者も多い。熱心な教育活動によって数多の若手研究者を育成したことは、死去後に刊行された追悼論集や特集に寄せられた寄稿の数が如実に示している。この他、若手や在野研究者の成果発表の場としての古代学研究会と機関誌『古代学研究』の創設でも功績が高い。 民間の研究者、すなわち氏の自称する「町人学者」としての人生哲学から、生涯叙勲褒章を受けなかったが、同じ姿勢を貫いた人物を顕彰した賞であるとして、2012年、唯一第22回南方熊楠賞(人文の部)を受賞している。

斎藤忠

没年月日:2013/07/21

読み:さいとうただし  考古学者で元東京大学教授、大正大学名誉教授の斎藤忠博士は7月21日、老衰のため死去した。享年104。 1908(明治41)年8月28日生まれ。生後ほどなく仙台市に移る。1926(大正15)年3月宮城県仙台第二中学校卒業、同年4月第二高等学校文科甲類入学、1929(昭和4)年4月東京帝国大学文学部国史学科入学、32年3月卒業。卒業論文題名は「本邦古代に於ける葬制の研究」。考古学を学ぶため、同年6月黒板勝美の紹介で京都帝国大学文学部考古学研究室に移り、濱田耕作の斡旋で同大学文学部副手に就任。33年年6月、奈良県史蹟名勝天然記念物調査嘱託となり県内の遺跡調査に従事、12月には朝鮮古蹟研究会研究員として有光教一とともに慶州の古墳調査に参加する。京都帝国大学文学部副手併任のまま34年5月に朝鮮総督府古蹟調査及び博物館嘱託の辞令を受け、慶州博物館陳列主任となる。慶州では皇吾里109号墳・14号墳などの調査を、また石田茂作とともに扶餘軍守里廃寺の調査に参加する。37年12月には京城の総督府博物館勤務となり、引き続き軍守里廃寺や平壌の上五里廃寺調査などを行った。 40年5月、文部省史蹟調査嘱託として東京に戻り、47年9月には文部技官に任命される。戦時中から戦後にかけては全国各地の史蹟調査やその現状変更要望への対応等を行ったが、この頃保護に尽力した史蹟には北海道モヨロ貝塚、福山城、福岡県王塚古墳といった重要遺跡がある。48年4月に設立された日本考古学協会では幹事に選任され、50年8月の文化財保護法施行に伴う文化財保護委員会の設置に従い保存部記念物課に初代の文化財調査官として任命された。この時期には国営調査の責任者あるいは地方自治体調査の団長や顧問などとして、愛知県吉胡貝塚・秋田県大湯環状列石・岩手県無量光院跡・日光男体山頂遺跡・信濃国分寺遺跡・下野薬師寺跡・静岡県賤機山古墳・平城宮跡・山口県見島ジーコンボ古墳群・福岡県志登支石墓など多くの発掘調査を行っている。 55年5月に戦前の半島での遺跡研究の成果などにより東京大学文学博士学位を授与された(学位論文「新羅文化の考古学的研究」)。また53年以降には文化財調査官のまま東京国立博物館学芸部考古課、奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部長を歴任し、各地の大学にて教鞭を取った。さらに65年4月には文化財調査官との兼務で(1966年3月まで)、東京大学文学部教授に就任した。69年3月に東京大学を退官し、翌70年4月大正大学教授就任、83年3月に定年退職した。大学勤務以降は国(宮内庁書陵部委員会委員ほか)や地方自治体委員など多くの役職に就くが、大正大学退職前年の82年4月に就任した静岡県埋蔵文化財調査研究所所長の職は、2008(平成20)年3月に100歳で退任するまでの26年もの間務めることとなった。 これら一連の業績により、78年に勳三等瑞宝章を授与され、また死去により天皇・皇后両陛下より祭粢料を賜った。 氏の学問的足跡は中学生時代の遺跡調査に始まり、大学での文献史学専攻を挟んで、その後再び考古学へと至る80年を優に超える長きにわたる。またそのフィールドは戦前の朝鮮半島各地での調査から、帰国後の日本全国に活動の場を広げた数多くの遺跡に及んでいる。こうした経歴や多くの人々との交流を基にした氏の研究成果は幅広く、それに裏付けられた著作物は700編を凌駕し、単著の単行本は90冊を数える。こうした氏の業績について簡潔にまとめるのは困難であるが、美術史に関連するものを上げれば、日朝壁画古墳についての研究や、半島の古代および高麗時代寺院や文様〓などの仏教美術研究、また中国の寺院史研究といった、日中韓の文化交流に関する研究などが注目される。さらに生涯を通じた文化財の保全活動や日本考古学史に関する多くの著作も重要な事績である。

平松譲

没年月日:2013/07/21

読み:ひらまつゆずる  日本芸術院会員の洋画家平松譲は7月21日、急性肺炎のために死去した。享年99。 1914(大正3)年4月13日、東京都三宅島三宅村大字神着29に生まれる。1929(昭和4)年に尋常小学校を卒業して上京し、豊島師範学校に入学。在学中、池袋駅近くにあった能勢亀太郎の主催する能勢洋画塾に学び、伊藤清永、関口茂らと交遊する。33年の夏に三宅島に帰郷した際に描いた「樹下」を同年の第14回帝展に出品して初入選。34年3月、豊島師範学校を卒業し、同年4月に近衛歩兵第四連隊に短期現役兵として入隊したのち、教職についた。能勢亀太郎が白日会に出品していたことから34年第10回白日展に「静物」を出品し初入選。以後、白日会創立会員の中沢弘光に師事する。官展には初入選後、出品していなかったが、36年新文展鑑査展に「床上静物」で入選する。37年第14回白日展に「静物」「石膏のある静物」を出品してクサカベ賞受賞。翌38年第15回白日展に「緑蔭」を出品して佐藤賞受賞。41年、第4回新文展に「公園」で入選。44年白日会会員となる。戦後は白日展のほか日展に第1回展から出品し、50年第6回日展に「南窓」を出品して特選となる。画面左に白い洋装の女性の坐像が描かれ、その隣にたくさんの果物の載った籠と白百合を活けた花瓶の載ったテーブル、背後の窓から緑豊かな庭が描かれた同作は「明るい光と鮮麗な色彩との交響」と批評家和田新によって評された。54年第30回白日展に「少年」等を出品して白日会記念賞受賞。57年東京銀座松屋にて初個展を開催。63年に渡欧し約6ヶ月ヨーロッパ各地を巡る。帰国後、教職を辞す。65年に梅津五郎、菅野矢一らと「穹会」を創立し、新宿の画廊アルカンシェルで開催された第1回展に「彫刻の群像」「シャルトルの教会」を出品した。67年第43回白日展に「ノルマンディー古寺」「三宅島の春」「三宅島溶岸(ママ)地帯」等を出品し中澤賞受賞。翌68年日展会員となる。82年日展評議員となる。85年第17回改組日展に「南風わたる」を出品して文部大臣賞受賞。1991(平成3)年第23回改組日展に東京湾越しに臨んだ東京タワーを鮮やかな赤で描いた「TOKYO」を出品。92年、この作品によって日本芸術院賞を受賞。95年第71回白日展に「東京湾岸」を出品して内閣総理大臣賞を受賞し、また、同年日本芸術院会員となった。1930年代には静物をよく描いたが、40年代から人物を主要なモティーフとするようになる。窓辺でくつろぐ着衣の女性を好んで描き、室内の家具や卓上静物、窓外の植物などでのモティーフなどで画面が充填される画風を示した。1980年代に入ると風景画が多くなり、鮮やかな色彩と激しい筆触、画面上部まで島や建築物等のモティーフが配される構図を特色とした。2013年9月26日正午から白日会主催による「故平松譲さんを偲ぶ会」が開催された。【主要展覧会出品略歴】帝展第14回(1933年)「樹下」、鑑査展(1936年)「床上静物」、日展第1回(1946年)「母と子供」、5回(1949年)「爽朝」、6回(1950年)「南窓」(特選)、10回(1954年)「ひととき」、新日展1回(1958年)「ギターを持つ女」、5回(1962年)「閑日」、10回(1967年)「若い人たち」、改組日展第1回「花と子供」、5回(1973年)「南の島」、10回(1978年)「島の五月」、15回(1983年)「犬吠崎初冬」、17回(1985年)「南風わたる」(文部大臣賞)、20回(1988年)「雨上がる」、23回(1991年)「TOKYO」(日本芸術院賞)、25回(1993年)「丘陵を拓いて」、30回(1998年)「島の切り通し」、35回(2003年)「はまひるがお咲く」、40回(2008年)「ふる里の磯」、45回(2013年)「丘の美術館」

to page top