本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





永井宏

没年月日:1971/12/12

洋画家永井宏は、12月12日病気のため東京都杉並区の自宅で死去した。明治44年2月10日神戸市に生れた。昭和11年帝国美術学校本科洋画科卒業。在学中の同10年第5回独立美術展に初入選し、以後出品を続け会友となった。その間JAN創立にも参加したが、同15年には退会した。その後無所属となり、丸善画廊などにて個展を4回開き、制作活動を続けた。一方東京都千代田区神田にある富士建物管理株式会社の代表取締役でもあった。

田辺三重松

没年月日:1971/12/09

行動美術協会会員の洋画家、田辺三重松は、12月9日午前11時30分、東京都練馬区の自宅で心臓喘息発作のために死去した。享年74才であった。田辺三重松は、明治30年(1897)9月1日、函館市の商家に生まれ、大正5年(1916)北海道庁立函館商業学校を卒業した。その後洋画を独習、昭和3年(1928)15回二科展に二点が初入選、また道展に入選、長官賞をうけた。石井柏亭、安井曾太郎、児島善三郎らの指導をうけ、二科展に出品を続け、昭和18年(1943)二科会会員に推挙された。戦後は、昭和20年(1945)同志と行動美術協会を設立し、雄大な北海道風景を大きな筆勢で描いた風景作品を発表してきた。略年譜昭和3年(1928) 「荷揚げ場」「花草」の二点が二科展(15回)に初入選。昭和4年 「夏の曇り日」「港の午後」(二科展)昭和5年 「造船場町」(二科展)昭和6年 「北国早春の展港」「寿子立像」(二科展)昭和7年 「トラピスト修院の夏」「ハリスト教会堂」(二科展) 昭和9年 「五稜廊」「白き溶岩と駒ヶ岳」(二科展)昭和10年 「チキユ岬」「淀泊」(二科展)昭和11年 「初秋大沼」「飛沫」(二科展)、この年二科展特待となる。昭和13年 「夏の洞爺湖畔」「羽黒山参道」「北洋の荷揚げ」二科会会友に推される。昭和14年 「有珠岳」「燈台の見ゆる岬」(二科展)。大陸前線部隊報道班からの依頼により、野戦絵画展覧会に特別出品する。昭和15年 「新緑の港」「入江夏景(北海道有珠湾)」(二科展)。紀元二千六百年奉祝展に出品。昭和16年 「初夏の山容」「船」(二科展)昭和17年 「岬の午後」「晩春の耕地風景」、二科賞を受ける。昭和18年 「湿地と這松」「残雪のある漁港」、二科会会員に推挙される。北部軍報道部員として北千島派遣部隊に従軍し、新聞紙上に北方通信を連載する。昭和20年 11月、行動美術協会創立に参加する。全北海道美術協会創設に参画する。昭和22年 「緑の池畔」「おつけの浜」「夏の展望」(行動2回展)昭和24年 北海道文化賞を受賞昭和25年 北海道新聞文化賞を受賞する。昭和26年 「原始林」「雪影」「時雨ふる山湖」(行動6回展)昭和28年 「碧い湖(摩周)」「白い林(阿寒)」「朝霧(阿寒)」(行動8回展)昭和30年 「湖畔の白樺」「大雪山と山峡」(行動10回展)昭和31年 「函館港風景」「秋の草原」「断崖の海」(行動11回展)。厚生省の依頼により国立公園「夏の中禅寺湖」を制作する。昭和32年 「夏の大雪山」(行動12回展)。この年、函館市より東京練馬区に転居する。昭和33年 「開墾地」「秋晴るる山湖」「白い裸樹」(行動13回展)昭和34年 「黒い林」「芦の湖畔」「白い断崖」「噴煙の山」(行動14回展)昭和35年 「雌阿寒噴煙」「夏の横浜港」(行動15回展)。「昭和新山」文部省買上げとなる。昭和37年 「草原」「はまなすの砂丘」「白い砂浜」(行動16回展)昭和38年 「積丹の海」「夏の雌阿寒岳」(行動17回展)昭和38年 国際具象派展に出品、6月~12月アメリカを経てヨーロッパへ旅行する。昭和39年 「グランドキャニオン」「フィヨールドの船着場」(行動19回展)昭和40年 「支笏湖」「燈台のある草原」(行動20回展)。東京日本橋高島屋にて個展「スイスとノルウェーの山」を開催する。昭和41年 「黒岳と桂月(大雪山)」「霞沢岳と梓川」(行動21回展)昭和42年 網膜剥離症を病み、右眼失明。昭和43年 「日高の浜」「氷海」(行動23回展)昭和44年 「神威岬」「十勝岳」(行動24回展)昭和45年 「昭和新山」「照りかげる裏大雪」(行動25回展)。東京銀座彩壺堂において個展を開催する。昭和46年 「噴煙桜島」「早春富士」(行動26回展)。12月9日死去し、14日東京築地本願寺において行動美術協会葬として葬儀が行なわれた。

藤江志津

没年月日:1971/11/28

日本水彩画会々員の藤江志津は、11月28日東京都世田谷区の自宅で死去した。享年76歳。明治28年2月15日都下青梅市に生れた。高等女学校卒業後、大正9年藤江醇三郎に嫁し台湾台北市に住まった。昭和5年から東京都世田谷区の現住所に居住。昭和9年第21回日本水彩画会展より昭和45年第58回同展にいたるまで連続出品した。また戦前昭和13年二科会第25回展より第29回展まで数回入選。その他、朱葉会展や白日会展にも出品、終始、水彩画に専心し、水彩画界の古参作家として認められていた。

伊川鷹治

没年月日:1971/11/28

春陽会会員の洋画家、伊川鷹治は、11月28日午前零時、皮膚ガンのため東京・築地の国立ガンセンターで死去した。享年72歳。伊川鷹治は、明治31年(1898)12月28日、長野県小県郡に生まれ、中学校を卒業後、大正6年(1917)上京して赤坂葵橋の白馬会洋画研究所に入所して5年間黒田清輝に師事し、その後、白滝幾之助、山形鼎らの指導をうけた。昭和5年(1930)春陽会8回展に「あんこうなど」が初入選、以後同会展毎回出品、昭和11年(1936)から木村荘八、中川一政らの指導をうけ、昭和18年同会18回展に「文楽人形」「花」「風景」「魚貝」を出品、春陽会賞をうけ、翌19年「文楽の楽屋」「風景」などによって春陽会会友に推された。一方、昭和7年(1932)、銀座資生堂において第1回個展、以後、昭和23年までに5回同所において個展を開催した。昭和23年(1948)春陽会会員に推挙され、美術団体連合展などにも出品した。主要作品に、上記のもののほか、「秋庭」「馬込別れ坂」「菜園の秋」(昭和23)、「春の庭」(昭和23)、「桜行く頃」(昭和24)などがある。

駒井和愛

没年月日:1971/11/22

考古学者駒井和愛は11月22日心筋梗塞のため東京都世田谷区の自宅で死去した。東京大学名誉教授、早稲田大学客員教授、文化財審議会専門委員であった。明治38年1月11日東京都浅草区に生れ、昭和2年早稲田大学文学部東洋史学科卒業。同年東京帝国大学文学部副手となり、翌3年から19年まで中国大陸の考古学的調査と研究に従事した。この間13年に東大文学部講師、東方文化学院研究員となる。20年東大文学部考古学科助教授。21年東大で文学博士の学位受領。26年教授就任。21年より30年まで日本女子大講師。21年より35年まで早大講師。27年日本学術会議東京学研究運絡委員(41年まで)。34年以後文化財専門審議会専門委員となる。同年立教大学大学院講師(45年まで)。40年東大を定年により退官し名誉教授となる。42年より早大客員教授。45年文化財功労者として表彰される。46年11月22日没。戦後昭和29年文部省在外研究員として国際東洋学者会議に出席し、また32年新中考古学視察団に加わって中国を訪問している。著書「東京城」「上都」「牧羊城」「曲阜」「支那古器図攻」「中国考古学研究」「中国古鏡の研究」「竜江」「楽浪郡治址」「北海道環状列石の研究」「オホーツク海、知床半島の遺跡」「登呂の遺跡」その他。

吉原甲蔵

没年月日:1971/11/17

元示現会創立会員の吉原甲蔵は、11月17日死去した。享年72歳。明治32年1月22日佐賀県東松浦郡に生れる。昭和2年数え29歳の時から画道に入り、太平洋画会研究所に学んだ。戦中は太平洋美術学校講師をつとめた。昭和3年第9回帝展に「自画像」が初入選してより官展に出品、同11年文展鑑査展に「母と子供」が入選、この作品は東西両朝日新聞のカレンダーに採用された。同14年第35回太平洋画会展出品の「室内」で太平洋画会賞を受け、同会会員に推挙された。戦後昭和23年示現会創立に際し参加、会員となったが、晩年は同会から離れた。

滝一夫

没年月日:1971/11/07

陶芸家、日展会員、佐賀大学教授の滝一夫は、11月7日午後6時35分、直腸ガンと尿毒症のため京都市伏見区の国立京都病院で死去した。享年61歳。明治43年2月13日福岡市に生れ、修猷館中学を経て昭和13年東京美術学校彫刻科卒業。最初、昭和8年帝展彫刻部に初入選、同10年第11回国展彫刻部に入選、翌11年第12回国展彫刻部では褒状を受賞するなど彫刻に専心したが、美術学校卒業後まもなく陶芸に転じ、瀬戸市陶磁器試験所及び国立京都陶磁器試験所に於て10数年陶磁研究に従事した。その間、昭和15年紀元二千六百年奉祝展に入選、戦後は日展工芸部に作品を発表し続け、昭和29年第10回日展「春」特選、同30年第11回日展「緑釉飛鳥文壺」無鑑査、北斗賞受賞、同32年より日展依嘱、同36年第4回日展において新審査員、翌37年日展会員となった。同41年第9回日展でも審査員をつとめた。一方、同25年にはイタリアのファエンツァ陶磁器博物館に作品が収納され、同27年第1回現代日本陶芸展で朝日新聞社賞、翌28年第2回同展で朝日新聞社奨励賞を受けた。同37年第3回国際陶芸展(チエッコ、プラハ)で銀賞を受賞、同年第1回現代日本工芸美術展の審査員をつとめ、同40年にはベルリン芸術祭へ出品するなど国内外共に顕著な活動を示した。なお、昭和31年から没前まで佐賀大学美術科教授をつとめた。死去に当って勲4等旭日小綬章に叙せられた。

関四郎五郎

没年月日:1971/11/07

春陽会会員の洋画家、関四郎五郎は、11月17日午後、心筋梗塞のため長野県東筑摩郡の自宅で死去した。享年63歳。関は明治41年(1908)4月23日、長野県松本市に生まれ、昭和10年(1935)春陽会13回展に初入選、昭和13年に上京して二科会研究所に入所して熊谷守一の指導をうけた。春陽会展に出品をつづけ、また昭和18年(1943)6回文展、同21年1回日展にも出品入選している。昭和16年、18年と満州へ学生旅行、昭和19年(1944)に浅間温泉に疎開し、アトリエを建て、以後、同地に居住し、昭和25年に洋画研究所を開設し、同23年からは長野県展審査員を数度つとめ長野県地方の美術振興にも尽力した。昭和22年(1947)春陽会会友、同31年同会会員に推挙された。日本橋三越で前後6回個展を開き、昭和43年(1968)同所において画業35年展を開催した。主要な作品に、「春雪」(1956)、「春寒」(1965)、「アルプスの空」(1967)、「朝の太陽」(1971)などがある。

大沢海蔵

没年月日:1971/11/05

日展評議員、光風会理事の洋画家、大沢海蔵は、11月5日午後3時32分、心筋コウソクのため東京・中野の中野総合病院で死去した。享年65歳。大沢海蔵は、明治39年(1906)11月1日、名古屋市に生まれ、愛知県立明倫中学校を卒業、大正13年(1924)川端絵画研究所に入り、岡田三郎助、辻永に師事した。国展、中央美術展、白日展にも出品したが、昭和3年(1928)、光風会15回展に出品、光風賞を受賞、同年9回帝展に「庭」入選、以後、光風展、官展に出品をつづけ、昭和4年光風会会友、同9年会員に推挙され、同15年には岡田賞をうけた。昭和13年2回文展において「草むら」特選となる。昭和27年日展審査員、以後、5回審査員をつとめ、同31年ヨーロッパ各国を旅行、昭和36年、4回日展では「ホルンのある静物」で文部大臣賞をうけた。上記作品のほか、「庭」(昭4)、「秋晴」(昭9)、「初秋の高原」(昭21)、「信に楽し」(昭24)、「円テーブル」(昭26)、「風薫る」(昭29)、「ローマ」(昭32)などがある。

平賀亀祐

没年月日:1971/11/04

パリ在住のサロン・ナショナル会員の洋画家平賀亀祐は、11月4日午前10時(現地時間)、心臓発作のため、パリ市の自宅で死去した。享年83才。平賀亀祐は、明治22年(1889)三重県に生まれ、青年時代に移民としてアメリカへ渡り、絵画を勉強しその後フランスへ移り、生涯のほとんどもフランスですごし、フランスの官展で活躍した。略年譜1889 明治22年 9月25日、三重県志摩郡に生れる。1906 明治39年 9月、三重県移民として渡米。サンフランシスコ美術学校に入学。1909 明治42年 サンフランシスコの加州大学美術科に転校。1914 大正3年 カリフォルニア美校全生徒の作品展にて1、2、3等受賞。特待生となり学費の免除を受ける。1915 大正4年 同校卒業。1916 大正5年 この年より1925年までロスアンゼルスに居住して苦学する。1925 大正14年 渡仏、アカデミー・ジュリアンで2年間学び、ルシアン・シモンに師事する。1926 大正15年 ル・サロンに2点入選。パリ モンマルトル、ディアム画廊で個展を開く。1927 昭和2年 サロン・ナショナルに風景画入選。サロン・ドームに3点入選。帰米、ロスアンゼルスにて第1回個展を開く。金門学園社交室にて作品展開く。オリンピック・ホテルにて個展を開く。ポートランド、淀川亭にて作品展を開く。1929 昭和4年 帰米、第2回展をロスアンゼルスにて開く。滞欧中の作品を金門学園社交室にて展観する。スタンフォード大学のアート ギャラリー常盤クラブにて作品展を開く。アンバサイダーホテル広間にて作品展を開く。1930 昭和5年 ニューヨーク ミルチ アートギャラリー、パリ シャルパンチエール画廊にて個人展を開く。フランス政府買上げ、ロアン美術館買上げ。1932 昭和7年 帰米、第3回個展をロスアンゼルスにて開く。フィラデルフィア、デンバー、ニューヨークを訪れる。ニューヨーク ミルチ アートギャラリーにて作品展を開く。1934 昭和9年 パリ、春のル・サロンにて銅賞を受ける。1935 昭和10年 4月、三重県山田駅前県立商工奨励館別館にて個展を開く。1938 昭和13年 ル・サロンにて銀賞を受ける。1941 昭和16年 第2次世界大戦おこる。敵国人として半年以上収容される。1945 昭和20年 大戦終る。戦時中サロン・ドートンヌ(秋季展)レクスポジション・ユニヴェセル(世界展)などに出品する。1954 昭和29年 ル・サロンにて金賞ならびにコロー賞を受ける。美術文化勲章、学士院賞を受ける。4回つづいて入選のため会員に推薦される。1955 昭和30年 50年ぶりに日本に帰国、朝日新聞社主催「平賀亀祐滞仏作品展」をブリヂストン美術館で開く。大阪高島屋にて作品展を開く。横浜市紅葉ケ丘県立図書館にて作品展を開く。東京交詢社にて作品展を開く。高知市にて個展を開く。1960 昭和35年 帰朝、東京、大阪ほか日本各地で個展を開く。1961 昭和36年 日本政府より勲三等に叙勲される。1962 昭和37年 浜名湖老人ホーム建設資金として作品を寄贈する。1963 昭和38年 東京日本橋 造形ギャラリーにて、造形主催の個展を開く。1964 昭和39年 高知市にて個展を開き、伊勢市にて個展を開き、札幌にて作品展を開く。1965 昭和40年 3回目の帰国、造形ギャラリーにて個展を開く。1966 昭和41年 「平賀亀祐喜寿記念」展が東京、日本橋三越にて開催される。「画集・平賀亀祐」出版される。(平賀亀祐喜寿記念展目録より転写)

野田九浦

没年月日:1971/11/02

日本画家野田九浦は、11月2日老衰により東京吉祥寺の森本病院で死去した。享年91才。本名道三。明治12年12月22日東京に生れた。はじめ寺崎広業に師事し、明治29年東京美術学校日本画科選科に入った。翌年之を退学し、白馬会研究所に入って洋画を学んだ。一方また日本美術院研究生として日本画にも精進した。明治40年第1回文展「辻説法」が二等賞となり、一躍有名となった。この年大阪朝日新聞に入社し、大阪画壇のためつくした。その頃、巽画会審査員をつづけ、また官展で屡々に受賞し、審査員となった。昭和22年帝国芸術院会員となり、翌23年金沢美術工芸大学教授となった。同24年日展運営会理事、同33年社団法人日展顧問となった。着実な大和絵風画風を現代に生かし、考証的歴史画を得意とした。略年譜明治12年 12月22日東京下谷上根岸に生る。明治16年 一家をあげ北海道函館に転居。明治22年頃、遊歴途上来函した南画家小西皆雲に就き、又北条玉洞経営の絵画専門学校に学び、又小学校卒業後函館商業学校へ入学した。明治28年 寺崎広業に伴われ上京、同画塾に入る。明治29年 東京美術学校日本画科選科に入る。明治30年 岡倉校長失脚騒動により同校を退学。明治31年 白馬会研究所で洋画を学ぶ。又日本美術院研究生となる。この頃正岡子規に就き俳句を習う。又渡欧の目的で仏国公使武宮田島大佐に仏語を学び、又暁星学校に通うなど仏語研究9ケ年に及んだ。明治32年 日本絵画協会共進会「王昌齢」明治40年 文展第1回「辻説法」(二等賞、文部省買上)。この年、滝精一の推挙で大阪朝日新聞社に入社し、夏目漱石の小説「坑夫」の挿絵を描き、また大阪画壇のためつくす。明治43年 第10回巽画会「天平美人」同展審査員。明治44年 第11回巽画会「天平美人」同展審査員。第5回文展「仏教東に来る」(褒状)明治45年 第12回巽画会審査員。大阪美術展を興す。大正2年 第13回巽画会審査員。第7回文展「天草四郎」(褒状)大正3年 第8回文展「梅妃楊貴妃」(褒状)大正4年 第9回文展「発願」(褒状)大正5年 大阪より帰京。大正6年 第11回文展「妙見詣」(六曲一双)(特選)大正7年 第12回文展「霊山縁起」(六曲一双)帝展無鑑審査となる。大正8年 第1回帝展「網場」(六曲一双)大正11年 第4回帝展「高原晴日」(六曲一双)大正13年 第5回帝展「金沙灘頭之美女」帝展委員となる。大正14年 第6回帝展審査員。昭和元年 第7回帝展審査員。昭和2年 第8回帝展審査員。昭和12年 第1回文展「一休禅師」昭和16年 第4回文展「武人武蔵」煌土社展「山荘における広業先生」昭和18年 第6回文展「鍛刀」昭和22年 帝国芸術院会員となる。第3回日展「猿簑選者」昭和24年 日展運営会常務理事となる。(~29年)昭和26年 第7回日展「獺祭書屋」金沢美術工芸大学教授となる。昭和28年 第9回日展「修道女」昭和29年 第10回日展「K氏愛猫」昭和30年 金沢美工大学退職。昭和33年 第1回新日展「晋其角」社団法人日展顧問となる。昭和34年 美術協会展「俑」。煌土社再興。昭和35年 煌土社展「藤三娘」昭和37年 第5回新日展「広業先生」昭和46年 11月2日午前零時45分死去。

佐波甫

没年月日:1971/10/31

美術評論家、本名大沢武雄・早稲田大学教授は、3月に脳血栓で倒れ、8カ月の入院生活の後に10月31日死去した。享年69歳。明治34年11月29日東京に生れた。昭和5年早稲田大学フランス文学科卒業。実業之日本社に勤務する傍ら坂崎坦に師事してフランス17、18世紀美術を研究し、また佐波甫の筆名で美術評論活動に入る。以下の記録は朝日新聞社および美術研究所刊行の「日本美術年鑑」によるものである。おびただしい数になる展覧会批評は省略した。昭和10年、「現代美術を制約するもの」(アトリエ12-8)、「美術は如何に発展するか」(みづゑ369)、「美術批評に就て」(アトリエ12-10)、「本年の洋画壇と今後の方向」(美の国11-12)、「帝院改現と復古主義の前進」(アトリエ12-7)。昭和11年、「前衛絵画の二方向-立体主義より抽象主義へ」(美術11-5)、「フェルナン・レジェ」(みづゑ379)「市民的なプライド」(美術11-2)、「芸術精神の没落」(みづゑ381)、「日本画と近代精神-市民絵画の提唱」(美之国12-3)、「日本画を如何に考えるか」(みづゑ372)、「絵画に於ける」(みづゑ372)、「意識の絵画について」(みづゑ376)「名井万亀氏の作品」(アトリエ13-9)、「猪熊絃一郎と宮本三郎」(みづゑ374)、「岡田謙三」「三岸節子」「海老原喜之助」(以上、みづゑ378)、「二三の絵画現象に就て」(アトリエ13-2)、「若き作家諸君に与ふ」(美之国12-9)。昭和12年、「ヒューマニズムについて」(美之国13-1)、「日本古典への関心」(美術12-6)、「日本前衛派作家論」(アトリエ14-6)、「光風会の青年作家たち」(現代美術4-2)、「安井曾太郎の今日的意義」(みづゑ383)、「小磯良平を語る」(同391)、「北川民次君の印象」(同393)、「今日の諸問題」(アトリエ14-3)、「ジョルジュ・ブラック」(みづゑ384)、「ピカソ論、上・中・下」(同386、387、389)、「ジョルジュ・ルオー」(同387)。昭和13年、「作家と精神力」(アトリエ15-12)、「我が国芸術の調和的性格に就いて」(みづゑ396)、「絵画精神の再建」(同400)、「日本画の現段階に就て」(南画鑑賞7-12)、「統制と自由」(アトリエ15-2)、「シャルダン」(みづゑ397)、「マチャス・グリューネワルト」(同399)、「クラナッハと独逸的なもの」(同403)、「ドーミエを想ふ」(図406)。昭和14年、「歴史性へのめざめ」(美術14-8)、アラン「絵画論」(訳・みづゑ421)、「近代絵画の特質-10年間を回顧して」(美之国15-4)、「ドランについて」(みづゑ410)、「ポール・ゴーガン」(同414)、「ドカとロートレック」(アトリエ16-12)。昭和15年、「新体制下の美術批評について」(アトリエ17-2)、「吉岡堅二と上村松篁」(美之国16-3)、「コンラッド・メイリ」(みづゑ424)。昭和16年、「須田国太郎」(みづゑ437)、「堂本印象」(美之国17-1)、「宮本三郎」(みづゑ436)、「戦争美術の新しい創造」(帝大学生新聞7.14)。昭和17年、「大東亜共栄圏と日本画」(国画2-3)、「仏印より帰りて」(国画2-2)、「二・三の提案」(新美術9)、「仏印の印象-図画教育その他」(「造形教育8-2)。これらの論説は国際文化振興会より派遣されてインドシナ、中国各地の美術を視察したことを示している。昭和18、19、20年「山口蓬春」(画論22)、「仏印の絵画」(新美術23)、「大東亜戦争と芸術」(国画3-1)。戦後は日本美術会結成準備を手はじめに重要な諸作家の論評を進めたことが、つぎの諸論説より明らかである。昭和21年より25年、「荻須高穂カザ・ロッサ」(解説・美術手帖11)、「井上長三郎」(アトリエ訪問、美術手帖16)、「小野竹喬」(三彩14)、「菊地契月」(同33)、「鶴岡政男論」(みづゑ524)、「徳岡神泉論」(三彩8)、「靉光の芸術」(アトリエ267)、「松本竣介」(みづゑ519)、「泰西名画展の意義」(同500)、「ラウル・デュフィ」(アトリエ272)、「シャルダン」(みづゑ498)、「フランス初期画家達」(同502)、「セザンヌを想う」(BBBB5)、「我が前衛美術について」(アトリエ262)、この間に著書「裸体デッサン」(寺田政明と共著、大同出版社)「裸体絵画」(同左)がある。 昭和23年より向南高校で教鞭をとり評論活動を離れるようになる。25年早大第二政経学部、第二法学部の仏語講師、同28年文学部専任講師となり、西洋美術史と仏語を担当した。同29年より31年までフランスを中心にヨーロッパで美術研究を行う。31年文学部助教授、36年教授就任。この間に本名の大沢武雄の名で「セザンヌの不安」(早大文研紀要3)、「ビザンチンとルネサンスの空間」(同9)、「セザンヌの作品研究」(同13)、「ロマネスク芸術研究」(綜合世界文芸Ⅺ)、「世紀末芸術」(美術史研究5)、著書「西洋美術史」(造形社、昭和34年、46年に改訂版刊行)、G、ケペッシュ著「造形と科学の新しい風景」(美術出版社、昭和41年共訳)。昭和46年3月脳血栓で倒れ、8ケ月の入院生活ののち1月31日に死去した。恩師坂崎坦、森口多里、児島喜久雄、板垣鷹穂、外山卯三郎らの評論家に次ぐ世代に属し、戦前の前衛美術が許される時期に評論活動を始め、戦後の混乱期には、新しい作家の紹介を行った代表的な評論家の一人であった。

川島理一郎

没年月日:1971/10/06

日本芸術院会員、日展顧問、新世紀美術協会名誉会員の洋画家、川島理一郎は、10月6日午前6時10分、脳出血のため、東京・品川区の昭和医大病院で死去した。享年85才。川島理一郎は栃木県足利市の機屋の家に生まれ、19才のとき渡米、ついでフランスに渡り、藤田嗣治らとフォーヴィスム、キュービスム以後の美術運動の渦中で学び、同地で第一次大戦を経験して帰国、その後も数回にわたり渡欧、作風は初期にはキュービスムの影響をうけたが、フォーヴィスムを基調として幾度か変転した展開をみせた。一時期は、蘭を好んで題材し、戦後には抽象的傾向となった。随筆をよくし『緑の時代』『旅人の眼』『美術の都パリ』などの著書がある。略年譜明治19年(1886) 3月9日、足利市に生まれる。明治23年(1890) 祖父母と東京に居住する。明治38年(1905) アメリカへ渡り、ワシントン、コーコラン美術学校に学ぶ。明治39年(1906) ニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインに特待生として学び、褒状をえる。明治44年(1911) フランスへわたる。パリのアカデミー・ジュリアン、ついでアカデミー・コラロッシュに学ぶ。大正元年(1912) サロン・ドートンヌに入選する。フォーヴィスム、キュービスムなどの新運動の刺戟をうけ、ピカソ、レジェ、ザッキン、藤田嗣治などと交友、原始洞窟絵画、古代エジプト、ギリシャ、ローマの遺跡をたずねる。大正4年(1915) 第一次大戦下、藤田、ザッキンらと赤十字に参加したが、病をえてスペインのマラガに静養する。大正8年(1919) アフリカ、モロッコを旅行、アメリカを経由して帰国。個展を開催。大正9年(1920) 再渡仏し、コルシカ島へ旅行、サロン・ドートンヌに入選。2年間滞在する。大正11年(1922) 滞欧作200点をたずさえて帰国したが、関東大震災のため焼失。大正13年(1924) 三度目渡欧、フランス、イタリア、スペインを旅行。大正15年(1926) 梅原龍三郎とともに国画創作協会第二部(のち、国画会)を創設。昭和4年(1929) 4回国展に「森の朝」「ニースの祭日」「魚」他、パステル、デッサンを出品。昭和6年(1931) 6回国展に「裸婦スパニッシュ」(1~3)、「ニースの家」「ニースの海浜」「窓・エトルタ」「ルクサンブルグの朝」(1~2)他1点を出品。昭和7年(1932) 「池上早春」「ボスケ、デュロナード」他2点を国展に出品。昭和8年(1933) 「相思樹」「台湾歌妓」(1~5)を国展に発表。昭和9年(1934) 「巨木」「林間」「巨人踊の夕」(国展)昭和10年(1935) 「花」「森」(国展)、この年国画会を脱会する。昭和11年(1936) 女子美術学校の教授となる。昭和12年(1937) 文展審査員を依嘱される。昭和13年(1938) 陸軍嘱託となり従軍画家として北支に派遣される。2回文展に「九竜壁(北京)」を出品、文展審査員。昭和14年(1939) 再度北支へ派遣される。昭和16年(1941) 泰・仏印(タイ国、ヴェトナム)派遣される。昭和17年(1942) 泰国首相へ贈呈画使節として派遣される。昭和18年(1943) 8回文展に「南方の蘭花」を出品。陸軍省より記録画製作のためフィリッピンへ派遣される。昭和23年(1948) 日本芸術院会員に推挙される。昭和24年(1949) 5回日展「多摩川」昭和26年(1951) 7回日展「香港」昭和30年(1955) 新世紀美術協会の創立に参加し、名誉会員となる。「巴里現代美術館の浮彫」(11回日展)昭和31年(1956) 「中禅寺湖」(12回日展)、「らん花」(1回新世紀展)昭和34年(1959) 「蘭花」「巴里」「蘭花」「ポン・ヌフ」「嵐山にて」「窓」「マチスのアトリエ」(4回新世紀展特別陳列)、「鎌倉山風景」(2回日展)昭和36年(1961) 「鎌倉山」(日展)、「牡丹」(6回新世紀展)昭和39年(1964) 「浮世絵の誘惑」(7回日展)昭和41年(1966) 「雨と風の詩」(9回日展)、「太陽にうたう」(11回新世紀展)昭和44年(1969) 「浮世絵の誘惑(その二)」(改組1回日展)、「ルナ幻想」(14回新世紀展)

吉田政次

没年月日:1971/09/19

日本版画協会会員の木版画家吉田政次は、9月19日午後6時7分、胃ガンのため東京新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年54才。大正6年(1917)3月5日、和歌山県有田郡に生まれ、昭和9年(1934)に和歌山県立耐久中学校を卒業し、翌年上京、川端画学校に学び、昭和11年(1936)東京美術学校西洋画科に入学し、昭和16年(1941)に同校を卒業した。翌17年現役兵として中支に派遣され、昭和21年(1946)帰還し、同年東京美術学校研究科に入り、翌22年同科を修了した。昭和24年(1949)日本版画協会第17回展に木版画「働く父子」を出品、以後、毎年出品し、昭和27年同会会員となった。また、昭和25年(1950)、モダンアート協会が創立された第1回展に招待出品、同28年にモダンアート協会会友、翌29年会員に推挙されたが、昭和37年(1962)同会を退会した。両展に作品「静」シリーズ、「空間」シリーズを発表して注目され、昭和30年(1955)スイス・ルガーノ国際版画ビエンナーレ展に出品、31年(1956)スイス・チュリッヒ国際版画展に出品など国際展でも活躍し、昭和32年(1957)東京国際版画ビエンナーレ展において新人賞を受賞、昭和44年(1969)には、スペイン、バルセロナ市で開催された第8回ホアン・ミロ賞国際素描展に「門」を出品して大賞をうけた。作品略年譜昭和24年 「働く父子」昭和24年 「生の果て A、B」昭和26年 「若き交り A~D」「争い」「二人」「バレリーナの夢 A、B」昭和27年 「静 1~6」昭和28年 「静 19~32」昭和29年 「静・残されたもの 51~61」昭和30年 「静・残されたもの 66~68」「清楚(女優S・H嬢の映像)」「清楚(バレリーナM・T嬢の映像)」「団結・友愛・出発・建設」昭和31年 「森の精」「地の泉 1~4」昭和32年 「作品、新しき出発」昭和33年 「雷」昭和34年 「相対性絵画NO.5」「無限NO.2-3」「空間2~8」昭和35年 「静寂」「空間」昭和36年 「空間NO.5」「昔NO.6」昭和38-39年 「空間NO.21~39」昭和40年 「壁の中の白NO.4~5」「空間 50」昭和41年 「壁の中白NO.6」「空間 52」昭和42年 「除夜の鐘NO.1~2」「余韻NO.2」昭和43年 「躍動する心NO.1~5」

文挾克明

没年月日:1971/09/19

自由美術協会々員の文挾克明は、9月19日腸閉そくのため死去した。享年66歳。明治38年7月1日栃木県今市市に生れ、本名勝太郎。昭和18年までは勝と号し、以後克明と号した。画家を志して上京、大正11年川端画学校修了、大正15年日本美術学校を卒業した。昭和4年から種々の美術団体展に出品しはじめ、終始超現実主義傾向の独自な画境を示した。略年譜昭和4年~8年 国際美術内国展、白日会、1930年協会、槐樹社、東光会などの各展に入選。昭和6年~23年 独立美術協会展の第1回より第16回まで連続入選。昭和14年 陸軍従軍画家として中支へ渡る。河北新報に支那事変の絵と文、連載。昭和17年 独立美術協会会友に推挙される。昭和23年 「冷たき暴威」で独立美術賞受賞。昭和24年 「栄光の体型」を日本アンデパンダン展に出品。昭和25年 独立美術協会から自由美術家協会へ移籍。同時に受賞し、自由美術家協会会員に推挙される。昭和25年 胃癌の手術をうける。昭和33年 「抽象絵画の展開」展(国立近代美術館)に招待出品する。昭和44年 腸閉塞の手術をうける。昭和45年 朝日新聞紙上に東大名誉教授大塚久雄「わが道」のカットを担当連載する。昭和46年 2月、腸閉塞再手術。9月19日同病悪化で死去。

木村珪二

没年月日:1971/08/31

日展評議員、白日会常任委員の木村珪二は、8月31日死去した。享年67歳。明治37年6月2日兵庫県出石に生れた。石川県立金沢第一中学校を経て昭和2年3月東京美術学校彫刻科本科塑造部を卒業。在学中の大正15年第7回帝展に初入選してより、官展に出品を続け、その間、昭和13年第2回文展、翌年第3回文展で連続特選となり、戦後は日展で審査員を歴任。堅確な写実的作風で知られ、日展彫塑で重きをなした。昭和25年より白日会彫塑部の常任委員、同31年より日本彫塑家クラブ(のちの日本彫塑会)の運営委員、同27年より東京教育大学教授などをつとめた。

小野彦三郎

没年月日:1971/08/12

もと日展依嘱で無所属の洋画家小野彦三郎は、8月12日午前、肺ガンのため死去した。享年59才。小野彦三郎は明治45年(1912)2月11日、宮崎県諸県都に生まれ、宮崎県立小林中学校をへて、昭和13年(1938)帝国美術学校(現・武蔵野美大)を卒業、昭和17年5回文展に「鏡」が入選、戦後日展に連続入選し、昭和24年6回展で特選となった。昭和28年(1953)から2年間、留学生としてフランス滞在、帰国後、昭和30年から日展依嘱となった。一時、創元会に属したが昭和33年退会して同志と十一会を結成し、38年にはこれを退会し、無所属となり、昭和39年以降は毎年個展を開催(主として日本橋高島屋において)して作品を発表していた。日展出品作品略年譜昭和21:「午後」、昭和22:「頸節」、昭和23:「あじさい」、昭和24:「静思」(特選)、昭和25:「百日紅」、昭和26:「河」、昭和27:「門」、昭和30:「マロニエ」、昭和31:「樹」、昭和32:「三月堂」、昭和32:「舟」。

堀沢好一

没年月日:1971/08/12

二紀会同人の堀沢好一は、8月12日死去した。享年61歳。明治43年7月10日大阪府枚方市に生れた。大阪府池田師範学校卒業。中之島洋画研究所で国枝金三、鍋井克之に師事。昭和7年二科第19回展より第29回展まで出品。昭和22年二紀会展より同展に出品、同年第二紀会同人となった。

丸山栖鶯

没年月日:1971/08/03

太平洋美術会々員、日本水彩画会会友の丸山栖鶯は、8月3日、日光へ写生旅行中に脳出血のため急逝した。享年71歳。明治33年1月11日、水彩画家丸山晩霞の長男として長野県小諸市に生れた。本名節。大正13年3月東京美術学校彫刻科選科塑造部を卒業。その前大正11年第4回帝展に彫塑作品「恍」で初入選した。大正15年陶器彫刻研究のため大倉陶園に入社。昭和2年聖徳太子奉賛展賞を受け、翌3年には東久邇宮より銀盃を給わった。同5年には秩父宮家に作品御買上。同19年大倉陶園退社、長野へ移転し、同22年陶彫研究所を開設した。同26年長野県小諸より上京し絵画に専念することになった。同39年~46年、太平洋展へ出品、会員となった。同41年からは日本水彩画会展へも出品を続け、同45年には三宅氏賞を受け、会友となった。

松田文雄

没年月日:1971/07/09

一水会委員の洋画家・松田文雄は、7月9日午前11時45分、東京港区の慈恵医大附属病院において、ジン不全のため死去した。享年63才。松田文雄は、明治41年(1908)3月9日、京都市に生まれ、まもなく三重県出身の書家松田舒(号・南溟)の養子となり、東京、麻布小学校をへて大正9年(1920)東京府立第一中学校に進み、同14年同校を卒業、翌15年(1926)東京美術学校西洋画科に入学した。はやくから宗教・哲学書にしたしみ、早熟で、印象派以前の西洋絵画の官学派へ接近を試み、一方、児童画でも好評をえた。生涯を独身でとおし、晩年は半身不随と右眼失明などになやまされ闘病生活のなかで制作していた。略年譜1908 明治41 京都に生る1908 明治41 三重県人、松田舒の養子となる1920 大正9 東京府立第一中学校(東京都立日比谷高等学校)入学1923 大正12 関東大震災、麻布区にて罹災1924 大正13 牛込区二十騎町に移転1925 大正14 東京府立第一中学校卒業、川端画学校でデッサンを学ぶ1926 大正15 東京美術学校西洋画科(東京芸術大学)入学、牛込区河田町に移転1928 昭和3 美術学校三年、和田英作教室に編入され、同教授の教えを受く、同年帝展に「T嬢立像」を出品初入選す1929 昭和4 2月6日義父舒死去1920 昭和5 帝展に「夕暮れ」出品1931 昭和6 東京美術学校卒業1932 昭和7 上海事変勃発、海軍従軍画家として上海に赴き同年帰国1934 昭和9 帝展に「老母の像」出品1938 昭和13 5月6日義母綏子死去1939 昭和14 文展に「大陸の子」出品1940 昭和15 紀元2600年奉祝展に「老鍛治屋」発表、一水会展に「萩咲く庭」「青衣座像」等を出品し、山下新太郎、石井柏亭の知遇を受く1941 昭和16 文展に「猫を抱く小孩」双台社展に「青衣」出品1943 昭和18 文展に「家鴨と小孩」双台社展に「雪国の少女」出品す1944 昭和19 陸軍美術展に「忠烈」「硫黄島決戦」「軍神山崎部隊長像」等を出品、この頃に藤田嗣治との交流あり、戦火をさけて世田谷区八幡山の農家に疎開1945 昭和20 東京大空襲により河田町のアトリエ焼失1946 昭和21 日展1月「小春日」10月「草に座す」出品、一水会会員に推挙さる1947 昭和22 日展に「庭にて」出品1950 昭和25 日展に「童女と仔犬」出品、新宿区若松町68の新画室に移転1951 昭和26 日展に「老漁夫」出品1953 昭和28 日展に「雪崖」出品1955 昭和30 一水会展に「荒天の犬吠岬」出品1956 昭和31 5月25日カトリックの洗礼を受く1957 昭和32 一水会展に「清流」出品1958 昭和33 一水会展に「風薫る」出品1960 昭和35 一水会展に「林檎の花咲く」日展に「庭に立てる」出品1961 昭和36 一水会展に「泉湧く」出品、会員優賞を受く1962 昭和37 一水会展に「奥黒部西沢小沢」出品1963 昭和38 一水会展に「奥黒部棒小屋沢」出品1964 昭和39 日展に「白い道」出品1965 昭和40 日展に「初秋の庭にて」出品1966 昭和41 5月27日半身不随となる、日展に「断崖」鈴木貫太郎記念館(千葉県関宿)に「大演習御召艦長門艦上の図」完成納入、一水会展に「新雪の剣岳」出品1967 昭和42 一水会展に「黒部の秘境祖母谷」日展に「木曾晩夏」出品1968 昭和43 一水会展に「秋立つ朝」日展に「雪原牧馬」出品、一水委員に推挙される1969 昭和44 1月糖尿性脱疽にて厚生年金病院入院、右足指一本切断、3月退院、一水会展に「夏の牧場」出品1970 昭和45 1月病気再発、慈恵医大病院入院、4月退院、7月友人石井光雄・五味悌四郎・佐藤保春・田中志郎と共に、日本自然派美術会を結成、7月末念願のイタリア旅行出発、ローマ法王に謁見す、8月帰国、9月慈恵医大病院入院、日を追って病状悪化し数回の手術を受く、12月第1回“日本自然派美術会展”開催1971 昭和46 7月9日慈恵医大病院にて死去、享年63才墓所、三重県鳥羽市天真寺に埋葬す、養父母の墓(碑銘、比田井天来揮毫)の側に友人一同記念碑を建立す(碑銘、比田井天来の息、南谷揮毫)1972 昭和47 7月6日から12日まで遺作展を新宿・小田急百貨店で開催(遺作展目録・年譜より)

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