本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





山田貢

没年月日:2002/12/07

読み:やまだみつぎ  友禅作家で重要無形文化財保持者の山田貢は、12月7日午前0時10分、心不全のため埼玉県坂戸市の病院で死去した。享年90。 1912(明治45)年2月3日、岐阜県岐阜市に生まれる。14歳で友禅作家の中村勝馬に師事して手書友禅、蠟染の技法を学んだ。1929(昭和4)年、師の中村に同行して東京に出るが、45年には師とともに山梨県に疎開し移住した。47年の第32回二科展工芸部に初入選し、以後連続入選を果たす。この間の51年には友禅作家として独立するが、その後も友禅染の技術の錬磨に励むとともに、友禅染め誕生期の品格を理想としながら能装束・狂言装束の意匠と文様の研究を行う。57年からは日本伝統工芸展に出品し、60年には日本工芸会正会員となる。68年、日本工芸会常任理事、染織部会長に就く。71年から79年にかけて、東京藝術大学美術学部非常勤講師を務め、後進の指導にもあたる。77年の第24回日本伝統工芸展では、能装束の鱗文をヒントに網干の三角模様を連続させた風景模様を配した«夕凪»が日本工芸会賞(奨励賞)を受賞する。81年、日本工芸会が主催した「茶屋染帷子」の復元事業に参加し、糸目糊の担当としてその指導を行う。作品は、写生を基にした松文・麦穂文・波文・魚文などの自然物のほか、網干文に代表される人工物、さらには巴文などの古典的な模様を題材に、伝統的な糯糊による糸目・堰出し・叩きなどの各糊防染の手法を用いて色挿しを行うもので、巧みな糊置きにより、絵際のはっきりした力強い線構成による簡明な意匠が好評を得る。82年世田谷区特別文化功労者。83年には勲四等瑞宝章を受章。84年、「友禅」で重要無形文化財保持者に認定される。翌年には日本工芸会参与に就任。87年金沢美術工芸大学の非常勤講師となり、再び後進の育成にあたる。1990(平成2)年、第2回茶屋染帷子の復元事業に参加し、糸目糊の研究に専念してその成果を示す。94年と95年には、重要無形文化財「友禅」伝承者養成研修事業の講師として伝統技法の保存・公開・育成に尽力する。同年、小田急百貨店において個展を開催。ポーラ伝統文化振興財団がビデオ「山田貢の友禅―凪―」を制作。99年には文化学園服飾博物館において「友禅 東京派五〇年の軌跡―中村勝馬・山田貢・田島比呂子・中村光哉―」展が開催された。作品は、伝統的な技法を駆使しつつも、大胆な構図と清新な色調、現代的な感覚で見る者を魅了した。また、没するまで精力的に活動し、復元事業をはじめ後進の育成にも専念するなど、伝統工芸の保存・公開に尽力した功績は大きい。

吉川逸治

没年月日:2002/12/05

読み:よしかわいつじ  フランスのサン・サヴァン教会堂壁画の研究で知られた西洋中世美術史研究者、吉川逸治は12月5日午後9時50分、肺炎のため神奈川県鎌倉市由比ガ浜の自宅で死去した。享年93。 1908(明治41)年12月14日、横浜市神奈川区青木町台に生まれる。1929(昭和4)年旧制浦和高等学校文科を卒業。33年東京帝国大学美学美術史学科を卒業。同年フランスへ留学しパリ大学でアンリ・フォションに師事してフランス中世美術を研究。34年よりポアティエ近郊のサン・サヴァン教会堂のロマネスク壁画を調査し、39年その成果をまとめた学位論文Apocalypse de Saint‐Savin(サン・サヴァン教会堂の黙示録画の研究)をパリ大学に提出して博士号を取得。同年8月より9月まで、アフガニスタン、インドを巡遊して帰国する。44年東京美術学校(現東京藝術大学)の講師となり、西洋美術史を講じ、同47年同学教授となる。49年『中世の美術』(東京堂 1948年)により昭和24年度毎日出版文化賞受賞。53年東京大学助教授となり、55年より69年まで同学美術史学科教授をつとめる。その間の58年より61年まで大岡昇平、中村光夫らと同人誌『声』(丸善)に参加し、59年から61年までパリ大学都市日本館館長をつとめる。69年名古屋大学教授となり72年退官。この間、59年から76年までに3度にわたりフランスのサン・サヴァン教会堂を調査し、その成果の集大成として『サン・サヴァン教会堂のロマネスク壁画』(新潮社 1982年)を刊行した。その研究方法は、現地でのフィールド・ワークにもとづく実証的なもので、国際的に高い評価を得る。こうした調査により75年ポアティエ大学から名誉博士号を授与される。72年より81年まで東海大学教授、同81年から1999(平成11)年まで大和文華館館長をつとめた。82年より日本学士院会員となり、84年フランス学士院ジャン・レイノー賞を受賞する。日本における西洋美術史学研究の上で、徹底的な現地調査と広汎な文献の渉猟を基礎とする方法論を実践した先駆的研究者として位置づけられる。 先述の著作のほか、主要な著書に『近代美術への天才たち』(新潮社 1964年)、『ロマネスク美術を索めて』(美術出版社 1979年)などがあり、翻訳・編集・監修を担当した書籍に『イタリア絵画史』第1巻(スタンダール他著、河出書房 1943年)、『ルーヴルの名宝』(講談社 1966年)、『近代絵画』(A・オザンファン他著、鹿島出版会、SD選書 1968年)、『紀元千年のヨーロッパ』(L・グロデッキ他著、新潮社 1976年)、『世界版画大系』(筑摩書房 1972―74年)、『フィレンツェの美術』(小学館 1973―74年)、『ルーヴルとパリの美術』(小学館 1985―88年)などがある。

中村光哉

没年月日:2002/11/09

読み:なかむらこうや  染織家で東京藝術大学名誉教授の中村光哉は11月9日午前8時30分、悪性リンパ腫のため神奈川県横須賀市の病院で死去した。享年80。 1922(大正11)年8月6日、友禅染めで重要無形文化財となった染色家中村勝馬の長男として東京青山に生まれる。1940(昭和15)年東京美術学校日本画科に入学するが43年12月、動員により同校を仮卒業。翌年9月、飛行兵として出征中に同校を卒業する。45年8月、終戦により復員し染色活動に入る。46年10月第2回日展に染色屏風「やなぎ 利休屏風」で初入選。以後日展に出品し、56年第12回同展で「楽器」により北斗賞受賞。59年第15回日展に回転木馬などの遊園地風景を図案化した「遊園地」を出品して特選・北斗賞を受賞する。62年4月、東京新橋の全線画廊にて個展を開催。同年11月、母校である東京藝術大学に染色教室が設けられたことに伴い、同学講師となる。65年日展会員および現代工芸美術家協会評議員となる。67年東京藝術大学美術学部工芸科に染色講座が開設されるのに伴い、同科助教授となる。68年日本現代工芸美術東欧展に際し、現代工芸美術家協会代表委員として視察のために渡欧。78年東京藝術大学教授となる。80年2月日本橋高島屋美術画廊にて個展を開催し、同年9月には銀座ミキモト・ホールで開催された「現代の染色20人展」に参加する。また、同年3月現代工芸美術家協会理事となる。82年、出品を続けてきた日展の評議員となる。86年「中村勝馬・中村光哉二人展」を水戸甚デパートで開催。1989(平成元)年3月日本現代工芸美術展に「好日」を出品して内閣総理大臣賞受賞。84年より横須賀市に居住したことから90年、横須賀市の主催で「郷土ゆかりの芸術家シリーズⅤ」として「中村光哉染色作品展」を同市はまゆう会館で開催し、初期の作品から近作まで29点を展観した。年譜は同展図録に掲載されている。 染色技法は父中村勝馬に師事し、初期には蝋けつ染技法をよく用いたが後には友禅を得意とした。具象的モティーフを幾何学的にデフォルメする試みを初期から行い、昭和40年代後期には幾何学的抽象形体による構成をおこなったが、その後、雲、炎、波など不定形のモティーフを好んで主題とし、対象を写実的にとらえた上で形体を簡略化するとともに、色彩においても再現的表現からはなれて装飾的な色面構成を行うようになった。そうしたなかに雲形、鱗模様など伝統的文様をもとり入れ、伝統技法を用いながら、色彩と形体に斬新なデザイン性を融合させて、友禅染の世界に新たな展開をもたらした。横須賀市に居を写してからは海、船に取材した作品を多く制作している。作品集に『イメージを染める』(染色と生活社 1983年)、『中村光哉作品集―抽象と文様―』(京都書院 1985年)などがある。

荘司福

没年月日:2002/10/19

読み:しょうじふく  日本画家で日本美術院評議員の荘司福は10月19日、老衰のため死去した。享年92。 1910(明治43)年3月26日、長野県松本市に生まれる。父が地裁裁判官であったため幼年期から少女期にかけて各地を転々とする。1932(昭和7)年女子美術専門学校(現女子美術大学)師範科日本画部を卒業。翌年結婚を機に仙台で新家庭を営むが40年に夫を結核で失う。翌41年第6回東北美術展(現河北美術展)にわが子をモデルとした「子供たち」が入選、以後も同展に出品を続け、戦後の46年第10回展出品「秋立つ」で河北美術賞を受賞する。また同年の第31回院展に「星祭り」が初入選し、院同人・郷倉千靱の画塾である草樹社の一員となる。以後連年院展に出品し、52年第37回「ひととき」、54年第39回「牧場」、61年第46回「群」がいずれも奨励賞を受賞、構成的な群像表現を展開し、62年特待となる。62年第47回「人形つかい」、翌63年第48回「若い群」がともに日本美術院賞となり、64年美術院同人に推挙された。その間63年には「河北美術展および日本美術院を通じ東北画壇の興隆に尽く」した功績により、第12回河北文化賞を受賞。この時期、東北の風土に根ざした「祈」(64年)、「東北聚集図」(66年)を発表するが、67年に東京へ移住して以降はたびたび中国、インド、ネパール、カンボジア、アフガニスタンへ旅行し、仏跡を巡訪、さらにアフリカへも足を伸ばす。67年の「眼(如意輪)」等、主に仏眼を象徴的に用いた作風から、74年第59回院展で内閣総理大臣賞を受賞した「風化の柵」等朽ちゆく物象のモティーフを経て、自然物、自然景を対象とした根源的な世界の表現へと移行、84年第69回「原生」は文部大臣賞を受賞した。81年より美術院評議員をつとめる。82年仙台市内の藤崎百貨店で回顧展を開催。86年「刻」で第36回芸術選奨文部大臣賞を受賞。1989(平成元)年毎日新聞社より『荘司福画集』が刊行。96年に作品26点を神奈川県立近代美術館に寄贈し、これを記念して同館にて回顧展が開催。同年神奈川県より神奈川文化賞(芸術部門)を受賞。翌年には宮城県美術館で特別展「荘司福―東北の風土から内省の深みへ」が開かれている。長女は日本画家の小野恬。

帖佐美行

没年月日:2002/09/10

読み:ちょうさよしゆき  彫金家で、文化勲章受章者、文化功労者、日本芸術院会員、日展顧問の帖佐美行が、9月10日、呼吸不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年87。 1915(大正4)年3月25日、鹿児島県薩摩郡宮之城町生まれ。本名、良行。13歳の時に上京、1930(昭和5)年から38年まで彫金家小林照雲に師事、40年からは彫金家海野清に師事する。41年美術協会展で入賞(銀賞1、銅賞2)。42年第5回新文展に「銅芥子文花瓶」で初入選。54年第10回日展では「龍文象嵌花瓶」で、また翌55年第11回日展では「回想銀製彫金花瓶」で2年連続特選受賞。56年からは光風会会員となる(常務理事を経て86年退会)。57年からは日展審査員、58年からは日展評議員をつとめる。61年現代工芸美術家協会創設に参加する。62年第5回新日展では「牧場のある郊外」(愛知県貿易センター蔵)で文部大臣賞を受賞する。66年には、65年の第8回新日展に出品した「夜光双想(或るホールの為に)」(日本放送協会蔵)で日本芸術院賞を受賞。69年日展理事となる。74年日本芸術院会員となる。同年日本金工作家協会会長となる。78年には現代工芸美術家協会を退会し、日本新工芸家連盟を結成する。80年東大寺大仏殿の昭和大修理の落慶法要を記念し、奉賛荘厳具として「白鳳凰」(大花瓶一対)と「青龍」(大香炉)を制作し献納した。82年には日本新工芸家連盟の会長に就任。同年宮之城町名誉町民章受章。84年皇居新宮殿のために「和讃想」(彫金壺)を制作。85年「帖佐美行展:日本工芸界の巨匠」(読売新聞社主催、東京、山口、福岡、大阪、鹿児島、名古屋を巡回)。87年勲三等旭日中綬章受章、同年文化功労者となる。88年鹿児島県民特別賞。1990(平成2)年「帖佐美行展:彫金の芸術」(東京、名古屋、大阪を巡回)、91年「帖佐美行展:彫金:豪放と優美と」(世田谷美術館)。93年文化勲章受章。95年日展顧問となる。 42年の新文展初入選以来、新文展、日展を舞台に活動を展開した。1950年代後半からは建築装飾としての作品にも積極的に取り組み、壁面装飾用の大型パネルの制作を行った。従来、彫金で大型パネルの制作を行うことは稀だったが、帖佐は鉄パイプをつぶして接合した大型パネルを制作し注目された。1980年頃からは、香炉や花瓶などの器物に重点をおくようになる。ユニークな形の器の表面に鏨(たがね)を打ち込んで繊細な文様をあらわし、金色や緑青色や紅茶色や紫色などの着色をほどこした、詩情あふれる独自の作品世界を作り上げた。帖佐は彫金の技法を駆使し、生命や宇宙の神秘、自然の偉大さや崇高さなどといった壮大なテーマを、鳥や木などをモチーフに表現し、幻想的で詩情あふれる作品世界を展開させた。 著書・作品集には、『金工の詩:帖佐美行の芸術』(形象社 1976年)、『新工芸論:美にいきる』(形象社 1979年)、『美行素描』(形象社 1981年)、『彫金の華:帖佐美行作品集』(日本経済新聞社 1984年)、『千年の美:帖佐美行の世界』(清水光夫著、新評社 1995年)ほか。

大野俶嵩

没年月日:2002/09/05

読み:おおのひでたか  日本画家で京都市立芸術大学名誉教授の大野俶嵩は9月5日、多臓器不全のため死去した。享年80。 1922(大正11)年1月20日、京都市に生まれる。本名秀隆。1941(昭和16)年京都市立美術工芸学校日本画科を、43年京都市立絵画専門学校日本画科を卒業。美工在学中より須田国太郎の指導を受け、美工卒業制作の「椎の森」や絵専卒業制作の「黒土」にその影響が色濃く認められる。戦後、47年の第3回京展に「城南の春」を初出品し、京都市長賞・新聞社賞を受賞。また47年第3回日展に「海」が初入選するが、48年星野眞吾の推薦により革新的な日本画運動であるパンリアルに参加。翌49年に「パンリアル宣言」を発表しパンリアル美術協会を公に結成、第1回展を開催し、58年に退会するまでの間、「霊性の立像」(53年第10回展)、「消えた虹」(54年第11回展)等を出品、日本画がもつ膠彩表現の可能性を追求した。協会退会後も国内外にわたって個展を行なうとともに、58年、61年のピッツバーグ国際現代絵画彫刻展、59年の中南米巡回日本現代絵画展といった国際展に出品する。58年からは麻袋を画面に貼り付けた「ドンゴロス」の連作を開始、異質のメディアを日本画に持ち込んで既存の概念を問い返す制作を行い、60年には「創生」がグッゲンハイム美術館買い上げとなるなど、アメリカをはじめ海外での評価を得る。61年に俶嵩と改号。71年頃からは主に花をモティーフに極めて精緻な南宋院体画風へと大きく転回、「鶏頭(おとずれ)」(72年)、「華厳」(89年)など静謐のうちにも生気、さらには仏性をたたえた世界を展開する。70年京都市立芸術大学助教授、73年教授に就任。83年京都市文化功労者として表彰。87年京都市立芸術大学を退官、同大学名誉教授となる。1989(平成元)年には京都府文化賞功労賞を受賞、同年O美術館で「大野俶嵩展―「物質」から華へ」が開催されている。

藤島亥治郎

没年月日:2002/07/15

読み:ふじしまがいじろう  建築史家で東京大学名誉教授の藤島亥治郎は7月15日午後0時30分、腎不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年103。 1899(明治32)年5月1日、円山四条派の日本画家、藤島静村を父に岩手県盛岡市に生まれる。生後すぐに一家は東京へ転住。第六高等学校を経て、建築史家を志し1920(大正9)年東京帝国大学工学部建築学科に入学、伊東忠太、関野貞、塚本靖の指導を受ける。とくに関野貞の感化により地下遺構の調査等、建築史に考古学を援用する姿勢を養う。卒業論文で日朝建築の交渉史を扱った関係もあり、23年同大学を卒業後は朝鮮半島に渡り京城高等工業学校に赴任、その間半島各地を精力的に踏査する。26年から二年間独・仏・米三国に留学、欧州各国を巡遊。1929(昭和4)年東京帝国大学工学部建築学科助教授となる。33年に論文「朝鮮建築史論、特に慶州郡を中心とする新羅時代仏教建築に就いて」で工学博士の学位を取得、同年東京帝大教授となる。36年より文部省国宝保存会委員を兼任、戦後には文化庁文化財審議会専門委員会となった同会の委員を80年まで務める。また49年の法隆寺金堂火災を機に同寺の国宝維持修理事業が委員会制度となるに伴い、その委員となり、同寺金堂や五重塔の調査を行なう。またこの時期より中山道全体を踏査し、宿場町とその途上の町家・民家・街道景観の総合調査を実施する。50年大阪府教育委員会による四天王寺の発掘調査に参加、この調査をふまえ55年より国の文化財保護委員会、大阪府教育委員会、四天王寺の三者合同による発掘調査が行なわれ、その委員を務める。さらに57年より同寺伽藍の再建設計を行い、その功績により65年建築業協会賞、68年日本芸術院賞恩賜賞を受賞する。その一方で54年に平泉遺跡調査会を組織し、観自在王院跡、毛越寺伽藍跡、中尊寺、柳之御所跡等の調査を実施、その整備事業にもあたり、また62年から68年まで国宝中尊寺金色堂保存修理工事委員会委員長を務めた。この間60年に東京大学を定年退官、同大学名誉教授となる。86年古建築・遺跡の歴史意匠的研究とその復原的設計における功績に対し、日本建築学会大賞を受賞。87年には「建築は綜合芸術である」を基本精神に、広い視野から建築文化・芸術文化の発展への寄与を目標とする綜芸文化研究所を設立。その経歴は自ら記した「古代への私の歩み」(『古代文化』450~453 1996年)に詳しい。著書は『平泉-毛越寺と観自在王院の研究』(東京大学出版会 1961年)、『韓の建築文化』(芸艸堂 1976年)、『復興四天王寺』(四天王寺 1981年)、『平泉建築文化研究』(吉川弘文館 1995年)、『中山道―宿場と途上の踏査研究』(東京堂出版 1997年)等多数あり、その著作・制作目録および年譜は『藤島亥治郎百寿の歴史』(非売品 1999年)、および『建築史学』39号(2002年)、『綜芸文化』6号(2002年)に収められている。

原光子

没年月日:2002/06/08

読み:はらみつこ  洋画家原光子は6月8日午前1時25分、乳がんのため東京都中央区の病院で死去した。享年70。旧姓小瀬(こせ)。 1931(昭和6)年7月10日東京都八王子市に生まれる。都立南多摩高校を経て54年に女子美術大学芸術学部洋画科を卒業すると、同大学洋画科助手となる。同年は第22回独立展に「赤いローソク」が初入選したほか、初めての個展を開催した。翌年、第9回女流画家協会展に「ダム」を出品し、以後主に両会に作品を発表するなかで、女流画家協会では58年に会員となり、プールヴー賞、努力賞、甲斐仁代賞などを受賞し、73年からは委員に推挙され2001(平成13)年まで連続出品した。一方独立美術協会でも、2001年までほぼ毎年入選および出品を続け、72年第40回展では独立賞を受賞、翌73年会員に推挙されている。この間、59年に原静雄と結婚。女子美術大学芸術学部では、60年専任講師、75年からは助教授、84年教授に就任し後進の指導にあたった。97年からは名誉教授。 65年、第1回女子美術大学海外研修旅行としてイギリス、フランス、イタリアなどにでかけたのを皮切りに、ロシア、シルクロード、アンコールワットまで取材旅行は多岐にわたる。彫刻や噴水が配された風景は鮮やかな色面で構成され、その作品タイトルからもうかがえるように作品に水の動きを描き、流れる風を表現した。 84年第23回国際形象展に「午後2時・微風」ほかを招待出品。95年には「原光子―風の方向―」展(たましん歴史・美術館)を開催、96年には第11回小山敬三美術賞を受賞し、同年日本橋高島屋で受賞記念展を開催した。技法書として『油絵の描き方 風景画』(講談社 1985年)を出版し、「福沢一郎」展カタログ(富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館 1998年)では、独立美術協会や女子美術大学の教職員として兄事した福沢一郎に文章を寄せている。88年、紺綬褒章受章。

佐々木剛三

没年月日:2002/05/26

読み:ささきこうぞう  美術史家で早稲田大学名誉教授の佐々木剛三は5月26日、肺炎のため京都市上京区の病院で死去した。享年73。佐々木は1928(昭和3)年7月1日、京都市に生まれた。47年4月早稲田大学第一文学部に入学、安藤正輝のもとで中国と日本の美術史を学んだ。安藤は、美術史家であり、歌人でもあった會津八一の愛弟子であった。51年3月に同大学第一文学部芸術学科美術専修を卒業、52年5月より京都国立博物館に勤務、島田修二郎の下で研鑽を積んだ。61年5月に早稲田大学第一文学部助手、翌年4月に非常勤講師、64年4月に専任講師、67年4月に第一・第二文学部助教授、72年に第一・第二文学部教授となり、1994(平成6)年3月に退職するまで30年間にわたって後進の指導にあたった。この間、第一文学部美術史学専攻主任、第二文学部美術専攻主任、第一、第二文学部教務主任を務めたほか、65年8月からは奈良にある財団法人寧楽美術館理事の職にあった。また、アメリカの日本美術史研究者との交流を通じ、日本の美術史研究の国際的な発展にも貢献した。66年9月から1年間、ロックフェラー財団の奨学金を得てミシガン大学美術史学科客員研究員、79年5月から翌年7月までカリフォルニア大学(バークレー)美術史学科客員教授、81年9月から12月までミシガン大学美術史学科の客員教授を勤め、アメリカにおける日本美術の研究者の育成に力をつくした。京都国立博物館時代での佐々木は、58年の美術史学会総会での「清涼寺釈迦像の図像学的考察」、あるいは60年の『美術史』38号での「兜跋毘沙門天像についての一考察」など仏教彫刻についての論考を発表していた。その後、早稲田大学に移ってからは生涯を通じての課題の一つとなった江戸後期の文人画、わけても田能村竹田の研究を本格化させており、65年の『美術史研究』3号の「田能村竹田筆」、82年の『古美術』64号の「木米と竹田」、「田能村竹田展」図録(大分県立芸術会館)の「田能村竹田と中国」などの論文のほか、『大分県先哲叢書 田能村竹田資料集』などの著作がある。さらに、万福寺を中心とする江戸期の禅宗美術や中国絵画、近世の画譜類にも研究の手を広げており、63年の『みづゑ』706号に「明清画と近代-中国明清美術展を機に」、73年の『古美術』43号に「明朝遺民龔賢」、翌年の『古美術』44号に「中国の論画と日本の画評」、88年の「中国古代版画展」図録(町田市立国際版画美術館)での「中国画譜と南宗文人画」、90年の「近世日本絵画と画譜絵手本」展図録(町田市立国際版画美術館)での「絵画と版画」などがある。また一方で、仏教絵画でも68年の『国華』912号で発表した「歓喜光寺蔵一遍聖絵の画巻構成に関する諸問題とその製作者について」のほか、垂迹美術の分野にも強い興味をもって研究を行っていた。海外での発表も数多く、67年にプリンストン大学で「On the Origin of the Style of Buddhist Sculptures in the Heian Period」、76年にニューヨーク日本協会神道シンポジウムで「On the Suijaku Painting」、84年にミシガン大学美術館で「On the Forgeries of Chikuden Paintings」、ウィスコンシン大学でのアメリカ美術史学会総会で「Some Thoughts on the Rakuchu―Rakugai Zu Screens」と題して講演を行った。佐々木の専攻は日本美術とはいえ、博く豊かな学識をそのままに反映して、関心は多岐にわたっている。それだけにその研究分野、領域は幅広いものがあるが、なかでも厳しい鑑識眼にも裏付けられた、垂迹美術や田能村竹田の絵画についての論考が、その研究の基盤となるような重要な仕事であった。研究の過程であつめられた資料の保存、保管等にも細かに気を配っていたが、生前、苦労して蒐集した明代の「顧氏画譜」、清初期の「芥子園画伝」など和本のコレクションが大阪府和泉市立久保惣記念美術館におさめられた。 編著書 『竹田』(鈴木進編)(日本経済新聞社 1963年) 『万福寺』(中央公論美術出版 1964年) 『清凉寺』(中央公論美術出版 1965年) 『竹田』(三彩社 1970年) 『日本美術絵画全集21 木米・竹田』(集英社 1977年) 「南画十選」『日本経済新聞』 1987年5月4日~5月16日 『大分県先哲叢書 田能村竹田資料集』(大分県教育庁(監修・編集) 1992年) 『神道曼荼羅の図像学』(ぺりかん社 1999年) 

中䑓瑞真

没年月日:2002/04/23

読み:なかだいずいしん  人間国宝(重要無形文化財保持者)で社団法人日本工芸会参与の中䑓瑞真は、4月23日午後1時50分、老衰のため東京都港区の自宅で死去した。享年89。1912(大正元)年8月8日、千葉県に生まれる。本名・眞三郎。14歳で上京して指物師竹内不山に師事し、箱物や茶の湯の道具類の指物を修業、ともに桑や杉、桐等の各種素材を駆使した伝統的な指物や透彫り、刳物等の木工芸を修得することに努めた。1933(昭和8)年、独立自営した。この頃から茶道を田中仙樵に学び、棚物や箱物等の茶道具の制作をよく修業した。また独学で刳物の伝統的な技法を高め、特に銘木桐材による制作に個性的な妙技を発揮した。62年第9回日本伝統工芸展に初入選を果たし翌年奨励賞を受賞するなど活躍し、65年以降には再々鑑査委員や審査委員、そして理事・木竹部会長を務めるなどして伝統木工の発展に寄与した。1993(平成5)年日本伝統工芸展40周年記念表彰を受けた。84年重要無形文化財「木工芸」保持者の認定を受け、いっそう後進の育成にも尽力した。茶道具の制作にも卓越した技量を発揮したが、軟質で杢目や木肌に優れた会津や南部の樹齢幾百年もの桐材をもって、刀の巧みな彫刻技術の仕上げにより特有の美しい光沢を表し気品を持たせ、かつ専有の高度な技術と洗練された感覚で盛器や蓋物等に清新で独自の木工作品を制作した。89年喜寿記念、92年傘寿記念、そして99年にも茶の湯の炉縁を多く手がけた米寿記念の個展を開催するなど、稀有となりつつある桐材の制作を主とする木工芸に特異な活躍を示した。

千野茂

没年月日:2002/04/12

読み:ちのしげる  彫刻家で東京藝術大学名誉教授の千野茂は、4月12日心筋梗塞のため東京都練馬区の病院で死去した。享年89。 1913(大正2)年1月15日、新潟県中蒲原郡新飯田村(現白根市)に生まれる。高等科卒業後仏壇の装飾彫刻の修業を経て、1933(昭和8)年より新潟市へ移り石川光明の弟子であった島田美晴に木彫を習う。36年新槐樹社展、新協美術展に入選するが、翌年の院展に落選。この頃、新海竹太郎の「ゆあみ」に魅了されて塑像への憧れを募らせ、39年上京。棟方志功、辻晋堂との知遇を経て40年新海竹蔵に師事し、日本美術院の研究室に通いモデル制作をするが、院展には落選が続く。42年第29回院展に妹をモデルにした「ミチの首」で初入選。その後は順調に入選を重ねて、49年「裸婦」で日本美術院賞、翌年大観賞、51年奨励賞、52年白寿賞、54年大観賞と受賞を続け、55年同人となる。また、55年より東京藝術大学で教鞭をとる(80年まで)。61年院展彫刻部の解散にともない師の新海竹蔵や山本豊市、関谷充、桜井祐一とS・A・S(彫刻家集団)を結成。63年ヨーロッパを巡遊。64年S・A・Sは国画会と合流し同会彫刻部として発足することとなり、これに会員として参加する。現代日本美術展、日本国際美術展などにも出品。マイヨールや藤原期の彫刻に傾倒し、裸婦を端正に表現した平明清楚な作風を示した。80年には上越市に小林古径記念塔を制作。82年第56回国画会展出品「皐月」で第13回中原悌二郎賞を受賞。86年東京藝術大学名誉教授となる。1989(平成元)年新潟市美術館で「千野茂彫刻展」が開催。90年には国画会彫刻部より『千野茂作品集』が刊行されている。

佐藤明

没年月日:2002/04/02

読み:さとうあきら  写真家の佐藤明は、4月2日肝腫瘍のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年71。 1930(昭和5)年7月30日東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。53年横浜国立大学経済学部卒業。在学中写真部に在籍、卒業後フリーランスの写真家として出発、主としてファッション写真の分野で活動する。57年には第1回「10人の眼」展(東京・小西六ギャラリー)に参加、59年東松照明、奈良原一高らと写真家の自主運営によるエージェンシー「VIVO」を結成するなど、戦後世代の旗手の一人として注目される。 大学在学中、占領軍CIE図書館(後のアメリカ文化センター)に通って海外のグラフ誌やファッション誌を濫読、欧米の写真表現の動向を研究し、「VIVO」結成時には、生命を意味するエスペラント語をグループ名に提案したといったエピソードにも現れているように、佐藤は伝統的な美意識にとらわれない、鋭敏で無国籍的な映像感覚によって日本のファッション写真に新たな表現を切り拓いた。 61年の個展「女たち」(東京・富士フォトサロン)や『カメラ毎日』に連載した「サイクロピアン」(62年)、「おんな」(63年)など、女性をモティーフにした連作で独自の作品世界を展開、また63年にはニューヨークに渡り、ヨーロッパを経て65年帰国。以後北欧を中心にヨーロッパの風土をテーマとする作品を多く手がけるようになる。 66年第10回日本写真批評家協会賞作家賞を受賞(「白夜」「おんな」などに対して)。1998(平成10)年第48回日本写真協会賞年度賞受賞(写真集『フィレンツェ』に対して)。主な写真集に『おんな』(中央公論社 1971年)、『ウィーン幻想』(平凡社 1989年)、『フィレンツェ』(講談社 1997年)など。遺作となった作品をまとめた『プラハ』(新潮社)が2003年に刊行された。

小口八郎

没年月日:2002/03/04

読み:おぐちはちろう  保存科学研究者で東京藝術大学名誉教授の小口八郎は3月4日午前2時48分、肺炎のためさいたま市の病院で死去した。享年85。 1916(大正5)年12月2日、栃木県那須郡烏山町に生まれる。北海道大学理学部物理学科を卒業後、中谷宇吉郎の下で雪の結晶の研究を続け、1948(昭和23)年に同大学大学院特別研究生を修了し、理学博士となる。この当時、過冷却された降水が森林や物に当たって着氷する「雨氷現象」について研究を行う。62年に中谷宇吉郎死後、中谷静子と共に「中谷宇吉郎年譜」(『中谷宇吉郎随筆選集 第三巻』所収、1966年 朝日新聞社)を編纂する。49年、東京藝術大学美術学部に移り一般教養(自然科学)を担当し、伝統技術に関する科学的研究を行う。65年、東京藝術大学大学院美術研究科に、我が国で最初の文化財保存に関する教育課程として保存科学専攻が設立された際、初代教授となり84年に退官するまで学生の指導に当たる。教え子には沢田正昭、三浦定俊らの保存科学研究者がいる。68年に完成した新宮殿銅屋根の人工緑青に関する基礎研究を行い、「噴霧法による銅屋根の化学的着色法」(『東京芸術大学美術学部紀要』第1集 1965年)として発表し、74年に日本銅センター賞を受ける。また古美術材料について研究を行い、「日本画の着色材料に関する科学的研究」(『東京芸術大学美術学部紀要』第5集 1969年)、「天平塑像の科学的研究」(同第6集 1970年)、「土紋装飾の材質及び技法について」(『三浦古文化』20号 1976年)、「墨の研究」(『古文化財の科学』第20・21号 1977年)、「X線マイクロアナライザーによる古代青銅器の組織と材質の研究1、2」(『東京芸術大学美術学部紀要』第14・15号 1979・1980年)などの論文を発表し、これらを『古美術の科学―材料・技法を探る』(日本書籍 1980年)として公刊する。特に墨の研究は、史料に当たりながら実際に古い硯で明・清の名墨をすり下ろし、その墨粒の結晶を電子顕微鏡で観察して、松煙墨、油煙墨や墨色の違いを考察していて、現在でも墨に関する基礎的な文献となっている。国際的にも東京藝術大学が組織した中世オリエント遺跡学術調査団の第三次調査団(1970年)の団長として参加し、カッパドキヤ地方(トルコ)にある中世キリスト教の岩窟修道院壁画の総合調査を行い、壁画の材料及び技法に関する科学的研究を行った。この研究は中国へと広がり、後に『シルクロード―古美術材料・技法の東西交流』(日本書籍 1981年)として公刊された。1984年3月に東京藝術大学を定年退官し名誉教授となる。退官後も古文化財科学研究会(現文化財保存修復学会)の監事として活躍した。

今井俊満

没年月日:2002/03/03

読み:いまいとしみつ  画家の今井俊満は、3月3日午後4時15分、膀胱がんのため東京都中央区の国立がんセンター中央病院で死去した。享年73。 1928(昭和3)年5月6日、京都府京都市西京区に生まれる。幼少時に大阪市船場安土町に移り住み、大阪市立船場尋常小学校卒業後、41年に上京して武蔵高等学校尋常科に入学。48年、同高校を卒業、在学中から絵画に関心を持ち、同年10月には第12回新制作派協会展に「道」が入選した。51年の第15回新制作展に「真夜中の結婚」が入選、新作家賞を受ける。翌年、単身でフランスに私費留学。留学中、サム・フランシスを知り、55年にはその紹介で美術評論家ミッシェル・タピエを知る。この頃から、抽象表現主義であるアンフォルメル運動のジョルジュ・マチュー、ジャン・デュビュッフェ、ジャン・フォートリエ、セザール、ポール・ジェンキンス、アンリ・ミショー等の画家たちと交友するようになり、自らも運動に加わった。56年、「世界・今日の美術展」(朝日新聞社主催、会場:東京日本橋、高島屋)に、岡本太郎から要請され、ミッシェル・タピエのコレクションから、フォートリエ、デュビュッフェ、マチュー、カレル・アペル、サム・フランシス、フォンタナ等の作品出品の斡旋をした。この展覧会が、国内におけるアンフォルメル絵画の最初の本格的な紹介となり、反響を呼んだ。57年2月、パリのスタドラー画廊で最初の個展を開催。同年8月、一時帰国、この時、マチュー、タピエ、サム・フランシスも相次いで来日し、共にアンフォルメル運動のデモンストレーションを行った。その後、60年代から70年代には、日仏間を行き来しながら、数々の展覧会に出品するなど、活発な活動をつづけ、国際的な美術家として評価された。また、70年の大阪万国博覧会では、企業パビリオンの美術監督を務めるなど、建築装飾やファッション、音楽などにも関心をひろげていった。75年に画集『今井俊満』(求龍堂)を刊行。制作面では、83年頃より、金銀を華やかに用いて、「琳派」をはじめとする伝統絵画を引用した装飾性あふれる「花鳥風月」のシリーズが始まった。当時、今井自身は、その変貌をつぎのように語っている。「私が花鳥風月で行った伝統再生の作業は古典主義とは全く異なる。なぜなら日本の伝統的芸術遺産の特定の形態に回帰したのではないからである。私が回帰したのは伝統芸術の奥底を流れる、定かならぬ全体、そこに私は戻ったのだと思う」(「アンフォルメル花鳥風月」、『へるめす』21号、1989年)。85年に画集『今井俊満 花鳥風月』(美術出版社)を刊行。1989(平成元)年4月には、初期作品から近作まで201点によって構成された「今井俊満―東方の光」展が国立国際美術館で開催され、その後目黒区美術館、いわき市立美術館を巡回した。91年5月には、アンフォルメル時代の作品から近作まで41点によって構成された「今井俊満展」を富山県立近代美術館で開催。90年代には、一転して髑髏などをモチーフに戦争の災禍を告発するような表現主義的な表現に展開。さらに自ら癌であることを認知した最晩年には、女子高校生などをモチーフに東京の風俗をシニカルに戯画風に描いた作品を発表し、最後まで大胆に変貌し続け、創作への意欲をみなぎらせていた。

成田亨

没年月日:2002/02/26

読み:なりたとおる  彫刻家で映画美術監督の成田亨は2月26日午前9時30分、多発性脳梗塞のため東京都日野市の自宅で死去した。享年72。 1929(昭和4)年9月3日、兵庫県神戸市に生まれる。45年空襲で被災し両親の故郷である青森へ移り、そこで画家阿部合成、彫刻家小坂圭二の指導を受ける。50年武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)西洋画科に入学するが、52年同校彫刻科に転科し清水多嘉示に師事。同科研究科在籍中に映画「ゴジラ」(本多猪四郎監督、東宝)の製作に参加、映画美術の世界に入る。55年第19回新制作展に石膏による彫刻「男」を出品、入選。以後同展には71年第35回展まで継続的に出品する。56年武蔵野美術学校彫刻研究科を修了。60年東映で特撮美術監督となる。62年第26回新制作展に漆による彫刻「八咫」を出品し、新作家賞を受賞、協友に推挙される。65年円谷特技プロダクション(現円谷プロダクション)の美術監督となり、「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」等のテレビ番組で、ヒーローや怪獣のデザインにたずさわった。初代ウルトラマンの研きぬかれたデザインや、ガラモン、レッドキング等の“成田怪獣”と称されるグロテスクを排した造形は以後長らく子供たちを魅了し続けることとなる。68年フリーの特撮美術監督となり、そのかたわら新宿伊勢丹でウィンドウディスプレイのデザイナーを務めるなど商業デザインも手がける。70年に大阪で開かれた日本万国博覧会で、太陽の塔内部の「生命の樹」のデザインを担当。1990(平成2)年京都府大江町に鬼のモニュメントを制作。91年から翌年にかけて常設個展ギャラリー「宇輪」を東京銀座に開設。99年水戸芸術館で開かれた「日本ゼロ年」展で、ゲストキューレターの椹木野衣により「現代美術」のあり方を問う作家の一人として取り上げられるなど、晩年には美術界でも注目を集め、没後の2003年には、七戸町立鷹山宇一記念美術館を会場に「アートツアー・イン青森「成田亨が残したもの」」が開催された。著作に『成田亨画集 ウルトラ怪獣デザイン編』(朝日ソノラマ 1983年)、『成田亨画集 メカニック編』(朝日ソノラマ 1984年)、『モンスター大図鑑』(弓立社 1986年)、『特撮と怪獣 わが造形美術』(フィルムアート社 1996年)、『特撮美術』(フィルムアート社 1996年)、没後の2003年にもその遺稿を編纂した『眞実 ある芸術家の希望と絶望』(成田亨遺稿集製作委員会)が出版されている。

舟越保武

没年月日:2002/02/05

読み:ふなこしやすたけ  彫刻家で、文化功労者の舟越保武は、2月5日、多臓器不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年89。 1912(大正元)年12月7日、現在の岩手県一戸町小鳥谷字中屋敷に生まれる。25年、岩手県立盛岡中学校に入学、同期に佐藤俊介(後の松本竣介)がいた。1932(昭和7)年、東京美術学校師範科を受験するが、不合格となる。翌年も同学校同科を受験するが、不合格。34年、同学校彫刻科塑像部に入学。同級に佐藤忠良、昆野恒、坂本文夫、井手則雄、森本清水、山本恪二等がいた。37年、第12回国画会展に「習作」、「首」を出品、褒状を受ける。39年3月、同学校を卒業。同年、国画会彫刻部を退会した本郷新、山内壮夫らと新制作派協会彫刻部創立に参加、会員となった。40年、この頃より石彫をはじめ、5回新制作派展に「隕石」(大理石)を出品。46年、松本竣介、麻生三郎と三人展(日動画廊)を開催。50年、盛岡カトリック教会にて家族全員で洗礼を受ける。51年、疎開先の盛岡市から、東京都世田谷区に転居する。56年、「日本の彫刻・上代と現代展」(国立近代美術館)に「逃げる魚」、「H嬢」、「萩原朔太郎像」、「白鳥」、「カンナ」を出品。62年、「長崎26殉教者記念像」で第5回高村光太郎賞を受賞。67年、東京藝術大学教授となる。71年、第35回新制作展に「原の城」(全身像)を出品、この作品により、翌年に第3回中原悌二郎賞を受賞。73年、ローマ法王パウロ6世に招かれバチカンを訪問。75年、第39回新制作展に「ダミアン神父」を出品。77年、北海道釧路市の弊舞橋に佐藤忠良「夏」、柳原義達「秋」、本郷新「冬」との競作として、「道東の四季-春」を制作し、設置する。同年、この作品により、第1回長谷川仁記念賞を受賞。80年、東京藝術大学を定年退官。81年、多摩美術大学教授となる(83年まで)。83年、前年に刊行した画文集『巨岩と花びら』(筑摩書房)で第31回日本エッセイストクラブ賞を受賞。1989(平成元)年、第53回新制作展に「ゴルゴダ」(ブロンズ)を出品。手の痕を残した力強い仕上げながら、苦悶するキリストの頭部像は、深い感銘をあたえ、晩年の代表作となった。87年、脳血栓で倒れ、入院。退院後、リハビリテーションをしながらも、左手でデッサンを描きはじめる。93年6月、「CREDO 舟越保武の造形」展(萬鉄五郎記念美術館)を開催。同月、「-信仰と詩心の彫刻六十年-舟越保武の世界」展が、茨城県近代美術館を皮切りに開催され、翌年9月まで、全国12の美術館等を巡回した。99年7月、「響きあう彫刻佐藤忠良・舟越保武二人展」(北九州市立美術館、ハウステンボス美術館、大分市美術館巡回)を開催。同年、文化功労者に選ばれる。2000年5月、「昭和女子大学創立80周年記念 舟越保武のアトリエ―静謐な美を求めて」(昭和女子大学光葉博物館)を開催。ヨーロッパ近代彫刻に学びながらも、深い詩情と高い知性にうらづけられた作品は、彫刻本来の量感の表現とともに、「絵画」的ともいえる正面性を意識した独自のものであった。戦後の具象彫刻のなかでも、ひときわ高い位置をしめていたといえる。

田中一光

没年月日:2002/01/10

読み:たなかいっこう  グラフィックデザイナーでアートディレクターの田中一光は、1月10日午後10時過ぎに港区南青山の路上で倒れているのが発見され病院に運ばれたが、11時53分に死亡が確認された。急性心不全だった。享年71。1930(昭和5)年1月13日奈良県奈良市に生まれる。奈良県立奈良商業学校を経て、50年京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)図案科を卒業。鐘紡紡績に入社し、意匠課で染織デザインを担当。52年産経新聞大阪本社に転じ、やがてグラフィックデザインを手がける。京都市立美術専門学校時代から演劇サークルに参加していたが、このころ、自らの描いたポスターを契機に吉原治良の舞台美術の助手をつとめる。53年、同世代の作家たちと「Aクラブ」を結成、早川良雄や山城隆一らを講師に招き、勉強会を催した。51年に結成された日本宣伝美術会、通称日宣美には53年から70年まで会員として参加した。53年のタンゴ「オルケスタ ティピカ カナーロ」のポスターデザインは、その鮮やかな色彩と微妙に歪めた線を生かした造型感覚が衝撃をもって迎えられた初期の代表作である。54年からは産経観世能のポスターデザインを手がけ、それらは田中が持つ日本の伝統芸術への関心をうかがわせた。57年ライト・パブリシティ社に請われ、活動の拠点を東京に移す。60年株式会社日本デザインセンター創立に参画、主にトヨタ自動車販売の広告宣伝を担当する。同年、初めて東京で開かれた世界デザイン会議では広報デザインを担当。60年、アメリカのデザイン事情視察のため初渡米。63年フリーとなって東京青山に田中一光デザイン室(76年株式会社田中一光デザイン室)を開き、竹中工務店のPR誌をはじめアートディレクションを手がけた。70年の大阪万博では日本政府館一号館の展示デザインを担当。84年にはモスクワで開かれた日本デザイン展の展示を担当し、85年つくば科学万博ではシンボルマークを制作。73年、西武劇場(現PARCO劇場)のグラフィックデザインを担当したことを皮切りに、西武美術館、西武百貨店をはじめとするセゾングループ全般に、文化事業にとどまらないクリエィティブディレクターとして関わり、無印良品の企画・監修にも携わる。70年代後半から、プロデューサーとしての仕事は企業にとどまらず、ギンザ・グラフィック・ギャラリーやギャラリー・間などの企画・運営にまでわたった。その一方で多くのタイポグラフィを創り、エディトリアルデザインにも秀で、土門拳『文楽』(駸々堂出版 1972年)や“JAPANESE COLORING”(Japan Day Preparation Committee 1981)など多数の作品がある。田中が構成した『人間と文字』(平凡社 1995年)は、この方面における集大成ともいえる仕事である。田中は、大胆で明快な構成と色彩、強い平面性を特色とし、40年以上にわたってグラフィックデザイン界を牽引、戦後デザインの方向性を確立した。80年のエッセイ集『デザインの周辺』(白水社)をはじめ、2001(平成13)年には「田中一光自伝 われらデザインの時代」(白水社)を上梓。ミラノ近代美術館やベルリンのバウハウス・アーカイブ・デザイン・ミュージアムを含む国内外で個展を開催。03年には東京都現代美術館で「田中一光回顧展 われらデザインの時代」が開かれている。54年に日宣美会員部門賞を受賞したことに始まり、毎日産業デザイン賞、芸術選奨文部大臣新人賞、朝日賞などのほか受賞多数、83年には第4回山名賞、99年第1回亀倉雄策賞を受賞している。94年紫綬褒章受章、00年には文化功労者。国際グラフィックデザイナー(AGI)連盟会員。ニューヨークADCの殿堂入りを果たす。日本グラフィックデザイナー協会理事。

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