本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





高須光治

没年月日:1990/12/25

読み:たかすみつじ  草土社の創立会員で岸田劉生の「高須光治君之肖像」のモデルともなった洋画家高須光治は、12月25日午後3時38分、心不全のため愛知県愛知郡の福友病院で死去した。享年93。10代の後半期に岸田劉生や白樺派の人々と交遊し、間もなく帰郷して郷里の文化活動に尽くした高須は、明治30(1897)年8月13日、愛知県渥美郡に生まれた。同41年、豊橋尋常高等小学校高等科在学中に、黒田清輝門下の島田卓二に出会い絵に興味を抱く。同43年、高等小学校を卒業、同45年、太平洋博覧会見学のため上京し、岸田劉生個展を見て感銘を受ける。大正2(1913)年より豊橋の文化団体一隅会に参加し、同人誌『一隅』に詩の投稿を続けるが、同3年11月、画家を志して上京し、白馬会葵橋洋画研究所に入所。翌4年、岸田劉生を訪ね、劉生を介して武者小路実篤、長与善郎、千家元磨など白樺派文人と交遊するようになる。同年3月第15回巽画会展に「母におくる像」で初入選し3等賞銅牌受賞。同年10月、第1回草土社展に「半蔵門風景」「三宅坂風景」2点、「青年肖像」3点など10点の作品を展示して、同会の創立に参加する。また同年11月、劉生、木村荘八、高村光太郎らを発起人として「高須光治画会」を開催する。草土社展には同5年第3回展まで出品するが、同年豊橋に帰郷し、翌年より出品せず、同11年最終回となった第9回展に「風景」を出品した。昭和2(1927)年、横浜市へ転居し、同年第1回大調和展に出品。翌年第2回展にも出品するが、同年上京し、同4年より国画会に参加。同6年、再度豊橋へ帰郷し、家業の本屋を継ぐ。国画会には同8年第8回展まで出品したが、同年豊橋文化協会を設立し、雑誌『文化』を創刊。以後しばらく中央の団体展から遠ざかり、戦後の昭和21年第二次の豊橋文化協会の創立にも参加して雑誌『豊橋文化』を中心に論評、挿図などを発表。また、同28年浜松市立図書館で「高須光治小品展」を開くなど、個展によって作品を発表する。同37年、武者小路実篤を中心に大調和会が再結成され、同会に第1回展より同43年第7回展まで出品した。同43年、豊橋文化協会文化賞を受賞。翌44年には豊橋文化協会創立当時の理事8名で文協サロンを発足し、会報『輪』に論評を発表し始めた。草土社時代に形成された芸術への真摯な姿勢を守り続け、郷里の文化の振興に尽くすとともに、独自の制作を行なった。昭和62年、豊橋市美術博物館で「高須光治と草土社展」が開かれ、生前の本格的な回顧展となった。

中村茂夫

没年月日:1990/12/24

文学博士、京都女子大学名誉教授・元大手前大学教授で、東洋の絵画思想史、東西美術史の比較研究の権威として知られる中村茂夫は、12月24日午前4時5分、大腸炎のため京都市上京区の堀川病院で死去。享年77。大正2(1913)年9月26日、三重県志摩郡に生まれる。大阪高等学校(文乙)をへて、昭和9年、京都大学文学部哲学科に入学、12年に卒業。同大学院をへて、昭和14年に奈良県師範学校、昭和16年に奈良県立高等学校の教諭を務める。昭和25年、京都女子大学の講師となり、以来、昭和54年に教授として定年退職するまで、同学で研究と教育に専心し、また教養部長・教務部長・文学部長・学園理事等の要職を務め、さらに昭和56年から63年まで大手前女子大学教授の職にあった。中村は、戦後はやくに今世紀の美術史研究の本流を形成したウィーン学派の様式史研究を紹介するとともに、その方法論を中国絵画研究へ適用しようと試みている。当時の中国絵画史は、西洋の古典美術・ルネサンス美術に比して、近代的方法による基準作品の同定など様式史研究の準備が十全といえる環境にはなかったが、中村は、画論や詩文をとおして中国絵画をうみだした芸術精神の内的な展開を解明し、実証的な様式史研究の理論的枠組みを用意した。 主要著書『中国画論の展開』晋唐宋元編 中山文華堂(昭和40年)『古典美術の様式構造』 岩崎美術社(昭和54年)『沈周 人と芸術』 文華堂書店(昭和57年)『石涛 人と芸術』 東京美術(昭和60年)翻訳書マックス・ドボルシャック著『精神史としての美術史』 全国書房(昭和21年)同書(改訂版) 岩崎美術社(昭和41年)マックス・ドボルシャック著『イタリアルネサンス美術史』 岩崎美術社(昭和41年)

藤島茂

没年月日:1990/12/20

二紀会委員の彫刻家藤島茂は12月20日午前5時21分、肺がんのため神奈川県横須賀市の横須賀共済病院で死去した。享年76。大正3(1914)年8月7日北海道札幌市に生まれる。本名板坂茂。札幌市豊水小学校高等科を卒業し、昭和15年より松村外次郎に師事する。同17年第29回二科展に「K氏の顔」で初入選。戦後も同21年より再興された二科展に出品したが、同27年より二紀展へ転じ、同年「女」で褒賞受賞。同33年第12回二科展に「作品」を出品して再び褒賞を受ける。同36年第15回同展に「今日の人間像」を出品して同人賞、同46年第25回同展では「闘」で再び同人賞を受賞し会員に推挙された。同53年第32回二紀展に「シャモ」を出品して宮本賞、翌54年同展には「片目になったシャモ」「ねこ」を出品して文部大臣賞を受けた。木彫、石彫、塑像と多彩な技法を修得し、同35年神奈川県鷹取山磨崖仏を制作、同56年には杉並区阿佐谷世尊院内弘法大師像、同63年には豊島区金剛院弘法大師像を制作するなど、伝統的仏像の分野でも活躍する一方、シャモ、牛等の動物を得意として、勢いのある作風を示した。二紀展出品歴第6回(昭和27年)「女」、7回「女」、8回「女」、9回(同30年)「静子の首」、10回「いなばの白兎」、11回「人魚誕生」、12回「作品」、13回「母子像」、14回(同35年)「愛児」、15回「今日の人間像」、17回「慟哭」、18回「聖火」、19回(同40年)「母子」、20回「杭」、23回「憩」、24回(同45年)「こばかま(シャモ)」、25回「闘」、26回「シャモ」、27回「シャモ」、28回「シャモ」、29回(同50年)「娘」「夏(シャモ)」、30回「朱雀」、31回「シャモ」、32回「シャモ」、33回「片目になったシャモ」「ねこ」、34回(同55年)「オット失敗」、35回「カボチャ(シャモ)」、36回「夏(シャモ)」「ねこ」、37回「シャモ」、38回「手羽鎌(シャモ)」、39回(同60年)「牛」、40回「牛」、41回「作品」、42回「シャモ」、43回(平成元年)「炎」、44回「想」

寺田千墾

没年月日:1990/12/19

東京新聞美術記者として活躍した寺田千墾は、12月19日午後4時11分、腹部腫瘍のため川崎市の日本医大第二病院で死去した。享年72。大正7(1918)年8月4日、高知県室戸市に生まれる。昭和17(1942)年9月、早稲田大学政経学部を卒業し、同年10月都新聞社文化部に入社する。同19年4月、海軍に入隊。同20年11月1日、都新聞の後身である東京新聞に復職し、同42年10月1日、東京新聞が中日新聞と合併するに伴い中日新聞社社員となった。常に文化部にあって美術欄を担当し、同49年8月31日定年退職後も同社嘱託および寄稿者として美術評を執筆した。西洋美術史、日本近代史への興味にもとづく視点から現代美術への疑問を投げかける個性的な評論を紙上に展開したほか、作家論等も著し、著書に『現代日本の美術 第6巻 徳岡神泉・奥村土牛』(集英社)『裸婦 第4巻 国領経郎』(学習研究社)などがある。また、同49年より日本大学文理学部構師をつとめた。

林忠彦

没年月日:1990/12/18

坂口安吾、織田作之助、太宰治ら無頼派作家の肖像写真で広く知られた写真家林忠彦は、12月18日午前零時27分、肝臓がんのため東京都港区の東京済生会中央病院で死去した。享年72。大正7(1918)年3月5日、山口県徳山市に生まれる。家業は祖父の代から続く営業写真館で、幼少の頃から写真に親しみ、徳山尋常小学校を経て、昭和10(1935)年に徳山商業学校を卒業すると、長男として家業を継ぐべく大阪の「中山正一写真館」に修業に出される。翌年、過労から肺結核を病み帰省。翌12年、上京して田村栄の主宰するオリエンタル写真学校に入学する。同13年同校を卒業して帰郷し家業を手伝うが、翌14年再び上京して加藤恭平が主宰する東京光芸社に入社する。内閣情報部の宣伝誌「写真週報」にルポルタージュを発表するなど報道写真家として活動を始め、「アサヒカメラ」などでも活躍。同17年大竹省二らと華北広報写真協会を結成して北京に渡り、戦時下の人々をとらえる。同21年、東京に引きあげ、カストリ雑誌ブームに乗って活躍。同22年秋山庄太郎らと写真グループ「銀竜社」を結成する。同23年、「小説新潮」に連載した文士シリーズの坂口安吾等で人気を博し、寵児となった。同28年、二科会写真部の設立に参加。後進の指導にも尽力した。同36年日本写真家協会副会長に就任。同46年写真集『日本の作家』を刊行し、同書で日本写真協会年度賞受賞。同47年「織田広喜」を二科展に出品して、同展総理大臣賞を受けた。同53年『日本の画家108人』を刊行し、翌54年、同書で毎日芸術賞及び日本写真協会年度賞を受賞。同55年には『カストリ時代』を刊行した。同56年日本写真家協会副会長を辞任し、同会名誉会員となる。同55年日本写真学園校長に就任。同63年、日本写真協会功労賞を受ける。『日本の画家』『日本の経営者』『日本の家元』など、文士シリーズに続く肖像写真と、『カストリ時代』等社会に鋭い目を注いだ写真が林の仕事の中心となし、対象の歴史性や周囲の環境を撮影された一瞬間に含みこんだ物語性のある作風を特色とした。晩年は風景写真に向かい東海道を撮影し続け、平成2(1990)年『林忠彦写真集 東海道』を刊行している。

坪井善勝

没年月日:1990/12/06

東京代々木の国立屋内競技場、東京カテドラル聖マリア大聖堂などの構造設計を担当した東京大学名誉教授の建築学者坪井善勝は、12月6日午前3時15分、呼吸不全のため東京都新宿区の東京医科大付属病院で死去した。享年83。建築構造学の世界的権威として知られた坪井は明治40(1907)年5月27日、東京都渋谷区に生まれた。昭和7(1932)年東京大学工学部建築学科を卒業。同12年九州大学工学部講師、同15年同助教授となり、同17年東京大学教授となって、同43年定年退官するまで長く教鞭をとった。この間、同34年東京国際貿易センター2号館を設計してその後世界的に普及することとなる鉄骨ラチスシェル式の構造の作例を示したほか、同39年東京カテドラル聖マリア大聖堂、国立屋内競技場などの構造設計を担当。同43年東大名誉教授となるとともに日本大学教授、早稲田大学客員教授、足利工業大学顧問教授となった。同49年、清水建設技術顧問、国際シェル構造学会名誉会員、建築工学研究会理事長となり、同55年株式会社坪井研究室を設立してその代表取締役となった。同61年構造学会長となり、同62年「曲面構造の研究と大空間建築構造への適用」に対して日本学士院賞が贈られた。吊り屋根など大空間構造の理論を数理解析、力学的洞察によって形成し、実用面に応用したとされ、同55年大阪で開かれた日本万博お祭り広場の大屋根などの新工夫でも評価されている。現代の公共建築に不可欠な大空間の建築に安全性と品位をそなえた構造設計を示した。

岩崎友吉

没年月日:1990/12/05

東京国立文化財研究所名誉研究員の保存科学者(化学)岩崎友吉は、12月5日、東京都台東区の自宅で心不全により死去した。享年78。建造物や美術工芸品などの修復や保存に関わる研究を専門とした恐らく最初の自然科学者と思われる岩崎友吉は、明治45(1912)年4月10日横浜市に生まれ、東京帝国大学化学科で柴田雄次教授に教えを受ける。昭和14年卒業後、同大学大学院に進み、理学部副手、助手をつとめた後、昭和23年東京国立博物館に発足した保存修理課保存技術研究室に文部技官として勤務。文化財保護の組織改編にともない、文化財保護委員会事務局保存部建造物課研究室をへて、同27年に東京文化財研究所(現東京国立文化財研究所)に保存科学部が出来ると同時に同部化学研究室の研究員となり、化学研究室長、修理技術研究室長を経て、同48年修復技術部発足と同時に修復技術部長となり、翌49年退官。同研究所名誉研究員。この間、昭和24年金堂火災直後の法隆寺国宝保存に関する調査を委嘱され、次いで25年に壁画の化学的保存処置のために調査員を委嘱される。その後、各地で盛んになった歴史的建造物や修復に伴う内部の部材彩色の保存処置を担当、同47年に発掘された高松塚古墳の壁画保存については、ヨーロッパの壁画保存の実態調査に参加、専門家を招へいしての修理方針の決定に関与した。研究所退職後は寺田春弌(当時東京芸術大学美術学部教授、絵画組成研究室)と高松塚壁画再現のための研究をしている。 同39年から40年にかけてベルギーの王立文化財研究所客員研究員として文化財保存の西欧的手法を研究したのをはじめ、同42年に日本が加盟してからの8年間日本政府代表として、イクロム(ICCROM、文化財保存のための国際研修機関)の運営に関わり、昭和44年からは理事を務めた。 主な論文、著作は、「文化財の保存における人工木材の応用」保存科学10号、「障壁画の剥落止めについて」保存科学12号、「文化財の保存における二三の根本的問題」保存科学13号、「古文書類の虫害とその防除法について」古文化財の科学5号、「ルーブル博物館実験室の紹介」古文化財の科学10号、「私は国宝修理屋」朝日新聞、昭和37年7月20日、「文化財の保存と修復」日本放送出版協会、昭和52.11.20、「博物館の機能上の一つの課題-身体障害者へのサービス」博物館学雑誌3・4合併号1979年など。その他エッセイでは、「大正っ子のおしゃべり」日本放送出版協会、昭和50.5.8、の中の1篇「炭火」は昭和50年の「年間優秀100エッセイ」の一つに数えられ、後に山本健吉編、日本の名随筆、第20巻、「歳時記、冬」に掲載されている。 晩年は、幼少時から養われた広い教養から溢れ出たエッセイで高い評価を受け、自然科学者でありながら、文化財保存修復が余りに科学的に偏ることに警鐘を鳴らし、文化財と自然科学との調和を模索したが果たせない事を悔やんでいた。昭和59年、勲四等旭日小綬章を受章。また、同61年にはアジア地域で初めて、多年の功績に対して、イクロム賞を受ける。その他、1972年以来IIC(国際文化財保存学会)のフェロー、古文化財科学研究会評議員(昭和60年~平成元年)、美術家連盟理事(昭和32年~58年)、博物館学会会長(昭和52年~55年)、等を歴任し、1986年スガ財団賞を受賞した。

浅田孝

没年月日:1990/12/04

自然と都市の共存を提唱した都市計画家、浅田孝は12月4日午後9時54分、心不全のため東京都渋谷区の都立広尾病院で死去した。享年69。大正10(1921)年3月19日、愛媛県松山市に生まれる。旧制松山高等学校理科甲類を経て、昭和18(1943)年、東京帝国大学工学部を卒業する。戦後、同21年から東京大学大学院で都市計画、地域計画を学び直す一方、丹下健三助教授と協力して丹下研究室を創立する。同26年東京大学大学院特別研究生を終了し、丹下研究室の主任研究員として広島平和記念公園施設、香川県庁舎などの設計監理を担当する。翌27年、早稲田大学講師となる。同31年、日本建築学会南極特別委員会委員兼設計部会主任となり、南極昭和基地のオペレーション計画、携行建物のシステム設計、製作監理などにたずさわる。同34年、世界デザイン会議運営財団を発足させ、翌35年世界デザイン会議を実施、運営する。また、同35年、「こどもの国建設推進委員会」委員となり、「こどもの国」の総括設計者としてその設立に尽力。同36年、地域開発・環境問題の調査研究のため株式会社環境開発センターを設立、主宰し、香川県観光総合開発計画など大規模な地域開発、施設計画等を行なう。同42年、日本都市計画学会より「坂出市人工土地計画の実施」に対して石川賞を贈られる。同47年、通産省・沖縄海洋博覧会「事業企画」「会場計画」委員としてその開催に尽力した。戦後の都市化、地域開発の設計、実施に力を注ぐ一方、文筆による方法論の提起も活発に行ない、昭和30年、『新建築』に「原爆下の戦後10年-日本人の建築と建築家」の特集を組んで戦後復興の方向についての世論を呼びおこし、同39年『都市問題』に「都市と開発のヒューマン・リニューアル」を発表して都市建設のあり方を提言するなど、時代の変化に応じた有効で豊かな都市計画への指針を示し続けた。著書に『天・地・人の諸相をたずねて』(昭和57年)、『地域社会の豊かさを求めて』(共著、同60年)などがある。

長廣敏雄

没年月日:1990/11/28

美術史家で、京都大学名誉教授、元京都橘女子大学長の長廣敏雄は、11月28日午前3時40分、肺炎のため京都市の京都南病院で死去した。享年84。明治38年12月27日、東京都牛込区に生まれた。第七高等学校造士館から大正15年に京都帝国大学文学部史学科(考古学専攻)へ入学、昭和4年に卒業し、同年から東方文化学院京都研究所(東方文化研究所)の所員となる。同研究所では梅原末治の助手として、「中国青銅器研究」をテーマとする一方、この時期に、ウィーン学派のA・リーグル、W・ヴォリンガー、ベルリン学派のH・ヴェルフリン等の美術史の方法論を学び、昭和5年にリーグル的様式論を基礎とした処女論文「武氏祠画像石」(『東洋美術』第4・5号)を発表した。その後、昭和9年の中国旅行を経て、仏教石窟研究へとむかい、昭和11年、同研究所員水野清一とともに、中国河北省南北響堂山、及び河南省龍門石窟の調査をおこなった。日中戦争開戦前夜の緊迫した情勢下におけるこの貴重な成果は、それぞれ昭和12年と昭和16年に出版された。一方、昭和12年にはリーグル『美術様式論』の翻訳を完了し、後の昭和17年座右宝刊行会から出版された。昭和13年より開始された山西省雲岡石窟の調査は、水野・長廣を中心として調査隊が編成され、昭和19年までの毎年続けられたが、長廣自身は、一員であった『世界文化』の同人たちが治安維持法により逮捕されるという事態に絡み渡航不許可となり、初回の調査には不参加、以後昭和14・16・17・19年に参加している。戦時下という困難な時期に遂行された、大規模かつ精密なこの調査は、東洋仏教美術・考古研究史上比類ない世界的な成果である。その調査結果は、昭和26年より刊行がはじまり、昭和31年に全16巻が完結した。この出版によって、水野とともに、昭和26年に朝日文化賞、昭和27年には学士院恩賜賞を受賞した。昭和23年に東方文化研究所は解散、京都大学人文科学研究所東方部となり、同研究所の研究員から昭和24年に助教授、昭和25年には教授となった。その間、昭和24年6月の美術史学会創立にも力を尽くした。『雲岡石窟』刊行後は、尉遅乙僧他の中国北朝・隋唐の芸術家について研究を進める一方で、平凡社版『世界美術全集』7・8(昭和25年・27年)や角川書店版『世界美術全集』12~14(昭和37年~38年)などで、啓蒙的概説をおこなっている。昭和33年に毎日放送番組審議会委員(昭和58年まで)、また、同年11月京都大学インド仏跡調査隊に参加し、各地の仏教遺跡を調査する。昭和34年NHK地方番組審議会委員(昭和52年まで)、同年文部省短期留学生としてヨーロッパ各地の美術館を見学し、オックスフォード大学、パリ大学において講演及び講義をおこなう。昭和37年2月、「中国石窟寺院の研究」により、京都大学より文学博士号を授与される。昭和37年12月、日中美術史家代表訪中団の一員として戦後初めて中国を訪問し、北京、西安、南京、蘇州等をまわる。昭和38年京都市交響楽団顧問となる。昭和41年、デ・ヤング美術館(サンフランシスコ)における東洋美術国際シンポジウム出席のためアメリカを訪問する。昭和44年、京都大学を停年退官、同大学名誉教授となり、同年から京都橘女子大学教授、昭和53年同大学学長、昭和61年同大学を退任、同大学名誉教授となる。その間、昭和50年に黒川古文化研究所理事となり、また、昭和51年には勲三等旭日中綬章を受章した。昭和62年、京都府文化賞特別功労賞を受賞した。長廣の学風は、西洋美術史の様式論の古代中国青銅器研究への応用という初期から、雲岡石窟における多年の調査に基づく実証性と『飛天の芸術』に示されるようなダイナミックな思考方法を特色とする中期、さらには後年、芸術と人、芸術と思想に対する研究へと転換してゆくが、一貫して横たわるのは芸術に対する豊かな感性である。さらに特筆すべきは、長廣自身「飯よりもすき」(『中国美術論集』あとがき)と述べる音楽に対する深い造詣であり、西洋古典音楽に関する評論も多数のこした。以下に主な著書を掲げるが、論文を含む詳細な業績については、「長廣敏雄教授著作目録」(『東方学報』京都第41冊・昭和45年3月)及び『アプサラス-長廣敏雄先生喜寿記念論文集』所載の著作目録に詳しい。また、自叙伝としては、「私の歩んだ道」(1)~(4)(『古代文化研究』43・平成3年2月~12月・刊行中)及び『雲岡日記』(日本放送出版協会・昭和63年)がある。主要著書『響堂山石窟』(水野清一共著・東方文化学院京都研究所・昭和12年)『メルスマン音楽通論』(翻訳・第一書房・昭和14年、昭和28年に音楽書院より改訂版)『龍門石窟の研究』(水野清一共著・座右宝刊行会・昭和16年)『リーグル美術様式論』(翻訳・座右宝刊行会・昭和17年、岩崎美術社より改訂版)『古代支那工芸史に於ける帯鈎の研究』(東方文化学院京都研究所・昭和18年)『大同の石仏』(水野清一共著・座右宝刊行会・昭和21年)『北京の画家たち』(全国書房・昭和21年)『大同石仏芸術論』(高桐書院・昭和21年)『飛天の芸術』(朝日新聞社・昭和24年)『雲岡石窟』16巻(水野清一共著・京大人文科学研究所刊・昭和26~31年)『敦煌』(中国の名画シリーズ)』(平凡社・昭和32年)『雲岡と龍門』(中央公論美術出版・昭和39年)『漢代画象の研究』(編著・中央公論美術出版・昭和40年)『南陽の画像石』(美術出版社・昭和44年)『六朝時代美術の研究』(美術出版社・昭和44年)『奈良の寺4 法隆寺五重塔の塑像』(岩波書店・昭和49年)『歴代名画記』1、2(訳注・東洋文庫305・311・平凡社・昭和52年)『中国美術論集』(講談社・昭和59年)

広田多津

没年月日:1990/11/23

創画会会員の女流日本画家広田多津は、11月23日午前7時15分、心不全のため京都市北区の自宅で死去した。享年86。明治37(1904)年5月10日、京都市に麻織物商を営む父覚次郎、母京の次女として生まれる。大正5年京都市立竜池小学校を卒業、しかし病弱のため進学せず、家事を手伝いながら独学で絵を始めた。同8年頃、三木翠山に一年ほどの間住み込みの書生として日本画の手ほどきを受け、同12年頃から甲斐荘楠音に学ぶ。翌13年竹内栖鳳に入門し、竹杖会で研鑚を積む。昭和8年竹杖会が解散したのち、10年西山翠嶂に入門。翌11年文展鑑査展に「秋晴」が初入選した。その後、新文展に入選を続け、14年第3回新文展で初めての裸婦「モデル」が特選を受賞する。15年には、西山塾で同門の向井久万と結婚(35年まで)。17年の第5回新文展で「大原女」が再び特選となり、戦後21年の第2回日展でも「浴み」が三たび特選を受賞した。しかし、官展に出品したのは、翌22年の第3回日展までで、23年向井久万、上村松篁、秋野不矩、沢宏靭、橋本明治、福田豊四郎、吉岡竪二ら、京都・東京両系の画家による創造美術の結成に参加、創立会員となる。「世界性に立脚する日本絵画の創造」をうたった同会は、26年新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となったため、会員として以後同展に連年出品する。30年第19回新制作展に出品した「大原の女」で上村松園賞を受賞、43年第32回展出品作「凉粧」は文化庁買上げとなった。この間、29年現代日本美術展、30年日本国際美術展に出品し、また35年より裸婦を一時中断して舞妓を多く描く。49年新制作協会日本画部が独立、創画会を結成して以降、創立会員として、50年第2回展「帰路」、56年第8回「白扇」、60年第12回「臥る裸婦」をはじめ毎年出品した。また36年エジプト・アメリカ等8ケ国、48年イタリア・スペイン、52年インド、56年シルクロードを旅行。44年東京の彩壷堂での第1回個展以降、50年、56年と東京セントラル絵画館で個展を開催した。裸婦や舞妓を題材に、おおらかで豊饒な女性の美を描き続けた画業であった。52年京都日本画専門学校校長となり、53年京都府と京都市の文化功労賞を受賞した。

天野太郎

没年月日:1990/11/15

東京芸術大学名誉教授の建築設計家天野太郎は、11月15日午前2時37分、心不全のため、神奈川県鎌倉市の聖テレジア病院で死去した。享年72。大正7(1918)年7月27日、広島県呉市に生まれ、昭和20年早稲田大学工学部建築学科を卒業する。同年より同30年まで鹿島建設株式会社設計部に勤務。この間の同24年より26年まで遠藤新建築創作所にも勤務し、同27年フランク・ロイド・ライトのタリヤセン・フェローシップによりタリヤセンに遊学する。同28年、米国を経由して帰国。同30年工学院大学建築学科助教授となる。同34年より37年まで、有限会社天野太郎研究室を設立、運営。同36年中近東工科大学客員教授としてトルコ、アンカラに赴任し、ひき続いて文部省在外研究員として欧州の建築事情を視察した後帰国する。同37年工学院大学を退き東京芸術大学美術学部建築学科助教授となり、同39年より58年まで同教授として教鞭をとった。同58年退官にあたり名誉教授の称号を授与される。フランク・ロイド・ライトの建築理論を日本に紹介し、長く教職にあって後進を指導したほか、昭和38有限会社天野・吉原設計事務所顧問となって、公共建築を中心にその理論の実際例を示した。代表作に新花屋敷ゴルフクラブ、嵐山カントリー・クラブ、東京芸術大学図書館、同絵画科教室、同彫刻陳列館、長野国際会館などがある。著作もよくし、『フランク・ロイド・ライト』(共著)、『建築の発想』(共著)、『日本建築家全集』などを著した。

工藤哲巳

没年月日:1990/11/12

東京芸術大学教授の造形作家(絵画、オブジェ)工藤哲巳は、11月12日結腸がんのため東京都千代田区の三楽病院で死去した。享年65。昭和10(1935)年2月23日兵庫県加古郡に生まれる。祖父は青森県長橋村村長をつとめ、両親はともに画家で父工藤正義は新制作派協会に属した。同20年父没後岡山を移り、岡山・操山高校卒業後、同29年東京芸術大学油画科に入学し同33年卒業した。存学中から抽象画や前衛的なオブジェを手がけ、同32年の東京・美松画廊でのハプニング「反芸術」をはじめ、同32~37年の間、読売アンデパンダン展、グループ「鋭」展を通じ、「インポ哲学」を唱え既成の観念や概念に激しく挑んだ。同37年、アジア青年美術展でグランプリを受賞し、同年夫人と渡仏、以後パリを拠点にヨーロッパ各地で制作発表を行い、「あなたの肖像」シリーズを展開する。また、同37年にはパリ・ビエンナーレ展日本部門に出品し、会場内で丸刈り姿であやとりをする「ヒューマニズムの腹切り」のパフォーマンスで西欧人の度肝をぬいた。1970年代に入ると、「環境汚染・養殖・新しいエコロジー」のシリーズを展開、同51年にはカーニュ国際フェスティヴァルでグランプリを受賞、翌年のサンパウロ・ビエンナーレ展には日本から4名の出品作家の一人として参加した。同62年家族をフランスに残したまま帰国し、東京芸術大学教授(絵画科・油画)をつとめていた。一連のシリーズとして他に、「増殖性連鎖反応、融合反応」シリーズ、「カゴ:綾取り・瞑想」シリーズ、「デッサン:制度としての色紙」シリーズ、「前衛アーティストの魂」シリーズ、「天皇制の構造」シリーズがあり、モニュメントに「脱皮の記念碑」、映画に「脱皮の記念碑」(撮影・吉岡康弘)がある。略歴1935年 青森県北津軽郡長橋村村長の初孫として生れる。出生病院は大阪。両親は共に画家。父、工藤正義は新制作会友。1945年 父の死。母は岡山に移り、教師として生計を立てる。1953年 岡山操山高校卒業。1954年 東京芸術大学入学。のちの妻弘子と出会う。1957年 ハプニング「反芸術」美松画廊(東京)。1958年 東京芸術大学卒業。1957~62年まで、読売アンデパンダン展、グループ「鋭」展で活躍、「インポ哲学」を唱え既成の観念や概念に挑戦。1961年 「現代美術の冒険」展招待出品、東京国立近代美術館。1962年 「アジア青年美術展」出品、グランプリ受賞、妻弘子と共にパリに渡る。以後パリを拠点にヨーロッパで活動する。 ハプニング「インポ哲学」、レイモン・コルディエ画廊(パリ)。ロベール・ルベルとアラン・ジュフロワ共同企画「コラージュとオブジェ」展招待出品、セルクル画廊(パリ)。ジャン=ジャック・ルベル企画によるハプニング「カタストロフ」に参加。「あなたの肖像」シリーズはじまる。1963年 パリ・ビエンナーレ、日本部門に出品。会場のパリ市立近代美術館でハプニング「ヒューマニズムの腹切り」、「ヒューマニズムの壜詰」を行い、“世界的異議申立者”と評される。1964年 ヴィム・ビーレン企画による「ニュー・リアリスト」展招待出品、ハーグ、ウィーン、ベルリン、ブラッセル各美術館(~65年まで)巡回。ハプニング「インスタント精液」、(ジャン=ジャック・ルベル企画による“ワーク・ショップ”で、パリのアメリカン・センター)。1965年 パリ・ビエンナーレ、フランス部門出品。ジェラール・ガシオ=タラボ企画「物語的具象」展。アラン・ジュフロワ企画「オブジェトゥール」展招待出品。個展、及びハプニング、J画廊(パリ)。1966年 サロン・ド・メエ及びサロン・グラン・ジュンヌ招待出品(~80年まで)及びハプニング「あなたの肖像」。アムステルダム、パリ、ヴェネチア(サン・マルコ広場)でハプニング。個展、20画廊(アムステルダム)、テーレン画廊(エッセン)。1967年 個展、マチアス・フェルス画廊(パリ)。ハロルド・ゼーマン企画「サイエンス・フィクション」展招待出品、(ベルン、パリ、デュッセルドルフ各美術館巡回、~68年まで)、「オブジェ67」展、マチアス・フェルス画廊(パリ)及びマルコニー画廊(ミラノ)。ジェラール・ガシオ=タラボ企画「問いの世界」展招待出品、及びハプニング「脱皮の花園ダンスパーティ」(パリ、市立近代美術館)。映画、「あなたの肖像」(ファン・ザイレンと)。「オランダ・コレクター」展(アインホーフェン美術館)。1968年 5月革命。個展、ミッケリー画廊(アムステルダム)。レジェ画廊(マルモ、ゴートボルグ)。パリ、アイントホーフェン、ゲント、デュッセルドルフ、カッセルでの「マニフェスト展」に参加。「電子回路の中での放射能による養殖」シリーズ発表。オブジェ大作「若い世代への讃歌」制作。パリ、エッセルでハプニング。1969年 一時帰国。千葉房総鋸山に岩壁レリーフ「脱皮の記念碑」制作。9月10日壱番館画廊(東京)で「一日展」。毎日現代美術展出品。映画「脱皮の記念碑」(~70、撮影・吉岡康弘)。1970年 最初の大展望展が開かれる。クンストハーレ・デュッセルドルフ。「ハプニングとフルクサス」(~71、ハロルド・ゼーマン企画)に招待され参加、クンストハーレ・ケルン。映画「泥」(シナリオ、イオネスコ)のため、美術装置担当。「イオネスコの肖像」制作。「環境汚染・養殖・新しいエコロジー」シリーズ始る。1971年 「絵画とオブジェ’71」展招待出品、パリ・ガリエラ美術館。毎日現代美術展出品。1972年 「フランス現代美術の12年」展(ポンピドー展)に日本の作家としてただひとり招待出品、パリ・グランバレ。個展(展望1960~70)アムステルダム市立近代美術館。1973年 個展、マチアス・フェルス画廊、ボーブール画廊(パリ)。1974年 「日本・伝統と現代」展招待出品、(~75)。クンストハーレ・デュッセルドルフ、ルイジアナ美術館(デンマーク)。1975年 個展、ヴァルゼッキ画廊(ミラノ)。「ある系図」(岡山の生んだ異才とその周辺)展、岡山操山高校・28会主催、葺川会館。1976年 カーニュ国際絵画フェスティヴァルでグランプリ受賞。ヴェネチア・ビエンナーレ出品。パリ・ARC・2での「箱」展に招待出品。1977年 個展、ボーブール画廊、ヴァロア画廊(パリ)。ジェラール・ガシオ=タラボ企画「神話と現実」展招待出品、(パリ・ARC・2)、サンパウロ・ビエンナーレで特別名誉賞。「パリ・ビエンナーレ’59~’67」に招待出品。CNAC(パリ)。ハプニング「危機の中のアーティストの肖像」(ボーブール画廊)。「環境汚染の中の肖像」サンパウロ・ビエンナーレ展。パリ・ポンビドーセンター開館記念展示に「環境汚染・養殖・新しいエコロジー」陳列。1978年 ドイツ文化交流基金により1年間ベルリンへ招待される。個展、ウンダーランド(ベルリン)、ベルシャス画廊(パリ)。ハプニング、セレモニーをディオゲネス劇場とウンダーランド画廊で行う(ベルリン)。ビデオ「工藤のセレモニー」を制作(ベルリン)。ベルシャス画廊では、セレモニー「無限の綾取り」。「カーニュ大賞受賞者」展(パリ・ARC・2とカーニュ)出品。「パリ・ビエンナーレ’59~’73」展出品、西武美術館(東京)。1979年 個展、ジャド画廊(コルマール)、ベルシャス画廊(パリ)、青年文化センター(メッツ)。それぞれセレモニー「無限の綾取り」を行う。ジェラール・ガシオ=タラボ企画「フランス芸術の傾向’68~’79」展招待出品。セレモニー「灯は消えず」を行う(パリ・ARC・2)。1980年 「現代芸術見本市」パレ・デ・ボザール(ブラッセル)。「アクロシャージュ4」展、パリ・ポンピドーセンター。セレモニー「灯は消えず」を行う。7月、ウナック・サロンで「幻の画家工藤哲巳-この一点を囲んで」6月入院、8月アルコール中毒全快。「サイエンス・未来とサイエンス・フィクション」展招待出品(リル市主催)。「パニック」展招待出品(レンヌ文化センター)。サロン・モンルージュ招待出品(モンルージュ)。1981年 個展、ヨーレンベック画廊(ケルン)、セレモニー「灯は消えず」。ラルース社発行「大百科事典」(80年2月発行)にエコロジーシリーズ掲載。新作個展、草月美術館(東京)。アラン・ジュフロワによる企画展「何処へ」、アムブロワーズ画廊(パリ)。1981~82年 「1960年代-現代美術の転換期」展、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館。1982年 個展、「制度としての色紙」展、ウナックサロン(東京)。喚乎堂ギャラリー(前橋)、番画廊(大阪)。個展、「遺伝染色体による無限の綾取り」ギャラリー16(京都)。「サヨナラKUDO」展、銀座絵画館(東京)。「天皇制の構造について」高木画廊(名古屋)。「アート・フェスティバル、現代の美術」展、富山県立近代美術館。「FIAC・パリ画商」展、グラン・パレ(パリ)。1983年 「ムーラージュ形・型」展、アンドレ・マルロー記念館(パリ)。「ヨーロッパ1960年回顧展」、サンテチェンヌ文化館、同工業美術館 サンテチェンヌ市(フランス)。「ハット・アート」(ベルリン市他)。「ピノキオ100年祭展」、カーン市(フランス)。「全く別の具象」展、マチアス・フェルス画廊(パリ)。「フランス文化省選抜展」、パピヨン・デ・ザール(パリ)。「ローベル社発行 世界現代美術年鑑」最新版に新作3点掲載、(パリ、ニューヨーク)。「縄文の構造=天皇制の構造=現代日本の構造」展、サプリメントギャラリー(東京)、天満屋ホール(岡山)、ギャラリー16(京都)、フジタ画廊(弘前)。「1960年代展」東京都美術館。個展、51番館ギャラリー(青森)。1984年 「工藤哲巳のエロチィシズム」フジタ画廊(弘前)。「日本の心」伊達画廊(岡山)。「エレクトラ展」パリ市立近代美術館。個展、岡崎球子画廊(東京)。「現代の絵画1970-80」群馬県立近代美術館。「美術の神風・工藤哲巳」河合塾ホール(名古屋)。「縄文の構造=天皇制の構造=現代日本の構造」展、エスパースジャポン(パリ)、スペース・ニキ(東京)。「カフカの世紀」展、ポンピドーセンター(パリ)。「ベヒトコレクション」展、アムステルダム市立近代美術館。「現代東北美術の状況展」、福島県立美術館。弘前市立博物館長・羽場徳蔵氏の努力で父工藤正義の遺作回顧展を開催。「津軽文化褒賞」受賞、「内助功労賞」を妻・弘子が受賞。「天壤のオブジェ–工藤哲巳と日本の遊人たち」展、(東京・渋谷パルコ)。「鋸山-脱皮の記念碑-を回想する」ウナック・トウキョウ(東京)。1985年 パリの個展を前にドローイング、オブジェ、コラージュの新作展をMギャラリー(東京)で開催。(以上、記憶にあるものを記入、漏れのあった場合はお許し乞う。–工藤哲巳)1985年 「咲きほこる前衛」、ギャラリー・ジルベール・ブラウンストン(パリ)FIAC・画商展、グラン・パレ(パリ)。「再構成:日本の前衛芸術、1945-1965」、オックスフォード近代美術館(オックスフォード)。1986年 「ひとりの作家の歩んだ道・工藤哲巳の世界」弘前市立博物館(弘前)。個展、コバヤシ画廊、東京。1986年 「ひとりの作家の歩んだ道」、ギャラリー・クロード・サミュエル、ギャラリー・ジルベール・ブラウンストン(セレモニー「無限の綾取り」)、パリ。1986-87年 「前衛の日本」展、ポンピドーセンター、パリ。1987-88年 「ベヒト・コレクション」展、現代美術センター、ミディ・ピレネー、及びヴィルヌーヴ市立近代美術館、アスクにて、フランス。1988年 「マルセイユの現代美術」展、ミューゼ・カンチニ、マルセイユ。1989年 「ハプニングとフルクサス」展、ギャラリー1900-2000及びギャラリー・ドゥ・ジェニー、パリ。「クドー」FIAC国際画商展での個展、グランパレ、パリ。個展「クドー」、ギャラリー・ドゥ・ジェニー、パリ。1990年 11月12日死去(1987年10月1日から東京芸術大学美術学部の教授として単身赴任中であった。)家族は妻・弘子と長女紅衛、パリ在住。1991年 「クドーテツミへのオマージュ」展、主催、ゴッホ・ファンデーション及びファン・リーカム美術館、アペルドルーン、共催アムステルダム市立近代美術館。「クドー・テツミへのオマージュ」、ポンピドーセンター、パリ。協力:工藤弘子「芸術と日常-反芸術/汎芸術」展(予定10月10日~12月1日)、主催 国立国際美術館、大阪。1994年 「工藤哲巳回顧展」予定、国立国際美術館、大阪、東京、パリ等。(上記の略歴は、1985年の項目下に註記のある部分までが工藤哲巳の作成、それ以後は夫人の追記による。)

井口安弘

没年月日:1990/11/12

20数年間にわたってアメリカ・マサチューセッツ州ボストンのボストン美術館で美術品の保存修復に携わってきた同美術館東洋部保存修復室長井口安弘は、現地時間の11月12日午前4時、心臓マヒのため、マサチューセッツ州ブルックラインの自宅で死去した。享年59。昭和6(1931)年3月6日兵庫県尼崎市に生まれる。14才で京都に出て、おじの山川文吾に表具と文化財修理を学ぶ。15年の修業ののち、昭和36年独立。この間、平泉中尊寺の中尊寺経をはじめ、高山寺、南禅寺、本願寺、知恩院、三井寺、高野山、宗像神社、太宰府天満宮など多くの社寺の国宝、重文級の絵画、書籍類の修復に携わり、表装装潢師連盟に所属した。昭和38年ボストン美術館東洋部長の富田幸次郎、ロバート・トリート・ペイン・ジュニアの招請により、同美術館東洋部の保存修復室に室長(conservator)として就任。以後、没時まで20数年にわたって、ボストン美術館の東洋美術品の保存修理にすぐれた手腕を発揮した。昭和47年、ボストン美術館がその所蔵品を日本でも公開するようになって以降、それら優品に施された完璧ともいえる保存の手腕は、広く日本でも知られるようになり、63年宇野宗佑外務大臣から外務大臣表彰を受けている。この間、49年には、アメリカ芸術奨励基金The National Endowment for Artsの許可を得て、台湾の故宮博物院で絵画の伝統的な修復と表装の技術を研究した。近年では、同美術館に収蔵されていた北斎や広重の浮世絵版木の確認と、その日本での展覧会開催にも大きく貢献した。自己に妥協を許さない厳しい仕事と経験に基づく幅広いアドバイスは、多くの人々の尊敬を集め、彼が好んだ民謡とユーモアのセンスは、多くの友人を生んだ。当研究所の研究員をはじめ、アメリカに渡った日本の研究者で彼の厚誼を受けた者も多い。ボストン美術館では平成2年秋、東洋部創設100周年を迎えて大規模な記念展が開催され、また、翌3年には日本でボストン美術館やフェノロサらを紹介するテレビ番組が数度にわたって放映された。その中で彼の仕事もたびたび紹介されたが、そうした海を渡った優品を支えてきた彼の急逝に、多くの人々の哀悼が寄せられた。

稲垣久治

没年月日:1990/11/06

フランスのル・サロン永久会員、元光陽会委員の洋画家稲垣久治は、11月6日午後11時50分、肺炎のため京都市上京区の西陣病院で死去した。享年71。大正8(1919)年3月10日、兵庫県城崎郡に生まれる。昭和9(1934)年より京都で南画、水彩画を学ぶが、同25年洋画に転向し、同27年第38回光風会展に「読書」(水彩)で初入選。同年第8回日展にも「読書」で初入選する。その後光風会には同44年まで出品を続け、日展には第9回展に「耿成」の号で「つるバラ」を、同31年第12回展に「裸婦」で入選をはたす。同38年京都市美術展に出品し京都市長賞受賞。同44年第17回光陽会展で佳作賞を受け、同年光風会を退会。翌45年第18回光陽会展で光陽賞を受け、同会会員となる。同48年、フランス美術大学に短期留学する。同53年、フランスのル・サロン展で名誉賞を受け、また、光陽会委員に推挙される。同54年、サロン・ドートンヌに入選し、ル・サロン永久会員に推挙される。同55年フランス美術賞展(オンフルール展)に入選し、同年より同57年まで3年間連続して現代洋画精鋭選抜展銀賞を受賞した。バラ、舞妓、文楽人形、野仏などを得意とし、叙情的な作風を示した。

信田洋

没年月日:1990/10/25

読み:のぶたよう  彫金界の長老で日展参与の信田洋は10月25日午後6時32分、肺炎のため千葉県佐倉市の佐倉厚生園で死去した。享年88。明治35(1902)年4月28日、東京日本橋に生まれる。本名六平。大正6(1917)年、東京府立工芸学校に入学して北原千鹿に師事し、同10年3月卒業。昭和3(1928)年東京美術学校彫金科を卒業する。この間、昭和2年、金工芸団体工人社の結成に参加。同5年第11回帝展に「彫金透彫筥」で初入選。以後連年官展に出品し、同9年第15回帝展では「蒸発用湯沸瓶」で特選となる。同26年5月、昭和25年度芸術選奨文部大臣賞を受賞した。同33年新日展会員となり、同35年より評議員として出品する。花瓶、筥、置物等、古典的な器物を多く制作し、安定感と風格をそなえた作風を示した。花鳥等伝統的な題材の文様に現代感覚を生かし、近代金工界にあって先導的役割をはたした。

河津光浚

没年月日:1990/10/22

読み:かわづこうしゅん  文化財の壁画模写の第一人者として知られる河津光浚は、10月22日午前8時20分、心不全のため京都市左京区の大原記念病院で死去した。享年91。明治32(1899)年2月20日、福岡県田川郡に生まれ、本名友重。同45年郷里の南画家日高東岳に画の手ほどきを受けたのち、大正7年上京し、山内多聞に入門する。翌8年第1回中央美術社展に「池の端」が初入選し、9年の明治絵画協会展で「初秋」が一席を受賞した。同10年古典を研究するため京都に移り、11年第4回帝展に「日なが」が初入選した。同12年には京都市立絵画専門学校別科本科に入学し、15年卒業。この間菊池契月、入江波光に師事し、卒業後、契月の画塾に入塾する。また京都市展や新文展(第6回)、戦後は日展(第3、5回)にも出品した。29年師契月の推挙と文化財保護審議会の委嘱を受け、平等院鳳凰堂壁画の模写に参加(31年まで)。以後、醍醐寺五重塔壁画模写(32~35年)、法界寺阿弥陀堂壁画(35~37年)、室生寺金堂壁画(38~39年)、宇治上神社本殿扉壁画(39年)、栄山寺八角堂壁画(40~41年)、海住山寺五重塔扉壁画(41年)、教王護国寺真言七祖像(43~44年)、富貴寺大堂壁画(44~47年、模写主任)など、数多くの壁画の模写に携わった。また30年には、花火の飛火で罹災した京都御所小御所の襖絵、杉戸を模写(32年まで)し、59年には、京都・城南宮の依頼により城南宮絵馬を復元している。こうした仕事により、模写班の一人として33年京都新聞社文化賞、36年京都府・京都市文化功労賞を受賞。壁画模写の第一人者として、61年には財団法人京都府文化財保護基金より文化財保護基金功労章を受章した。また壁画の模写を中心に、39年ヤマト画廊(銀座)で初の個展を開催。その後、40年松坂屋(上野)、42年福岡県文化会館、48年土橋画廊(京都)・ヤマト画廊(銀座)・福岡県文化会館、53年北九州市立美術館、61年京都府工芸美術陳列所(京都府ギャラリー)で、展覧会を行った。

小野忠重

没年月日:1990/10/17

版画家で版画史研究、洋風画史研究でも知られた小野忠重は、10月17日肺炎のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年81。明治42(1909)年1月19日東京市本所区に生まれる。実家は酒類等の小売商を営み、忠重は一人息子として育った。早稲田実業学校在学中の大正13年、中西利雄、小山良修らの蒼原会に加わり水彩画に親しみ、翌年の白日会第2回展に出品した。同年、永瀬義郎著『木版画を試みる人に』に接し創作版画にめざめ、自ら試作したりした。また、この頃から本郷絵画研究所へ通った。昭和2年、早稲田実業学校を卒業、以後家業に従事する。同4年、第2回プロレタリア美術展に油彩画、木版画(「ビラを見る労働者」)等3点を出品(~第5回展まで毎回)、次第に版画に専心するに至った。プロレタリア美術展への出品作に連作「三代の死」(同6年)などがある。同7年、第2回日本版画協会展に「患者控室」等を出品する一方、新版画集団を創立、これは当時のプロレタリア美術運動に呼応したものであった。同12年、新版画集団を改組し造型版画協会をおこし主宰する。この間、同8年には黒田源次著『西洋の影響を受けたる日本画』に触れ感動し、以後黒田との文通を始めるなど、日本洋風画史への関心を高めていった。後年の著書『江戸の洋画家』(昭和43年、三彩社)は、その研究の集大成といえる。また、同16年には法政大学高等師範部国語漢文科を卒業した。同20年、一時岡山県津山市へ疎開したが翌年東京へ戻り、美術出版社に入り「洋画技法講座」「美術手帳」の編集に携わった。戦後は日本美術会の委員として、同23年の同会アンデパンダン展第2回から毎回出品し、戦前同様庶民の生活に密着した題材を用いて制作を続け、一貫して版画の大衆化をめざした。一方、「木版陰刻」などの手法により独自の作風を確立していった。同31年、東京・銀座養清堂画廊で初の個展を開催。翌32年第1回東京国際版画ビエンナーレ展に出品、以後出品は第4回展まで及び、第6・7回展には諮問委員を委嘱された。同36年、ソ連で開催された現代日本版画展を機に訪ソし、ヨーロッパも巡遊する。同年、岩波新書として『版画』を発刊。この間、同38年から同52年まで東京芸術大学絵画科版画研究室の講師をつとめた。同54年紫綬褒章を受章。同63年には、東京芸術大学芸術資料館で「小野忠重の版画と素描」展が開催された。版画作品は他に、「工場街」(昭和10年)、「狐市街」(同13年)、「けむり」(同31年)など。作品集に『小野忠重版画集』(同52年)。版画史、版画の技法に関する著書も多く、『日本の銅版画と石版画』(昭和16年 双林社)、『版画技法ハンドブック』(同35年 ダヴィッド社)、『近代日本の版画』(同46年 三彩社)などがある。

中原實

没年月日:1990/10/15

日本歯科大学名誉学長、日本歯科医師会名誉会長で、二科会名誉理事の洋画家でもあった中原實は、10月15日東京都板橋区の日本大学医学部付属板橋病院で死去した。享年97。大正末年から昭和初年にかけての新興美術運動の主要な推進者として知られる中原實は、明治26(1893)年2月4日、東京市・麹町区に生まれた。父の中原市五郎は日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)の創設者。東京高等師範学校付属中学校を経て、大正4年日本歯科医学専門学校を卒業、同年同校助手となってハーバード大学歯科に編入学、同7年卒業後一時ニューヨークに勤務し渡仏、フランス陸軍歯科医となる。翌8年、パリのアカデミー・グラン・ショミエールに通い原勝四郎、青山熊治らと交遊する。この時期、未来派、表現派、ダダ、超現実主義などの美術運動に触れ啓発されるなかで、はじめパリでモディリアーニに傾倒、ついでベルリンでゲオルグ・グロッスに影響された。さらに、ドイツの新即物主義や超現実主義の手法を学び、抽象画へ接近していった。同12年帰国し母校の教授に就任、また、第10回二科展に「モジリアニの美しき家婦」「トレド」の2点を出品し注目されたが、開催初日に関東大震災に遭遇し展覧会は即日閉鎖された。同13年中川紀元らのアクション運動に参加、翌14年三科運動をおこしを設立、アンデパンダン展を組織するとともに、飯田橋・九段の自宅焼跡に「画廊九段」を設けて前術的活動を展開、絵画の理論闘争も開始し、美術雑誌「AS」に参加、美術雑誌「GE・GIMGIGAM・PRRR・GIMGEM」に寄稿する。画廊九段は、画壇の築地小劇場とも称され、「欧州新興美術展」(報知新聞社主催)などを催した。昭和元年、画廊九段を閉鎖、単位三科を再組織して表現主義や超現実主義をとり入れた演劇活動にのりだし、などを開催したが、同年中に単位三科を解散した。同4年第一美術協会の客員となる。同11年には北園克衛の「VOU」クラブに参加し、美術評論を発表した。その後、同18年には二科会絵画部会員となり、戦後は同会の復興に尽力、同34年の機構改革により二科会理事となった。同37年、最初の画集『中原實画集』(美術出版社)を刊行、同41年にも『Cemalde絵画・中原實画論集』(美術出版社)を出した。同59年、卒寿記念としてを催し、東京セントラルアネックスで絵画展を開催、『中原實画集』(実業之日本社)を刊行、また、リトグラフ「猫の子」を出す。この間、日本歯科医師会会長を都合5期10年つとめたのをはじめ、日本私立大学協会会長、日本歯科医師会名誉会長、日本私立大学協会顧問などを歴任した。大正末年に未来派や超現実主義を先駆的に紹介した功績はきわめて大きい。作品は他に、「ヴィナスの誕生」(大正13年)、「乾坤」(昭和元年)、「魚の説」(同13年)、「自然の中性」(同22年)などがある。

増澤洵

没年月日:1990/10/12

成城大学新図書館などの設計で知られる増沢建築設計事務所社長の建築家増澤洵は、10月12日午後10時21分、心不全のため、東京都台東区の下谷病院で死去した。享年65。大正14(1925)年5月5日、東京都港区に生まれ、昭和22(1947)年、東京大学工学部建築学科を卒業。卒業後はアントニン・レーモンドに師事して設計の実際を学んだ。戦後間もない資材不足の時期にあって、合板を用い左官手間を省くなど時代に応じた最小限住居の設計、建設を試みるなど積極的な活動を展開。この時期の代表作に原邸がある。同31年増沢建築設計事務所を設立。伊東邸、大下別荘などの個人住宅や、成城学園、沼津市民文化センターなど学校、文化施設を中心に設計し、同53年日本建築学会賞を受賞している。施工主、材料、職人に誠実な建築家として知られ、入札には応じない建築の会を設立するなどして信望を集めた。同39年より40年まで東京大学工学部講師、同45年ハワイ大学客員教授となったほか、同51年より53年まで日本建築家協会理事をつとめた。著書に『体育施設』『集合住宅』などがある。

重達夫

没年月日:1990/09/28

読み:しげみちお  福井県立美術館長で行動美術協会会友の洋画家、重達夫は、9月28日午後5時55分、心筋こうそくのため福井県武生市の林病院で死去した。享年80。昭和30年より42年まで長く京都市美術館館長をつとめた重達夫は、明治43(1910)年1月20日、京都市中京区に生まれた。父は南画を描いた。昭和11(1936)年東京大学法学部を卒業して逓信省に入省する。同25年、京都府商工部長に就任し、同30年より京都市美術館館長となる。同36年京都・パリ交換陶芸展のために渡仏し、ヨーロッパ各地をめぐる。同42年、京都市美術館館長を退いたのちは、京都国立近代美術館評議員となり、同55年から福井県立美術館長となった。洋画家としては、同27年京都市美術展に初入選し、同30年頃より行動美術協会展に出品を始める。同49年同会会友となり、没年まで出品を続けた。昭和30年第10回行動展に「街」、第10回同展に「ぶらんD」、同50年第30回展に「コロッセオ」、同55年第35回展に「パリ風景」、同60年第40回展に「晴日のパリ」、平成2年第45回展に「雨の街」を出品しており、西欧風景や街頭風景を得意とした。

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