本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





北大路魯山人

没年月日:1959/12/21

陶芸家北大路魯山人は、12月21日、横浜市立医科大学(十全病院)で肝硬変のため逝去した。享年76歳。本名は房次郎。陶芸家としてのほかに、食通としても知られ、また、書や篆刻、画もよくした。明治16年3月23日、京都上加茂神社の社家に、社人北大路清操の次男として生まれた。しかし、出生前に父親が死亡していたため、次々と養父母が変り、愛情に恵まれない数奇な幼年期を過ごした。小学校を卒えると、直ちに薬屋に丁稚奉公したが、2、3年たつた頃、日本画家を志して薬屋をやめ、再び養家(福田)に戻る。日本画にかかる費用を、養父の篆刻の手伝いや書で稼いでいたところ、たまたま書家としての天稟を認められ、やがて書道と篆刻で立つことになつた。明治41年朝鮮に渡り、総督府の書記となつて書道と篆刻の研究に打ちこむ。後、総督府をやめて内地に戻り、明治末ごろから大正にかけては、京都の内貴清兵衛の許で、溪仙、麦遷、御舟等と交遊する。この頃から食通の才をあらわしはじめ、やがて上京して、駿河台で書と篆刻で生計を図るかたわら、大正10年には、京橋に美食倶楽部をはじめる。そこが震災で焼けてからは、美食倶楽部を星ケ岡茶寮に移し、昭和12年まで共同経営し、自ら厨房長となつて腕をふるい、政界財界の食通人の間に名声を博した。魯山人が作陶を始めた動機は、その折、自分の作つた料理を盛るのにふさわしい器がないという理由から、その食器も自分で作ろうとしたことにはじまる。こうして、料理に適した食器の研究、制作が続けられ、その手になる器皿は食器としての最上の効果を発揮するとまで称讃されるようになつた。 後、北鎌倉の窯場(神奈川県鎌倉市)に定住して作陶に専心、ますます陶芸家としての名声が高くなつた。また、イサム・ノグチの作陶上のよき師でもあり、そのイサム・ノグチとロックフェラーの招きで、昭和29年米国と欧州に遊び個展を開いた。この個展は、魯山人の名声を国際的なものにし、その評判は、更に、わが国の陶磁を世界に再認識させる契機ともなつた。魯山人は、終始一切の会に所属せず、独自の研究と作風で制作を続け、個展は70回近く開いたといわれるが、個展以外はどのような展観にも出品せず、完全に陶芸界を独歩した。その、稀に見る豪放な風格、広範な作域、格調高い作品で孤立する様相は、まさに不世出の巨匠が、他にぬきんでて、高く鋭く聳えている感があり、常時、わが国現代の陶芸界における無所属作家の筆頭にあげられていた。作陶上の芸域はひろく、中国明代の染付、赤絵、金襴手はもとより、わが国の志野、織部、黄瀬戸、信楽、備前、古九谷、乾山等の格調をよく自己のものとし、現代にその魅力を生かす手腕は驚くべきものがあつた。中でも特に、桃山茶陶風の志野、織部、備前を素材としたものが得意であつた。作調は、全く自由奔放、しかも創意に満ち、独自の風格を持つた優作が夥しく生まれている。しかるに、芸術上では優秀性を存分にあらわしたと思える稀代な個性、魯山人の性格は、一たび人間として社会生活を行うという段になるとまことに芳しくなかつたようである。その個性は強烈な癖となつてあらわれ、人人を遠ざからせたようで、人々が魯山人の人物に関して云々するのに、「我儘」、「奔放」、「傲慢」、「横柄」、「辛辣にすぎる苦言」、「相手の傷に指をさしこむような苛虐さ」、「罵声や放言にも似た作品批評や人物批評」、「驚くべき自画自讃」、「なんて嫌な、なんて憎たらしい奴」、「全く腹にすえかねる」等々……。このような、法外に我儘な、過度に奔放な言動がわざわいして、遂には肉親からも弟子からも離れられ、魯山人の芸術を高く評価する数多の人々からも極度に敬遠されたのは、魯山人にとつて事実まことに残念なマイナス面であつた。

山口正城

没年月日:1959/12/05

日本アブストラクト・アート・クラブ会員、国立千葉大学工学部工業意匠学科教授山口正城は、12月5日気管支肺炎のため逝去した。享年56歳。明治36年(1903)1月22日北海道旭川市の洋品店に生れた。大正15年(1926)東京高等工芸学校卒業後、大阪市立工芸学校教諭に就任し、以来デザイン教育にたずさわりながら、制作を続けてきた。自由美術家協会には第1回から出品し、3回展の小品5点は2・3の新聞評にも取上げられた。人間を取囲むすべてのものの中に美を探るのは美術家の常であるが、そこから美をパターンとして抽出し、意識的に造形の原理と照合し、原理に汲み込むということは実技家には少ない態度である。彼の日本美術界における位置の特異性はそこにあつた。そして純粋な形体構成に関心を抱く以上、高等数学や自然科学にも造詣が深く、多分に知的な興味を伴いながらも、ひからびたパターンの組合せに終ることがなかつた。作品は当初から全く抽象的であり、自由美術家協会展出品以外には制作の数は限られているが、近年になつて他の抽象展などにも出品するようになつた。日本紙に墨または淡彩の画面にカラスグチで引いた鋭い線でリズムを与えた最近の作品はしだいに認められてきたところであつた。デザイン学会前委員長。〔作品記録〕自由美術家協会1回展(1937)「形態No.3」(フオトグラム)、2回展不出品、3回展(1939)小品「分岐せるもの」「集合せるもの」「模倣せるもの」「対話態」「包囲せるもの」協会賞受賞、4回展(1940)小品連作「屈折」「分散」「分割」「分列」「拡散」「隔在」5回展から12回展まで不明、13回展(1949)「線群」(分離構造)、(屈折構造)、(習作)、14回展(1950)「モルペー」A、B、「線群」A、B、15回展不明、16回展(1952)「デッサン52-15」、17回(1953)「カノン」1(空虚における)、2(対抗における)、3(流動における)、4(休止に向う)18回展不明、19回展(1955)「溶けるカノン」、20回展(1956)「朝のカノン」21回展(1957)「凍るカノン」、22回展(1958)「朝の歌」日本国際美術3回展(1955)「鬼の執心」「鬼の変心」、4回展(1957)「夏のこだま」(水彩)、5回展(1959)「雷心」現代日本美術1回展(1954)「鬼の対話」A、B、(水彩)2回展(1956)「黒いカノン」「赤いカノン」、3回展(1958)「5月の雨」「炎の歌」抽象と幻想展(1953、国立近代美術館)「視線方向のカノン」日米抽象美術展(1955、国立近代美術館)「男鬼のささやき」「女鬼のささやき」世界の中の日本抽象美術展(1957ブリジストン美術館)「春のこだま」「おさないカノン」「冬の山彦」「たそがれ」世界の中の抽象・日伊美術展(1959・白木屋)「近づくもの」(遺作)(海外展)アブストラクト・アーティスト展(米・リヴァサイド美術館・1954)、ブルックリン国際水彩画展(米・1955)、アメリカ水彩画協会展(米・1957)、日本3人展(伊・1959)等に出品。〔デザイン〕山葉ピアノ・三協8ミリカメラ他〔著書〕「新しい紙の工作」新光閣1952、「デザイン小辞典」(共編)ダヴィット社1955、「機械とデザイン」河出書房1956、「デザインの基礎」(共著)光生閣1960、「造形とは」美術出版社1960 〔略歴〕明治36年 旭川市に生れる。大正15年 東京高等工芸学校卒業、大阪市立工芸学校図案科教諭昭和14年 京都市立第二工業学校玩具科教諭昭和14年 自由美術家協会を美術創作家協会と改称し会友となる。昭和15年 同会員昭和19年 滋賀県琵琶航空工業株式会社技師昭和22年 滋賀県高宮木工補導所長昭和23年 大阪市立工芸高等学校へ復帰昭和23年 6月、東京工業専門学校教授昭和24年 千葉大学工学部工業意匠学教室助教授昭和27年 同教授昭和28年 日本アブストラクト・アート・クラブ設立昭和34年 自由美術家協会退会・日本抽象作家協会設立昭和34年 12月5日死去

小早川篤四郎

没年月日:1959/11/27

東光会委員、日展会員小早川篤四郎は、11月27日東京都目黒区の自宅で心臓マヒのため逝去した。享年66歳。明治26年1月6日、広島市に生れた。幼少のころ、台湾移住、同地で兵役前に石川欽一郎に水彩画の手ほどきをうけている。兵役2年を終えて上京し、自活しながら本郷絵画研究所に入り、岡田三郎助の指導をうけた。大正14年第6回帝展に「ジャワ婦人」が初入選となり、その後、第7回展をのぞき、昭和9年第15回帝展まで毎回入選して、12年の第1回文展では無鑑査となつた。また、この年9月、海軍に従軍を許されて、上海方面に出発し、その後も度々従軍して第3回文展「蘇州河南岸」など、戦争記録画の制作発表が多くなつていつた。一方、槐樹社にも参加して、同展で田中奨励賞を数回うけ、昭和6年会友となつたが、この年槐樹社は解散した。翌7年、東光会の創立に参加、会友となり、10年には会員に推され、晩年は同会委員であつた。又、戦後の日展では出品依嘱作家として毎年出品していた。 作品略年譜大正14年 第6回帝展「ジャワ婦人」大正15年 この年から槐樹社展で田中奨励賞を3年連続うける。昭和2年 第8回帝展「裸像」昭和3年 第9回帝展「裸体坐像」昭和4年 第10回帝展「仰臥裸婦」昭和5年 第11回帝展「少女全像」昭和6年 第12回帝展「水兵服」昭和7年 第13回帝展「裸女」昭和10年 2月第3回東光会展「桜井少将立像」「廟前」他昭和12年 第1回文展「黒い屏風の前」(無鑑査)昭和14年 第3回文展「蘇州河南岸」第7回東光会展。従軍報告画出品「塹壕と花」他昭和15年 紀元2600年奉祝展「庭」第8回東光会展「陣地小閑」「黒衣の少女」昭和16年 第4回文展「秦淮凉風」(無鑑査)第9回東光会展「庭」「広西前線」昭和17年 第10回東光会展「敵前上陸」「U夫人像」昭和19年 戦時特別文展「暁雲」第12回東光会展「印度洋海戦」「南衣」「魚雷射つ海兵」昭和22年 第13回東光会展「つれづれ」「新装」昭和24年 第5回日展「青衣」第15回東光会展「作州雪景」「初春」昭和26年 第7回日展(依嘱出品)「裸婦」第17回東光会展「城跡」「作北冬景」「春衣」昭和27年 第8回日展(依嘱出品)「黒屏風」第18回東光会展「城址の春」昭和28年 第9回日展(依嘱出品)「ヴェランダ」第19回東光会展「屏風の前」「歯科診療室」昭和29年 第10回日展(依嘱出品)「裸婦坐像」第20回東光会展「浅春画房」「早春城跡」昭和30年 第11回日展(依嘱出品)「婦人像」第21回東光会展「窓辺」「孔雀」昭和31年 第12回日展(依嘱出品)「黒いドレス」昭和33年 第1回日展(依嘱出品)「白かすり」第24回東光会展「婦人像」「五月雨頃所見」昭和34年 第2回日展「池畔」日展会員となる。第25回東光会展「茶羽織」「T女子像」「古城早春」

阿部次郎

没年月日:1959/10/20

東北大学名誉教授・日本学士院会員・日本芸術院会員阿部次郎は10月20日東北大附属病院で脳軟化症のため逝去した。享年76歳。明治16年8月27日山形県飽海郡に生れた。家は代々名主格の半農半商で、父は小学教員であつた。明治40年東京帝大哲学科を出たのち明治42年頃から夏目漱石の門に出入し、文芸評論にたずさわりながら、哲学・美学・文化史等の研究にも進んだ。とりわけ、ゲーテ研究、日本文化史研究は晩年まで続く研究課題であつた。柔軟な感性と高度の教養主義を背景とする人格主義の理想は、大正期知識人のある典型を示すものであるが、その影響は今日もなお絶えていない。 略年譜明治34年 第一高等学校入学明治37年 東京帝国大学哲学科進学明治42年 漱石門に出入する大正2年 慶応義塾大学で美学を講ずる。大正3年 トルストイ「光あるうちに光の中を歩め」新潮社刊(翻訳)「三太郎の日記」東雲堂刊大正4年 「三太郎の日記第弐」岩波書店刊大正5年 リップス「倫理学の根本問題」(抄訳)岩波書店刊大正6年 「美学」岩波書店刊創刊誌「思潮」主幹大正7年 「合本三太郎の日記」岩波書店刊大正8年 「ニィチェのツァラツストラ、解釈、並びに批評」新潮社刊大正9年 満州旅行大正10年 プラトン「ソクラテスの弁明」「クリトン」(久保勉と共訳)岩波書店刊東北大学法文学部へ招聘される大正11年 文部省在外研究員として渡欧「地獄の征服」「人格主義」岩波書店刊「北郊雑記」改造社刊大正12年 東北帝国大学教授になり、美学講座担当。昭和6年 「徳川時代の芸術と社会」改造社刊昭和9年 「文芸評論第二輯 世界文化と日本文化」岩波書店刊昭和14年 「ヰ゛ルヘルム・マイスター遍歴時代」(翻訳)上・下、改造社刊(「ゲーテ全集」)「秋窓記」岩波書店刊「ファウスト第1部」(翻訳)改造社刊(「ゲーテ全集」)「ファウスト第2部」(翻訳)改造社刊(「ゲーテ全集」)昭和15年 「英訳万葉集」日本学術振興会刊、序論分担執筆昭和16年 東北帝大法文学部部長に就任。軽度の脳出血発病。昭和17年 法文学部長を免ぜられる。昭和20年 東北帝国大学教授を停年退職。「万葉時代の社会と思想」「万葉人の生活」(日本叢書)生活社刊昭和21年 東北大学名誉教授の称号をうける。昭和22年 「阿部次郎選集」6巻 羽田書店刊日本学士院会員に任ぜられる。昭和24年 「残照」羽田書店刊昭和25年 「三太郎の日記補遺」角川書店刊昭和34年 10月20日死去

清水六和

没年月日:1959/08/01

日本芸術院会員清水六和は、8月1日京都市の自宅において逝去した。享年84歳。明治8年3月6日四世六兵衛の長男として、京都に生まれた。京都府画学校に学んだが、中退して、祥嶺と号して幸野楳嶺に日本画を学び、父四世六兵衛について陶法一般を学んだ。明治28年に楳嶺が没してからは、谷口香?に日本画の指導を受けた。明治29年に京都市立陶磁器試験場が設立されると、そこで特別な指導を受け「マジョリカ」の製法その他を研究、また初代の場長藤江永孝と全国の陶業地を巡つて陶技その他を見学、伝統的な清水焼の陶法の研修に加えて、広く種々な研究を重ねた。明治35年ごろからは、父四世の代作に勉め、大正3年には五世六兵衛を襲名した。その頃から頻々と各種各地の博覧会の審査員を委嘱された。大正11年、フランス政府からサロン装飾美術部の会員に推され、勲章を贈られる。昭和2年帝展工芸部創設の際には審査員に推され、以後、連続審査員。昭和5年には、帝国美術院会員となり、昭和12年には日本芸術院会員となる。昭和21年には五世六兵衛を隠退し六和と号し、六世六兵衛を長男正太郎に襲名さす。昭和33年3月新発足の日展では顧問となる。六和は長い生涯の半生以上を、京都陶壇における官展系の重鎮として送つた。その作風は、枯淡で素朴な渋味があり、更に、優雅な気品と独特の色沢を備える調子の高いものであつた。 略年譜明治8年 3月6日 四世六兵衛の長男として京都に生まれる。明治15年頃 この頃京都府画学校中退。幸野楳嶺に日本画を、父四世六兵衛に陶法一般を学んだ。明治28年 楳嶺が没したので、谷口香★に日本画の指導をうける。明治29年 京都市立陶磁器試験場が設立され、そこで特別な指導をうける。明治35年頃 この頃から父四世の代作に勉める。大正3年 五世六兵衛を襲名。大正5年 農展出品作「紅梅小禽花瓶」二等賞になる。大正6年 農展出品作「青華烏瓜花瓶」一等賞になる。この作品は宮内省御買上となり、後年我が皇室からスエーデン皇帝に御贈進の趣。大正11年 商工展出品作「染付春草花瓶」、無鑑査。フランス政府からサロン装飾美術部の会員に推され、オフシュド・ロルドル・ド・レトアル・ノアール勲章を贈られる。大正14年 仏国美術展出品作「音羽焼納涼美人掛額」これは仏国政府買上となる。大正15年 御物「着彩富貴長春花瓶(一対)」。太子展出品作「大礼磁仙果文花瓶」、審査員。これは京都市美術館蔵となる。昭和2年 第8回帝展に工芸部創設、審査員になる。以後、帝展連続審査員。この年の出品作「青華百日紅花瓶」昭和3年 第9回帝展出品作「古城文蒼二花瓶」「繍花文皿」。この中後者は久邇宮家御買上。昭和4年 第10回帝展出品作「磁製多宝塔香炉」。国際美術展出品作「青磁耳付花瓶」、審査員、これは外務省買上。昭和5年 第11回帝展出品作「磁製柘榴花瓶」。第2回太子展出品作「大礼磁草花文花瓶」審査員。京都美工展出品作「青華葡萄文花瓶」審査員。昭和6年 京都美工展出品作「青磁耳付花瓶」審査員。昭和7年 第13回帝展出品作「仙果文飾皿」昭和8年 第14回帝展出品作「魚★文天目茶★」昭和9年 第15回帝展出品作「台子飾(一揃)」板谷波山、香取秀真、赤塚自得、清水六兵衛の綜合作。昭和11年 2月改組第1回帝展出品作「耀星花瓶」10月の文展鑑査展及び11月の文展招待展に「陶磁飛★花瓶」を出品。昭和12年 6月14日、日本芸術院会員となる。昭和13年 第2回文展出品作「青磁花瓶」昭和15年 紀元二千六百年奉祝展出品作「陶秋草手炉」昭和16年 第4回文展出品作「青磁花瓶」昭和17年 第5回文展出品作「青磁花瓶」昭和19年 戦時特別文展出品作「国華花瓶」昭和21年 五世六兵衛を隠退し六和と号す。昭和22年 第3回日展出品作「清水窯水指」昭和23年 第4回日展出品作「青磁花瓶」昭和24年 第5回日展出品作「陶器紫翠★花瓶」昭和25年 第6回日展出品作「陶器新星文流★花瓶」昭和27年 第8回日展出品作「焼〆花瓶」昭和29年 第10回日展出品作「新雪窯花瓶」昭和30年 第11回日展出品作「青磁鶴首花瓶」昭和31年 第12回日展出品作「古稀釉花瓶」昭和33年 3月新発足日展の顧問となる。昭和34年 8月1日逝去。

今中素友

没年月日:1959/08/01

日本画家今中素友は、かねて入院療養中のところ、8月1日死去した。本名善蔵。別号に知章、草江軒がある。福岡市に生れ、郷里で上田鉄耕に数年間師事し、ついで川合玉堂の門に入つた。明治41年文展初入選以来、官展を主要なる発表の場として活躍した。 略年譜明治19年 1月10日福岡市に生れた。明治33年 4月草江高等小学校卒業。上田鉄耕画塾に入る。明治38年 上京、川合玉堂に師事。明治41年 「干潮の図」2回文展出品(初入選)大正3年 「蝦夷錦」8回文展出品。大正4年 「深山の夏」(六曲一双)褒状、9回文展出品、久米民之助邸能舞台観客席格天井四季草花極彩色揮毫。大正6年 南国の美(六曲一双)11回文展出品。浅野総一郎邸紅白梅桐戸揮毫。大正7年 「梅日和」(六曲一双)12回文展出品。大正9年 「鴨緑江図巻」2回帝展出品。大正12年 「紅白梅の図」(六曲一双)福岡市有志献上品。昭和2年 「霧晴るゝ谷間」8回帝展出品。昭和3年 「爽秋」(二曲半双)9回帝展出品。昭和5年 「春光」11回帝展出品。昭和6年 「雪旦」12回帝展出品。昭和8年 「時雨」14回帝展出品。無鑑査となる。昭和9年 「峡谷幽禽」15回帝展出品。昭和10年 雅叙園欄間、格天井四季草花極彩色揮毫。昭和17年 「彩鴛弄雪」(宮内省買上)5回文展出品。昭和19年 「佐久良」戦時特別展出品。昭和24年 「秋研」5回日展依嘱出品。昭和28年 「平和図(牡丹に孔雀)」揮毫。(福岡県宗像神社宮地岳神社奉納画)昭和29年 東京観世会館能舞台鏡板松竹揮毫。昭和34年 8月1日死去。

福田浩湖

没年月日:1959/05/19

南画院同人の福田浩湖は、5月19日直腸癌のため、お茶ノ水順天堂病院で逝去した。享年76歳。本名浩治。明治16年3月14日東京市本郷に生れた。明治31年佐竹永湖のもとに入門、南画家を志し、とくに文晁を研究した。入門の翌年から日本美術協会の展覧会には出品をつづけ、「夏山水」「四季山水」など、いくつかの受賞作がある。文展には、大正3年第8回展に「竹窓閑話」が入選したのが最初で、9回展の「幽溪積翠」は褒状をうけた。帝展は第7回展から殆ど毎回出品し、第15回展から無鑑査待遇となつた。この間、日本画会にも出品、また昭和2年日本南画院に入会、同5年に同人に推されたが、11年同会解散後は有志とともに南画連盟を組織して委員となつた。大戦後、昭和21年南画院を興し、南画の再興に努力し、また、日展の委員にあげられていたが、晩年は老令のため制作発表は少かつた。その他昭和16年大東南画院の創立にも加わり、翌年の同展に「水辺遅日」などを出品している。大正9年及び31年、昭和16年の3回にわたり中国に外遊、更に台湾、朝鮮など各地に旅行している。  作品略年譜 大正3年 第8回文展「竹窓閑話」大正4年 第9回文展「幽溪積翠」褒状大正5年 第10回文展「山居秋粧」大正6年 第11回文展「夏宵読書」「夏山雨意」大正8年 第1回帝展「秋溪仙隠」大正15年 第7回帝展「樵径」昭和2年 第8回帝展「外山夕暮」昭和3年 第9回帝展「吉野待花」昭和5年 第11回帝展「幽逕深秋」昭和6年 第12回帝展「九竜寺」昭和8年 第14回帝展「祇王寺」昭和9年 第15回帝展「秋雨ふる大虚寺」この年から無鑑査待遇となる。昭和12年 第1回文展「霊峯暁姿」昭和16年 第4回文展「山邨将雨」昭和18年 第5回文展「暁雨」

斎藤與里

没年月日:1959/05/03

日展参事、東光会々員斎藤與里は、5月3日、東京都豊島区の自宅で心臓マヒで逝去した。享年72歳。本名與里治。明治18年9月埼玉県に生れた。明治38年9月、京都の浅井忠、鹿子木孟郎のもとで素描を学び、同39年2月にフランスに留学した。パリでアカデミイ・ジュリアンに入り、ジャン・ポール・ローランスに油彩を学んだが、モーリス・ドニやシャヴァンヌの作品に惹かれるところ多かつた。41年に帰朝、その後は東京に居住して、西欧絵画の新しい動きを、文筆を通じて新聞、雑誌に紹介し、新人として期待されていた。大正元年、高村光太郎、岸田劉生等とフューザン会をつくり、同時に展覧会をひらいた。フューザン会は、西欧のフォーヴや印象派後期の作家たちの個性的な仕事に強く共鳴した人々の集団で、反官展的な革新運動として注目されていた。然し、翌年第2回展をひらいて会は解散し、斎藤は、官展に出品、大正5年の第10回文展の「収穫」で特選をとり、以後官展系の作家としてとどまつた。昭和2年には「水郷の朝」で再び特選となり翌年から無鑑査待遇をうけている。大正12年、春陽会第1回展の際客員に、13年には会員となつたが、この年、牧野虎雄などと、別に槐樹社を創立し、春陽会は第3回展に出品のみで15年には退会している。昭和6年、槐樹社は解散し、同7年、新に東光会を樹立し、同会々頭として晩年迄出品をつづけていた。また官展では昭和9年第15回帝展以後、しばしば審査員をつとめ、戦後、日展と変つてからは参事の役にあり、32年迄毎年出品をつづけていた。 作品略年譜大正元年 フューザン会第1回展「落日」「景色」「花畑の洪水」「木陰」「静物」等10点大正2年 フューザン会第2回展「異人館」「晩香寮」「菊の花」等19点大正4年 第9回文展「朝」(文展初入選、署名与里治)大正5年 第10回文展「収穫」«特選»大正7年 第12回文展「春」(この年から与里の署名)大正8年 第1回帝展「一日」(三画対)大正12年 春陽会客員となる。大正13年 帝展、春陽会展ともに出品なし。牧野虎雄等と槐樹社を創立する。大正14年 春陽会3回展「諏訪湖畔の宿にて」「部屋の一隅」「雑魚すくい」他1点。槐樹社2回展「裸婦」他大正15年 春陽会退会昭和2年 第8回帝展「水郷の朝」«特選»昭和3年 第9回帝展「雪の朝」(無鑑査待遇)。槐樹社5回展「冬日小景」等13点昭和4年 第10回帝展「稔る秋」(無鑑査待遇)。槐樹社6回展「書見図」「由布院風景」等12点昭和5年 第11回帝展「春の夕」(無鑑査)。槐樹社7回展「少女」他昭和6年 第12回帝展「製塩」(無鑑査)。槐樹社解散昭和7年 第13回帝展「海女」(無鑑査)。東光会創立昭和8年 東光会第1回展「金魚」「溪流」「密柑山」他昭和9年 第15回帝展「秋晴れ」(審査員となる)昭和10年 東光会3回展「花」「南紀風景」(1-4)「合奏」他昭和12年 第1回文展「海辺秋景」(審査員)。東光会第5回展「K子像」昭和13年 第2回文展「暁の金剛山」(審査員)。東光会第6回展「島の娘」昭和15年 奉祝展「利根川」。東光会第8回展「阿蘇の噴煙」「山村」「支那服の少女」他昭和16年 第4回文展「山村朝色」(審査員)。東光会第9回展「篠島風景」「海辺秋色」「野鳥」他昭和17年 第5回文展「おひるやすみ」(無鑑査)。東光会第10回展「那須山岳」「早春山色」「塩原風景」他昭和18年 第6回文展「夏の小川」(審査員)。東光会第11回展「菜の花」「初夏の冨士」他昭和19年 戦時特別文展「稔る秋」(男躰山遠望)。東光会第12回展「山村朝色」「山村小雨」「桃色の冨士」昭和21年 第2回日展「晩秋の赤城山」昭和24年 第5回日展「柿」(審査員)。東光会第15回展「花を挿す」「鳩」「トマト」昭和25年 第6回日展「秋海棠」。東光会第16回展「花あそび」昭和26年 第7回日展「初秋の利根川」(この年日展参事となる)。東光会第17回展「夏の沼辺」他昭和27年 第8回日展「夏の朝」(審査員)。東光会第18回展「紙風船」「お盆頃」昭和28年 第9回日展「裏磐梯」。東光会第19回展「梅咲く窓」他25点回顧出品昭和29年 第10回日展「朝」。東光会第20回展「大野寺石仏」「十五夜」昭和30年 第11回日展「吾妻小冨士」。東光会第21回展「伊豆山」「食間」昭和31年 第12回日展「晩秋」。東光会第22回展「つみくさ」昭和32年 第13回日展「畑毛の冨士」。東光会第23回展「山峡秋色」昭和33年 東光会第24回展「春の夜」昭和34年 第2回日展「静物」(遺作)。東光会第25回展「桜島」「三段峡」「バラ」「夕陽」等10点

橋本徹郎

没年月日:1959/02/25

第二紀会々員、日本宣伝美術会々員橋本徹郎は、2月25日逝去した。明治33年1月1日、兵庫県加古川郡に生れた。関西美術院で洋画を学び、昭和の初めから二科会に入選し、17年第29回二科展に会友となつた。しかしその後出品なく、戦後、二科会を離れ、第二紀会の創立に参加して同会の会員となつた。同時に作品は、従来の写実風景から抽象的な構成へと推移していつたが、第二紀会での出品は少なかつた。又一方、デザイナー、アートデイレクターとして活動も盛んであつた。 油絵作品略年譜大正15年 第13回二科展「花」「三光町風景」昭和2年 第14回二科展「花もつ女」「植物園の午後」昭和3年 第15回二科展「6月のペーヴメント」「手袋」昭和4年 第16回二科展「或る工夫」昭和5年 第17回二科展「PRIVATE ROOM」昭和7年 第19回二科展「あるグループ」「黄色いドレス」昭和9年 第21回二科展「静かなる丘」「イヴニングドレスの女」昭和10年 第22回二科展「樹氷」昭和11年 第23回二科展「海を配せる静物」「挨拶」昭和12年 第24回二科展「仮縫」「銀座の窓」昭和14年 第26回二科展「アカシヤの花咲く家」「まんさあど」昭和15年 第27回二科展「お祭り」(A)(B)昭和17年 第29回二科展「好日子」。二科会会友となる。昭和23年 第2回二紀会展「朝」昭和24年 第3回二紀会展「作品」(A)(B)(C)昭和25年 第4回二紀会展「みづたまり」「都会と月」昭和26年 第5回二紀会展「題のない絵」(A)(B)昭和30年 第9回二紀会展「アフターイメージ」「色面分割の中の円」

大西克禮

没年月日:1959/02/06

帝国学士院会員、東京大学名誉教授大西克礼は2月6日福岡市の自宅で、没した。明治21年10月4日東京で生れた。第3高等学校を経て、同43年東京帝国大学文学部哲学科に入学、美学を専攻した。大正2年卒業に際し銀時計を受けた。つづいて大学院に入学、同11年同大学講師を嘱託され、昭和2年助教授に任ぜられた。同年2月ドイツ、フランス、イタリアへ留学、同3年11月帰国した。同4年同大学文学部の美学美術史第1講座担任を命ぜられ、美学を講じた。同5年文学博士の学位を授けられ、教授に任ぜられた。同21年帝国学士院会員となつたが、同24年東京大学教授を定年退官し、名誉教授の称号をさずけられた。 主要著書目録社会学上より見たる芸術(翻訳) 大正3年美学原論 大正6年レンブラント(翻訳) 昭和2年現代美学の問題 昭和2年カントの「判断力批判」の研究 昭和6年現象派の美学 昭和12年幽玄とあはれ 昭和14年風雅論 昭和15年万葉集の自然感情 昭和18年自然感情の類型 昭和23年美意識論史 昭和24年美学上巻 昭和34年美学下巻 昭和35年

河村双舜

没年月日:1959/01/28

新興美術院会員河村双舜は、かねて入院療養中のところ、1月28日胃癌で死去した。本名良孝、明治40年6月19日東京に生れ、第16回再興院展に「緑野」が入選以来引続き院展に出品し、主な出品作に「朝顔」(17回展)、「緑庭」(19回展)、「椿」(30回展)、「翠映」(32回展)等があり、昭和33年には新興美術院に移り会員となつた。同年の作品に「人間」があるが、この制作を最後として翌34年逝去した。

明石染人

没年月日:1959/01/27

文化財専門審議会専門委員、正倉院御物古裂調査委員、京都工芸繊維大学講師、京都市立美術大学講師、明石染人(本名国助)は、1月27日、京都市の自宅において、脳溢血のため急逝した。享年71歳。明治20年5月6日京都に生まれ、同42年7月京都高等工芸学校染色科卒業、翌43年11月同校助教授となり、繊維品加工(精練、染色、捺染、整理)学、及び染織工芸史を専攻した。大正9年鐘ケ渕紡績株式会社に入社し、現業面にも従事、昭和9年同社山科工場長となり、その年同社より、研究、視察、蒐集のため、ヨーロッパ、埃及、印度その他へ派遣された。同19年同社本部繊維部長となり、同22年病気のため退社した。 一方、昭和10年より同27年まで恩賜京都博物館学芸委員嘱託をつとめ、同25年より京都工芸繊維大学講師、京都市立美術大学講師、文化財専門審議会専門委員、同28年より正倉院御物古裂調査委員の任にあり、博い専門知識を持つた人材として染織工芸界で重きをなしていた。 主要著書目録日本染織史 昭和3年 雄山閣染織文様史の研究 昭和6年 万里閣日本染織工芸史(上) 昭和18年 一条書房埃及コプト染織図録と埃及コプト染織工芸史 昭和31年 京都書院日本における染織の発達と文様の特質 昭和34年 日本繊維意匠センター

米澤蘇峰

没年月日:1959/01/25

陶芸家米澤蘇峰は、1月25日、京都市の自宅において、心臓麻痺のため急逝した。享年61歳。本名は時一。明治30年8月1日石川県金沢市に生まれた。大正7年京都市立美術工芸学校図案科を卒業、当時帝室技芸員であつた叔父の諏訪蘇山の門に入り、陶技を研修した。その間清水六和、中沢岩太の指導を受けながら、帝展、文展、日展、京都市美術展等に出品した。昭和27年の第8回日展以来は日展の出品依嘱となり、昭和28年の第9回日展では審査員、その時の出品作「青瓷花瓶」は政府買上となつた。昭和33年3月には新日展の会員となつた。京都の作家であつた蘇峰は、京都市美術展、京都府工芸美術展等の審査員をつとめ、また京都陶芸作家協会の理事、京都府綜合工芸研究所の常任委員もしていた。

中村鵬生

没年月日:1959/01/21

染織工芸家中村鵬生は、1月21日京都市の自宅において、心筋梗塞のため急逝した。享年52歳。本名は成之助。明治39年10月2日京都に生まれた。大正8年より山鹿清華に師事して染織図案を学び、昭和4年から7年間、川島甚兵衛織物株式会社の図案部にあつて、染織図案並びに綴織を専門とした。昭和5年の帝展初入選以後は、作家としての活動が注目された。 略年譜明治39年 10月2日、京都に生まれた。大正8年 山鹿清華に師事する。昭和4年 川島甚兵衛織物株式会社に入社する。昭和5年 第11回帝展に「蔬菜図手織錦卓被」が初入選。昭和6年 第12回帝展に「温室図手織錦壁掛」出品。昭和7年 第13回帝展に「房生図手織錦壁掛」出品。昭和9年 第15回帝展に「蘇鉄と鶏之図手織錦壁掛」出品。昭和12年 第1回文展に「琵琶湖祭之図手織錦壁掛」出品。昭和13年 第2回文展に「聖鍬之図手織錦壁掛」出品、大和橿原国史館買上。昭和17年 第5回文展に「紅鶴群手織錦壁掛」出品。昭和18年 8月、文展無鑑査に推薦される。昭和19年 戦時特別文展に「献身手織錦壁掛」出品、京都市買上。昭和21年 9月、第2回日展委員になる。昭和25年 第6回日展出品作「野鶴手織錦壁掛」は特選。昭和26年 第7回日展では出品依嘱になり、出品作「躍進手織錦壁掛」は文部省買上。昭和27年 第8回日展では審査員、出品作は「凍朝手織錦壁掛」。昭和28年 第9回日展からは出品依嘱がつづく。京都府工芸美術作家協会理事。昭和30年 全日本工芸美術作家協会京都支部長。昭和33年 3月、新日展の会員となり、6月には同展審査員となる。この第1回日展の出品作は「霜柱手織錦壁掛」。昭和34年 1月21日逝去。

和田英作

没年月日:1959/01/03

帝室技芸員、日本芸術院会員で洋画壇の長老和田英作は、1月3日静岡県清水市に於いて、膀胱癌のため没した。享年83歳。同10日明治学院講堂で葬儀を行つた。明治7年12月23日鹿児島県に生まれ、幼くして上京、明治学院に学び、上杉熊松の指導を受けた。同24年退学して画業に専心し、曾山幸彦、原田直次郎に学び、次いで天真道場に入つて黒田清輝、久米桂一郎の指導を受けた。同29年東京美術学校助教授に任ぜられたが、間もなく辞して同校西洋画科に入学、同30年7月修了、同校助手となつた。同29年白馬会の創立に参加して会員となつた。同32年ドイツに赴き、同33年文部省留学生となつてパリに至り、アカデミイ・コラロッシに入学してラファエル・コランの指導を受けた。同36年帰国し、母校の教授に任ぜられた。同40年文部省美術審査委員会委員、大正8年帝国美術院会員となつた。同10年ヨーロッパに出張し、翌年帰国した。昭和7年東京美術学校々長に任ぜられ、同11年辞し、同校名誉教授の称号を受けた。この間、同9年帝室技芸員を拝命した。同12年帝国芸術院会員を仰付けられた。同18年多年の功績に対し文化勲章を授与され、同26年文化功労者に選ばれた。 その主な作品には初期の「渡頭の夕暮」「海辺の早春」「思郷」「こだま」、中期の「斜陽」や原法学博士をはじめ名士の肖像があり、晩期のものには「上の御堂にて」「夏雲」などがある。いずれも外光派的写実で、その堅実な油彩技法は稀にみるところであつた。また、これらのほか、帝国劇場をはじめいくつかの装飾壁画にも力作を遺した。 略年譜明治7年 12月23日鹿児島県肝属郡に生る。明治12年頃 両親にともなわれて上京、麻布に住む。父秀豊は海軍兵学校の英語の教官となつた。明治20年 明治学院に入学、同窓三宅克己と上杉熊松に洋画の初歩を学ぶ。明治24年 退学。上杉の紹介で曾山幸彦の門に入る。同門に岡田三郎助、中沢弘光、三宅克己、矢崎千代二などがあつた。明治25年 曾山逝去のため1月原田直次郎の鍾美館に転じた。明治美術会展に「秋ノ景色」(水彩)出品。明治26年 洋画修学のかたわら久保田米僊に日本画を学ぶ。明治美術会展に「人体習作」(油絵)「景色」(同)を出品。明治27年 9月黒田清輝、久米桂一郎が新設した天真道場に学ぶ。明治28年 7月第4回内国勧業博覧会に「海辺の早春」出品、妙技二等賞を受く。明治美術会展に「新柳」「海辺早春」11点出品。明治29年 9月東京美術学校助教授に任ぜられた。6月白馬会の創立に参加して会員となる。第1回白馬会展に「麦の秋」「虹」「矢口のわたし」等19点出品。明治30年 2月本官を免ぜられ、東京美術学校西洋画科選科第4年級に入学、7月修了。10月同科教場助手を命ぜらる。第2回白馬会展に「快晴」「渡頭の夕暮」等30点出品。明治31年 日本美術研究のため来朝のベルリン博物館のアドルフ・フィッシャーを案内して約半年間畿内、九州、北陸等を巡遊。第3回白馬会展に「三保の富士」「物おもひ」「機織」等21点出品。明治32年 5月フィッシャーの依嘱により、その蒐集の日本美術品の目録作成のためベルリンに赴く。第4回白馬会展に「甲板」「ミッドルス・バロオ」等6点出品。明治33年 3月文部省留学生となり、パリに赴き、コラロッシ研究所に入つてラファエル・コランの指導を受ける。パリ万国博覧会に旧作「渡頭の夕暮」「機織」を出品、褒状を受く。第5回白馬会展に「肖像」「風景」等を出品。明治34年 第6回白馬会展に「ルュクサンブール」「池」を出品。明治35年 サロンに「思郷」出品、入選。第7回白馬会展に「冬の池畔」「半身」「婦人読書」等出品。明治36年 6月イタリアを経由、帰国。10月東京美術学校教授に任ぜらる。第5回内国観業博覧会に「こだま」出品、二等賞を受く。第8回白馬会に「思郷」「肖像」「夕暮の三保」「夕凪」出品。明治37年 第9回白馬会展に「有るかなきかのとげ」「箕作博士肖像」出品。米国セント・ルイス万国博覧会に「風景」出品。明治38年 白馬会創立十年記念展に「くものおこなひ」「夕空」のほか旧作「麦の秋」「編物」等19点出品。明治40年 3月東京府勧業博覧会審査官、8月文部省美術審査委員会委員となる(以後大正7年まで)。東京府勧業博覧会に「斜陽」出品1等賞を受く。第11回白馬会展に「肖像」「風景」出品。高橋滋子と結婚。明治41年 第2回文展に「おうな」出品。明治42年 第3回文展に「角田市区改正局長肖像」「原法学博士肖像」出品。明治43年 東京美術及美術工芸品展覧会評議員、同展第2類出品鑑別委員、伊太利万国博覧会美術品出品鑑査委員となる。第4回文展に「薔薇」「まとものあかり」「肖像」出品。明治44年 第5回文展に「小金井博士肖像」「曇り日」「草花」出品。帝国劇場壁画製作。明治45年 第6回文展に「石黒男爵肖像」「H夫人肖像」出品。大正3年 4月東京大正博覧会審査官を嘱託さる。同博覧会に「筧の水」、第8回文展に「黄昏」「赤い燐寸」、光風会展に「漁村」出品。赤坂離宮及び中央停車場の壁画製作。大正4年 第9回文展に「佐用姫」出品。大正5年 第10回文展に「あけちかし」出品。大正7年 第12回文展に「壁画落慶之図」出品。大正8年 9月帝国美術院会員を仰付けらる。第1回帝展に「読了りたる物語」出品。大正9年 第2回帝展に「渋沢子爵像」出品。慶応義塾大学のために福沢諭吉像製作。大正10年 4月欧州へ出張を命ぜらる。7月勅任官を以て待遇さる。大正11年 1月以後フランス官設美術展覧会へ本邦美術品出陳に関する事務に従事。6月叙勲4等瑞宝章。9月帰国。大正12年 フランス政府からオフイシエ・ド・ロルドル・ナショナル・ラ・レジョン・ドノール勲章を受く。フランス美術展準備委員、第2回朝鮮美術審査委員会委員を嘱託さる。大正13年 第5回帝展に「大住嘯風君肖像」「奈良人形」大正14年 鹿児島県より東京府へ転籍。第6回帝展に「森律子肖像」「野遊」、光風会展に「花」出品。大正15年 第7回帝展に「松林」、聖徳太子奉讃展に「父の肖像」、光風会展に「薔薇」出品。なお三越本店で個展開催「ミモザ」等50余点。昭和2年 明治大正名作展に「こだま」「渡頭の夕暮」「角田市区改正局長」「海辺早春」陳列さる。燕巣会展に「黒き瓶の薔薇」出品。昭和3年 第9回帝展に「肖像」、燕巣会に「冬の日」出品。昭和4年 三越本店にて個展。昭和5年 第11回帝展に「早春」、第2回聖徳太子奉讃展に「花」、光風会展に「初冬の湖畔」出品。昭和6年 第12回帝展に「黄衣の少女」出品。昭和7年 5月東京美術学校長に任ぜらる。昭和8年 史蹟名勝天然記念物調査委員会委員となる。昭和9年 6月帝室技芸員を命ぜらる。昭和10年 6月美術研究所々長事務取扱を命ぜらる。昭和11年 6月東京美術学校長を辞し、同校名誉教授の称号を受く。聖徳記念絵画館壁画「憲法発布記念式」を完成。宮内省御下命の「山本内閣親任式」をえがく。三越本店にて個展、「湖畔の暮色」等19点陳列、青樹社洋画展に「薔薇」出品。昭和12年 帝国芸術院会員を仰付けらる。明治、大正、昭和三聖代名作展(大阪)に「静物」「こだま」「大住嘯風君肖像」陳列さる。昭和13年 三越に個展を開き、「溪流」「湖畔の春景」等、上弦会に「細流」「蘭花」等4点出品。昭和14年 法隆寺上宮王院本尊大厨子建立奉讃展に「琵琶湖畔の春」出品。大阪阪急百貨店にて個展、「富士」ほか約20点出品。昭和15年 大阪青樹社にて個展「カーネーション」「雲雀啼くころ」等13点出品。昭和16年 三越本店に個展、「神の森」等出品。昭和18年 文化勲章を授与。昭和19年 戦艦献納帝国芸術院会員展に「山麓の春」出品。昭和20年 奈良県郡山に疎開、次いで愛知県知立に移る。昭和21年 第1回日展に「上の御堂にて」出品。昭和22年 第3回日展に「曙」、現代美術展(東京都・朝日新聞社共催)に「凉蔭」出品。昭和25年 第6回日展に「夏雲」出品。昭和26年 静岡県清水市に移る。文化功労者にえらばれる。また精養軒にて喜寿祝賀会。大阪及び名古屋美交社にて喜寿展。昭和27年 大阪美交社に個展。昭和28年 日本芸術院第1部長に選ばる。同上昭和33年 高島屋美術部50年記念展に「三保の不士」出品。昭和34年 1月3日逝去。勲1等瑞宝章大綬を拝受。

三井義夫

没年月日:1959/01/02

光風会工芸部会員三井義夫は、1月2日肝硬変のため日本医大附属病院で死去した。享年59歳。明治32年9月22日東京中根岸に生れ、初め彫金家土田勝業に学び、のち海野家の門をたたいた。ついで東京美術学校に学び、昭和3年同校金工科選科彫金部を卒業、引き続き海野清に師事した。官展並びに工芸諸展に作品発表を行いつつ、久しく彫金界に活躍し、昭和31年には第11回日展出品作「彫金象嵌花器」で日本芸術院賞をうけた。略年譜明治32年 9月22日東京都台東区に生る。昭和2年 「楽園之図手箱」8回帝展入選。昭和3年 3月、東京美術学校金工科選科彫金部卒業。「海(彫金手筥)」9回帝展出品。昭和5年 「黒味銅製盤」11回帝展出品。昭和6年 「青果器」12回帝展出品。昭和7年 「黒味銅花瓶」13回帝展出品。昭和8年 「魚鉄方盤」14回帝展出品。昭和9年 「菊水紋小鉢」15回帝展出品。昭和11年 「黒味銅小鉢」帝展改組1回展出品。「象嵌菓子器」文展招待展出品。昭和12年 「彫金象嵌水盤」1回新文展出品。昭和13年 「鉄盛花器」2回文展出品。昭和14年 「四分一象嵌花瓶」3回文展出品。昭和15年 「彫金象嵌盛器」紀元2600年奉祝展出品。昭和16年 「彫金象嵌花器」4回文展出品。文展無鑑査。昭和18年 「黄銅花器」6回文展出品。昭和19年 「黒味銅花器」戦時特別文展出品。昭和22年 「平象嵌黄銅花器」3回日展出品。昭和23年 「彫金平象嵌筥」4回日展出品。日展審査員。昭和24年 「金工平象嵌花器」5回日展出品。昭和25年 「彫金花盛」6回日展出品。日展依嘱。昭和26年 「黒味銅花瓶」7回日展出品。日展依嘱。昭和27年 「彫金象嵌筥(ナマズ)」8回日展出品。川合玉堂賞文部省買上げ。昭和28年 「打出福久置物」9回日展出品。日展審査員。昭和29年 「彫金象嵌魚文花瓶」10回日展出品。昭和30年 「彫金象嵌花器(ナマズ)」11回日展出品。文部省買上、日展審査員、光風会々員となる。昭和31年 「彫金銀花器」12回日展出品。5月日本芸術院賞受領。(前年度日展出品作に対し)昭和31年 「花瓶」42回光風会展出品。昭和32年 「象嵌花器」13回日展出品、「猿之額」43回光風会展出品。葵洸会工芸展(高島屋美術部50周年記念展)出品。昭和33年 「金彩蟹文飾皿」44回光風会展出品。昭和34年 1月2日死去。

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