本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





富山秀男

没年月日:2018/12/20

読み:とみやまひでお  近代日本美術の研究者で、京都国立近代美術館、ブリヂストン美術館の館長を歴任した富山秀男は12月20日、胃がんのため死去した。享年88。 1930(昭和5)年7月26日、東京に生まれ、53年に東京教育大学教育学部芸術学科を卒業、同年国立近代美術館(1967年に東京国立近代美術館に改称)に研究員として採用された。76年4月に国立西洋美術館学芸課長に異動。82年8月に東京国立近代美術館次長となる。1992(平成4)年4月、京都国立近代美術館長となる。98年まで同美術館に勤務した後、同年6月にブリヂストン美術館長となる、2001年には、勲三等旭日中綬章を受ける。02年から13年まで、式年遷宮記念神宮美術館長を務めた。 東京国立近代美術館に在職中は、今泉篤男、河北倫明、本間正義という歴代3人の次長から薫陶を受けた。とりわけ河北倫明とは、その晩年まで親交があり、多くの影響を受けたといわれる。89年に河北倫明夫妻が、若手研究者と美術家を顕彰する目的で公益信託として設立した倫雅美術奨励賞では、20年以上にわたり同賞の運営委員長を務めた。 研究面では、岸田劉生の研究が特筆される。没後50年にあたる79年にあたり、画家の遺族ならびに各界の劉生愛好者と研究者によって企画された、劉生芸術顕彰を目的とする展覧会開催、全集、画集の刊行の計画と実施にあたっては、いずれにも深く関与した。国立西洋美術館に勤務していた79年に、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館において「没後50年記念 岸田劉生展」が開催された折には、調査の面で協力を惜しまなかった。また、『岸田劉生全集』全10巻(岩波書店、1979年から80年)にあたっては、編集のための委員となり、84年に刊行された東京国立近代美術館監修『岸田劉生画集』(岩波書店)では、編集委員を務めた。これらの成果をもとに86年には、単著として『岸田劉生』(岩波新書)を刊行した。同書は、今日まで岸田劉生を知るための入門書であり、実証的な評伝として高く評価されている。 その他、主要なものを下記にあげるように画集等の編著が多数ある。 岡鹿之助共著『世界の名画 第6巻 ルソー・ルドン』(学習研究社、1965年) 『近代の美術 第8号 岸田劉生』(至文堂、1972年) 山崎正和、高階秀爾共著『世界の名画 第7巻ルノワール』(中央公論社、1972年) 『日本の名画41 国吉康雄』(講談社、1974年) 『日本の名画21 岸田劉生』(中央公論社、1976年) 『近代の美術 第42号 安井曾太郎』(至文堂、1977年) 『原色現代日本の美術 第7巻 近代洋画の展開』(小学館、1979年) 『日本水彩画名作全集4 岸田劉生』(第一法規出版、1982年) 『近代日本洋画素描大系3 昭和1 戦前』(講談社、1984年) 原田実共編著『20世紀日本の美術14 梅原龍三郎/安井曾太郎』(集英社、1987年) 浅野徹共編著『20世紀日本の美術15 岸田劉生/佐伯祐三』(集英社、1987年) 『日本の水彩画17 萬鉄五郎』(第一法規出版、1989年) 『昭和の洋画100選』(朝日新聞社、1991年) 『日経ポケットギャラリー 佐伯祐三』(日本経済新聞社、1991年) 安井曾太郎、梅原龍三郎、岸田劉生をはじめとして、大正、昭和期の洋画家の中心とする実証的な美術史研究が中心であったが、実際に接してきた巨匠といわれる画家たち、あるいは画家を直接知る多くの関係者との間で生まれた豊富なエピソードの数々は、残された多くの画家論のなかで巧みに織り込まれている。そして草創期の国内の主要な美術館に勤務し、しかも館長としてその運営にあたった一貫した美術館人であった。

水沼啓和

没年月日:2018/12/20

読み:みずぬまひろかず  千葉市美術館学芸員の水沼啓和は12月20日死去した。長く人工透析を続けるなか、自身が担当した展覧会「1968年 激動の時代の芸術」が開幕したのちの逝去であった。享年55。 1965(昭和40)年8月1日生まれ。1992(平成4)年慶應義塾大学文学部哲学科卒業、同大学大学院文学研究科修士課程入学、94年修了。修士論文は「マルセル・デュシャンと展示制度:1913―68における言説と実践の推移」。同年4月、財団法人千葉市文化財調査協会(千葉市美術館開設準備室担当)学芸員となる。翌年11月、千葉市美術館にともない開館、同館に赴任、日本と欧米の現代美術に関する展覧会を担当、その研究発展に貢献した。精緻な調査をを反映した論考、資料編による充実した展覧会カタログを数多く出版した。担当したおもな展覧会に、「ジョゼフ・コスース 1965―1999 訪問者と外国人、孤立の時代」(1999―2000年)、「ダン・グレアムによるダン・グレアム展」(2003―04年)、「瀧口修造とマルセル・デュシャン」(2011年)、「須田悦弘展」(2012年)、「赤瀬川原平の芸術原論 1960年代から現在まで」(2014年)、「杉本博司 趣味と芸術―味占郷/今昔三部作」(2015年)、「見立ての手法―岡崎和郎のWho’s Who」(2016年)、「小沢剛 不完全―パラレルな美術史」(2018年)、「1968年 激動の時代の芸術」(2018年)がある。「赤瀬川原平の芸術原論展」は、2015年、第27回倫雅美術奨励賞を共同受賞。また「1968年 激動の時代の芸術」は、18年、美連協大賞を共同受賞。 論文に「ジョゼフ・コスースとアド・ラインハート:1960年代後期におけるコンセプチュアル・アートと絵画に関する一考察」(千葉市美術館研究紀要『採蓮』2、1999年)、「ダン・グレアムの«連結する三つのキューブ/ヴィデオ上映スペースのためのインテリアデザイン»について―コンテクストの介入からコンテクストの仲介へ」(『採蓮』8、2005年)、「不要になったら捨てられるアート―ニューヨークのコンセプチュアル・アートとエフェメラ」(『セログラフィーと70年代:Xerography and 70s』富士ゼロックス、2005年)、「ダン・フレイヴィンとコンセプチュアル・アート」(『採蓮』13、2010年)等がある。 没後、『千葉市美術館ニュース「C’n」』96号(2020年)において、同館長河合正朝が、美術館での水沼と美術家や同僚、後輩との交友、あるいは担当展や美術館の将来への向き合い方等をエッセイにまとめ、「美術が大好き、展覧会には持てる全力を尽くす、何事にも策を弄することのない真っ直ぐな性格の、わが社中の快男児」と評した。

持田季未子

没年月日:2018/12/18

読み:もちだきみこ  大妻女子大学名誉教授の美術史家持田季未子は12月18日、がんによる多臓器不全のため死去した。享年71。 1947(昭和22)年東京都港区高輪に生まれる。本名公子。70年国際基督教大学教養学部人文科学科を卒業。同学では関屋光彦に師事し、プラトンやアリストテレスなどの西洋古典を読むことによって、「自分の頭と心で物事を考える方法をつかみとることが重要」(『美的判断力考』)であることを学ぶ。80年東京大学人文科学研究科比較文学比較文化修了(文学修士)単位取得満期退学。立原道造研究から絵画、建築、庭園に興味を持ち、作品とは本来、それぞれ「本質的な固有の意味の層を持つ」(『絵画の思考』)という立場から、既存の方法論に依拠せず、作品のみを拠り所として、言葉を紡ぐことを目指すようになる。80年東京造形大学助教授となり、同学教授で『ことばのない思考―事物・空間・映像についての覚書』(田畑書店、1972年)、『生きられた家』(田畑書店、1976年)等、目に見えるものから過去の人の営みを明らかにする書物を世に問うていた多木浩二の知遇を得る。83年、アンリ・マスペロ著『道教の養生術』(せりか書房)、『芸術の記号論』(谷川渥 加藤茂らと共著、勁草書房)を刊行。84年1月に「連なりの史学」(『東京造形大学雑誌』)、85年9月に「庭園の眼差し、あるいは生成する庭園」(『思想』)を発表し、87年には『生成の詩学 かたちと動くもの』(新曜社)、ルーシー・スミス著『1930年代の美術 不安の時代』(多木浩二との共訳、岩波書店)、1991(平成3)年には『立原道造と伝統詩』(新典社)を刊行。92年にモンドリアン、マイケル・ハイザー、ロバート・スミッソンらによるアースワーク、村上華岳の作品について論じた『絵画の思考』(岩波書店)を刊行し、同書により吉田秀和賞受賞。93年東京造形大学教授となる。その後、『草木の精の能にみる日本的自然観』(共著、中央公論社、1994年)、『ベルリン―芸術と社会』(エバーハルト・ロータース編集、多木浩二らと共訳、岩波書店、1995年)、『芸術と宗教』(岩波書店、1997年)、『希望の倫理学 日本文化と暴力をめぐって』(平凡社選書、1998年)を刊行。98年に大妻大学比較文学部比較文化学科教授となり2016年まで教授として勤務し、18年に同学名誉教授となった。この間、『十七世紀の光―オランダ建築画の巨匠サーレンダム』(岩波書店、2009年)、自身の祖父について記した『明治の精神 持田巽の生涯』(彩流社、2012年)、『セザンヌの地質学 サント・ヴィクトワール山への道』(青土社、2017年)を刊行し、77年から様々な雑誌や書籍に発表した文章をまとめた『美的判断力考』(未知谷、2019年)を構想中に死去した。「第一章 絵画の世界」「第二章 建築・庭園」「第三相 詩から始まる」「第四章 哲学すること」「第五章 英語・フランス語論文」で構成された同書は、持田の仕事の展開を示すものとなっている。

松浦正昭

没年月日:2018/12/07

読み:まつうらまさあき  美術史家・仏教彫刻史研究者の松浦正昭は、肺がんのため12月7日に死去した。享年72。 1946(昭和21)年7月21日、群馬県新高尾村中尾(現、高崎市)に生まれる。65年3月、群馬県立前橋高等学校を卒業、同年4月に東北大学文学部に入学。70年3月、同大学を卒業、読売新聞社勤務を経て72年4月、東北大学大学院文学研究科美学・美術史学専攻に入学。74年3月、同研究科修士課程を修了し、4月より同大学文学部助手に採用される。77年10月、奈良国立博物館に着任。学芸課教育普及室長、仏教美術資料研究センター仏教美術研究室長を務め、2004(平成16)年4月より東京国立博物館に上席研究員として着任(文化庁美術学芸課美術館・博物館主任文化財調査官を兼務)。06年4月に富山大学芸術文化学部教授、11年3月、同大学を定年退職した。放送大学客員教授。 東北大学文学部東洋・日本美術史研究室で仏教美術史研究者の亀田孜、高田修、日本中・近世絵画史研究者の辻惟雄に指導を仰ぐ。とりわけ亀田からは、文献学に基づいた実証的な研究方法や自然科学的手法を取り入れた調査といった面で強い影響を受けたという。修士論文のテーマは平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像だった。奈良国立博物館に勤務して以降は日本彫刻のみならず、韓国・中国の仏像、絵画や工芸にも関心を広げていく。作品を徹底して観察することに重きをおき、自らX線透過撮影を行うなどして彫刻の素材や技法的側面に関する研究を深めた。 奈良国立博物館在職中には展覧会「菩薩」(1987年)、「檀像―白檀仏から日本の木彫仏へ―」(1991年)、「東アジアの仏たち」(1996年)、「ぶつぞう入門」(1996年)、「阿修羅との出会い」(1997年)、「国宝中宮寺菩〓像」(2000年)等を担当した。特に「東アジアの仏たち」は、広範にわたる地域や時代、横断的なジャンルの作品によって構成されており、松浦の関心領域の幅広さを示した展覧会と言える。東京国立博物館に籍を移して以降も「国宝吉祥天画像」(2005年)、「模写・模造と日本美術―うつす・まなぶ・つたえるー」(2005年)等の展覧会に携わった。著書に『日本の美術315 毘沙門天像』(至文堂、1992年)、『日本の美術455 飛鳥白鳳の仏像 古代仏教のかたち』(至文堂、2004年)。論文に「鳳凰堂供養飛天群とその密教的性格」(『美術史』97・98、1976年)、「東寺講堂の真言彫像」(『佛教藝術』150、1983年)、「天台薬師像の成立と展開」(『美術史学』15、1994年/『美術史学』16、1995年)、「頭塔石仏の図像的考察」(『國華』1215、1997年)、「毘沙門天法の請来と羅城門安置像」(『美術研究』370、1998年)、「法華堂天平美術新論」(『南都仏教』82、2002年)、「年輪に秘められた法隆寺創建―法隆寺論の美術―」(『古代大和の謎』学生社、2010年)等。

村松秀太郎

没年月日:2018/11/21

読み:むらまつひでたろう  日本画家で元創画会会員の村松秀太郎は11月21日に死去した。享年83。 1935(昭和10)年1月5日、静岡県清水市(現、静岡市清水区)の材木商の家に11人兄弟の末っ子として生まれる。横山大観の「夜桜」に感銘を受けて日本画の世界を志し、56年東京藝術大学に入学、61年同大学美術学部を卒業し、同大学専攻科に入学する。この年、卒業制作で60年の安保闘争に取材した裸体群像「六月」が再興第46回日本美術院展に入選、また「人体A」が第25回新制作協会展に入選し、以後同展に毎年出品する。63年東京藝術大学日本画専攻科修了。63、68、71年に新制作展新作家賞、63、64、73、74年春季展賞受賞。新制作展に引き続いて創画展に出品し、76年春季展賞および第3回展の創画会賞、77年春季展賞を得て、翌78年創画会会員となる。一方で73年に市川保道、大山鎮、滝沢具幸、戸田康一、松本俊喬とグループ展メガロパを結成、78年までに5回の展覧会を開催した。人間群像を大画面に繰り広げ、生と死、男女の業といった根源的なテーマに取り組んだ村松は、油彩画のような重厚なタッチやマチエールの作風でありながら、箔押しの技術を導入し、カオスを感じさせる大胆な表現のうちに日本画のリアリティを追求した。また64年にカンボジアのアンコールワットを訪ねて以来、世界各地へ精力的にスケッチ旅行に出かけ、とりわけアンコールワットやインドのカジュラーホーで出会った官能的な人体表現は、性愛を主題とした制作に大きな影響を与えている。81年には山形県金山町役場大壁画「団結、力、調和」、83年清水市新市庁舎陶板大壁画「海の子讃歌」、87年立教高等学校図書館陶板壁画「騎馬民族説」といった公共施設の壁画を制作。90年代には中国の桂林や黄山に取材した山水画を手がけ、個展で発表。また1995(平成7)年9月から1年余にわたり『日本経済新聞』に連載された、渡辺淳一による小説「失楽園」の挿絵を担当し、97年『失楽園』挿絵石版画集を刊行。この間、96年に茨城県近代美術館で開催の「交感する磁場―6つの個展」でエネルギッシュに活躍する作家の一人として作品8点が展示される。98年には日本橋高島屋にて新旧の大作を交えた自選展を開催。同年から2002年にかけて岡村桂三郎、斉藤典彦といった世代の異なる作家とともにMETA展を開催、全5回の展覧会に毎回出品する。99年東京芝の増上寺中広間の襖絵「双龍と天女」および天井画「牡丹」を完成させる。2006年美術年鑑社より『村松秀太郎画集 愛と生の讃歌』を刊行。07年創画会を退会。09年、14年に市川市芳澤ガーデンギャラリーで「村松秀太郎展」を開催。75~81年多摩美術大学講師、88年筑波大学助教授、92~98年同大学教授、2000~04年千葉商大政策情報学部講師、00~08年大阪芸術大学教授を務めた。

江口草玄

没年月日:2018/11/16

読み:えぐちそうげん  井上有一等と墨人会を結成し、書の革新に努めた書家の江口草玄は11月16日、老衰で死去した。享年98。 1919(大正8)年12月21日、新潟県刈羽郡西中通村(現、柏崎市)に生まれる。戦前より書作を始め、雑誌『南海書聖』『健筆』『書道藝術』等の競書に作品を提出。1940(昭和15)年に応召して中国へ赴くも銃創を負い内地送還され、陸軍病院で転地療養する中で再び書作に戻る。戦後、48年に創刊した研精会(上田桑鳩会長、森田子龍主幹)の『書の美』の競書に出品、桑鳩の美術的造形性にまで広がる視野に覚醒し、期待の新人の一人として見られるようになる。その一方で鈴木鳴鐸の『碧樹』(1946年創刊、翌年『蒼穹』に改題)も購読し、鳴鐸の批判精神に共鳴する。50年第6回日展に「幽居」が入選、特選候補となるも翌年の第7回日展に出品した釋處默詩「聖果寺」は落選し、師風伝承が色濃く残る書壇への不信感を募らせる。そうした中、51年洋画家長谷川三郎による「現代美術について」講習会に参加し、同じく参加者の中村木子、森田子龍、関谷大年と意気投合、新進気鋭の書家だった井上有一も交えて、52年墨人会を結成する。翌年京都へ転居。墨人会では長谷川三郎やイサム・ノグチ、京都大学の美学者井島勉、哲学・仏教学者久松真一、また津高和一や吉原治良等関西の美術家達との交流の中で、旧態的書から離れて先鋭化し、毛筆の代わりに鏝を使い、直接練り墨を手で掴み書く等の実験的制作により、毛筆と文字の拘束からの離脱を試みるも、55年にベルギーの画家ピエール・アレシンスキーによる映画「日本の書」撮影の際、書の骨格は文字を書くことでしか表せないのを自覚し、文字による作品制作に回帰していく。65年、初個展を京都市美術館で開催。76年、会創立の趣旨が失われたとして墨人会を脱退。以降、個展やグループ展等で作品を発表し続ける。78年作品集『草玄ことば書き』を刊行。83~84年頃に江戸時代の俳人慶紀逸の『俳諧武玉川』に魅せられ、その句を使って作品を作り出すようになる。一方でその活動は自身の書作だけに止まらず、子供たちに対し筆法伝授の習字ではなく、のびのびとした書教育を『ひびき』誌の発行を通じて実践。また80年より私家版の冊子『山階通信』を発行し、近況報告の他、良寛、池大雅、鈴木鳴鐸、白隠、中野越南等の書人の研究を同誌上で行なった。1996(平成8)年には新潟県立近代美術館で「戦後の書・その一変相 江口草玄」展、また亡くなる直前の2018年5月26日~7月1日にも同館で「白寿 江口草玄のすべて」展が開催されている。

中村昌生

没年月日:2018/11/05

読み:なかむらまさお  建築家・建築史家で京都工芸繊維大学名誉教授の中村昌生は11月5日、呼吸不全のため死去した。享年91。 1927(昭和2)年8月2日愛知県名古屋市に生まれる。47年に彦根工業専門学校建築科を卒業後、京都大学工学部研修員を経て、49年に同助手。62年に京都工芸繊維大学工芸学部助教授、73年に同教授となる。1991(平成3)年に定年退官し、同大学名誉教授。同年より2002年まで福井工業大学教授。 日本建築史における数寄屋建築の伝統、とりわけ茶室と生涯一貫して向き合い、この分野での研究を第一人者として牽引するとともに、実作を通じてその継承と普及に努めた。 62年に「初期茶室の基礎的研究」にて京都大学より工学博士号授与。71年には、千利休をはじめとする六人の代表的茶匠の作風を分析し、その造形思想と設計方法を探ることを通じて室町末から江戸初期に至る茶室の形成・展開過程を明らかにした「茶室の研究」(同年に墨水書房より公刊)にて日本建築学会賞(論文賞)を受賞した。 社寺建築においては時代ごとの様式や木割といった意匠や寸法比例の規範が明確に存在するのに対して、数寄屋はそこから逸脱する自由さに本質があり、作者の嗜好と感性に依拠する性格が極めて強い。このことからも、中村において数寄屋や茶室の研究はその設計活動の実践と表裏一体の関係にあり、建築家あるいは茶人として数多くの建物の創作や復元を行ってきた。67年に京都の大工棟梁や工務店関係者などと伝統建築研究会を結成、これを母体として78年に伝統木造建築技術の保存向上を実践する組織として文化財修理を含む設計・施工も行う京都伝統建築技術協会(1980年に財団法人化)を発起人代表として設立する。そして最初に設計を手掛けたのが宝紅庵(山形、1979年)で、特定の流派・流儀に偏らず、茶の湯以外にも多目的に使用できる「公共茶室」という新たな分野を開拓した。「庭屋一如」を理想として掲げた設計作品は数多いが、主なものとして、大濠公園日本庭園茶会館(福岡、1984年)、新宿御苑楽羽亭(東京、1987年)、山寺芭蕉記念館(山形、1989年)、出羽遊心館(山形、1994年)、兼六園時雨亭(石川、2000年)、ギメ東洋美術館虚白庵(パリ、2001年)等がある。91年には白鳥公園「清羽亭」(愛知)の建築設計にて日本芸術院賞を受賞した。 これらのプロジェクトは創作活動の場であると同時に、伝統木造建築技術の伝承と発展のための機会としても常に意識されていた。87年には後継技術者養成を目的とする日本建築専門学校の設立に協力、後に理事長を務めた。さらに、11年には一般社団法人伝統を未来につなげる会を設立し、理事長として伝統木造建築技術の継承普及に尽力した。 数寄屋や茶室を中心とする歴史的建造物の保存への貢献も中村の大きな功績である。桂離宮の昭和大修理に伴って宮内庁が設置した整備懇談会の委員を76年から83年まで務めたほか、86年から03年まで文化庁文化財保護審議会の専門委員を務め、京都府をはじめとする地方自治体でも文化財保護審議会委員として文化財保護行政に助言した。 その他の受賞歴として、98年京都市文化功労者、00年淡々斎茶道文化賞、06年京都府文化賞特別功労賞等。上記以外の主な著作に、『茶匠と建築』(鹿島出版会、1971年)、『日本建築史基礎資料集成20 茶室』(中央公論美術出版、1974年)、『茶室大観1~3』(創元社、1977―78年)、『数寄屋建築集成』(小学館、1978―85年)、『図説 茶室の歴史-基礎がわかるQ&A』(淡交社、1998年)、『古典に学ぶ茶室の設計』(建築知識、1999年)、『茶室露地大事典』(淡交社、2018年:監修)等があり、設計作品集としては『公共茶室―中村昌生の仕事』(建築資料研究社、1994年)、『数寄の空間―中村昌生の仕事』(淡交社、2000年)等がある。

平田実

没年月日:2018/11/04

読み:ひらたみのる  写真家の平田実は11月4日、肺炎のため死去した。享年88。 1930(昭和5)年、東京府北豊島郡板橋町(現、東京都板橋区)に生まれる。旧制早稲田中学校4年修了後、貴族院速記練習所(1947年新憲法施行後は参議院速記者養成所)に入所。同所修了後に速記者として採用され、参議院記録部に勤務する。幼少期から絵を描くことが得意で美術方面への進路を志望していたが、家庭の事情等により断念したこともあり、養成所時代から画塾や舞台芸術学院に通うなど、速記者の仕事のかたわら広く芸術への関心を深めており、体調を崩して参議院を退職した後、そうした関心のひとつであった写真に本格的にとりくみ始めた。 当初、独学のアマチュアとして写真雑誌の月例公募などに投稿していたが、53年には『國際寫眞サロン』(朝日新聞社)に作品が入選、掲載され、50年代半ばからは業界誌写真記者を経てフリーランスの写真家として活動するようになる。撮影とともに、記事の執筆もできたことから業界紙や雑誌など各種の仕事をてがけ、その中で、美術家篠原有司男と取材を通して知り合ったことをきっかけに、60年代にはさまざまな前衛芸術家と交遊を深め、その活動を記録するようになった。ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ、ハイレッド・センター、オノ・ヨーコ、ゼロ次元などが60年代に展開したさまざまなアクションやパフォーマンスは、平田が撮影した写真が週刊誌などに掲載されることで広く社会に発信されることとなった。 67年には返還前の沖縄に渡航、以後、沖縄各地の取材を重ね、風土や伝統的な琉球文化、また戦後沖縄の変化の様相などを撮影、75年写真集『うるま・美しい沖縄』(読売新聞社)にまとめる。またハンググライダーやパラグライダー、熱気球などのスカイスポーツに早くから関心を持ち、『ハンググライダー』(萩原久雄との共著、講談社、1980年)、『風のくに』(情報センター出版局、1991年)などの著作がある。 速記者としての経験をふまえ、写真による記録の持つ意義を一貫して重視し、とくにその姿勢は1960年代の前衛美術をめぐる仕事において、パフォーマンスなど、物質的な作品の残らない美術表現の貴重な記録を残すことへと結びついた。そうした仕事は前衛美術の再評価とともにあらためて注目され、2000年代に入ってから、『超芸術Art in Action―前衛美術家たちの足跡 1963―1969』(三五館、2005年)や『ゼロ次元―加藤好弘と60年代』(河出書房新社、2006年)などにまとめられた。また没後の個展「東京慕情/昨日の昭和 1949―1970」(タカ・イシイギャラリー フォトグラフィ―/フィルム、東京、2019年)で戦後復興期から高度経済成長期における東京の街や市井の人々を記録したシリーズが紹介されるなど、前衛美術関連以外の仕事への再評価も進みつつある。

堀尾貞治

没年月日:2018/11/03

読み:ほりおさだはる  具体美術協会会員で芸術家の堀尾貞治は11月3日に兵庫運河貯木場跡で死去した。享年79。 1939(昭和14)年神戸市兵庫区浜中町に父壽春、母まさの三男一女の長男として生まれる。父はカメラマン、叔父幹雄は陶芸家濱田庄司のコレクターで、大阪民藝協会設立とともに常務理事を務めた。中学卒業後、家計を支えるために、三菱重工業神戸造船所に就職。造船所養成校で学び、製図の仕事に従事、洋画部にも所属、主に製造部門で定年まで勤める。在職中は仕事と創作活動を両立させ、これまで多い時には年間100回以上の個展やパフォーマンスなどを行った。57年より芦屋市展に出品、自由美術協会展と独立美術協会展にも入選。64年より京都アンデパンダンに出品。65年、第15回具体美術展に初出品、翌年会員となり、72年の同協会が解散するまで参加。66年、初個展を開催(大阪・信濃橋画廊、企画=高橋亨)。68年、木村昭子と結婚。73年に坂本昌也とはじめた「京都北白川美術村」を舞台にした活動をはじめる。75年頃からの神戸の居酒屋「ぼんくら」、79年に神戸三宮東門筋のうどん屋の2階に開設した東門画廊等で、実験的な展覧会が数多く行われるスペースの運営に携わる。80年代は職場でのストレス等により、しばしば精神不安定となり、怪我も多く入院することもあったという。その一方でこの時期に「空気」「あたりまえのこと」という生涯にわたる創作のテーマを見いだす。82年、京都・アートスペース虹にて個展を開催。85年、白内障手術の際に、失明しても可能な制作行為として、身の周りのあらゆるものに、毎日1色ずつ塗り重ねていくことで、アトリエの物質自体を行為の集積造形として現前化させる「色塗り」をはじめる。同年、東門画廊が閉廊、そのあとを継ぐかたちで六間画廊開設。86年に出向、その同僚周治央城と大判木版画「妙好人伝」シリーズ等を制作・発表。87年、神戸国際交流館内に画廊ポルティコがオープン、神戸市文化振興財団から運営を受託。1993(平成5)年、山下克彦との往復書簡「SADA」がはじまる。95年、阪神淡路大震災に際して、叔父からの助言で震災風景を描き、学校、役所、寺院等で展示する。97年から毎日起床後、アトリエに10枚ほどの紙を並べ、1枚1分以内の速さで描く「1分打法」をはじめる。2002年、「堀尾貞治展 あたりまえのこと」(芦屋市立美術博物館)開催。03年、神戸・兵庫運河貯木場で野外展「空気美術館」開催、堀尾と交流のあったアーティスト達が参加し約1年間作品展示とパフォーマンスを行う。これを契機として現場芸術集団「空気」(事務局長=原口研治)が誕生。05年、横浜トリエンナーレに現場芸術集団「空気」と参加、連続82日のパフォーマンスを行う。11年、ベルギーで個展、作品集刊行。14年、個展「堀尾貞治 あたりまえのこと 今」(神戸・BBプラザ美術館)開催。16年、奈良県額田部・喜多ギャラリーで1000枚のパネル作品「千Go千点物語」制作。このころ、メニエール病を発症、18年に鬱状態となり自死を選んだ。その時々で自らの状況を受け入れ、時間や空間、人を含めた日常生活全般と美術活動を共鳴させ、自身の創作精神を具現化した。晩年は、具体美術協会の活動を再評価する機運が国内外に高まり、注目を集めた。 作品集に『堀尾貞治80年代の記録』(熊谷寿美子、1998年)、『親戚のさだはるさん』(松田陽子、2010年)、『堀尾貞治』(堀尾あや、2020年)等、展覧会記録映像に『Sadaharu Horio Solo Exhibition:Oridinary Things』(〓屋市立美術博物館、2003年)。堀尾と妻昭子の活動をまとめた公式サイト「堀尾貞治・堀尾昭子」(https://sadaharuhorio.net/index.html)、YouTubeチャンネル「堀尾貞治 あたりまえのこと」(https://www.youtube.com/channel/UCwM―gmmvWrMtRAk3kBRGj6A/featured)がある。

小笠原信夫

没年月日:2018/10/29

読み:おがさわらのぶお  日本刀剣史の研究者である小笠原信夫は、10月29日心筋梗塞により死去した。享年80。 1939(昭和14)年、千葉県香取市佐原に父勤一、母らくの長男として生まれる。62年、早稲田大学政治経済学部を卒業。幼少の頃から日本刀が好きであったと語っており、大学時代に師となる佐藤貫一(寒山)の指導を受け、64年佐藤が設立に加わった財団法人日本美術刀剣保存協会に研究職として採用される。67年、東京国立博物館の学芸部工芸課に転職し、刀剣室員・主任研究官を経て83年刀剣室長、1994(平成6)年、工芸課長を務め、2000年3月退官する。その後10年まで聖心女子大学の非常勤講師として博物館学等を講義した。 専門とした日本刀剣史では、初めは桃山から江戸時代の新刀について、実物作品の作風や銘文の精査、それに当時の刀剣書のみならず随筆などから刀工について再検討を行い、多くの論文を発表した。江戸の刀工については、『長曽祢乕徹新考』(雄山閣、1973年)、「江戸の新刀鍛冶」(『MUSEUM』209・213・225、1968年・68年・69年)、また京、大阪の新刀については、「大阪新刀鍛冶・河内守国助考」(『MUSEUM』197、1967年)、「出羽大掾国路に関する一私考」(『MUSEUM』265、1973年)、「埋忠明寿とその周辺に関する一考察」(『MUSEUM』265、1976年)等がある。 その後研究の幅を広げ、古刀についても実物資料を重視するとともに、室町時代以来の刀剣書の記述内容を再検討し、刀工の系譜や代別等について新たな見解を示した。79年の「長谷部国重についての一考察」(『MUSEUM』338)では相州鍛冶新藤五国光との関係と系譜に新解釈を加え、83年の『備前大宮鍛冶の系譜に関する問題』(『MUSEUM』385)では、これまでの大宮鍛冶と言われていた者は全くの別系統であることを示した。これらの論文のほか、古刀に関しては、「備前長船鍛冶長光の研究」(『東京国立博物館紀要』15、1979年)、「山城鍛冶了戒・信国考」(『MUSEUM』409、1985年)、「正宗弟子説の成立過程―『古今銘尽』開版の諸条件―」(『MUSEUM』495、1992年)等がある。18年、それまでの論文をまとめた『刀鍛冶考―その系譜と美の表現』(雄山閣、2019年、没後刊行)を発刊準備中に亡くなった。 東京国立博物館では特別展「日本のかたな 鉄のわざと武のこころ」(1997年)、特設展観「打刀拵」(1987年)等の展覧会を企画した。

藤戸竹喜

没年月日:2018/10/26

読み:ふじとたけき  アイヌ民族彫刻家の藤戸竹喜は10月26日多臓器不全のため死去した。享年84。 1934(昭和9)年8月22日、北海道美幌町に生まれる。父・竹夫は彫り師であった。幼い頃に旭川の近文コタンへ移り、12歳から父のもとで熊彫りをはじめたという。熊彫りは、北海道において土産物として人気を博していた民芸品であり、旭川はそのルーツのひとつといわれている。その旭川で修業をはじめた藤戸は、15、6歳の頃に、当時熊彫りが作られはじめた阿寒湖に父と訪れ、以後3年間、夏季に同地の土産物産、吉田屋で職人として仕事を受けもつようになった。 54年、札幌に移った父の片腕として仕事をするとともに、全国の観光地をめぐって熊彫りの武者修行を行う。60年には阿寒に戻り、再び吉田屋に入るが、64年に独立し、同地に民芸店「熊の家」を構えるようになった。この頃の作品に「怒り熊」などがあげられる他、熊彫りのレリーフなども制作した。65年には第1回木彫製品作成コンクールにて北海道知事賞を受賞するなど、その腕を上げ、67年には阿寒湖の環境保全や観光振興を担っていた前田一歩園に「群熊」を納めている。 69年、前田一歩園三代目園主の前田光子より、二代目園主である前田正次の十三回忌に供える「樹霊観音像」(正徳院蔵)の制作依頼を受ける。それまで藤戸は熊彫りの制作に専念していたが、この「樹霊観音像」をきっかけに、アイヌ風俗や文化を反映した作品を制作するようになる。翌年には、「カムイノミ まりも祭り 日川善次郎」や、「熊狩の像 菊池儀之助」などアイヌの伝統文化を守る身近な人物をモデルとした作品を制作。これらは販売を目的としない作品であった。以後、アイヌ文化の精神を彫刻作品に表すことを使命として制作活動を行った。 また、「樹霊観音像」完成後から肖像彫刻の依頼が増えたことも表現の広がりにつながったとみられる。71年には札幌ソビエト領事館の依頼により「レーニン胸像」を、翌年には東海大学の依頼により、「東海大学総長松前重義像」を制作。その後も、さまざまな肖像彫刻を手掛けた。 75年には自身のアトリエ兼住居の藤戸民芸館が完成し、78年には「藤戸竹喜彫刻展」(旭川 西武百貨店)、82年には「木彫小品展」(画廊丹青)、86年には、「カムイとエカシ 藤戸竹喜作品展」(優佳良織工芸館)を開催する。そして、1992(平成4)年には祖母をモデルとした「藤戸タケ像」を制作し、翌年に同作は国立民族学博物館へ収蔵された。また、94年から97年までは毎年個展を行うなど精力的な活動を展開した。 2000年代前後からは発表の場が北海道だけではなく本土、さらには海外の展覧会に出品される機会が増え、99年には「ANIU:Spirit of a Northern People」(スミソニアン国立自然史博物館)、2003年には「アイヌからのメッセージ」(徳島県立博物館他)、07年には「アイヌからのメッセージ2007」(一関市博物館他)において作品を発表している。 14年には釧路市文化賞、翌年には北海道文化賞を受賞。また、16年には地域文化功労者(芸術文化分野)として文部科学省大臣賞を受賞。そして、17年には大規模個展「現れよ。森羅の生命―木彫家藤戸竹喜の世界」(札幌芸術の森美術館、国立民族学博物館)が行われ、その制作活動が顕彰された。 藤戸は生涯、砂澤ビッキなどの一部を除き、彫刻家との交流も少なく、中央の美術界と直接接点を持つことはなかったようである。そのため、同時代の作家とは異なり、野外彫刻展や国際美術展等で評価されていた彫刻家とは異なる文脈で活動していた作家といえよう。 熊をはじめとする動物たちの姿を通し、豊かでありながらも険しい北海道の自然を表す一方で、アイヌの伝統や文化、精神を表現した作品や、先人に思いを馳せた美術作品を多く手がけた。商業的性格が強かった「熊彫り」を美術作品へ昇華させ、さらにはアイヌの伝統と文化を国内外に広めた功績は大きい。

明珍昭二

没年月日:2018/10/26

読み:みょうちんしょうじ  株式会社明古堂設立者で仏師・修理技術者の明珍昭二は10月26日に死去した。享年91。 1927(昭和2)年7月29日、奈良県奈良市高畑町に明珍家の五男として生まれる。父の明珍恒男は明治から昭和にかけて数多くの仏像修理を手がけ、奈良県美術院主事を務めた。40年3月、恒男が死去。44年3月に大阪府立四条畷中学校(現、大阪府立四条畷高等学校)を卒業し、4月、南満州鉄道株式会社に就職する。45年8月、満州にて終戦を迎え、46年に帰国した。47年4月、東京美術学校(現、東京藝術大学)彫刻学科に入学し、彫刻家・平櫛田中の指導を受ける。52年3月、同大学を卒業。同年7月には鎌倉・覚園寺で美術院が行っていた木造薬師三尊像・十二神将像の修理作業に参加し、修理者としての道を歩むようになる。同じ頃、修理の仕事と並行して世田谷区立中学校(梅ヶ丘・駒留・砧)にて美術の非常勤講師として勤務する。彫刻史研究者の丸尾彰三郎・西川新次らの勧めによって、次第に指定文化財の仏像修理に携わるようになり、64年6月には株式会社明古堂を設立。当初は合成樹脂を用いて仏像などのレプリカ制作を行う会社であったが、第一次オイルショックの影響で原材料の入手が難しくなって以降は仏像修理に専念することになる。 修理技術者として、生涯にわたって数多くの指定文化財の修理を手掛けた。主な修理作品に、千葉・観音院阿弥陀如来坐像(千葉県指定文化財)、東京・浄真寺五劫思惟阿弥陀如来坐像(世田谷区指定文化財)、静岡・桑原薬師堂阿弥陀如来坐像および両脇侍像(重要文化財)、千葉・正延寺五智如来坐像(千葉県指定文化財)、千葉・迎接寺阿弥陀如来坐像及び両脇侍像(千葉県指定文化財)、北海道・宗圓寺五百羅漢像(北海道指定文化財)など。また、神奈川・宝樹院阿弥陀三尊像(神奈川県指定文化財)や、福島・泉竜寺十一面観音菩薩立像(福島県指定文化財)、鎌倉国宝館(旧辻薬師堂)・十二神将立像(神奈川県指定文化財)、神奈川・寶金剛寺不動明王および二童子立像(神奈川県指定文化財)など、明珍が解体修理を行った過程において像内銘記や納入品が発見された作例も少なくない。 1989(平成元)年から90年にかけては、火災に遭った東京・寛永寺開山堂(両大師)天海僧正坐像の修理を行い、「大仏師」の称号を授与された。95年10月、長年の文化財保護の功績により文化庁長官表彰を受ける。

馬杉宗夫

没年月日:2018/10/12

読み:うますぎむねお  フランス中世を専門とする美術史家で武蔵野美術大学名誉教授の馬杉宗夫は10月12日、肺炎のために死去した。享年76。 1942(昭和17)年9月15日広島県呉市に生まれる。67年東京藝術大学美術学部芸術学科卒業、69年同大学修士課程修了後、同大学芸術学科副手(非常勤助手)を経て、70年よりパリ大学付属美術・考古学研究所にフランス政府給付留学生として入学、フランス・ゴシック美術の大家ルイ・グロデッキに師事した。フランス中世美術(サン・ドニ修道院の彫刻)を研究テーマとし、74年に博士課程を修了した。帰国後は、75年以降、東京経済大学、日本大学、清泉女子大学、武蔵野美術大学、津田塾大学で非常勤講師を務めた。80年より武蔵野美術大学助教授に着任、84年に同教授に昇任し、2009(平成21)年の定年退官に至る約30年の長きにわたり、同大学にて研究、学生指導、大学運営に尽力する。同年に同名誉教授となる。 その生涯を通じ、フランスをはじめとする西洋の中世美術史研究に従事した。とりわけフランス留学中の経験に基づきつつ、ロマネスクおよびゴシック美術の多様性に光を当てたエッセイや著作は、広く中世美術を紹介することに貢献した。西洋美術に関する著作としては、巨大なゴシック大聖堂の誕生に至るまでを教会堂建築の起源から丁寧にたどった『大聖堂のコスモロジー:中世の聖なる空間を読む』(講談社、1992年)、正統なキリスト教美術からは逸脱した異質な図像表現に焦点を絞った『黒い聖母と悪魔の謎:キリスト教異形の図像学』(講談社、1998年)が挙げられ、きわめて専門的な内容ながらも、斬新な切り口と明瞭な文章により、一般読者のための中世美術史入門書として意義深い。また、2000年から2003年にかけて出版された中世美術に関する四部作、すなわち『シャルトル大聖堂:ゴシック美術への誘い』(八坂書房、2000年)、『ロマネスクの美術』(同、2001年)、『パリのノートル・ダム』(同、2002年)、『ゴシック美術:サン・ドニからの旅立ち』(同、2003年)は代表的著作と言うべきシリーズであり、教会堂を核とした総合美術として中世美術を捉えつつ、建築や彫刻、ステンドグラスや壁画といった諸作品を分析してゆく視点は、他の著作でも一貫するものである。 上記以外の主要な編著書および訳書は下記の通りである。『ダヴィッド/アングル/ドラクロワ/ジェリコー/シャッセリオー』(ファブリ研秀世界美術全集:8、研秀出版、1978年)、『シャルトルの大聖堂』(共著、世界の聖域:15、講談社、1980年)、『ロマネスクの旅:中世フランス美術探訪』(日本経済新聞社、1982年)、『イスラム/ロマネスク/ゴシック』(翻訳、世界の至宝:3、ぎょうせい、1983年)、『図説西洋美術史』(共著、八坂書房、1984年)、『ヨーロッパの文様』(共編、世界の文様:1、小学館、1991年)、『スペインの光と影:ロマネスク美術紀行』(日本経済新聞社、1992年)、ユルギス・バルトルシャイティス著『異形のロマネスク:石に刻まれた中世の奇想』(翻訳、講談社、2009年)。

小杉武久

没年月日:2018/10/12

読み:こすぎたけひさ  作曲家で演奏家の小杉武久は、10月12日食道がんのため死去した。享年80。 1938(昭和13)年3月24日、東京に生まれる。東京藝術大学楽理科卒業。同大学在学中、水野修孝とともに即興演奏をはじめ、60年に塩見允枝子、刀根康尚らと「グループ・音楽」を結成。61年に第1回公演「即興演奏と音響オブジェのコンサート」(赤坂・草月会館ホール)を開催。その後、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ、邦千谷、土方巽、VAN映画研究所等、前衛的な芸術家との関係を深め、62年には演奏会「演奏の夕」(新宿・風月堂)での一柳慧との共演、犯罪者同盟による演劇公演「黒くふちどられた薔薇の濡れたくしゃみ」(早稲田大学大隈講堂)音楽担当、飯村隆彦による実験映画「くず」のための音楽作曲、一柳慧作曲「パラレル・ミュージック」で小野洋子らとの演奏(NHK第二放送)等という舞踏・演劇・映像のための音楽へと作品発表の場を広げる。63年、第15回読売アンデパンダン展には真空管ラジオを用いた「Micro 4 / instrument」を出品。64年、オフ・ミューゼアム展(新宿・椿近代画廊)にテルミンを使用した「Malika for Object」を出品。同年、マース・カニングハム舞踏団初来日、ジョン・ケージらと共演。65年に渡米、フルクサスの作家と交流を持つ。68年、現代芸術のシンポジウムExpose1968(草月会館ホール)第二夜、室内楽作品の特集で「Catch Wave ‘68」を発表。69年、クロストーク/インターメディア(代々木国立競技場第二体育館)に「Mano―Dharma,electronic ‘69―1」を発表。同年、小杉を中心としてジャズ、ロック、現代音楽などのジャンルの要素を融合させた即興音楽集団「タージ・マハル旅行団」結成。70年、日本万国博覧会では開会式で電子音響「ロボットのイヴェント」、会期中のお祭り広場のテープ音楽、5月と9月の吉原治良制作「夜のイベント」での音楽を担当した。71年、パリ・コミューン100年祭「ユートピア&ビジョンズ」(ストックホルム現代美術館)のために渡欧、その後、ヨーロッパ各地で演奏、タージ・マハルまでの旅を続け、翌年に帰国。76年、マース・カニングハム舞踊団の公演に参加、タージ・マハル旅行団から離れ、翌77年、米国移住、マース・カニングハム舞踏団専属の作曲家・演奏家に就任、世界各地で公演を行い、また美術館でサウンド・インスタレーションの発表も旺盛に行う。その後、ヴァイオリン演奏家としても活動。82年、ハンブルク美術学校の客員教授赴任。86年、パリのポンピドゥー・センターでの「前衛芸術の日本 1910―1970」展に出品、会場でパフォーマンスも行う。1994(平成6)年、マース・カニングハム舞踊団日本公演(新宿文化センターほか)。2008年、横浜トリエンナーレに参加した。インターメディアアート、即興音楽、サウンド・インスタレーションのパイオニアであり、晩年まで、ジャンルを超え、実験的で何ものにも捉われない自由な表現を追求し続けた。歿後、演奏・展示・映像上映を通じて小杉の活動を振り返る「小杉武久の2019」(深谷・HALL EGG FARM、神宮前・360°、UPLINK渋谷、2019年)が開催された。 著書に『音楽のピクニック』(書肆風の薔薇、1991年)、小杉や小杉が参加したグループによるメディアに『グループ・音楽』(HEAR sound art library、1996年、CD)、『小杉武久/Performance』(芦屋市立美術博物館、1996年、VHS)、『タージ・マハル旅行団「旅」について』『小杉武久 Catch―Wave ‘97』(いずれもDiskunion―Super Fuji Discs、2008年、CD)等がある。 美術館での個展には「新しい夏 小杉武久音の世界」(芦屋市立美術博物館、1996年)、「WAVES 小杉武久サウンド・インスタレーション」(神奈川県立近代美術館、2002年、今日の作家Ⅶ)、「小杉武久 音楽のピクニック」(芦屋市立美術博物館、2017―18年)、また国内の美術館での公演として「小杉武久 音の世界 新しい夏 パフォーマンスシリーズ」(芦屋市立美術博物館、1996年)、「日本の実験音楽1960’s演奏会」(水戸芸術館コンサートホールATM、1997年)、「小杉武久コンサート Spacing」(宇都宮美術館、1999年)等がある。川崎弘二編著『日本の電子音楽』(2006年、愛育社、増補改訂版2009年)において、戦後日本の音楽界に旋風をおこした「電子音楽」の作曲家のひとりとしてインタビューが収録されるなど、現代音楽史からも高く評価される。

岩倉壽

没年月日:2018/10/11

読み:いわくらひさし  日本画家で日本芸術院会員、日展顧問、京都市立芸術大学名誉教授の岩倉壽は10月11日、敗血症性ショックのため死去した。享年82。 1936(昭和11)年6月30日、香川県三豊郡山本町(現、三豊市山本町)に生まれる。旧姓門脇壽。55年京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)美術学部日本画科に進み、在学中の58年、第1回新日展に「芭蕉」が初入選する。59年同大学美術学部日本画科を卒業。同年晨鳥社に入塾して山口華楊に師事。61年京都市立美術大学美術学部日本画科専攻科修了。63年京都市立美術大学日本画科助手となる。同年の第15回京展で「里」が京都市長賞を受賞、以後71年まで同展に出品を続ける。この間、70年に京都市立芸術大学の講師となる。72年第4回改組日展で「柳図」、76年第8回改組日展で「山里」が特選を受賞。この間、73年にフレスコ壁画の日本画材による摸写研究のためイタリアへ出張、トンマーゾ・ダ・モデナの「聖オルソラ物語」連作(トレヴィーゾ市立美術館蔵)等を摸写。75年に京都市立芸術大学助教授となる。77年京都市芸術新人賞を受賞。82年日展会員となり、88年第20回改組日展で「沼」により日展会員賞、1990(平成2)年第22回改組日展では「晩夏」が内閣総理大臣賞を受賞。この間、87年に京都市立芸術大学教授となる。96年第9回京都美術文化賞、98年京都府文化賞功労賞を受賞。2002年に京都市立芸術大学を定年退官し、同大学名誉教授となる。03年「南の窓」(第34回改組日展出品)により日本芸術院賞受賞。同年日展理事に就任。04年京都日本画家協会理事長となる。同年京都市文化功労者として表彰。06年日本芸術院会員となる。07年日展常務理事に就任。17年京都府文化賞特別功労賞受賞。風景や花鳥を対象として、中間色を主とする微妙な色調で表現。微細な筆触により創出された画面は澄明な精神性を宿し、確固たる存在感を放つ。京都画壇日本画秀作展には85年第1回展より毎年招待出品。他に79、83年昭和世代日本画展、97、98、01年日本秀作美術展出品。個展としては09年高島屋美術部創設百年記念「岩倉壽展」、10年笠岡市立竹喬美術館「岩倉壽」、11年京都・ギャラリー鉄斎堂「岩倉壽・エスキース展」、15年京都府立堂本印象美術館「京都現代作家展Vol.5 岩倉壽 エスキースと日本画」が開催されている。また11年には笠岡市立竹喬美術館館長の上薗四郎の監修により作品集が刊行された。

秀島由己男

没年月日:2018/10/03

読み:ひでしまゆきお  銅版画家の秀島由己男は、10月3日に死去した。享年84。 1934(昭和9)年4月15日、熊本県水俣市に生まれる。本名秀嶋幸雄。50年、水俣市立水俣第一中学校を卒業。卒業後、中学校の美術教師長野勇が主宰する画塾に通いはじめ水彩画の指導を受け、同画塾では後に歌人、小説家となる石牟礼道子(1927-2018)を知る。また卒業した中学校の事務補佐員として働きはじめ、勤務の傍ら、ペン画を描きはじめる。 53年、第1回熊本県水彩画展に「静物」を出品、グランプリを受賞。同年、第8回熊本県美術協会展に初入選。54年、新日本窒素肥料水俣工場の絵画クラブの市民会員として加入、ここで海老原美術研究所(海老原喜之助主宰)から派遣されていた講師から油彩画の手ほどきを受ける。同年、結核と診断され入院、入院中に短歌を学ぶ。57年、東京より帰郷した浜田知明を紹介され、自作のペン画の助言を受ける。61年、この年に銅版画制作を試みた。 63年11月、第18回熊日総合美術展に「霊歌A」等3点のペン画を出品、神奈川県立近代美術館「K氏賞」受賞、同美術館の買い上げとなる。また、同展の審査員だった海老原喜之助を知り、師事する。65年、水俣市から熊本市に転居。65年11月、第20回熊日総合美術展にペン画3点を出品、そのなかの「祖国の霊」で熊日賞受賞、神奈川県立近代美術館の買い上げとなる。同展の審査員であり、同美術館長であった土方定一を介して、翌年3月、南天子画廊で第1回「秀島由己男個展-ペンに依る黒の歌」を開催。67年、浜田知明より銅版画プレス機を譲り受け、本格的に銅版画制作をはじめる。74年4月、『詩画集・彼岸花』(詩、石牟礼道子)、『版画集・わらべ唄』を南天子画廊から出版、また同月、浜田知明とともに銅版画4点を制作した『土方定一童話集 カレバラス国の名高きかの物語』(歴程社)出版。75年、第1回ユベスキュラ・グラフィカ・クリエイティヴァ国際版画トリエンナーレ(フィンランド)に『版画集・わらべ唄』を出品、ディプロマ賞受賞。80年代以降、国内外での評価の高まりとともに、熊本県立美術館、東京都美術館等の各地の美術館での企画展に出品されるようになる。84年東京に移住するが、なじめずに87年に帰郷。85年、『詩画集 静物考』(詩、高橋睦郎)、1989(平成元)年、『版画集 舊約聖書:詩編より(霊歌)』(選文、高橋睦郎)を南天子画廊から出版。91年10月から11月、熊本市と水俣市にて「秀島由己男自選展」開催。94年4月から翌年3月まで、『熊本日日新聞』に月1回自身の半生をつづったエッセイ「風の舟」を連載。95年1月、大川美術館(群馬県桐生市)にて「魂の叫び 秀島由己男展」開催、ペン画、銅版画等103点出品。97年、『詩画集 われらにさきかけてきたりしもの』(詩、高橋睦郎)を南天子画廊から出版。石牟礼道子の新聞連載小説「春の城」(『熊本日日新聞』1998年4月17日-99年3月1日連載。他に『高知新聞』等6紙に同時に連載。)の挿絵を担当し、300点をこえる作品(内、銅版画239点)を提供した。99年4月、神奈川県立近代美術館別館にて「秀島由己男展」開催、銅版画、ペン画116点出品。 2000年以降、各地の美術館等で回顧展が開催され、主要なものは下記の通りである。 2000年9月、「魂の詩-秀島由己男展」、熊本県立美術館、銅版画等211点出品。 2003年3月「秀島由己男展」、カスヤの森現代美術館(横須賀市) 同年7月「秀島由己男-心の風景」展、八代市立博物館未来の森ミュージアム 2009年8月、「新世界へ…秀島由己男展」、東御市梅野記念絵画館、テンペラ画等45点を出品。 2014年2月、「秀島由己男 創造と探究の生者展」、熊本市現代美術館、作品とともに自身が収集してきたアート・コレクションも初公開された。 2017年2月、コレクション再発見「秀島由己男展」、福島県立美術館 2017年9月、「浜田知明・秀島由己男版画展」、大川美術館、銅版画等62点出品。 なお没後の2019(令和元)年7月、島田美術館(熊本市)にて「秀島由己男展」が開催され追悼された。 緻密な表現による銅版画、ペン画等、「魂の救済」、「魂の叫び」等と評され、孤独感におおわれた幻想性と文学性に富んだ作品を数多く残したが、秀島にとって創作そのものが鎮魂の祈りであったといえるだろう。時流にとらわれることのない、孤高の版画家だった。

川﨑春彦

没年月日:2018/10/02

読み:かわさきはるひこ  日本画家で日展顧問の川﨑春彦は10月2日、老衰のため死去した。享年89。 1929(昭和4)年3月17日、東京都杉並区阿佐ヶ谷において、日本画家の父川﨑小虎と母清子の間に、5人兄弟の末子として生まれる。曾祖父は明治時代の大家として知られる川﨑千虎。また4歳上の兄鈴彦は日本画家で、長姉澄子は40年、春彦11歳の折に東山魁夷に嫁している。41年3月に東京府豊多摩郡杉並第一尋常小学校(現、杉並区立杉並第一小学校)を卒業、4月には日本大学第二中学校に入学する。同年12月には太平洋戦争がはじまり、道路工事や立川飛行機工場での作業に従事。44年12月には一家とともに山梨県中臣摩郡落合村へ疎開した。45年3月に日本大学第二中学校を卒業すると東京美術学校(現、東京藝術大学)予科へ進学。食糧難や社会情勢への不安などから、学校へはたまに行く程度であったといい、終戦後も疎開先に留まり、父小虎や兄鈴彦、義兄の東山魁夷らと山梨の山野を写生して歩き、絵を描く喜びを覚えたという。46年4月東京美術学校日本画科に入学。48年7月には父とともに東京へ戻り、50年3月、東京藝術大学を卒業した。同年4月第10回日本画院展に「山の湖」「十一月の頃」が初入選、10月には自宅近くに取材した「阿佐ヶ谷風景」が第6回日展で初入選を果たした。日本画院展ではその後、第11回展(1951年)で奨励賞、第12回展(1952年)で日本画院賞第一席、第13回展(1953年)で魚菜園賞、第14回展(1954年)で友の会賞、第15回展(1955年)でG氏賞を受賞し、第16回展(1956年)では日本画院賞受賞とともに、同人に推挙されている。51年3月には東京美術学校日本画科第60回卒業生10名による研究発表会「縁日会」の結成に参加、同年の第1回展から54年の第4回展まで毎年出品する。また同年6月には小虎塾の有志が研究会「森々会」を結成、その第1回展へ「四月の頃」「森」「高原」「丘」を出品した。同会へはその後も、56年まで毎年出品している。この頃から川﨑は全国の山や森林を写生して回るようになった。57年3月17日上田陽子と結婚。59年12月には長女麻子が誕生した。61年4月、兄鈴彦との二人展を文藝春秋画廊で開催。同年6月には栃木県会館で「川﨑春彦日本画展」を開く。さらにこの年の第4回新日展では、丹沢山麓でスケッチした、台風前の強風に揺れ動く森のようすに着想を得た「風の森」で特選・白寿賞を受賞した。この頃の作風は大量の写生をもとにした写実的なもので、ごまかしがきかないと自ら語る枯れ木をモチーフにした作品をしばしば手掛けている。62年には第5回新日展に「冬愁」が入選、同作は翌63年2月の第4回みづゑ賞選抜展に招待出品された。また63年には日展無鑑査となり、64年にはインドネシアに取材した「孤島」で再び特選・白寿賞を受賞、65年からは出品委嘱となる。「孤島」は暗く荒れた海と低く垂れこめた雲で構成された作品で、これ以降、川﨑は風や雲を中心テーマとして制作をするようになっていく。69年6月「空をテーマに―川﨑春彦近作展」(フジ・アート・ギャラリー)を開催。73年には日展会員となる。74年11月には「風をテーマに―川﨑春彦展」を日本橋・髙島屋にて開催。同展はさまざまな風の姿を描き分けようと、日本や外国で出会った風のスケッチをもとにした作品で構成された。76年10月の改組第8回日展には、雲間から射す光に照らされた富士を描いた「燿く」を出品。この頃より川﨑は富士山を描きはじめるが、写生だけでは絶対に描けないと、心で見た富士の姿を描き出していった。78年5月、横綱昇進した若乃花(二代)の化粧まわしをデザイン。80年5月には日展評議員となる。83年10月の改組第15回日展では英国に取材した「野」で文部大臣賞受賞。87年の改組第19回日展には富士山を背に勇ましい姿を見せる龍を描いた「天駆ける」を出品。翌年にかけて龍を描いた作品を複数制作する。これ以降、それまで自然の厳しさを表現してきた川﨑の作風が、1990(平成2)年の改組第22回日展へ出品された「天」のように、自然の優しさや美しさを感じさせるものへと変化していった。90年には日本相撲協会より横綱審議委員会委員を委嘱され(2003年まで)、95年に貴乃花が新横綱となった際には、明治神宮での奉納土俵入りに出席。その化粧まわし「日月赤富士」をデザインした。99年に若乃花(三代)が横綱昇進した折には、下保昭とともに化粧まわしのデザインを行い、2000年9月の断髪式には3番目にはさみを入れた。04年改組第36回日展に「朝明けの湖」を出品、翌05年6月同作に対して、恩賜賞・日本芸術院賞が贈られた。同年日展理事となり、06年12月には日本芸術院会員となった。07年には日展常務理事に、09年には同顧問となる。18年5月旭日中綬章受章。没後の10月27日には従四位に叙された。 長女の川﨑麻児も日本画家として活躍している。

最上壽之

没年月日:2018/10/02

読み:もがみひさゆき  彫刻家で武蔵野美術大学名誉教授の最上壽之は10月2日心不全のため死去した。享年82。 1936(昭和11)年3月3日、神奈川県横須賀市に生まれる。55年から光風会研究所にてデッサンを学ぶ。翌年に東京藝術大学彫刻科に入学し、石井鶴三に師事した。60年、同校を卒業。卒業制作の「カギ(鍵)」を同年の第10回モダンアート協会展に「イイイイ」と名付けて出品し、奨励賞を受賞した。翌年の第11回モダンアート協会展に「ダンダンダ」を出品。また、同年はじめての個展を村松画廊で開催する。62年の第12回モダンアート協会展で「ナムナムネ」を出品。同会会員となった。以後、69年まで同展に出品している(1970年に退会)。 63年の「コンタクト・セブン展」(椿近代画廊)では、山口勝弘に推薦され「テンテンテン」を出品。また、同年の「彫刻の新世代展」(東京国立近代美術館)に「ハハハハ」「ミロミロザマミロ」「テキテキテキテキ」を発表するなど、モダンアート協会展以外での活動も行うようになる。翌年、「現代美術の動向展」(国立近代美術館京都分館)にて「笑笑笑々」「安安安々」を発表。66年には第1回神奈川県美術展(神奈川県立近代美術館 以後、第5回まで出品)と第7回現代日本美術展に参加(第10回まで出品)。また、同年第6回フォルマ・ヴィヴァ国際彫刻家シンポジウムと「日本・イタリア作家展」で作品を発表。国内外での評価が高まった。67年には第9回日本国際美術展、71年には第4回現代日本彫刻展に作品を発表。そして、73年には第1回彫刻の森美術館大賞展と「戦後日本美術の展開」(東京国立近代美術館)に参加する。 74年には文化庁在外研修員として渡仏。パリを拠点にヨーロッパでさまざまな美術と触れる。翌年、「コテンパン」で第4回平櫛田中賞を受賞。また、同年に同賞の記念展を髙島屋で行う。同年11月にフランスから帰国。その後、数々の展覧会で賞を受賞している。76年には第5回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で「イキハヨイヨイ カエリハコワイ」を出品し兵庫県立近代美術館賞を受賞、翌年に第7回現代日本彫刻展で毎日新聞社賞を受賞する。79年、第8回同展で東京都美術館賞、80年には第7回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「コンナイイモノ ミタコトナイ」を出品し、朝日新聞社賞を受賞。翌年、「ドコマデイッテモ ボクガイル」で第12回中原悌二郎賞優秀賞を受賞した。83年には第10回現代日本彫刻展で第10回特別記念賞・土方定一記念賞、86年には、みなとみらい21彫刻展 ヨコハマ・ビエンナーレ´86でみなとみらい21賞を受賞。また、同年みなとみらいに屋外彫刻「タイヤヒラメノマイオドリ」が設置された。1990(平成2)年には第12回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で優秀賞を受賞。94年、第14回同展でも佳作賞を受賞している。また、2001年にはこれらの功績が認められ、紫綬褒章を受章した。 彫刻家として高く評価された一方で、教育者としての一面もあり、05年まで武蔵野美術大学彫刻学科教授として後進の教育に携わった。同年、同校にて退任記念展として「コドモ ドコマデモ コドモ」を開催。歿後、同校の教員やOBによって偲ぶ会が行われるなど、多くの彫刻家に慕われていたことが窺える。 先述の作品の他、「ル、ル、ル、ル」(1968年)「バッ ドラネコミャオー」(1979年)「テクテクテクテク」(1983年)など、リズミカルでユーモラスなタイトルが特徴的な作品を多く遺した。その他野外彫刻も手掛けており、新潟県の加茂駅前に「ウキウキ ワクワク ナニモカモ」(1991年)、神奈川県横須賀市の中央公園に「ヘイワ オーキク ナーレ」(1992年)、同県みなとみらい21に「モクモク ワクワク ヨコハマ ヨーヨー」(1994年)を設置している。カタカナのリズミカルなタイトルと、構造的でありながらも軽快な形を有する作品は、今も多くの人々に愛されている。

笠木實

没年月日:2018/08/27

読み:かさぎみのる  春陽会会員の洋画家笠木實は、8月27日に没した。享年98。 1920(大正9)年1月1日、群馬県桐生市に、市内でも有名だった魚問屋「魚萬」を経営し、さらに冷凍工場やバスやタクシー会社を経営していた笠木萬吉の次男として生まれる。はやくから美術に関心を寄せるようになり、桐生中学校在学中の1935(昭和10)年の夏休みに東京にあった西田武雄が主宰するエッチング研究所に通い、銅版画プレス機を購入した。同年12月、西田の紹介で同舟舎研究所に入所して田辺至の指導を受けた。37年、東京美術学校油絵科入学。同期には清宮質文、また一学年下には駒井哲郎がいて交友。同学校在学中から、日本版画協会、国画会展にエッチングを出品。41年12月、同学校を繰り上げ卒業。翌年6月には、桐生倶楽部(桐生市)にて個展を開催。同年7月には第3回日本エッチング作家協会展に出品。43年には、日本版画協会の会員となる。44年、45年とつづけて応召するが、同県下高崎の部隊に配属後に終戦となり除隊。戦後は、前橋市出身の南城一夫に師事し、油彩画に専念することをすすめられ、48年から南城と同じ春陽会に出品するようになった。また、49年には桐生美術協会結成にあたり副会長となり、同年開催の群馬美術展で知事賞を受賞。50年に上京して、岡鹿之助宅に寄寓。51年には春陽会賞を受賞、55年に同会会員となる。64年に武蔵野美術大学の共通絵画研究室に赴任して、以後1990(平成2)年に定年になるまで指導にあたった。68年に東京都小平市にアトリエを設けて転居、以後武蔵野の自然をモチーフに柔和な作品を描きつづけた。 2001年4月、渋谷区立松濤美術館にて「今純三・和次郎とエッチング作家協会」展が開催され、草創期の同協会の画家として青年期のエッチング6点が出品された。また12年12月には、和歌山県立近代美術館に寄贈した作品をもとに、コレクション展として「笠木實と日本エッチング研究所の作家たち」が開催された。17年6月には、桐生歴史文化資料館(桐生市)にて回顧展「笠木實の足跡と魚萬笠木萬吉」展が開催された。また、はやくから雑誌の挿絵、絵本のための絵を描き、若いころからスキー、釣り、山歩きを趣味としていたところから、画文集『魚狗の歌』(二見書房、1974年。96年に平凡社ライブラリーから『画文集 イワナの歌』として再刊)、『岩魚の谷、山女魚の渓』(白日社、1994年)等を残した。

古谷蒼韻

没年月日:2018/08/25

読み:ふるたにそういん  書家で文化功労者であった古谷蒼韻は、8月25日、肺炎のため死去した。享年94。 1924(大正13)年3月3日、京都府巨椋池西の北川顔に生まれる。本名繁(しげる)。1939(昭和14)年尋常高等小学校を卒業し、京都府立師範学校に入学。42年、師範学校に書道専攻科が設立され、中野越南に師事した。小学校教員となり、46年、新制東宇治中学へ書道教員として赴任。隣接する黄檗山萬福寺で費隠の額に感銘を受ける。 51年、水明書道展に出品、53年、第5回毎日書道展に出品し秀作となる。この年、辻本史邑にも師事。翌54年、第10回日展に初入選し、以後、新日展にも出品しつづけ、62年には無鑑査出品、68年、日展会員となる(2013年まで)。58年、辻本史邑急逝により村上三島に師事。71年、第15回現代書道二十人展に推薦作家として出品、73年、日本書芸院展覧会部副部長、日本書芸院特別展観の企画構成を担当。78年、第30回記念毎日書道展の実行委員、同記念中国書蹟名品展特設部展実行委員。以後、読売書法会展、日本書芸院、日展で理事などを歴任した。 自身の展覧会としては、2000(平成12)年に書業五十年記念展を東京と大阪で開催。12年、米寿記念展は京都・東京・名古屋・福岡を巡回。最初の師・中野越南の教えである「真の書」を目指して、和漢の原跡を学びながら、独自の書風を打ち立てた。原跡の鑑賞も重要視し、日本書芸院や読売書法会展では「昭和癸丑・蘭亭展」「禅林墨蹟展」等数多くの展覧会に携わり、普及にもつとめた。 81年、第13回日展出品「流灑」が内閣総理大臣賞。84年、第16回日展出品「萬葉歌」が日本芸術院賞。93年、京都市文化功労者顕彰。06年、日本芸術院会員。10年、文化功労者。

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