林武
独立美術協会会員、東京芸術大学名誉教授の洋画家、林武は、6月23日午後5時41分、肝臓しゅようのため東京西新橋の慈恵医大付属病院で死去した。享年78歳。林武は、本名を武臣、明治29年(1896)、代々国学者であった家に生まれ、父甕臣も国学者で華族女学校(女子学習院の前身)で国語国文学を講じたこともあり、「言文一政会」を組織するなど国語問題に激しく情熱をそそいだ人物であった。後年、武が国語問題に関心を示したのはこの父の影響による。東京市牛込区余丁町小学校の同級生に東郷青児がいた。明治43年(1910)早稲田実業学校に入学したが、家計を助けて苦学し労働のために病気となり在学1年を満たずに退学、大正2年(1913)には歯科医の助手となり歯科医を志望、さらに文学を志し、新聞、牛乳配達などに従事し、大正8年(1819)画家になることを決意し、翌9年日本美術学校入学したが、同年末には退学した。この年(大正10年)、第9回二科展に『婦人像』が初入選となり、同時に樗牛賞をうけた。またこの年に渡辺幹子と結婚している。幹子夫人はその後の武の画業の進展に献身的につくし、その夫婦愛はしばしば世評にあげられたところである。大正10年から昭和5年まで(1921~30)、二科展に出品すると同時に、その間に萬鉄五郎・小林徳三郎を中心とする円鳥会展、前田寛治、里見勝らの1930年協会展に出品している。昭和5年(1930)、独立美術協会結成に参加し、以後、没するまで同会に所属して活躍した。独自の構成理論と絵画に対する烈しい情熱と執着は他の追随を許さない個性的な作品をつくりあげることになったが、また初期から晩年にいたるまで内外の他の画家たちからの影響を多くうけてきたことも事実で、初期には岸田劉生、ついでセザンス、フォーヴィスム、キュービスムの影響をうけ、昭和9~10年(1934~35)の第1回渡欧をへて前半期の様式的完成をみるが、第2次大戦後にいたってもビュッフェ、フォートリエなどから多くを学んでいる。戦後、『星女嬢』『真横向き』など一連の人物像が注目を集め、昭和24年(1949)『梳る女』で第1回毎日美術賞をうけ、同27年には、安井曾太郎・梅原龍三郎のあとをうけて東京芸術大学教授に就任、画壇的、社会的地歩を確立させた。昭和31年第2回現代日本美術展では大衆賞をうけ、同34年には第15回日本芸術院賞、同42年第37回朝日賞を受賞し、また同年秋には文化勲章をうけている。戦後の1940年代後半から60年代にかけて、少女像、十和田湖、浅間山、富士山などの風景画によって一時代を劃した画家であった。
年譜
明治29年(1896) 12月10日東京市麹町区に生まれる(生年月日については同年11月30日との説もある)。
明治42年 牛込区余丁町小学校を卒業。
明治43年 早稲田実業学校に入学。過労のため病気にあり1年未満で中退。
大正2年 歯科医斎藤信一の助手となる。東京歯科医学校に入学。
大正9年 4月、日本美術学校に入学、12月まで修学。
大正10年 第8回二科展に『婦人像』入選、樗牛賞を受賞。渡辺幹子と結婚する。
大正11年 3、月平和記念東京博覧会に«婦人像»を出品し、褒状を受賞する。
9月、第9回二科展に«静物»«本を持てる婦人像»«静物»を出品し、二科賞を受賞する。
この年、代々木に移る。
大正12年 1月、万鉄五郎を中心に円鳥会が結成され、児島善三郎らと参加。
6月、円鳥会第1回展に«静物»«花»«肖像»«風景»«風景»を出品。
9月、第10回二科展に«女の顔»«鍋のある静物»を出品。この年、転居したが、関東大震災に遇い、しばらく神戸に滞在して制作する。
大正13年 4月、円鳥会第2回展に«静物»を出品。
9月、第11回二科展に«静物»«神戸風景»を出品。
大正14年 9月、第12回二科展に«静物»«野菜等の静物»を出品。
10月、円鳥会第4回展に«婦人像»«姉妹»など5点を出品。
大正15年 6月、1930年協会会員となる。
9月、第13回二科展に«静物»«落合風景»«文化村風景»を出品し、会友に推される。この年、市外に転居する。
昭和2年 6月、第2回1930年協会展に«顔»を出品。
昭和3年 2月、第3回1930年協会展に«女の顔»を出品。
9月、第15回二科展に«裸婦(1)»«裸婦(2)»«横われる女»«静物»«男の顔»を出品。
昭和4年 1月、第4回1930年協会展に«女の顔»«女»«ポートレエ»を出品。
9月、第16回二科展に«ブルーズを着た女»«扇を持てる女»«少女坐像»«臥せる裸体»«花(1)»«花(2)»を出品。この年、転居する。
昭和5年 1月、第5回1930年協会展に«風景»«静物»など新作3点と旧作をあわせて41点を出品。
3月、第2回聖徳太子奉讃美術展に«花»を出品。9月、第17回二科展に«静物»«花»«肖像»«裸婦»«花と裸婦»を出品。
11月、二科会を去り、同志と共に独立美術協会を創立する。
昭和6年 1月、第1回独立美術協会展に«婦人像(1)»«婦人像(2)»«裸婦»«静物(1)»«静物(2)»«少女と花»«花»を出品。
9月、独立美術協会秋季展に«海»を出品。
昭和7年 3月、第2回独立展に«白岸風景»«婦人像»«断崖»«少女像»«野外裸婦»«裸婦»を出品。
10月、独立美術協会第2回秋季展に«静物»を出品。独立美術協会編「独立美術1」、林武特輯(建設社)刊行される。
12月、亡父の遺著『日本語原学』を建設社から出版する。
昭和8年 3月、第3回独立展に«花»«肖像»«野外裸婦»«裸婦»を出品。
10月、東京日本橋・三越において個展を開催する。
昭和9年 3月10日、門司出帆の靖国丸で渡欧し、パリのアトリエで制作するかたわら、ベルギー、オランダ、イギリス、ドイツおよびスペインの各地を見学する。
3月、第4回独立展に«花»を出品。
昭和10年 4月、東京府美術館開館10周年記念現代綜合美術展覧会に«少女像»«1932»を出品。
4月、帰国する。
10月、独立美術協会第5回秋季展に«ノートルダム»を出品。この年、中野区に画室を構える。
昭和11年 4月、第6回独立展に«コワフューズ»«椅子による裸婦»«立てる裸婦»«ポーランドの女»«踊り子»«裸婦»«梳る裸婦»«ニース»«オランダの娘»«シュールモラン»«スペインの老女»«黄衣»«アッシジ»«カテドラル・ド・シャトル»«ノートルダム»など滞欧作15点を出品。
11月、独立美術協会秋季展に«フローレンス»を出品。
昭和12年 3月、第7回独立展に«フロレンス»«野外裸婦»«婦人像»«ヴェニス»を出品。
4月、明治大正昭和三聖代名作美術展(大阪市立美術館)に«裸婦»(1933)を出品。
7月、大阪・松坂屋において滞欧油絵展を開催する。
昭和13年 3月、第8回独立展に«ルパシカを着た女»«裸婦»を出品。
10月、大阪・美交社において近作個展を開催する。出品22点。独立美術協会秋季展に«海景»を出品。
昭和14年 3月、第9回独立展に«室戸岬風景»«室戸岬風景»を出品。
10月、独立美術協会秋季展に«ダリヤ»を出品。
昭和15年 3月、第10回独立展に«女の顔»«姉妹»«婦人像»«海»«鮭の静物»を出品。
10月、紀元二千六百奉祝美
術展覧会に«肖像»を出品。
昭和16年 3月、第11回独立展に«卓上静物(1)»«卓上静物(2)»«肖像»を出品。
昭和17年 3月、第12回独立展に«菊花»«静物»«肖像»«栗»«洋菊»を出品。
10月、独立美術協会秋季展に«花»を出品。
昭和18年 3月、第13回独立展に«肖像»«静物»«バラ»«小菊»«カーネーション»を出品。
昭和19年 2月、第14回独立展に«アネモネ»«茶碗とブドウ»«静物»を出品。西多摩郡に疎開、この前後、構図法の研究に没頭した。
昭和21年 1月、中野のアトリエに帰る。
4月、独立美術自由出品展に«花(菊)»«花»を出品。
昭和22年 4月、第15回独立展に«花(1)»«花(2)»«風景»を出品。
5月、柴田ギャラリーにおいて個展を開催する。
6月、第1回美術団体連合展に«婦人像»を出品。
昭和23年 5月、第2回美術団体連合展に«婦人像»を出品。
10月、第16回独立展に«花»«静物»«花»«星女嬢»«静物»を出品。
昭和24年 5月、第3回美術団体連合展に«梳る女»を出品。
10月、第17回独立展に«真横向き»«静物(1)»«静物(2)»«卓上花»«K子像»を出品。
11月、«梳る女»(第3回美術団体連合展出品)をはじめとする画業に対し、第1回(昭和24年度)毎日美術賞を贈られる。
昭和25年 3月、北荘画廊において個展を開催し、«星女嬢(横向き)»«静物(鯖)»などを出品。
3月、第1回秀作美術展に«真横向き»を出品。5月、第4回美術団体連合展に«裸婦»を出品。
10月、第18回独立展に«静物»«裸婦»«横向婦人像»を出品。
昭和26年 1月、第2回秀作美術展に«星女嬢(横向き)»«静物(鯖)»を出品。
5月、第5回美術団体連合展に«鏡をもつ女»を出品。
10月、第19回独立展に«裸婦»«造船所風景»«裸婦»«逗子風景»を出品。
昭和27年 1月、第3回秀作美術展に«鏡をもつ女»を出品。
3月、東京芸術大学美術学部教授に迎えられる。
5月、第1回日本国際美術展に«静物A»«静物B»«静物C»を出品、サロン・ド・メに«静物A»«静物B»«顔»を出品。
10月、第20回独立展に«横顔»«A子像»«F子像»を出品。
昭和28年 1月、第4回秀作美術展に«静物»を出品。
5月、第2回日本国際美術展に«粧える女»を出品。
9月、国立公園絵画展に«十和田湖»を出品。
10月、第21回独立展に«十和田湖»«横向少女»«十和田湖»«静物»を出品。
昭和29年 1月、第5回秀作美術展に«静物»«横向少女»«粧える女»«十和田湖»を出品。
5月、第1回現代日本美術展に«卓上静物A»«卓上静物B»を出品。
6月、東京日本橋・高島屋において個展を開催し、«ネッカチーフの少女»など約50点を出品。
10月、第22回独立展に«仰臥裸婦»«裸婦半身»を出品。
第30回 1月、第6回秀作美術展に«ネッカチーフの少女»を出品。
5月、第3回日本国際美術展に«女»«星女嬢»を出品。
10月、第23回独立展に«見高浜»«婦人座像»«今井浜風景»を出品。
昭和31年 1月、第7回秀作美術展に«見高浜»を出品。
5月、第2回現代日本美術展に«伏目の女»«奈津子の像»を出品し、大衆賞を受賞する。
7月、第1回日仏具象派美術展に«月ヶ瀬»«伊豆風景»«村の小学校»を出品。
9月、東京銀座・松屋において林武デッサン展(朝日新聞社主催)が開催される。
9月、毎日新聞社の依嘱によって原画を制作した大阪毎日会館壁画(大理石モザイク、矢橋六郎制作)が完成する。
10月、第24回独立展(創立25周年記念)に«卓上花»«奥日光»«野外婦人»を出品。
10月、兜屋画廊において林武壁画エチュード展が開催される。
11月、大阪・梅田画廊において林武壁画原画展が開催される。
昭和32年 1月、第8回秀作美術展に«野外婦人»を出品。
5月、第4回日本国際美術展に«裸婦»を出品。
7月、現代美術10年の傑作展(毎日新聞社主催)に«梳る女»(1949)を出品。
10月、第25回独立展に«赤衣の婦人»«熱海風景»を出品。
昭和33年 1月、第9回秀作術展に«赤衣の婦人»を出品。
2月、第2回国際具象派美術展に«静物A»«静物B»«熱海風景»を出品。
5月、第3回現代日本美術展に«肖像»«裸婦»を出品。
8月、第12回新樹会展に«裸婦»を出品。
10月、第26回独立展に«婦人像»を出品。
10月、東京日本橋・高島屋において回顧新作展を開催し、«ばら»«静物»«川奈風景»«舞妓»«クレロデンドロン»など新作33点、旧作147点計180点を出品。この年、ヨーロッパ巡回日本現代絵画展に«婦人座像»(1959)«十和田湖»(1953)«熱海風景»(1957)を出品、オーストラリア、ニュージーランド巡回日本現代美術展に«静物»を出品。(共に外務省、国立近代美術館、毎日新聞社主催)
昭和34年 1月、第10回秀作美術展に«熱海風景»を出品、「戦後の秀作」展(国立近代美術館)に<十和田湖>(1953)を出品。
5月、第5回日本国際美術展に«座像»を出品。
5月、前年開催した回顧新作展に対し、第15回(昭和33年度)日本芸術院賞を贈られる。
8月、第13回新樹会展に<裸婦>を出品。
10月、第27回独立展に«揺り椅子に坐す女»を出品。
11月、毎日美術賞10年記念展に«梳る女»«女の顔»«横浜風景»«静物»«静物»を出品。
昭和35年 1月、第11回秀作美術展に«横浜風景»を出品。
4月、第3回国際具象派美術展に«横浜風景»を出品。
5月、第4回現代日本美術展に«ボンネットの少女»«座せる少女»を出品。
5月、空路渡欧し、パリ、ヴァンスなどで制作を行なう。
昭和36年 1月、第12回秀作美術展に«横浜風景»を出品。
2月、滞欧作23点を携えて、空路帰国する。
5月、第6回日本国際美術展に«ノートルダム»を出品。
9月、東京日本橋・高島屋において滞欧作展を開催し、«エッフェル塔»«コペルニック»«サン・ポール»«南仏の家»«ヴァンス»«崖の上の家»などを出品。
10月、第29回独立展に«バラA»«バラB»を出品。11月、日動画廊において滞欧デッサン展を開催する。
昭和37年 1月、第13回秀作美術展に«ノートルダム»を出品。
4月、第4回国際具象派美術展に«女A»«女B»を出品。
5月、第5回現代日本美術展に«人物»を出品。
8月、第16回新樹会展に«踊り子を出品。
10月、国際形象展同人となり、第1回展に«立てる舞妓»«舞妓»を出品。
10月、30周年記念独立展に«舞妓»«舞妓»を出品。
昭和38年 1月、第14回秀作美術展に«立てる舞妓»を出品。
5月、第7回日本国際美術展に«少女»を出品。
10月、第2回国際形象展に«アトリエからの風景»«下田風景»«花»を出品、第31回独立展に«人物»«風景»を出品。
12月、日動画廊において新作素描展を開催する。
12月、東京芸術大学美術学部教授を定年退職する。この年、渋谷区にアトリエを新築転居する。
昭和39年 1月、第15回記念秀作美術展に«ノートルダム»(第13回秀作美術展作品)を記念出品。
5月、第6回現代日本美術展に«静物»«富士»を出品。
9月、第3回国際形象展に«富士山»«静物»«熱海風景»を出品。
10月、第32回独立展に«熱海風景»«三味線»を出品。
昭和40年 1月、第16回秀作美術展に«富士山»を出品。
5月、第8回日本国際美術展に«富士»を出品。
10月、第4回国際形象展に«卓上静物A»«卓上静物B»«富士«冬の箱根»«静物»を出品、第33回独立展に«静物»«富士»を出品。
著書「美に生きる」(講談社現代新書・60)刊行。
昭和41年 5月、第7回現代日本美術展に«海»を出品。8月、第20回新樹会展に«花»を出品。
10月、第5回国際形象展に«裸婦»«人物»«伊豆伊浜A»«伊豆伊浜B»«伊豆伊浜C»«花»«妻の像»を出品、第34回独立展に«滝富士»«婦人像»を出品。
昭和42年 1月、«裸婦»にいたる具象絵画の業績に対し、第37回朝日賞(文化賞)を贈られる。
5月、第9回日本国際美術展に«人物»を出品。
10月、第35回独立展に«裸婦»«赤富士»を出品。
11月、文化勲章を受ける。
11月、第6回国際形象展に«石廊崎»«富士山»«少女»«花»«静物»を出品。
昭和43年 5月、第8回現代日本美術展に«パークウエー富士»を出品。
10月、第7回国際形象展に«怒濤»«波»を出品、第36回独立展に«少女»«岩と波»を出品。
昭和44年 5月、第9回現代日本美術展第一部門「現代美術20年の代表作」に«梳る女»(1949)«海»(1966)を出品。
10月、第8回国際形象展に«ばら»«花帽子の少女»«ばら»«海»«海»を出品、第37回独立展に«婦人像»«富士»を出品。
11月、資生堂ギャラリーにおいて「林武のアトリエ」展が開催される。
昭和45年 1月、八樹会展(日動画廊)に«ばら»を出品。
4月、毎日新聞社主催「日本巨匠二十人展」(大阪・大丸)
に«怒濤»(1968)«ばら»(1969)«赤衣の少女»(1969)«富士»(1970)を出品。
5月、大阪梅田・阪神百貨店において画業五十年記念「林武展」(毎日新聞社主催)が開催される。1922年から1970年にいたる代表作約120点を出品。
10月、第38回独立展に«花帽子の裸婦»を出品。
10月、第9回国際形象展に«憩える踊り子»を出品。
昭和46年 3月、国語問題協議会会長となる。
9月、池袋モンパルナス展(池袋・西武百貨店)に«少女像»(1931)を出品。10月、第39回独立展に«少女»を出品。
昭和47年 2月、「戦後日本美術の展開―具象表現の変貌―」展(東京国立近代美術館)に«ノートルダム»(1960)«パークウエー富士»(1968)を出品。
9月、第11回国際形象展に<花>を出品。
9月、東京国立近代美術館開館20年記念「現代の眼―近代日本の美術から」展に«十和田湖»(1953)«ノートルダム»(1961)«少女»(1963)を出品。
10月、第40回独立展に«少女白衣»«花»を出品。
昭和48年 3月、日美の流れ展(東京セントラル美術館)に«多摩川上水»(1922)«緑衣の女»(1931)«バラ»(1973)を出品。
10月、第41回独立展に«花(薔薇)»«花(向日葵)»を出品。
昭和49年 3月、山種美術館特別展「舞妓の美―日本の抒情と造形―」に«立てる舞妓»(1962)を出品。
昭和50年 3月29日、滋恵会医科大学付属病院に入院する。
6月23日、肝臓がんのため同病院で死去する。従三位に叙され、銀杯一組を贈られた。
6月28日、青山葬儀所において、野口弥太郎が葬儀委員長となり、独立美術協会葬が行われる。
10月、林武展委員会、毎日新聞社主催により日本橋高島屋において“この不屈の人 林武展”開催される。
(本年譜は、「この不屈の人 林武展」目録収載の土屋悦郎編、林武年譜から転載、少し追加した。)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「林武」『日本美術年鑑』昭和51年版(303-307頁)
例)「林武 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9714.html(閲覧日 2024-12-13)
以下のデータベースにも「林武」が含まれます。
- ■美術界年史(彙報)
- 1951年03月 文部省買上げ美術作品決る
- 1951年11月 東京芸大教授辞表提出
- 1952年03月 東京芸術大学洋画科教授に林武決定
- 1960年04月 国際具象派美術展開催
- 1960年09月 美術家会館建設展開催
- 1966年02月 国立西洋美術館購入の仏画家の作品について参院文教委で質疑
- 1949年07月 東京会の結成
- 1949年11月 毎日美術賞決る
- 1959年02月 日本芸術院恩賜賞日本芸術院賞決定
- 1967年10月 文化勲章受章者決定
- 1982年02月 昭和会賞決定
- 1983年01月 第18回昭和会賞
- 1984年01月 第19回昭和会賞決定
- 1985年01月 第20回昭和会賞決定
- 1986年01月 21回昭和会賞決定
- 1987年01月 22回昭和会賞決定
- 1988年01月 昭和会賞決定
- 1989年01月 昭和会賞決定
- 1990年01月 第25回昭和会賞決定
- 1994年04月 日本美術学校再開
- ■物故者記事
- 宮崎進 中根寛 日野耕之祐 豊島弘尚 福本章 織田廣喜 鶴岡義雄 鳥居敏文 西村龍介 松本英一郎 小林数 小松崎邦雄 高岡徳太郎 水島清 山下大五郎 中畑美那子 吉岡堅二 土方定一 里見勝蔵 伊藤廉 狭間二郎 朝井閑右衛門 竹谷富士雄 鈴木信太郎 岩野勇三 野口弥太郎 高畠達四郎 東郷青児 中山巍 樋口加六 鳥海青児 伊藤彪 小林和作 鈴木保徳 田中佐一郎 児島善三郎 岡部文(ふみ)之助
- ■明治大正期書画家番付データベース
- 1927(昭和2) 増補古今書画名家一覧_807121
外部サイトを探す