本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





岸浪柳渓

没年月日:1935/12/10

名静司。安政2年江戸に生る。田崎艸雲及福島柳圃に師事した。享年81。

橋本平八

没年月日:1935/11/01

明治30年三重県に生れ、大正8年上京翌年佐藤朝山に師事、大正11年秋日本美術院展に初入選。大正13年日本美術院々友に推挙され、昭和2年同院同人に推された。昭和10年6月新帝国美術院展覧会規則に拠り、指定された。第15回院展の「石に就て」、第19回院展の「アナンガランガのムギリ像」、第1回聖徳太子奉賛展出品の「羅漢」等は其の代表作である。享年39。

陽咸二

没年月日:1935/09/14

明治31年東京に生る。大正4年小倉右一郎に入門、大正7年文展に「老婆」を出品して初入選、同11年には帝展に「壮者」を出品して25歳にして特選となつた。此の時には既に「老婆」に示された写実主義は一転して、ギリシヤ彫刻クラシツク時代前期の影響を受けた様式化を示して居た。此の様式化は其後益々強調されて氏独自の様式を樹立するに至つた。昭和2年には構造社客員に、同4年には構造社会員となつた。昭和10年6月新帝国美術院の展覧会規則によつて指定された。前記「壮者」の外「降誕の釈迦」「サロメ」「千一夜物語」等が彼の代表作として挙げられる。享年38。

山本匡士

没年月日:1935/09/03

名正造、明治28年香川県に生る。大正2年香川県立工芸学校卒、後岩村哲斎に就きて漆芸を学んだ。京都工美展に於ては数回入賞し帝展には昭和9年入選した。京漆園なる漆器工場を経営して居た。享年41。

石本暁曠

没年月日:1935/08/23

名恒介、明治21年島根県に生る。38年京都美術工芸学校卒、後米原雲海に師事昭和6年帝国美術院より推薦せられて帝展無鑑査となり、昭和8年京都市美術工芸学校の教員に任命せられた。享年48。

牧雅雄

没年月日:1935/08/14

明治21年神奈川県に生る。太平洋画会研究所彫塑部に彫塑を修め、主として藤井浩祐の指導を受けた。昭和2年日本美術院同人に推された。享年48。

木村五郎

没年月日:1935/08/01

明治32年東京に生れ、大正4年東京高工附属徒弟学校卒業後山本端雲に就いて木彫を習つた。後石井鶴三の風を慕つて其の指導を受け、又同氏の推薦で大正8年日本美術院研究会員となつた。翌10年「簸の川上の素盞雄尊」外1点が院展に初入選となり、大正15年には日本美術院の院友に挙げられ、昭和2年9月同院同人に推された。作る所は主として木彫でそれも小品を得意とした。享年37。

関野貞

没年月日:1935/07/29

工学博士、東京帝国大学名誉教授。慶応3年12月15日旧高田藩士の家に生れ明治28年工科大学造家学科を卒業、翌29年東京美術学校講師となり、爾来東洋及び日本建築史を講じて今日に及び、又同年内務省嘱託として古社寺保存計画に参与し、次いで奈良県技師として古社寺の修理を担当し傍大阪に於ける日本生命保険会社本社の設計に従事した。右は博士の設計に掛る唯一の洋式建築である。 明治34年工科大学助教授に任ぜられ内務省文部省並に造神宮技師を兼任し翌明治35年6月韓国へ出張を命ぜられ、初めて同国建築の調査研究に手を染めた。次いで法隆寺金堂塔婆及中門非再建論、平城京及大内裏考等を発表し、41年工学博士の学位を授けらる。同年韓国度支部より古建築調査に関する調査を嘱託せられ、大正4年始めて朝鮮古蹟図譜第1冊を編纂し爾来引続き15冊を公刊した。大正6年の之が功績に対し、仏国学士院金石学及美文学院よりスタニスラスジユリアン賞金を贈らる。大正7年建築史研究の為支那、印度、英、仏、伊の諸国に留学を命ぜられ、同9年帰朝、直ちに教授となり、従前の通り内務、文部両技師を兼任し、古社寺(現今の国宝)保存会委員、史蹟名勝天然紀年物調査会臨時委員、学術研究会議員等被仰付、昭和3年依願本官を免ぜられ、次いで東京帝国大学名誉教授の称号を授けられた。 昭和4年4月東方文化学院東京研究所の設立せらるるや其評議員となり併せて研究員として支那歴代帝王陵の研究に従事し、同8年其の研究を完了し、引続き遼金時代の建築の研究に当り、既に遼金時代の建築と其仏像図版上下2冊を公刊し之と同時に熱河の諸建築の研究を遂げ図版4冊を公表し、更に日満文化協会評議員として幾多の研究問題其他重要なる提案をなし着々其の功を収めつつあつた。 博士の我美術史界の先覚として今日に至る迄の業績は到底一旦にして数ふべからず、今その訃に接して唯茫然たるものがあるが、就中その直前に最も力を注いで居た大陸半島美術に関する研究が凡て半途に終れるの痛嘆に余りあるを思ふのである。享年69。 次に博士の今日迄に公表せられたる最も主要なる著作を挙げてその迹を偲ぶ。一、天平創立の東大寺大仏殿及其仏像 建築雑誌第182、183号(明治35年2、3月)一、韓国建築調査報告、東京帝国大学工科大学学術報告第6号(明治37年8月)一、法隆寺金堂、塔婆及中門非再建論 建築雑誌第218号(明治38年2月)一、平城京及大内裏考 東京帝国大学紀要工科第3冊(明治40年6月)一、朝鮮古蹟図譜 既刊15冊解説第4冊迄 朝鮮総督府(大正4年ヨリ)一、支那山東省に於ける漢代墳墓表飾 図版1冊本文1冊 東京帝国大学紀要工科第8冊第1号(大正5年)一、支那仏教史蹟 常盤大定博士共著、図版5冊解説5冊 仏教史蹟研究会(大正14年ヨリ昭和4年迄)一、楽浪郡時代之遺蹟 図版上下2冊本文1冊朝鮮総督府(大正15年)一、瓦 雄山閣(昭和3年)一、高句麗時代之遺蹟 図版上下2冊本文未完朝鮮総督府(昭和3、4年)一、支那建築 塚本、伊東両博士ト共著 図版2冊解説2冊 建築学会(昭和4年ヨリ7年迄)一、朝鮮美術史 朝鮮史学会(昭和7年)一、支那工芸図鑑 瓦磚編及玉石工雑工編 帝国工芸会(昭和8年)一、熱河 図版4冊本文未刊 座右宝刊行会(昭和9年)一、遼金時代の建築と其仏像 図版上下2冊本文未刊 東方文化学院東京研究所(昭和9、10年)(以上美術研究昭和10年8月号より転載)

本間憲之助

没年月日:1935/07/22

明治38年山形県に生れ、昭和6年日本美術学校卒業、昭和5年帝展初入選、其の後構造社に出品していた。享年31。

藤川勇造

没年月日:1935/06/15

新に帝国美術院会員に任命され、旬日にして6月11日発病、同15日急逝した。 明治16年松平藩漆彫家玉楮象谷の嫡孫として高松市古新町に生れた。長じて香川県立工芸学校に学び、明治36年卒業と同時に東京美術学校彫刻科に入学、明治41年業を卒ふるや直ちに農商務省海外練習生となり、在仏8年、此の間巨匠アウギユスト・ロダンに師事した。大正5年帰朝し、同8年二科会会員に推薦され、爾後昭和10年迄二科会彫刻部の為に尽瘁して居た。昭和10年5月帝国美術院の改組と共に会員に任命され次で二科会と別れてその名誉会員とされた。作品は数多しとしないが佳作多く、就中「スザンヌ」「マリー・アントアネツト」(滞仏中)、「女浮彫」(昭和4年二科会出品)、「ボツス氏像」(昭和7年二科会出品)、「裸」(昭和8年二科会出品)等は夫々の時代に於ける秀作と見られる。又晩年には松平頼寿伯、若槻礼次郎男等の銅像の製作がある。享年53。左に岩井藤吉氏作製の作品年表(東京美術学校校友会会報第6号所載)を転載する。滞仏明治41-大正5 デデノ顔、トルソー、兎、スーザンヌ、マリー・アントアネツト、ブロンド、鷹大正10年 三輪田真佐子刀自銅像大正11年 トルソー、中江氏胸像大正12年 マドモアゼルS、無題大正13年 中江種造氏銅像大正14年 Tの顔、立つ女大正15年 ポーズせる女、詩人M昭和2年 女製作、Kの首、A氏像昭和3年 手を挙げる裸女、蹲る少女昭和4年 女浮彫、男習作、裸昭和5年 Nの顔、裸立像昭和6年 働く老夫、黒き像、吉岡弥生氏銅像、煙突掃除夫、秋山真之中将銅像昭和7年 MR・BORS、印度の男、海鳥を射る、裸、鴨昭和8年 裸、教育家O氏像、ソクラテス、志村源太郎氏像、鴨昭和9年 裸、花籠持つ少女、渡辺翁像 松平頼寿伯銅像、裸立像昭和10年 裸A、裸B、若槻礼次郎男銅像、小糸淳介氏像(絶作)年代不詳 宇喜田秀穂氏胸像、大島氏胸像、高木氏胸像、野崎氏胸像 井上重造氏胸像

堀江尚志

没年月日:1935/06/05

明治31年盛岡市に生れ、大正11年東京美術学校彫刻科を卒業した。在学中既にその俊才の光芒を示し、第2回帝展に「ある女」を出品して特選を贏ち得、又第3回帝展の「をんな」も特選を占め、大正13年無鑑査に推薦された。其後帝展出品と同時に塊人社に属し、昭和10年帝展審査員に挙げられ将来を嘱望されて居たにも拘らず、其夭折せしは惜しまれる。享年38。

榛沢菱花

没年月日:1935/05/20

名清、明治36年金沢生。蔦谷龍岬に師事した。旧帝院第8回展に初入選してより旧帝展の常連であつた。享年33。

田中謹左右

没年月日:1935/04/25

明治41年岡山市に生れ、中川一政に師事、昭和7年渡欧し滞仏1年にして帰朝、昭和8年春陽会会友に推挙された。享年28。

速水御舟

没年月日:1935/03/20

名は栄一、明治27年8月2日、東京市浅草質商蒔田良三郎の二男に生れ、明治41年15歳の時近隣の松本楓湖の安雅堂画塾に入門した。明治44年巽画会に出品した18歳の作「室寿の宴」は宮内省御買上の栄に浴した。同年楓湖より禾湖の号を授かつた。但し同年の作と推定されるものに浩然の号を用ひたものがあり、その後御舟と号するに至る迄多く此の号を用ひたらしい。紅児会会員となり今村紫紅に近づくに至つたのも此の年の事である。父方の姓に復して速水姓を名乗る様になつたのは明治末年の事であつた。 大正2年小茂田青樹、牛田鶏村等と京都南禅寺畔に籠居、ひたすら画業にいそしんだが翌年東京目黒に移転し今村紫紅に従つて赤耀会を起し「樵夫」を出品した。又同年「近村」を美術院再興第1回展に出品し、巽画会に於ては「萌芽」によつて1等賞を受けた。 大正6年日本美術院試作展に「伊勢物語」を出品して受賞したが其の年の秋の第4回展には同年京都に移転後製作した「京都の近郊六題」を出品して認められ院の同人に推された。其後の院展出品作品は次の如くである。 「洛北修学院村」(大正7年)、「比叡山」「京都の舞奴」(大正9年)、「菊」「渓泉二図」(大正10年)、「広庭立夏」(大正11年)、「平野点景」「圃畦」「収穫の図」「晴篁図」「早春薄暮」「暁靄」(大正13年)、「供身像」「朝鮮牛之図」「樹木」(大正15年)、「京の家、奈良の家」(昭和2年)、「翠苔緑芝」(昭和3年)「名樹散椿」(昭和4年)、「女二題」(昭和6年)、「花の傍」(昭和7年)、「青丘婦女抄」(昭和8年)。 之等院展出品作以外の主なる作品は大正14年聖徳太子奉賛展出品の「昆虫二題」昭和3年ローマ日本画展に出品の「鯉魚」昭和6年初頭ドイツで開かれた日本美術展出品の「雪夜」(此の作はベルリンの国立博物館東洋部に寄贈された)昭和9年七弦会の会員となつて同会に出品した「白鷺紫閃」、同年東方絵画協会の手で満洲国皇帝に献上された「罌栗」等である。 之等多数の名作を遺した後、「まどかなる月」(大阪松宮文明主催松作画出品展)を絶筆として昭和10年3月20日腸チブスに殪れた。享年42。 御舟は現代に於ける甚だ勝れた一人の進歩的な画家であつたばかりでなく、その人自身の画境に於て常に滞ることなき進展を見せ、且その急速な進展の途上に殪れた若き画人であるから、概括的に固定した画風といふものを規定し難い。が強いてその画風の変遷の中に期を分つならば大体三期を劃することが出来るであらう。 第一期はその初より大正7、8年頃まで、作品から云ふならば「京の近郊六題」「洛北修学院村」等を頂点として之に至るまでの道程と見るべき期間である。人事上にあつては大正8年3月浅草駒形にて隻脚を失ふ程の奇禍に逢つている。之は恐らく深刻な衝撃であつて一つの転換期を作る素因を成してゐると考へられる。此期の代表作として「京の郊外六題」を採る。これには極めて早期の楓湖の影響は既に殆ど見出し難く、之に代つて紫紅の影響を濃厚に見る。そして初期の作「萌芽」「伊勢物語」等に現れていた甘い叙情的なものが多少形を変へながら未だ豊富に残存し、之に加ふるに写実的な基礎を段々に深めて行つたと見らるべき所のものである。 第二期は之に続き昭和5年頃に至る。「翠苔緑椿」「名樹散椿」の偉作を発表し、昭和5年ローマに於ける日本美術展に際し2月より10月迄外遊したまでの期間である。この間に御舟は種々なる試みをなし、各様の注目すべき作品を発表しているが、その基調となるものは写実への徹底である。或は極度なる細密描写へ、或は大胆なる装飾化へ。好き意味に於ける野心的な試みが一見多様な画風の変遷を示しているやうであるが、その帰一する所は徹底せる自然観照による写実であらう。此間に於てその描線も色彩も甘いふつくらしたものから次第に雋鋭なものへと深められて行つた。「菊」「広庭立夏」「早春薄暮、暁靄」「昆虫二題」「京の家、奈良の家」等は此間の各様の画風の現れとして注目すべき作品であり「翠苔緑芝」「名樹散椿」に至つてこの期間に於ける一の到達点を見出したと云ひ得るのであらう。構成に関する深い研究と、忠実なる写生が真摯なる思索によつて濾過された勝れた単純化に於て、此2作は現代日本画中に於て甚だ高き評価を有すべき作品である。 「青丘婦女抄」はこの作家の最後期に於けるよき進展を示す大作であつた。然し寧ろ之以上に注目すべきは晩年に好んで画いたと思はれる芙蓉、牡丹等の小品に見られる巧まずして滋味の溢るる4、5の作品である。鋭い神経を見せながら温藉な画品を保つているその画風こそ今後の御舟の進展を約束するものではなかつたであらうか。 院展に於ける所謂目黒派の中堅として先進の注目を集め、後進の目標となつてゐた御舟の作品が画壇に及ぼした影響力は甚だ強いものがあつたと云ふべきである。

坂田耕雪

没年月日:1935/02/06

名万之助、明治4年金沢生。尾形月耕に師事し巽画会会員であつた。享年65。

高取稚成

没年月日:1935/01/30

名熊夫、慶応3年に生る、幼名は熊若と云つた。幼時住吉広賢の隣家に住した関係から其の門に入つて大和絵を修め、明治16年広賢の没するや山名貫義に就いた。明治18年より同21年に亙つて行はれた皇居御造営に際して奉仕したが、当時青年輩は何れも諸調度品の下絵をつけるに止つたのであるから今日此等のものは熊若の作品としては現存してゐない。この御造営以後青年画家の中に確たる地歩を占めるに至り、その後青年絵画協会或は日本美術協会、文展等にその作品を発表した。文展に於ては第3回に「赫耶姫天上の図」を、第6回に「藤房卿の草子」(2等賞)を第7回第一科に「南淵魚水」(2等賞)を第9回に「四家文躰」(3等賞)を出品して大正10年より3年間審査員を命ぜられた。其の他世に聞える作品としては宮内省蔵「大正四年御即位大典絵巻」、今神宮徴古館に保管せらるる昭和4年度皇太神宮式年遷宮絵巻12巻、明治神宮絵画館奉献壁画「有栖川征東大将軍宮建礼門御通過の図」等がある。 嘗て久迩宮家御用掛たり、現に伊勢神宮技芸員、宮内省嘱託であつた。 最後迄生き残つた純粋な土佐派の画家として、取材なり、技法なり忠実に古法を墨守した其の画風は不幸時世の顧る所とならなかつたが、歴史的には甚だ貴重な存在であつた。享年69。

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