岡田節子

没年月日:2008/05/28
分野:, (洋)
読み:おかだせつこ

 洋画家で女子美術大学名誉教授の岡田節子は5月28日、敗血症のため死去した。享年90。1917(大正6)年8月31日、宮城県志田郡古川町(現、大崎市)に生まれる。内務省官吏(後に代議士)であった父の転勤について、子ども時代には札幌、金沢、東京、津、宮崎、京都、岐阜など転校を重ねる。1934(昭和9)年東京府立第五高等女学校4学年を修了・退学し、女子美術専門学校(現、女子美術大学)師範科西洋画部に入学する。翌35年同校高等科西洋画部に転部。37年に卒業すると岡田三郎助が自宅で開いていた研究所に入るが39年に閉鎖、この年の4月朱葉会第21回展に出品して朱葉会賞を受賞。またこの頃就職も考え、主婦之友者編集記者に応募し採用までこぎつけながら家族に反対され断念したこともあった。42年、紹介された梅原龍三郎の助言で久保守に師事、その年の内に国画会第17回展で「ミモザ」が初入選、まもなく開所した国画会研究所に入る。47年女流画家協会の発足に創立会員として参加、第1回展に「兎」「森」「夕べ」を出品しT氏賞を受賞。48年南青山にアトリエを構え桜井悦との共同生活を開始。50年に東京YWCA教養部講師を務め、52年に女子美術大学助教授となる。この間、フランス留学を前提にアテネ・フランセで1年ほど学び、53年からは留学費用のために雪印乳業株式会社に広告原画を2年ほど提供。54年私費留学生試験に合格し桜井悦と翌年渡仏。ヨーロッパ各地に足を運びながらパリで制作を行うが、病を得た桜井に伴い一年半ほどで帰国、大学勤務に復帰する。渡仏前には、やさしいタッチと色調を活かした素朴な画風で子供や動物を描くことが多かったが、パリではその素朴さを残しながらやや水彩風のタッチで、街並みを主な画題とした。一方で、戦後華々しくデビューしたビュッフェやサロン・ド・メを中心とする青年画家たちが活躍していたパリの半具象にも魅了される。57年に銀座の求龍堂画廊にて開催された初の個展で滞欧作を発表、同年第11回女流画家協会展に半具象の影響色濃い「蝶」「巣」を出品、その内「蝶」が毎日新聞社賞受賞。一転してドライな筆致となった両作品では、樹木の幹と枝で大まかに区切った構図と、その一角に描き込まれた小さく儚げな生きものが好対照をなし、ともすれば無機質になりかねない画面の中に灯されたような生命力が見事にクローズアップされている。65年アメリカ、メキシコへの研修旅行中、ニューヨークで抽象絵画に衝撃を受ける。71年女子美術大学教授となる。歪ませた円形を組み合わせた画面構成などをしばらく試みていたが、抽象は自分には不向きと思い至り、72年再び具象に戻る決意をする。代表作「楽園」(78年)や、それに連なるものとして、80年代に資生堂ギャラリーで3度の展観がなされた“森シリーズ”が有名だが、“交響譜”“メルヘン”“鳥獣戯画”などのシリーズを次々と展開。「いずれも自然と人間を含めた生きもの達の交流がテーマ」で、モチーフは飽くまで現実世界に求めながら、「想像や空想をおりまぜた、独白に近い作品」との言葉にあるように、寓話やメルヘンの世界を表出した心象画が岡田のスタイルとなる。細やかなストロークによる塗り重ねが全体に朦朧とした均質感を醸すことで、それ自体具体性を極力排除されているモチーフ全てがそれを取り巻く空気と渾然一体となり、現実とは決して交わらぬ独立した幻想世界を築いている。また晩年にはエッチングやリトグラフなどの版画作品もしばしば制作した他、人物の顔面に注目し、アルチンボルドを彷彿とさせる動物パズル的な作品も試みている。83年女子美術大学を退職、同大学名誉教授の称号を受ける。1989(平成元)年、46年間ともに暮らし制作を続けてきた桜井悦が死去。93年『岡田節子画集』を美術出版社より刊行、出版記念自選展を東京セントラル美術館にて開催。2000年には美術出版社より『メルヘン鳥獣戯画』が出版された記念として日本橋高島屋画廊で個展が開催された。女流画家協会展への出品は、パリ留学中の第9回・第10回を除き亡くなる08年の第62回まで欠かすことがなかった。

出 典:『日本美術年鑑』平成21年版(433頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「岡田節子」『日本美術年鑑』平成21年版(433頁)
例)「岡田節子 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28425.html(閲覧日 2024-04-24)

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