本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





平山郁夫

没年月日:2009/12/02

読み:ひらやまいくお  仏教やシルクロードを題材に描き続けた日本画家で、国際的な文化財保護に尽力した文化勲章受章者、平山郁夫は12月2日午後0時38分、脳梗塞のため東京都内の病院で死去した。享年79。1930(昭和5)年6月15日、広島県の生口島(現、尾道市瀬戸田町)に生まれる。45年広島市の修道中学校3年の時、勤労動員先の広島市陸軍兵器補給廠で原子爆弾のため被爆。46年大伯父で彫金家の清水南山に画家への道を勧められる。47年東京美術学校日本画科予科に入学し、49年同校が東京藝術大学となって後、52年に卒業、卒業制作「三人姉妹」は藝大買上げとなる。卒業と同時に前田青邨に師事し、同大学美術学部日本画科副手、53年助手となる。53年第38回院展に「家路」が初入選し、以後院展に出品、55年40回院展「浅春」で院友となる。被爆の後遺症に悩む中、59年第44回院展に「仏教伝来」を出品、高い評価を得る。以後仏教世界に画題を求め、61年同第46回「入涅槃幻想」、62年第47回「受胎霊夢」がともに日本美術院賞・大観賞を受賞。62年から翌年にかけてユネスコ・フェローシップの第1回留学生としてヨーロッパへ留学。帰国後の63年第48回院展に出品した「建立金剛心図」が白寿賞・奨励賞、64年第49回「仏説長阿含経巻五」「続深海曼荼羅」は文部大臣賞となり、64年院展出品作を中心とする一連の作品により第4回福島繁太郎賞を受賞した。61年日本美術院特待、64年同人、70年評議員となり、65年第50回院展「日本美術院血脉図」、69年第54回「高耀る藤原宮の大殿」等を出品。この間66年から画商村越伸の企画による轟会に参画し、横山操・加山又造・石本正とともに作品を発表。また63年東京藝術大学非常勤講師、69年同助教授、73年教授となり、後進の育成にあたる一方、66年同大学中世オリエント遺跡学術調査団に参加。四か月間トルコに赴き、73年には同大学イタリア初期ルネサンス壁画学術調査団としてアッシジで壁画を模写した。以後毎年のように中近東、中央アジア、中国などに取材旅行し、仏教東漸を遡行してシルクロードをたどる。その成果として70年「ガンジスの夕」、第55回院展「塵耀のトルキスタン遺跡」、71年第56回「中亜熱鬧図」、74年第59回「波斯黄堂旧址」、76年第61回「マルコポーロ東方見聞行」、77年第62回「西蔵布達拉宮」等を発表。76年、80年には「平山郁夫シルクロード展」を開催、折からのシルクロードブームもあり、幅広い人気を獲得した。75年日本文物美術家友好訪中団団長として中国を訪問。76年には一連のシルクロード作品で日本芸術大賞を受賞。77年日本仏教伝道協会賞を受賞。78年第63回院展では前年に亡くなった恩師前田青邨を偲んで描いた「画禅院青邨先生還浄図」で内閣総理大臣賞を受賞。79年には自らの被爆体験をもとに描いた「広島生変図」を第64回院展に出品。82年美術振興協会賞を受賞。81年には日本美術院理事となる。88年東京藝術大学の美術学部長、1989(平成元)年には同大学の学長に就任、95年末で一度退いたが、2001年に再度選ばれ05年まで務めた。92年には日中友好協会会長となる。96年日本美術院理事長に就任。97年故郷の広島県豊田郡瀬戸田町に平山郁夫美術館が開館。98年には文化勲章を受章。2000年に奈良市の薬師寺・玄奘三蔵院の「大唐西域壁画」を構想より二十年余を経て完成。同壁画は、薬師寺が始祖として仰ぐ玄奘三蔵法師の足跡を全七場面にわたって描いたもので、同寺が写経寄進で伽藍を建て、平山は自費で壁画を寄進するという、両者が願主であり施主となっての建立であった。旺盛な制作のかたわら、67年法隆寺金堂壁画再現模写事業に参加し、前田青邨班で第三号壁を担当。72年に発見された高松塚古墳壁画も73年より翌年にかけて模写し、82年より東京藝術大学敦煌壁画調査団長として敦煌壁画の保存修復に尽力。その他、北朝鮮の高句麗壁画古墳、カンボジアのアンコールワット遺跡など、世界の文化財保護活動に心血を注ぎ“文化財赤十字”構想を提唱、その拠点のひとつとして88年に文化財保護振興財団を設立。同年ユネスコ親善大使に任命。96年にはフランスのレジオン・ド・ヌール四等勲章、01年にフィリピンのマグサイサイ賞、04年に高句麗古墳群の世界文化遺産登録に寄与した功績で韓国政府から修交勲章興仁章を受けるなど、その国際的な文化財保護活動は海外でも高く評価された。01年、アフガニスタンのタリバン政権によるバーミヤン石窟破壊に際してはユネスコ親善大使として文化財保護を求める緊急声明を発表、さらには国外で破壊を免れている古美術品を“文化財難民”としてユネスコが管理保全し、政情安定後のアフガニスタンに返還する計画を提案した。04年には、画家としての長年の功績と文化遺産保存への国際的貢献が評価され、朝日賞を受賞。平山が提唱する“文化財赤十字”構想に応じるかたちで06年「海外の文化遺産の保護に係る国際的な協力の推進に関する法律」が成立し、その交付を受けて同年、効率的に文化遺産の国際協力に取り組むべく文化財に関わる研究者、支援機関、行政関係者等多彩な人材が参加する“文化遺産国際協力コンソーシアム”が設立された。04年には山梨県長坂町に平山郁夫シルクロード美術館が開館。07年には東京国立近代美術館・広島県立美術館で回顧展「平山郁夫 祈りの旅路」が開催。没後の11年には、その文化財保護活動を顕彰する特別展「仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護」が東京国立博物館で開催されている。

田淵安一

没年月日:2009/11/24

読み:たぶちやすかず  戦後からフランスを中心に創作活動を続けていた洋画家の田淵安一は、長らくパーキンソン病で闘病してきたが、11月24日心不全のためパリ郊外の自宅で死去した。享年88。1921(大正10)5月20日、父田淵安右衛門、母アイの長男として生まれる。本籍は、北九州市小倉南区。1941(昭和16)年、第三高等学校文科丙類に入学。中学時代から絵画制作に熱中し、在学中の42年、43年の京都市美術展に入選した。43年、学徒動員で海軍に入隊。45年8月、米子海軍航空基地で終戦をむかえる。同年、東京大学文学部美術史学科に入学。大学在学中から、猪熊弦一郎に師事する。47年9月、第11回新制作派協会展に初入選。48年、同大学を卒業、同大学大学院にすすむ。49年9月、第13回新制作派協会展に「腰掛けた三人」等3点が入選、岡田賞を受賞。51年、金山康喜、関口俊吾とともに渡仏。渡仏後の2年間、絵画制作以上に、ヨーロッパ各地を旅行することに傾注し、その原像をみつめることに費やしたという。また、在仏の佐野繁次郎、岡本太郎、菅井汲、今井俊満等と交友し、「熱い抽象」と称された前衛グループ「コブラ」のアトラン、ハルツング、シュナイデル、ミッシェル・ラゴン等を知った。54年、コペンハーゲンのノアノア画廊で最初の個展を開催。55年5月、サロン・ド・メ展に初めて招待出品される。(以後、73年まで毎年出品。)61年、10年ぶりに帰国、パリへの帰途、東南アジア、インドを旅行する。67年には第1回インド・トリエンナーレ展に出品、その折にインド中央部を旅行した。これを契機に、それまでの黒を基調にした抽象表現主義的な表現から、色彩の面では、鮮やかな原色を多用するようになり、具象、抽象をこえた表現にむかっていった。田淵は、ヨーロッパで思索をかさねることにより、日本人にとってのヨーロッパ像であった地中海文明、あるいはキリスト教文明とは異なった、原初的なケルト文明などに注目していった。さらにそれと対峙するアジア的な文明にふれることで、その創作は一気に変貌していった。この60年代が、田淵の芸術の原点を形成した時代であったといえるだろう。一方で、フランスで暮らすことで、やはりヨーロッパの原像を探ろうとする思考をつづけており、その根底には、ヨーロッパにおける異邦人としての日本人、あるいはアジア人としての自覚があり、その意識は、最初の著作のなかでつぎのように記されている。「僕はヨーロッパに対する違和感でこのエッセイを書き出した。この違和感は無意識にまで根を張っている歴史性のちがいからくるのではないか、生理と意識との間に果しなくひろがっている無意識の原野には、日本とヨーロッパを隔てる森林と凍土と砂漠とがひろがっているのではないか。僕が日常に感じているのは、こうしたおもいなのだ。」(「象徴についての前章」、『西欧人の原像』、人文書院、1976年)70年代以降、田淵の芸術は、その奔放なフォルムと鮮やかな色彩による生命感あふれる表現を展開させながら、フランス、日本をはじめとして評価がたかまっていった。85年には、フランス政府よりオフィシエ・デ・ザール・エ・デ・レトル勲章を受章。国内の美術館における主要な展覧会、回顧展は下記の通りである。79年2月、国立国際美術館において「現代の作家1 田渕安一、湯原和夫、吉原英雄」展が開催され、田淵は初期作から近作まで60点を出品。82年10月、郷里にある北九州市立美術館において「田淵安一展」を開催、新作を中心に油彩画80点、水彩画21点を出品。1990(平成2)年1月、東京のO美術館において、「田淵安一展 ―輝くイマージュ―」を開催、初期作から新作まで63点の油彩画と水彩画、版画22点を出品。96年5月、神奈川県立近代美術館(本館)において、「田淵安一展―宇宙庭園」を開催、85年から95年までの10年間に制作された作品37点を中心に出品。2006年4月、神奈川県立近代美術館(葉山)において、「田淵安一 ―かたちの始まり、あふれる光―」を開催、新作8点を加えた96点による本格的な回顧展を開催。また、先にあげた最初の著述以降、絵画制作と併行して、述作にも積極的であり、ヨーロッパ、あるいは日本、東洋に関する思索をまとめた著述は下記のとおりである。 『西欧の素肌 ヨーロッパのこころ』(新潮社、1979年) 『二面の鏡』(筑摩書房、1982年) 『アペリチフをどうぞ―パリ近郊からの便り』(読売新聞社、1985年) 『イデアの結界―西欧的感性のかたち』(人文書院、1994年) 『ブルターニュ 風と沈黙』(人文書院、1996年) 『西の眼 東の眼』(新潮社、2001年) 

岩澤重夫

没年月日:2009/11/07

読み:いわさわしげお  日本画家で日本芸術院会員の岩澤重夫は11月7日、肺炎のため死去した。享年81。1927(昭和2)年11月25日、大分県日田郡豆田町室町(現、日田市豆田町)の米穀商の家に生まれる。父親の反対を押し切って画家を志望し、47年京都市立美術専門学校(現、京都市立芸術大学)に入学。在学中の51年第7回日展に「罌粟」が初入選、52年京都市立美術専門学校卒業後、54年堂本印象に師事し東丘社に入塾。東丘社展では実験的な抽象作品、日展では構築性の強い風景画を併行して発表する。この間55年には印象の筆頭弟子三輪晁勢の長女で、印象の姪にあたる蓉子と結婚。60年には東丘社の先輩達と位双展を組織、さらに抽象表現の可能性を追究する。59年の京都市展「古墳石室」、翌年の同展「葦のある沼」がともに市長賞となり、60年関西総合展「河岸」が第一席を受賞。同年の第3回新日展「堰」、61年第4回「晨暉」がともに特選を受賞。翌62年より日展委嘱となり、68年第11回新日展「昇る太陽」が菊華賞を受賞、72年日展会員、80年評議員となる。69年より毎年、京都市の文化財防火ポスターを手がけ、また77年福生市民会館ホール、78年日田市文化センター、82年東京歌舞伎座等の緞帳原画を制作、79年には日田市長福寺襖絵「大心海」を描き、83年銅版画集『瀧聲・春秋二題』を発刊する。83年から85年にかけて日中文化協会派遣の日本美術家訪中団に毎年参加、この訪中体験をもとに描いた「古都追想(西安)」が85年第8回山種美術館賞展で大賞を受賞。同年の第17回日展に出品した「氣」で文部大臣賞を受賞。手堅い手法による静謐かつ雄渾な風景画を描き続けた。1990(平成2)年、東京・銀座松屋他で開催した個展「現代日本画の俊英 岩澤重夫」に、故郷耶馬渓の奔流に取材した大作「天響水心」を発表。同年、原画を手がけた京都祇園祭の菊水鉾見送り画「深山菊水」が完成。同年、京都府文化功労賞を受賞。92年、第5回MOA岡田茂吉賞絵画部門大賞を受賞。93年、前年の日展出品作「渓韻」に対して日本芸術院賞を受賞。2000年に日本芸術院会員となる。01年日展常務理事に就任。09年に文化功労者となるも、その直後に逝去。日田市の旧制中学の後輩で、その後京都で親交のあった金閣寺住職の有馬賴底より04年に依頼され、構想・制作に5年を費やした金閣寺客殿の障壁画63面が遺作となった。なお02年に西日本新聞に連載された聞き書きをもとに、10年には宇野和夫『日本画家 岩澤重夫聞き書き 天響水心』(西日本新聞社)が刊行されている。

大隅俊平

没年月日:2009/10/04

読み:おおすみとしひら  刀匠で日本刀の重要無形文化財保持者である大隅俊平は10月4日、胃がんのため自宅で死去した。享年77。1932(昭和7)年1月23日、群馬県新田郡沢野村富沢(現、太田市富沢町)に生まれる。本名貞男。1946年、沢野尋常小学校を卒業。52年7月、長野県埴科郡坂城町の刀匠宮入昭平(昭和38年重要無形文化財認定)に師事する。57年刀剣類作刀承認を文部省から得る。翌58年、財団法人日本美術保存協会主催の新作技術発表会に初出品した刀が最優秀賞を受賞する。60年、師昭平への師事を終え、太田市富沢町に帰り制作を始める。59年から64年まで作刀技術発表会で毎年優秀賞および入選を重ねる。65年、財団法人日本美術保存協会主催の第1回新作名刀展(作刀技術発表会を改変)出品の太刀で努力賞、翌年の第2回でも努力賞を経て、67年の第3回から69年の第5回展で連続して特賞である名誉会長賞を受賞し、その後も文化庁長官賞、毎日新聞社賞受賞を続け、72年、新作名刀展無鑑査となる。74年に出品の太刀が重要無形文化財保持者、無鑑査からの出品作品を含めた全作品の中から最優作として正宗賞を受賞し、名実ともに最も優れた現代刀匠の一人と認められるに至った。77年、群馬県指定重要無形文化財保持者に認定され、翌78年には新作名刀展において2度目の正宗賞を受賞した。1997(平成9)年、国の重要無形文化財に認定された。作品は太刀、刀、短刀で、太刀には3尺(90㎝)を超える大太刀もある。理想とした作風は鎌倉時代後期の京都の来派(らいは)や備中の青江派(あおえは)で、太刀は反りの高い優美な姿を見せている。鍛えは小板目肌で、刃文は来国俊や来国光にみる小沸(こにえ)のついた直刃に小互の目が交じり、小足(こあし)の入ったものと、青江派の匂口が締った直刃に逆足が入ったものが多い。また初期には互の目乱れや丁字刃の刃文を焼いた作がある。代表作は2回の正宗賞受賞の直刃の太刀や、東京国立博物館蔵の太刀、太田市の3尺7寸(112cm)の大太刀で、このほか伊勢神宮の遷宮のための直刀や、高松宮殿下、同妃殿下、高円宮殿下のお守り刀などの制作を行なっている。

平敷兼七

没年月日:2009/10/03

読み:へしきけんしち  写真家の平敷兼七は、10月3日肺炎のため浦添市内の病院で死去した。享年61。1948(昭和23)年沖縄県今帰仁村上運天(なきじんそん・かみうんてん)に生まれる。67年琉球政府立(現、沖縄県立)沖縄工業高校デザイン科卒業。上京し東京写真大学(現、東京工芸大学)工学部に入学するが、写真撮影の技術を学ぶため69年同学を退学し、東京綜合写真専門学校に入学。折からの学園紛争による学校の閉鎖期間に沖縄の離島を撮影。在学中より個展「オキナワ・南灯寮」(沖縄タイムスホール、1969年)を開催、『カメラ毎日』誌に作品(「故郷の沖縄」、1970年3月号)を発表するなど写真家としての活動を始め、72年に同校を卒業、帰沖した。第二次大戦の戦闘や戦後の占領、復帰後も残る米軍基地などに翻弄され続けた同時代の沖縄の人々の生を、政治とは距離を置きつつ、沖縄固有の歴史や文化をふまえたさまざまな視点から撮影し、とくに「職業婦人」と題する娼婦たちをめぐる作品などで評価を得た。85年には沖縄の写真家嘉納辰彦、石川真生らと同人写真誌『美風』を創刊、87年に同人による合同展「美風」(那覇市民ギャラリー)を開催するなど地元に根ざした活動を展開。写真集に『沖縄を救った女性達』、『沖縄の祭り―宮古の狩俣島尻の夏プーズ』、『沖縄戦で死んでいった人達のための「俑」』(いずれも私家版、1992年)などがある。2007(平成19)年には約40年にわたる作家活動のなかから代表作によって編まれた写真集『山羊の肺 沖縄一九六八―二〇〇五年』(影書房)を上梓、この写真集をもとに構成した同題の個展(銀座ニコンサロン・大阪ニコンサロン、2008年)により、第33回伊奈信男賞を受賞した。現代沖縄の代表的な写真家の一人として、「琉球烈像―写真で見るオキナワ」展(那覇市民ギャラリー、2002年)、「沖縄文化の軌跡1872―2007」展(沖縄県立美術館、2007年)、「沖縄・プリズム1872―2008」展(東京国立近代美術館、2008年)などにもその作品が選ばれている。

石川義

没年月日:2009/09/12

読み:いしかわただし  日本画家で日展評議員、金沢学院大学名誉教授の石川義は9月12日、心不全のため死去した。享年78。1930(昭和5)年10月10日、石川県金沢市に生まれる。47年金沢美術工芸専門学校に入学、当初彫刻を専攻するが、のち日本画科に転科。大学在学中の52年第8回日展に「杉」を初出品して入選、以後日展に出品を続ける。53年堂本印象の主宰する画塾東丘社に入塾。54年金沢市立美術工芸短期大学(現、金沢美術工芸大学)を修了、活動の拠点を京都に移す。59年第2回新日展で「礁」、68年第11回新日展で「火口原」が特選を得、69年改組第1回日展では「阿蘇」が菊華賞を受賞。78年東丘社を退会し、日本画研究グループ「玄」を結成。80年改組第12回日展で「山里」が会員賞受賞、88年日展評議員となる。日本の自然景を主なモティーフに描き続け、岩肌や樹の様相をうねるような曲線を交えて捉えながら、自然が内蔵する生気の表出につとめた。とくに82年、1994(平成6)年に開催した個展では、杉の生命力をテーマにした屏風を含む作品群を発表している。2000年金沢学院大学美術文化学部日本画教授に就任。01年「経堂への道」で第33回日展文部科学大臣賞を受賞。07年、石川県立美術館で同館へ寄贈した作品を中心に「日本の自然・原風景を描く―郷土が生んだ日本画家 石川義展」が開催されている。

増田三男

没年月日:2009/09/07

読み:ますだみつお  彫金家で彫金の無形文化財保持者である増田三男は、9月7日、老衰のため自宅で死去した。享年100。1909(明治42)年4月24日、埼玉県北足立郡大門村に父伸太郎、母チカの7人兄弟の三男として生まれる。1924(大正13)年、埼玉県立男子師範附属尋常小学校を卒業、埼玉県立浦和中学校を経て、1929(昭和4)年、20歳で東京美術学校(現、東京藝術大学)金工科彫金部に入学する。大学では清水亀蔵(南山)、海野清らに学ぶ。34年、彫金部を卒業し、さらに同美術学校金工科彫金部研究科にすすみ、36年同研究科を終了する。在学中の33年、第14回帝展に「壁面燭台」が初入選する。研究科終了後は同校資料館で国宝をはじめとする文化財の模造制作に従事し、また個人的には柳宗悦が主宰した民芸運動に関心をいだき民芸論を研究した。この頃の工芸関係の公募展は帝展が最高権威であり、また国画会展の工芸部も有力であった。当時国画会工芸部は民芸派の作家が多く活躍しており、帝展の美術品としてのレベルの高さや技術力よりも、実際に生活の場で使える工芸作品が出品されていて、増田自身は師である清水南山らが出品していた帝展(のちに文展)と、国画会工芸部の両方に出品した。36年、11回国画会に出品した「筥」2点が初入選をはたしている。この国画会における工芸部門の創設に尽力した陶芸家富本憲吉に図案の指導を受け、以後増田は富本憲吉を生涯の師と仰ぐようになる。39年には第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が特選、42年の第17回国画会展では「野草文水指」が国画奨励賞を受賞した。戦時中はとくに金属使用の規制や奢侈品等製造販売禁止令などが発布されて金工作家はとくに苦境におちいったが、第3回新文展出品の「銀鉄からたち文箱」が入賞したことにより金属材料の配給を受け、その技術保存の立場から制作を続けることができた。第二次世界大戦中の44年、中学のときの母校である浦和中学の美術講師となり、以後76年に退職するまで30年以上にわたって木工芸の授業を担当した。62年、第9回日本伝統工芸展に初出品した「金彩銀蝶文箱」が東京都教育委員会賞を受賞したのを期に、その活躍の場を日本伝統工芸展とするようになり、69年、同展出品の「彫金雪装竹林水指」が朝日新聞社賞を受賞、1990(平成2)年、「金彩銀壺 山背」が保持者選賞を受賞した。91年、82歳で重要無形文化財「彫金」の保持者(人間国宝)に認定される。増田の作品は初期の第14回帝展「壁面燭台」(うらわ美術館蔵)や煙草セット(1937年・東京国立近代美術館蔵)等は、鉄の廃材を利用した当時としてはモダンな作品であった。40年代後半からは古文化財の模造によって培われた日本伝統の自然をイメージした小作品を生涯にわたって制作した。箱、壺、水指などを、銀をはじめ素銅、真鍮を打ち出し成形し、そこに菟、鹿や鴛鴦、蝶、梅や柳などの身近な動植物を意匠として、それを蹴彫、切嵌象嵌、布目象嵌によって表し、地には魚々子や千鳥石目を施した作が多い。また金や銀の鍍金による彩金の技法によって季節感、自然感を豊かに表現した。

荻太郎

没年月日:2009/09/02

読み:おぎたろう  洋画家で、和光大学名誉教授の荻太郎は、肺炎のため9月2日、死去した。享年94。1915(大正4)年、愛知県岡崎市に生まれる。旧制岡崎中学校を卒業後、東京美術学校油画科に入学、在学中南薫造に師事、また先輩にあたる猪熊弦一郎からも指導を受けた。1939(昭和14)年同学校を卒業。同年の第4回新制作派協会展に出品、新作家賞を受賞。47年、同協会会員となる。58年、ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展に招待出品。戦後美術のなかにあって、抽象表現が流行するなか、一環して具象表現にこだわり、不条理な時代のなかにおかれた人間像をテーマに描きつづけた。そこでは人間の生と死が主題となり、「歴史」(1966年)、「記録」(1966年)、「レクイエム」(1970年)などにみられるように、深く人間を見つめる作品を描いた。一方で、家族像も多く描き、また華麗なバレリーナや裸婦をモティーフにした作品は、広く親しまれた。79年、第42回新制作展に出品した「掠奪」により第3回長谷川仁記念賞を受賞。81年には受賞を記念して「荻太郎展」(日動サロン)を開催し、新旧作41点を出品。88年、第3回小山敬三美術賞受賞。1990(平成2)年、日本女子大学成瀬記念館にて個展を開催。2002年、文京区ギャラリーシビックにて「荻太郎展1945―2001」を開催。03年には、「米寿記念荻太郎展」を岡崎市美術館で開催。09年の第73回新制作展では、「椅子による女」(1937年)から「記念碑(家族)」(1997年)まで8点が「特別出品」された。同展カタログには、つぎのような言葉を寄せ、画家がその長い創作活動を通して、自らに課したテーマを端的に語っている。「この世に如何に生き、自然の中で存在する生命を如何に受けとめ、如何に造形するかを、いつも私は希って描いている。それは自分自身の生きる記録であり、私の日記です。そして生きる悦び、苦しみ、悲しみ、不安、願望、愛憎、リズム、等自分なりに描きたいと思っている。精神造形は、私の大切な挑戦であり、課題です。」没後の10年には、「荻太郎遺作展」(文京区ギャラリーシビック)が開催された。

徳田八十吉

没年月日:2009/08/26

読み:とくだやそきち  彩釉磁器の重要無形文化財保持者(人間国宝)の徳田八十吉は8月26日午前11時04分、突発性間質性肺炎のため石川県金沢市下石引町の金沢医療センターで死去した。享年75。1933(昭和8)年9月14日、石川県能美郡小松町字大文字町(現、小松市大文字町)に二代徳田八十吉の長男として生まれる。本名正彦。生家は、祖父の初代徳田八十吉(1873―1956)、父の二代徳田八十吉(1907―97)と続く九谷焼の家系で、初代八十吉は1953年に「上絵付(九谷)」の分野で国の「助成の措置を講ずべき無形文化財」に選定されている。古九谷再現のための釉薬の研究と調合に取り組んだ祖父と陶造形作家として日展を中心に作品を発表し富本憲吉にも学んだ父のもとで育った徳田は、52年4月に金沢美術工芸短期大学(現、金沢美術工芸大学)陶磁科へ入学、54年3月に同大学を中退し、父・二代八十吉の陶房で絵付技術を学び、55年の秋、病に倒れた祖父・初代八十吉から上絵釉薬の調合を任されて翌年2月祖父が亡くなるまでの数ヶ月間に釉薬の調合を直接教わった。本格的に陶芸の道に進む意志を固めたのは57年のこと。すでに1954年から日展に出品していたが、9度の落選を経験した後、63年第6回日展に「器「あけぼの」」を出品して初入選(以後6回入選)。初入選作品は鉢型の器の外面を口縁に沿って上から下に青、黄、緑、紺と色釉を塗り分けたもので、色釉のグラデーションを初めて試みたという点で重要である。しかし、後に代名詞となる「燿彩(ようさい)」に見られる自己の様式、すなわち特有の透明感のある色調と段階的な色彩の変化を確立するまでには、ここから80年代前半にいたる上絵釉薬の調製法と絵付・焼成法に関する研究、技の錬磨を必要とした。焼成法に関する大きな変化は電気窯の使用である。当初は父の薪窯(色絵付)で焼成をしていたが、薪窯の温度を上げることに限界を感じ、69年に独立して小松市桜木町に工房兼自宅を構えた際、電気窯による高温焼成を始めた。素地は1280度で固く焼き締めた薄い磁器を用い、色釉の美しさを効果的に見せるため、研磨の工程では器表面の微細な孔なども歯科医の用具にヒントを得た独自の手法で全て整えて平滑な素地を実現した。上絵付の焼成は1040度に達する上絵としては極めて高い温度で行い、ガラス釉の特質を活かした高い透明感と深みのある色調を表出した。色釉は古九谷の紫、紺、緑、黄、赤の五彩のうち、赤はガラス釉でないため使わず、残りの四彩を基本とし、少しずつ割合を変えて調合することで200を超える中間色の発色が可能になったという。こうした技術の昇華を経て生まれたのが「燿彩」という様式である。それは花鳥をはじめとする描写的な上絵付による色絵の世界を超えて、九谷焼が継承してきた伝統の色そのものの可能性を広げたいという探求心が結実した色釉のグラデーションによる抽象表現の極みであり、83年から「光り輝く彩」の意を込めたこの作品名を使うことが多くなった(2003年の古希記念展の後は「耀彩」と表記)。71年の第18回日本伝統工芸展に初出品して「彩釉鉢」でNHK会長賞を受賞、翌年に日本工芸会正会員となる(以後38回入選)。77年の第24回日本伝統工芸展に「燿彩鉢」を出品して日本工芸会総裁賞、81年の第4回伝統九谷焼工芸展に「彩釉鉢」を出品して優秀賞、1983年の第6回伝統九谷焼工芸展に「深厚釉組皿」を出品して九谷連合会理事長賞、84年の第7回伝統九谷焼工芸展に「深厚釉線文壺」を出品して大賞、85年に北国文化賞、86年に日本陶磁協会賞、同年の第33回日本伝統工芸展に「燿彩鉢「黎明」」を監査員出品して保持者選賞、88年に第3回藤原啓記念賞、1990(平成2)年に小松市文化賞、同年の’90国際陶芸展に「燿彩鉢「心円」」を出品して最優秀賞、1991年の第11回日本陶芸展に「燿彩鉢「創生」」を推薦出品して最優秀賞(秩父宮杯)、93年に紫綬褒章、97年にMOA岡田茂吉大賞などを受賞。86年に石川県九谷焼無形文化財資格保持者、97年に国の重要無形文化財「彩釉磁器」保持者に認定された。94年6月に日本工芸会理事(~2004年6月)、98年4月に日本工芸会石川支部幹事長(~2006年4月)、2004年6月に日本工芸会常任理事(~2008年6月)に就任。97年には小松市の名誉市民に推挙された。05年に九谷焼技術保存会(石川県無形文化財)会長、07年1月に小松美術作家協会会長、同年3月に財団法人石川県美術文化協会名誉顧問に就任。海外展への出品も多く、91年に国際文化交流への貢献が認められ外務大臣より表彰された後も07年の大英博物館「わざの美 伝統工芸の50年展」にともなって「私の歩んだ道」と題する記念講演を行うなど最晩年まで貢献を続けた。没後の10年7月22日から9月6日に石川県立美術館で「特別陳列 徳田八十吉三代展」(同館主催)、11年1月2日から12年1月29日に横浜そごう美術館、兵庫陶芸美術館、高松市美術館、MOA美術館、茨城県陶芸美術館、小松市立博物館、小松市立本陣記念美術館、小松市立錦窯展示館で「追悼 人間国宝 三代徳田八十吉展―煌めく色彩の世界―」(朝日新聞社・開催各館主催)が開催された。

熊田千佳慕

没年月日:2009/08/13

読み:くまだちかぼ  花や昆虫の細密画で知られる熊田千佳慕は8月13日、誤嚥性肺炎のため横浜市内の自宅で死去した。享年98。1911(明治44)年7月21日、現在の横浜市中区住吉町3―31に生まれる。本名五郎。生家は代々医師で、父は欧米留学経験のある耳鼻科医であった。1917(大正6)年横浜市尋常小学校に入学。23年関東大震災で被災して家を失い、一家で生麦に移り住む。これに伴い鶴見町立鶴見尋常小学校に転入。1924年、同校を卒業し神奈川県立工業学校図案科に入学。在学中、博物学の教諭であった宮代周輔に影響を受ける。また、同校での軍事教練中、地面に腹ばいになる経験から草叢の虫たちの観察に興味を抱く。1929(昭和4)年、同校を卒業して東京美術学校鋳造科に入学。前衛的な工芸作品を制作していた高村豊周に惹かれたのが動機であった。34年、長兄で後に詩人となる精華の友人であったデザイナー山名文夫を知り、師事する。同年9月、名取洋之助が主宰する日本工房(第二期)に入社し、山名文夫の助手として『NIPPON』ほか対外グラフ雑誌のデザインに従事する。同社には翌年、写真家の土門拳が入社し、親交を結ぶ。39年、体調不良により同社を退社。41年7月に応召するが病を得て9月に除隊。43年、日本工房での同僚高橋錦吉の紹介で日本写真工藝社に入社し、終戦まで在籍。この間、内閣情報局の元で『NIPPON PHILLIPIN』などを制作。戦後の47年に初めて挿絵を手がけた『ともだち文庫 狐のたくらみ』(中央公論社)が刊行され、その後の挿絵のしごとの端緒となった。48年、化粧品会社カネボウに勤めてポスター等のデザインを行う一方、『月刊少年少女』『金と銀』などの雑誌のレイアウトデザインなどを行う。49年、カネボウを退社し、以後、絵本作家に専念。同年『こども絵文庫 みつばちの国のアリス』(光吉夏彌著、羽田書店)で児童書装幀賞を受賞する。以後、『世界名作童話全集』(講談社)、『講談社の絵本』、『世界絵文庫』(あかね書房)、『幼年世界名作全集』(あかね書房)、『なかよし絵本』(偕成社)、『児童名作全集』(偕成社)などに挿絵を描く。1980年に岡田桑三からファーブル昆虫記の絵画化について激励され、81年、これらを描いた作品でイタリアボローニア国際絵本原画展に初入選。同年『絵本ファーブル昆虫記1』(コーキ出版)を刊行し、82年に第二巻、83年に第三巻を上梓する。88年より『Kumada Chikabo’s Little World』(創育)の刊行を始め、1989(平成元)年に7巻シリーズが完結、これにより第38回小学館出版文化賞を受賞する。96年8月、本格的な回顧展「小さな命の大切さを描く―熊田千佳慕展」が横浜高島屋で開催され、以後、98年「花と虫を愛して―熊田千佳慕の世界展」(横浜高島屋で開催ののち、99年に京都高島屋ほかに巡回)、2001年「熊田千佳慕展」(横浜有隣堂ギャラリー)などの展覧会で作品原画を発表。02年には福島県立美術館で「熊田千佳慕の世界―はな・むし・とり・ゆめ」展、06年には目黒区美術館で「熊田千佳慕展 花、虫、スローライフの輝き」展が開催された。花や昆虫を微細に観察し、昆虫の体毛や植物の葉脈などをも描出する細密な描写と、ケント紙の白地を活かした明澄な彩色を用いて詩情ある画面を作り上げた。「日本のプチ・ファーブル」と称され、子供にも親しまれる平明な作風を示した。

海津忠雄

没年月日:2009/07/21

読み:かいづただお  西洋美術史研究者で、慶應義塾大学名誉教授の海津忠雄は、7月21日午前3時45分、心不全のため湘南鎌倉総合病院にて死去した。享年78。1930(昭和5)年8月15日、東京都千代田区神田に鉄工所を経営する清作、ための子として生まれる。37年蒲田の小学校に入学。中学校時代は勤労動員として働く。48年慶応義塾高等学校に入り、51年4月慶応義塾大学文学部に入学、55年3月卒業。同年4月、慶應義塾大学大学院文学研究科哲学専攻に入学し、守屋謙二に師事する。60年3月、同博士課程単位取得退学。57年4月に同大学文学部副手に任用。助手、専任講師、助教授を経て、73年4月より同大学文学部教授となる。1994年3月、2年の任期を残して退任。同年4月に同大学名誉教授となる。その間、早稲田大学、学習院大学、成城大学等に出講、また86年10月から1992(平成4)年までの6年間にわたり、慶應義塾女子高等学校長を兼任した。慶応義塾大学退任後の94年4月より2001年3月まで下関にある東亜大学大学院教授を務めた。三田哲学会会長。86年、文学博士。氏の優れた業績は、とりわけ北方ルネサンス美術研究に見出されるが、初期の研究対象はギリシア彫刻であった。これは、西洋美術史理解の鍵を「ギリシア彫刻とローマ建築」に見る氏の態度に由来する。アルカイック期の青年立像と浮彫彫刻における様式の平行現象、浮彫の発展形式、記念碑的な彫刻の発展段階といったテーマで研究を重ね、その成果は、「ギリシア浮彫の考察」(『美學』31号、1957年)、「浮彫の種類について」(『藝文研究』8号、1958年)、「初期ギリシアの青年像」(『哲学』43集、慶応義塾大学三田哲学会、1963年)に現れている。65年7月から1年間、スイス政府奨学金によりバーゼル大学に留学。これを機に、研究対象をドイツ・ルネサンス美術へと向ける。同地においてホルバイン研究を開始。また、美術史家ヨーゼフ・ガントナーに師事、ブルクハルト、ヴェルフリン、ガントナーに至る「バーゼル学派」を中心とする美術史方法論について研鑽を積んだ。帰国後の66年より、ホルバインをテーマとした論考を次々に発表、74年の『ホルバイン』(岩崎美術社)の刊行をもって「ホルバイン研究が一段落」した後は、ルーカス・クラーナハを対象に据える。「偉大な芸術家はその時代の最高の証人」との観点にたち、ホルバイン、クラーナハ、デューラーを中心に、作品の詳細な分析によって15世紀後半から16世紀の時代精神を明らかにした。ドイツ・ルネサンス美術研究はやがて学位論文「ドイツ美術と人文主義―著述者像としてのエラスムスの肖像―」(1986年)に結実していく。マサイス、デューラー、ホルバインによって描かれたエラスムスの肖像が、全て著述者像で描かれることに着目。背景に人文主義者による聖ヒエロニムス崇拝があることを検証、ドイツにおいてはそれが書斎における姿として描かれることを提示し、著述者像としてのエラスムス像が聖ヒエロニムス像の一つのヴァージョンであることを論証した。図像の「生育・発展」の過程を詳述した同学位論文は、4編の副論文とともに『肖像画のイコノロジー』(多賀出版、1987年)にまとめられている。研究対象への飽くなき追求は、美術史方法論や建築にも向けられた。方法論においては、自身をバーゼル学派の学統に位置づけ、ヴェルフリン、ガントナーの積極的な紹介に努めた。中でも最大の業績は、師守屋謙二(1936年、岩波書店)に続くハインリヒ・ヴェルフリン著『美術史の基礎概念―近世美術における様式発展の問題』の翻訳(付「解説」、慶応義塾大学出版会、2000年、2001年2刷、2004年3刷、2008年4刷)である。ガントナーへの敬慕、バーゼル学派への私淑はまた、その目を慶応義塾の先学澤木四方吉へと向けさせた。1913から14年にかけて、留学先のミュンヘンでヴェルフリンの講義を聴講した澤木を「学統の淵源」とし、『美術の都』の校訂出版(注及び解説、岩波文庫版、1998年)ならびに「審美学百年資料 澤木四方吉年譜」(加藤明子と共編、『哲学』94集、1993年)、慶応義塾図書館所蔵『サワキ文庫目録』(未刊)を作成し、澤木の再評価に務めた。特に「美術史家澤木四方吉の都市論」(『哲学』96集、1994年)では、澤木の著書『美術の都』を「都市論の先駆的業績」と位置づけ、一般には美文に彩られた紀行文として知られる同著を、文明批評ならびに文化史的考察の先駆的作品と評価し、澤木の先見性を示した。建築への造詣も深かった。ギリシア彫刻研究に始まった研究生活であるが、そもそも芸術世界への門戸は、高等学校時代に熱中した建築によって開かれた。その造詣の深さは『まぼろしのロルシュ―ヨーロッパ建築探訪』(1983年、日本基督教団出版局)、「ゼンパーのフォーラム計画」(『芸術学』5号、三田芸術学会、2001年)や書評「ヤーコプ・ブルクハルト『チチェローネ―イタリア美術作品享受の案内〔建築篇〕』瀧内槇雄訳」(『芸術学』11号、2007年)に現れている。キリスト教の敬虔な信者でもあった。聖書や神学に精通し、とりわけキリスト教美術研究においては、原典・原資料の提示ならびに各訳書との比較、さらには誤訳の指摘が随所でなされた。『愛の庭―キリスト教美術探求』(日本基督教団出版局、1981年)の他、レンブラントの版画作品に焦点を当て、レンブラント独自の聖書理解の世界に迫った『レンブラントの聖書』(2005年、慶応義塾大学出版会)が知られる。研究に対する態度は厳格そのものであり、学問上の誤謬や怠慢は決して認めず、教育者として峻厳な態度を以て多くの後進を育てた。家族が「研究意欲と情熱が衰えないこと鬼のごとし」と評したように、死の間際まで執筆を続けた。主要な著作は下記の通りである(本文中に挙げたもの、翻訳並びに2008年までの論文は除く)。2008年までのより詳細な著作目録は、『芸術学』11号(2008年)を参照のこと。 『ホルバイン 死の舞踏』(岩崎美術社、1972年) 『世界の素描8・クラナッハ』(講談社、1978年) 『中世人の知恵―バーゼルの美術から』(新教出版社、1984年) 『肖像画のイコノロジー―エラスムスの肖像の研究』(多賀出版株式会社、1987年) 『ホルバイン 死の舞踏―新版』(岩崎美術社、1991年) 『レンブラントをめぐって ブルクハルト、ヴェルフリン、ガントナーのレンブラント論』(かわさき市民アカデミー出版部、2001年) 『ヨーロッパ美術における死の表現―中世民衆の文化遺産「死の舞踏」』(同上、2002年) 『ホルバインのパトロンたち―芸術家と社会』(同上、2002年) 『クラーナハの冒険・図像学へのいざない』(同上、2003年) 『デューラーとレンブラント・版画史の巨匠たち』(同上、2003年) 『レンブラントのアブラハム物語 1650年代のレンブラント』(同上、2004年) 『デューラーとその故郷』(慶応義塾大学出版会、2006年) 『ホルバインの生涯』(同上、2007年) 「レンブラントの放蕩息子―窓のモティーフ」(所収、海津忠雄・東方敬信・茂牧人・深井智朗著『思想力―絵画から読み解くキリスト教』(キリスト新聞社、2008年) 「福沢諭吉の『芸術』の概念」(所収『福沢諭吉と近代美術』、慶応義塾大学アート・センター、2009年) 

畑麗

没年月日:2009/06/25

読み:はたうらら  日本美術史家で東京都江戸東京博物館学芸員であった畑麗は6月25日に死去した。享年55。1953(昭和28)年12月10日埼玉県大宮市(現、さいたま市)に生まれ、上尾市に在住。76年成城大学文芸学部芸術コース卒業後、同大学大学院文芸学科に進学、86年6月より財団法人東京都文化振興会・東京都庭園美術館専門職員として勤務した。88年9月より東京都江戸東京博物館資料収集室学芸員となり、1991(平成3)年4月より財団法人江戸東京歴史財団東京都江戸東京博物館学芸員に着任、93年3月の開館以来、学芸員として数々の展覧会を担当し、死亡により退職した。畑は日本近世絵画史を専門とし、学生時代から狩野探幽と東照宮縁起絵巻の研究に取り組み、80年5月、美術史学会全国大会(武蔵野美術大学)において「東照宮縁起絵巻の成立―狩野探幽の大和絵制作―」を発表し注目された(後に『国華』1072号に掲載)。引き続き「東照宮縁起絵巻住吉派諸本の成立 附、住吉如慶法眼叙任考」(『古美術』73号)を発表、後にも東照宮縁起の図様の源流に遡る論考「釈迦堂縁起絵巻の研究――仏伝図としての視点を中心に」(『鹿島美術財団年報 別冊』2007)を発表しライフワークとなった。そのかたわらすぐれた展覧会を企画し、「室町美術と関東画壇―大田道灌記念美術展」(東京都庭園美術館 1986年10月)では室町絵画の和漢の問題を追求し、「狩野派の300年」(東京都江戸東京博物館 1995年7月)では江戸時代を通じた狩野派の絵画制作のあり方を様々な視点から追求した。「狩野派の300年」展図録別冊として制作された日本全国の狩野派作品リスト『狩野派研究資料目録』は畢生の労作である。近年では風俗画の研究(「弘経寺本東山遊樂図について」『国華』1353号)などに研究領域を拡げていただけに、その早すぎる逝去が惜しまれる。

高橋敬典

没年月日:2009/06/23

読み:たかはしけいてん  鋳金家で茶の湯釜の重要無形文化財保持者である高橋敬典は6月23日、慢性腎不全のため自宅で死去した。享年88。1920(大正9)年9月22日、山形市銅町に父高橋庄三郎、母ちよの一人息子として生まれる。本名高治。1938(昭和13)年、父の営んでいた鋳造業「山正鋳造所」の家業を継ぐ。始めは様々な鋳物を制作していたが、50年に漆芸家結城哲雄の招きで鋳造の制作指導に山形に来た初代長野垤至に師事し、この頃から和銑(わずく)を用いた茶の湯釜制作を行なう。51年、第7回日展に初出品した「和銑平丸釜地文水藻」が入選し、以後も日展に出品を続け入選を重ねた。その後発表の場を日本伝統工芸展に移し、63年の第10回日本伝統工芸展で「砂鉄松文撫肩釜」が奨励賞を受賞し、76年には「甑口釜」でNHK会長賞を受賞する。師であった長野垤至が芦屋釜、天明釜などの茶の湯釜を歴史的に研究したため、敬典もこうした古作の表現法を研究するとともに、材料の鉄も砂鉄から製鉄した和銑にこだわり、また地元の馬見ケ崎川で採集した川砂や土を用いて鋳型作りを行なった。作風は古作を研究したといっても、芦屋釜の真形(しんなり)、天明の形にはまった作はほとんどなく、垤至の進めた斬新な造形を受け入れ、肌はきめ細やかな絹肌か、あるいは砂肌とした綺麗なものが多い。また地文は肌の美しさを強調するため施さないものが多いが、波や松、竹などを全面ではなく控えめに配した作、あるいは細い筋を入れた作を残している。1992(平成4)年、勲四等瑞宝章を受章、96年、茶の湯釜で国の重要無形文化財に認定された。代表作に文化庁買上の「波文筒釜」(1971年・東京国立近代美術館)、「平丸釜」(1999年・東京国立博物館)。

砂守勝巳

没年月日:2009/06/23

読み:すなもりかつみ  写真家の砂守勝巳は6月23日、胃がんのため東京都内の病院で死去した。享年57。1951(昭和26)年9月15日、沖縄本島浦添に生まれる。57年フィリピン出身で沖縄駐留米軍基地の軍属であった父が任を解かれ、母の故郷奄美大島に移り少年時代を送る。8歳になる直前に父は妻子をおいて帰国。15歳で母が死去、大阪に移り18歳でボクシングを始める。69年から71年までプロボクサーとして活動。引退前から現像所に勤務していたことをきっかけに写真に関心を持ち、74年大阪写真専門学院に入学。75年に卒業し写真家として活動を始める。82年に大阪、釜ヶ崎のドキュメントによる個展「露地流転」(キヤノンサロン銀座、大阪、広島他)を開催、84年同じく大阪・釜ヶ崎に取材した「大阪流転」で『プレイボーイ』誌(集英社)主催の第3回プレイボーイ・ドキュメントファイル大賞奨励賞を受賞。1889(平成元)年に写真集『カマ・ティダ―大阪西成』(IPC)を出版。86年に撮影の仕事で29年ぶりに沖縄を訪れたことをきっかけに、たびたび沖縄に撮影のため通うようになり、沖縄で出会った混血のパンク・ロッカーや自身の生い立ち、父との再会などについてつづった写文集『オキナワン・シャウト』(筑摩書房、1992年、のち『沖縄シャウト』と改題、講談社文庫、2000年)を出版。93年の個展「漂う島とまる水」(銀座および大阪ニコンサロン、奄美文化センター他)で発表された作品にもとづく写真集『漂う島とまる水』(クレオ、1995年)は、出生地であり幼少期を過ごした沖縄、母の出身地で少年時代を過ごした奄美、そして生き別れとなった父を訪ねたフィリピンという島をめぐる私的な旅を主題に、島嶼の自然や暮らし、現代史に翻弄された沖縄の現実へのまなざしなど重層的な構造を持つ作品として評価され、同作により96年第15回土門拳賞および第46回日本写真協会賞新人賞を受賞した。その他の著作に写文集『オキナワ紀聞』(双葉社、1998年、のち『沖縄ストーリーズ』と改題、増補、ソニーマガジンズ、2006年)、写真週刊誌時代の経験などをつづった『スキャンダルはお好き?』(毎日新聞社、1999年)がある。

今関一馬

没年月日:2009/06/10

読み:いまぜきかずま  洋画家の今関一馬は6月10日、肺炎のため死去した。享年82。1926(大正15)年7月17日、洋画家今関啓司の長男として東京に生まれる。1945(昭和20)年旧制第一高等学校に入学するが、46年に死去した父の遺品の中に竹製の筆巻きに包まれた数十本の油彩画の筆を見出したことが契機となって画家を志し、51年に東京帝国大学を中退。55年、第一回J.A.Nふらんす・クリチック賞絵画展に出品し、同会会員となる。同年、東京の資生堂ギャラリーで第一回個展を開催。56年、57年に東京銀座の村松画廊で個展を開催する。59年第33回国画会展に「たわむれ」「別離」で初入選。同年同会会友に推挙されるとともに、第3回安井賞候補新人展にこれら2点を招待出品する。60年、第3回J.A.Nふらんす・クリチック賞展に「不死鳥」を出品して受賞、同年第34回国画会展に「群馬」「不死鳥」を出品し、会友優作賞を受賞して会員に推挙される。また同年第3回国際具象派展に「群馬」を招待出品。62年には第4回国際具象派展に「鳥のいる風景」「不死鳥」を招待出品する。63年第7回日本国際美術展に「赤い鳥に抱かれた女」を招待出品。66年に初めて渡欧し、フランス、スペイン、イタリアを巡遊して翌年帰国。パリでギュスターブ・クールベの「画家のアトリエ」を見、画面にあらわれた「愚鈍なまでの誠実さ」「孤独で悲しい闘争心」に感銘を受ける。また、南欧の風景に魅了され、以後、しばしば渡欧する。渡欧以前は動物などをモティーフに、具象画ながら対象を抽象化した作品を多く描いたが、渡欧後は風景画を主に制作するようになる。67年第6回国際形象展に滞欧作「トレド」「夜のカテドラル」を招待出品。82年、中国文化部の招待により中国を旅行し、北京、上海、蘇州等を訪れる。同年、再度、中国を訪れ、翌年にも紹興、桂林、広州などを訪れる。87年、横浜市民ギャラリーで初期からの画業を跡づける「今関一馬自選展」を開催。1993(平成5)年、北海道、東北を写生旅行し、北海道美瑛の風景に魅せられてここにアトリエを構える。99年、第14回小山敬三美術賞を受賞し、同年これを記念して「今関一馬展」が日本橋高島屋で開催される。2004年には茂原市立美術館・郷土館で「今関一馬展」が開催され、60年代から2000年代までに描かれた作品76点が展示された。69年に母校である東京大学の教養学部図書館壁画「青春」を描いて以降、73年に大秦野カントリークラブ壁画「天と地と歓び」、77年に伊勢原カントリークラブ壁画「春のうた」「秋に踊る」、78年に住友生命本社壁画「浜辺の歓び」「緑陰の憩い」、91年にトヨタ自動車株式会社トヨタ館壁画「人・自然・車づくり」などを描いている。これらの公的な場への壁画は、風景の中に裸体人物群像が配され、19世紀のアカデミックなヨーロッパ絵画の伝統が踏まえられ、知的な構成がなされているが、風景画は明るい色調で対象への感興を率直に表す作風を示した。

赤穴宏

没年月日:2009/06/03

読み:あかなひろし  千葉大学名誉教授で洋画家の赤穴宏は6月3日、急性心不全のため死去した。享年87。1922(大正11)年3月26日、現在の北海道根室市琴平町に父前田脩、母トミの次男として生まれる。1928(昭和3)年、海軍将校であった赤穴家の養子として入籍。養父赤穴敬一は、海軍の将校であったことから、その後の幼少期には養父の転勤にともない広島県呉市、青森県下北郡大湊町、長崎県佐世保市等に転居。41年3月芝中学校(東京都港区)を卒業、同年4月、東京高等工芸学校工芸図案科に入学。43年同学校を卒業、日本鋼管に入社。翌年6月、教育応召、東部第6部隊(近衛歩兵第8連隊、東京六本木)に入隊。45年8月終戦とともに除隊、日本鋼管に復職。46年1月、古茂田守介(1918―1960)の紹介により、終戦後に設けられた田園調布純粋美術研究室に入り、設立者である猪熊弦一郎の指導を受けた。同年11月、日本鋼管を退職し、東京工業専門学校助手となる。(同学校は、44年東京高等工芸学校が改称、改組されたものである。)48年5月第2回美術団体連合展に「久里浜附近」が入選。また47年9月、第11回新制作派協会展に「三人の女」が初入選。以後同協会展では、49年、50年に新作家賞、55年には新制作協会賞を受賞し、56年に同協会会員に推挙され、2008(平成20)年の72回展まで、毎回出品を続けた。その間、49年に東京工業専門学校が、同学校を母体に千葉大学工芸学部に包括されたため、50年に赤穴は、同学部助教授となった。さらに51年4月に同大学工芸学部は工学部に改組され、同学部専任講師となり、54年に助教授となった。また50年8月、画家塩谷佳子と結婚。赤穴が、画家を志したのは戦後のことである。古茂田守介と出会い、猪熊弦一郎の指導を受けてからのことだろう。とはいえ、工芸図案科で学んでいたため、絵画に対する基礎を体得しており、だからこそ一年後には、公募の展覧会に入選するまでの作品を描くことができた。戦後の荒廃した東京の風景を描いた作品は、焼け残った建物に向けられ、誠実な表現と哀しい情感がただよい、すでにたびたび指摘されていることだが、戦中期の松本竣介の作品に通じる眼差しが感じられる。しかし、新制作派協会展(51年、新制作協会に改称)を中心に創作活動をはじめた赤穴にとって、転機は戦後美術の新しい動向に向きあうことでおとずれている。50年代になると具象から抽象表現と変化している。さらに60年代にはいると、アンフォルメル、アメリカの抽象表現主義の紹介によって、さらに自己の内面と社会とに向き合い、心象風景ともとれる情念的な抽象作品を描くようになった。65年に開催された「戦中世代の画家」展(国立近代美術館)の出品作家のひとりに選ばれていることからも、この時代、つまり戦後美術を担う中堅作家という評価を得るようになっていた。60年代後半には、脈絡無く異なったイメージを描いた複数の絵画をひとつに構成した「組絵画」を試みた。この実験的な制作のなかで、具象的なイメージが復活し、70年代以降には、東京の都市風景と卓上静物を描くようになった。70年、千葉大学工学部教授となった。82年3月、同大学を定年退官、同大学名誉教授となり、同年4月から武蔵野美術大学教授に就任。91年11月、「赤穴宏教授作品展」を武蔵野大学美術資料図書館で開催、初期の作品から近作まで48点を出品。2002年9月には、「«画業55年»―魂へのまなざし 赤穴宏展」を北海道立釧路芸術館で開催し、68点を出品。晩年の静物画は、卓上におかれた壺の静謐な写実性に対して、背景はかつての自作の抽象絵画をおもわせるイメージが描かれ、あたかも画家自身の過去と現在が融合した構成となっていた。長い画歴のなか、具象から抽象へ、さらに抽象から具象へと、その表現を変転させてきたが、一貫してあるのは画家自身の資質であったロマンチシズムであったといえる。

品川工

没年月日:2009/05/31

読み:しながわたくみ  版画家の品川工(本名関野工)は5月31日、老衰のため死去した。享年100。1908(明治41)年6月11日、新潟県柏崎市に生まれる。もともと美術に興味はあったものの、銀座で大勝堂という貴金属店を経営していた伯父の勧めで、東京府立工芸学校金属科(現、都立工芸高校)に進む。1928(昭和3)年に卒業し、伯父の紹介で彫金家宇野先眠に師事。しかし、型にはまった彫金の仕事への関心が薄れたため、宇野先眠のもとを去り、兄である品川力とともに東京帝国大学の近くでペリカンという喫茶店を開く(のちのペリカン書房)。そこで、当時帝大生だった立原道造、織田作之助、串田孫一、岡本謙次郎、三輪福松、北川桃雄、宇佐見英治らと出会う。彼らに翻訳してもらったモホイ・ナジの著作に感銘を受け、また、ペリカンの賓客だった晩年の古賀春江の知己を得るなどして、「本当に芸術に目醒めた」という。この頃、紙彫刻、板金、オブジェなど様々な作品を制作していたが、35年に版画家恩地孝四郎に師事したことをきっかけに、本格的に版画制作を始める。39年に一木会に参加。第二次大戦中は、37年に徴用されて株式会社光村原色版印刷所で軍の作戦地図などを作成するかたわら、作品制作を精力的に行い、44年に銀座三越で初の個展を開く。終戦直前に、農商省工芸指導所の玩具研究室長となるが、終戦後に退所し独立。47年日本版画協会第15回展に出品し日本版画協会展受賞。同年第21回国画会展に「海辺」を出品し国画奨学賞を受賞。翌48年にも「海辺の幻想」で国画奨学賞を受賞。二年連続受賞の栄を受け会員に推挙され、翌年から国画会会員。53年東京国立近代美術館で開催された「抽象と幻想」展に「円舞(終曲のない踊り)」を出品。翌54年には、ルガノ国際版画ビエンナーレ、サンパウロビエンナーレ、英国国際版画展などの国際展に出品。56年には日本橋高島屋で開催された「世界・今日の美術」展に「家族」を出品するなど、版画家としてのキャリアを積んでいった。また、この頃には、光村原色版印刷所での経験をもとに、写真の印画のプロセスを利用した作品制作を試みている。印画紙の上に色セロファンやインクをおいて感光させるカラーフォトグラムを53年に、ダイトランスファー法(レリーフ法)による写真プリントのプロセスに手を加えて制作したヌード写真を55年に、型紙を使って絵の具を定着させるステンシルの手法を写真の現像プロセスに応用し、型紙から漏れる光で印画紙を感光させて像を定着させる「光の版画」シリーズを翌56年に、それぞれ中央公論画廊での個展でモビールや版画とともに発表した。また、63年には、乾板ガラスを用い、絵具の質の違いや油性絵具と水性絵具の反発によって画面を構成するアンフォルメール(白と黒)を、74年には、感光材を塗った鏡面の上にポジフィルムを載せて感光、硬化させ、他の部分は取り除き、そこに樹脂塗料を塗るという手法で、プリントミラーと呼ばれる作品を制作した。こうした版画の原理にもとづいた実験的作品の制作と並行して、オブジェやモビールも継続して制作・発表し、68年に『たのしい造形 モビール』(美術出版社)を、71年には『新しいモビール・動く造形』(日貿出版社)を出版した。食器や工具を利用したオブジェと、周囲の空気に応じて動くモビールは、版画と並んで品川の制作の中心にあり続けた。73年東京国立近代美術館で開催された「戦後日本美術の展望―抽象表現の多様化」に出品。79年椿画廊「過去と現在」、80年りゅう画廊「品川工・35年の歩み」展と、それまでの業績を振り返る個展を開催。85年『楽しいペーパークラフト』(講談社)を出版。その後の主な展覧会としては、88年「品川工展:素材との対話」(札幌芸術の森センター)、1990(平成2)年「品川工とその周辺の版画家たち」(町田市立国際版画美術館)、96年「現代美術の手法(2)メディアと表現 品川工 山口勝弘」(練馬区立美術館)などがある。また2008年には練馬区立美術館で生誕100年を記念した特集展示「品川工の版画展」が開催された。

滝平二郎

没年月日:2009/05/16

読み:たきだいらじろう  絵本の挿絵等で活躍したきりえ(切り絵)作家で版画家の滝平二郎は5月16日午前7時22分、がんのため千葉県流山市の病院で死去した。享年88。1921(大正10)年4月1日、茨城県新治郡玉里村(現、小美玉市)の農家に生まれる。県立石岡農学校(現、石岡第一高等学校)在学中に、日本漫画研究会の漫画講義録を入手、柳瀬正夢らの諷刺漫画に強い関心を寄せ、茨城県漫画派集団に参加。同集団の機関誌『漫画研究』に寄稿していた鈴木賢二や飯野農夫也との交遊を機に、農学校卒業後、木版画をはじめる。1942(昭和17)年造型版画協会第6回展に霞ヶ浦周辺の生活を題材にした作品を出品し入選。同年応召し、沖縄の飛行部隊に配属され、米軍の捕虜となって終戦を迎える。46年帰郷し鈴木賢二や飯野農夫也らのすすめで日本美術会に入会、後に委員をつとめる。47年鈴木賢二や飯野農夫也と刻画会を結成。同年日本美術会主催の第1回日本アンデパンダン展に出品。また郷里玉川村の青年たちと刻画晴耕会を組織し、機関誌『刻画晴耕』を発行。49年日本版画運動協会創立に参加、機関誌『版画運動』の編集人となる。51年、版画による絵本作品『裸の王さま』(私家版)を制作。55年東京都豊島区雑司ケ谷に移住。59年鈴木賢二、小野忠重らとこれまでの版画運動を超えた創作を追究するグループとして集団・版を結成、銀箔やタマムシ箔を使った作品を発表する。いっぽう57年頃より本格的に出版美術の仕事を始めるようになり、64年児童出版美術家連盟設立とともに会員となる。同年、童画グループ「車」結成に参加。60年代後半には木版画に代わって切り絵による制作を行うようになり、67年児童文学作家の斎藤隆介著『ベロ出しチョンマ』(理論社、1967年)の挿画で注目を集める。その後も斎藤と組んだ絵本『花さき山』(岩崎書店、1969年)、『モチモチの木』(岩崎書店、1971年)はロングセラーとなり、『花さき山』は70年に講談社第1回出版文化賞(ブックデザイン賞)を受賞。68年第6回国際版画ビエンナーレ展に招待出品。69年から「きりえ」の名で朝日新聞家庭欄に連載、その翌年から78年にかけて同紙の日曜版に色刷りで連載し、その詩情あふれる農村風景や庶民生活を描いた“きりえ”が人気を博す。一連のきりえ作品で74年、第9回モービル児童文化賞を受賞。87年『ソメコとオニ』(岩崎書店)で第10回絵本にっぽん賞を受賞。2000(平成12)年に栃木県立美術館で開催された「野に叫ぶ人々 北関東の戦後版画運動」展で前半生の版画活動が紹介される。没後の2009年から翌年にかけて逓信総合博物館で「はなたれ小僧は元気な子~さよなら滝平二郎~遺作展」が、10年から翌年にかけて茨城県近代美術館で回顧展「さよなら滝平二郎―はるかなふるさとへ―」が開催された。

田中日佐夫

没年月日:2009/05/15

読み:たなかひさお  成城大学名誉教授で、日本美術史研究者であり、美術評論家の田中日佐夫は、S状結腸癌のため5月15日死去した。享年77。1932(昭和7)年2月7日、岡山県岡山市に、陸軍軍人であった田中誠、母文の長男として生まれる。幼少期、東京牛込区、満州国新京特別区に転居した後に京都市に住む。51年3月香里高等学校を卒業、同志社大学短期大学英語科を卒業後、54年に立命館大学文学部史学科3回生として編入学。58年に同大学大学院文学研究科日本史専攻修士課程修了。龍村織物美術研究所勤務を経て67年から72年まで、滋賀県教育委員会文化財保護課美術工芸担当として勤務。在職中の67年10月、『二上山』(学生社)を刊行。同書は、大阪と奈良にまたがる二上山に残る古代の陵墓群に注目し、古代の「葬送儀礼」が、各種芸術の母体になっているのではという認識から、美術、文学、芸能、歴史、民俗史研究を横断的に見渡しながら考察した内容であり、斯界の研究者から高い評価をうけた。72年4月に成城大学文芸学部芸術学科助教授、79年に同大学教授となる。81年には、『美術品移動史 近代日本のコレクターたち』(日本経済新聞社)、『日本美術の演出者 パトロンの系譜』(駸々堂出版)を相次いで刊行。両書とも、従来の美術史研究ではかえりみられなかったコレクター、パトロンたちに焦点をあてた、ユニークな研究書であった。さらに83年には、『日本画繚乱の季節』(美術公論社)を刊行。同書は、京都を中心に活動した竹内栖鳳、そして国画創作協会の画家たちとその作品を丹念に検証し、従来の近代美術における画壇史的な記述とはことなった研究書として評価をうけた。同書により84年度サントリー学芸賞を受賞。85年、『日本の戦争画 その系譜と特質』(ぺりかん社)を刊行、第二次世界大戦中に描かれた「聖戦美術」を中心に、明治から戦後の美術までを、戦争と画家をテーマにした系譜として記述し、日本の近代美術と社会(戦争)の接点に視点を据えた問題提起的な研究書であった。88年には京都新聞の新聞連載をまとめた『竹内栖鳳』(岩波書店)を刊行、翌1989(平成元)年、同書により芸術選奨文部大臣賞を受賞。大学で後進の指導にあたるかたわら、94年4月に開館した秋田県立近代美術館長(秋田県横手市)に就任。96年には、『画人・小松均の生涯 やさしき地主神の姿』(東方出版)を刊行。99年に紫綬褒章受章。2002年に成城大学を退職、名誉教授となる。2004年3月に、秋田県立近代美術館を退職、名誉館長となる。同年8月には、王舎城美術寶物館(現、海の見える杜美術館、広島県廿日市市)顧問となる。また同年11月、旭日小綬章綬章。2005年11月、秋田県文化功労者として表彰された。田中の美術史研究者としての関心は、多岐にわたる著述活動を一覧しても了解されるように、非常に広範囲で古代から近代、現代美術まで及んでおり、さらに歴史学、文学、民俗学等の関連領域の学問の成果を視野に入れながらの研究活動であった。また、同氏の記述に対する細心の注意は、論文でもエッセイでも同じく、難解さをきらいながら、それでいて自身の考察や観察を平易な言葉で伝えようとつとめるところに向けられていた。そうした姿勢の背後には、専門的に深められた既存の学問の在り方に対するある違和感や疑問を持っていたことがあげられるだろう。自身の研究、あるいは学問の在り方について、同氏はつぎのような言葉をのこしている。「私は、完成された作品を『作品』として調査し、整然と分析し、整理して発表することに意欲のわかないたちらしい。私が意欲をもつのは、その作品が生み出される混沌とした世界(カオス)であり、生み出された作品に対してもその作品が秘めているカオスの部分、あるいは重層するカオスの構造そのものを照射することに興味があるのである。そして同時に、作品を享受するときに私たちの意識の中に生じているある種のゆらめきのようなもの―それは確定的なものというより、不確定要素の強いものである―を内包することのできるように、論述の言葉に相当の幅をもたせて述べていけないものかとも考えていた。」(「あとがき」、『日本の美術―心と造形』、吉川弘文館、1995年)。ここからは、博識で、広範囲な領域に関心を絶えず持ちつづけ、そしてそれを自らの言葉で表現しようとする研究者であった同氏ならではの率直な意志を読みとることができる。なお、2012年5月に刊行予定の遺稿集『日本美術史夜話』に、同氏の「略年譜」、「主要著作目録」、「著述目録」等が掲載されることになっている。

粟津潔

没年月日:2009/04/28

読み:あわづきよし  幅広いジャンルで独自の創作活動を展開したグラフィックデザイナー粟津潔は、4月28日午後2時44分、肺炎のため川崎市内の病院で死去した。享年80。1929(昭和4)年2月19日、東京都生まれ。逓信省の技師だった父恵昭は、粟津が生まれた翌年踏切事故に遭い30歳で亡くなっている。小学校を終えると町工場や建具組合の事務所で働きながら、夜間商業学校に学び、戦争激化のために繰り上げ卒業となった45年法政大学産業経営学科専門部に入学するが翌年中退。国鉄に勤めながら独学で絵を描き始め、48年退職すると、映画プログラムや看板などを制作する日本作画会に就職。その後日本アニメーション、独立映画宣伝部と職を変えながら挿絵やポスターを描き、55年キャンペーン・ポスター«海を返せ»で日本宣伝美術会賞を受賞。翌56年にも日宣美奨励賞を受賞し同会員となる。58年3年間嘱託で勤めた日活宣伝部を退社。60年世界デザイン会議に参加。黒川紀章ら建築家による、新陳代謝する都市建築を提唱した「メタボリズム」の運動に共鳴し彼らのグループに加わると、菊竹清訓設計の出雲大社宝物殿の鉄扉デザイン、逓信博物館のパネル、レリーフ等、建築デザインを多く手がける。また62年勅使河原宏監督の映画『おとし穴』のポスター、タイトルバックを担当して以降、『怪談』、『砂の女』(共に1964年)などのタイトルバックや、篠田正浩監督『心中天網島』(1969年)の映画美術などを手がけるかたわら、自身も実験映画を製作し、74年にはそれら10本を渋谷パルコにてまとめて公開する「粟津潔映像個展」を開催。70年第3回ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレで「心中天網島」、「ANTI WAR」のポスターが銀賞および特別賞を受賞。また64年には武蔵野美術大学造形学部デザイン科助教授となり70年まで勤める。65年福田繁雄、田中一光ら気鋭のデザイナー11人によるグループ展「ペルソナ」を開催。70年の日本万国博覧会ではシンボルゾーンのテーマ館基本構想計画設計を担当。以後、85年「科学万博つくば’85」政府テーマ館プロデュースほか、公式イヴェントや公共デザインの仕事を多数手がける。主なものに75年国立民族学博物館中央パティオのデザイン、1992(平成4)年江戸東京博物館のプラザタイル計画デザイン、展示設計総合アート、96年寺山修司記念館の統合計画・建築設計、展示プロデュースがある。また88年川崎市市民ミュージアム建設委員会委員として同館の開館に尽力し、2000年には設立準備段階から携わっていた印刷博物館初代館長に就任。同年度の毎日デザイン賞、特別賞を受賞する。「トータルデザイン」の理論を提唱するなど、知的好奇心の旺盛さは広範な学問研究へと向かい、タイポグラフィーを文字の起源から研究するために漢字学者白川静に傾倒。また民俗学研究を経て、地図や指紋、判子など土俗的な題材を反復させながら用いる独特のデザインの世界を生み出した。こうして作り出されたカラフルなポスターや書籍装丁などの印刷物は、情報伝達手段としてのグラフィックデザインの機能性を具えるだけでなく、時代の雰囲気や感性とマッチすることで多くの人々から支持を集めた。晩年はアメリカの先住民のロックアートや象形文字などにも関心を寄せるなど、生涯を通して建築、音楽、文学、映像と、多彩なジャンルを横断する創作活動を展開した。主な著書に『デザインの発見』(1966年)、『粟津潔 デザインする言葉』(2005年)、『不思議を眼玉に入れて:粟津潔横断的デザインの原点』(2006年)、など。最晩年となった2007年には、金沢21世紀美術館で大回顧展「粟津潔 荒野のグラフィズム」が開催されている。90年紫綬褒章、2000年勲四等旭日小綬章を受章。

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