山桝儀重
没年月日:1937/12/25日本美術学校長山桝儀重は、腎臓病の為12月25日逝去した。享年49。鳥取県の出身で、京都帝大文科を卒業後師範学校教諭、大阪視学に歴任、現在は鳥取新聞社長で、大正13年以来代議士に選出されて民政党に属し、岡田内閣当時は松田文相の下に文部参与官に任ぜられた。昭和11年故紀淑雄の後を承けて日本美術学校長に就任してゐた。
本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)
日本美術学校長山桝儀重は、腎臓病の為12月25日逝去した。享年49。鳥取県の出身で、京都帝大文科を卒業後師範学校教諭、大阪視学に歴任、現在は鳥取新聞社長で、大正13年以来代議士に選出されて民政党に属し、岡田内閣当時は松田文相の下に文部参与官に任ぜられた。昭和11年故紀淑雄の後を承けて日本美術学校長に就任してゐた。
元日本建築士会々長。工学博士長野宇平治は12月14日逝去した。慶応3年越後高田に生る。明治26年東京帝国大学工科大学造家学科を卒業後、奈良県技師日本銀行技師を経て、大正2年建築設計監督事務所を開設し、同4年工学博士の学位を授けられた。同7年渡米。昭和2年、日本銀行増改築の為、臨時建築部設置せられ其の技師長の任に就いて居た。尚大正6年日本建築士会々長に選任され爾後数回再選されて居る。在世中設計監督せる主なる建築物は左の通りである。明治28年 奈良県庁舎明治39年 日本銀行名古屋支店明治39年 日本銀行京都支店明治44年 日本銀行函館支店明治45年 日本銀行小樽支店大正2年 日本銀行福島支店大正4年 志立鉄次郎邸大正5年 三井銀行神戸支店大正8年 横浜正金銀行神戸支店大正8年 横浜正金銀行下関支店大正8年 三井銀行下関支店大正9年 明治銀行金沢支店大正9年 日本興業銀行大阪支店大正10年 三井銀行日本橋支店大正11年 日本銀行岡山支店大正12年 明治銀行本店大正12年 明治銀行大阪支店大正12年 三井ビルデイング大正14年 三井銀行広島支店大正14年 鴻池銀行本店昭和2年 横浜正金銀行東京支店昭和2年 亀島広吉邸昭和2年 藤井栄三郎邸昭和2年 日本銀行神戸支店昭和11年 日本銀行広島支店昭和7年 日本銀行本店増築(第一期工事)昭和10年 日本銀行本店増築(第二期工事)昭和13年 日本銀行本店増築(第三期工事)建築設計競技応募明治42年 台湾総督府庁舎大正元年 大阪市公会堂
茶人として又研究家として聞えた高橋箒庵は、豫て病気の処12月12日赤坂の自邸で逝去した。享年77。本名義雄。文久元年水戸に生る。明治15年慶応義塾卒業時事新報記者となり同24年三井銀行に転じ、それより三越理事、三井鉱山理事、王子製紙会社々長等を歴任、昭和10年三越取締役に選ばれ今日に至つた。茶道、花道に造詣深く、50歳にして身を著作界に投じ、「東都茶会記」を始め「大正名器鑑」、「水戸学」、「近世道具移動史」、「箒のあと」等著作頗る多い。
建築学会名誉会長、工学博士曾禰達蔵は12月6日急性腸閉塞の為め逝去した。享年86。嘉永5年江戸に生れ、明治12年当時の工部大学校第一期生として卒業、本邦近代工学の揺籃時代より明治大正昭和を通じて我国工学界の発達の為に貽した功績は偉大であつた。 略歴―明治12年工部大学造家学科を卒業後、同年工部8等技手に任命営繕局出勤となり、14年工部大学校助教授に、次で19年工科大学助教授、又同年海軍4等技師に任ぜられ、22年呉鎮守府建築部長仰付けられ翌年同官を免ぜらる。同年三菱社に入社、26年震災予防調査会委員となり、又同年帝国大学より米国シカゴ博覧会の鉄造家屋取調を嘱託されて渡米した。32年工学博士の学位を授けられ、34年岩崎久弥男に随行して英国ロンドンへ出張、39年三菱を退社し同社建築顧問となり、自ら建築事務所を開設した。40年東京勧業博覧会審査官を嘱託せられ、翌年中条精一郎と共同にて曾禰中条建築事務所を開いた。又東京高等工業学校講師を嘱託された。大正7年臨時議院建築局顧問仰付けられ、同9年正5位に叙せらる。14年営繕管財局顧問仰付けられ、同年震災予防評議員を仰付けられた。 其の建築作品に就ては日本建築士誌(第22巻第3号)は第一期海軍省時代、第二期三菱社及び三菱合資会社時代、第三期曾禰中条建築事務所時代の三期に分けて幾多の作品を紹介して居るが、第二期の作品である初期三菱諸建築及第三期の東京海上ビルチング、日本郵船ビルヂング、有楽館、華族会館、慶応義塾諸建築等は其の主要なる作品である。
陶磁作家加賀月華は11月24日逝去した。本名常次郎。明治21年桑名町に生れ、大正11年より桑名の物産として名ありし万古窯の再興を図り、地元の赤須賀に築窯して古万古の作風を学び今日に至つた。帝展文展には昭和4年以来連年入選、其他日本美術協会、商工省工芸展等に出品し、屡々受賞してゐた。
洋画家八条弥吉は11月4日千葉医大附属医院に於て逝去した。明治10年大阪府に生れ、同34年東京美術学校洋画科を卒業、日露戦役に大阪毎日新聞社特派員として従軍した。同43年第4回文展に「茶屋」を出品、3等賞を受領。大正11年渡仏、翌年帰朝。昭和11年度文展招待者に推され「斜陽の庭」を出品、同12年第1回文展に「南総風景」を出品した。
漆工家、新文展無鑑査奥村霞城は10月16日逝去した。本名享。明治26年京都に生る。同44年京都市立美術工芸学校漆工科卒業後、船橋舟珉に師事、大正2年京都美工院の同人となり、昭和5年京都市立美術工芸学校教員を命ぜられ、同7年京都市主催工芸品展委員、10年京都漆芸会幹事及京都市主催大衆向工芸展審査委員に就任した。昭和11年春の帝展に「紫陽花手箱」を出品して推奨に挙げられ、次で同年文展より無鑑査となり同12年第1回文展出品の「鹿の図パネル」が絶作となつた。
洋画家岩倉具方は本年9月海軍省嘱託画家並報知新聞特派員として上海戦に従軍したが、10月14日上海呉淞路にて敵弾の為名誉の戦死を遂げた。維新の元勲岩倉具視公の曽孫として明治41年東京に生る。太平洋美術学校に洋画を学び、昭和2年二科に初入選し、同5年渡欧、11年に帰朝した処であつた。
日本工芸美術会委員磯矢完山は10月4日膵臓病のため逝去した。享年63。本名邦之助。明治8年、茶人磯矢宗庸次男として大阪に生る。同23年小川松民に就て蒔絵を学び、師の没するに及び帝室技芸員川之辺一朝の門に入つた。同30年東京美術学校漆工科本科を卒業、34年小石川に日進塗料工場を設立、40年迄六角紫水と共同経営をなした。45年明治天皇御大葬に際し、御葬具を謹製す。大正8年故川之辺一朝及完山の門下生、木白社を組織し同13年迄日本橋高島屋に展覧会を開催、完山も多数出品した。同15年日本工芸美術会創立され会員となる。昭和4年同会主催工芸リーグ展に「孔雀文手筥」「草花文蒔絵香炉と卓」を出品、同7年同会の委員となり、同年の展覧会に「夏の菓子器」「苺文手筥」を出品、翌年帝展第14回に「蒔絵菜文茶箱」を、次いで9年日本工芸美術会展に「独楽文菓子器」「千本しめじ香合」を出品した。同10年東京高島屋に於て親戚一同にて一門会美術工芸展を開催、自らも多数出品した。同年日本工芸美術会展に「花器」「小膳」を出品、11年「短冊筥青柳と橋の図」「硯箱猿三番叟之図」を完成し、又同年7月自邸内に作品陳列所を建て「朱文筵」と称した。12年工芸美術会大阪展に「瓢文茶箱」「二菜葵棗」「蝉香合」「茸香合」「花文棗」等を出品した。
日本画家太田義一は10月1日逝去した。明治24年山形県に生る。大正4年東京美術学校を卒業、帝展入選8回に及び、尚帝国女子専門学校の講師の職にあつた。
陶工家伊東陶山は9月7日腎臓炎の為京都の自宅で逝去した。明治4年滋賀県に生れ、同20年故内海吉堂に就き日本画を学ぶ。同24年、故帝室技芸員先代陶山に就き製陶法を学び、その非凡なる才能を見出されて養子となり、大正9年二代を襲名した。昭和3年御大典に際し、宮内省御用品を献納す。同年帝展に於て推薦となり、同6年及び8年に帝展第四部審査員に任命された。晩年は日本美術協会々員、京都工芸美術協会評議員及審査委員、其他京都に於ける各種の団体の要職に就いてゐた。
日本画家片山牧羊は宿痾の為め広島県の郷里に於て静養中の処8月26日逝去した。明治33年尾道に生る。庄田鶴友、蔦谷龍岬、荒木十畝に師事し、旧帝展特選1回入選3回に及んでゐた。
国宝保存会委員文学博士和田英松は8月20日腎臓病のため帝大病院に於て逝去した。慶応元年広島県に生れ、明治21年東京帝国大学文科大学古典講習科図書課卒業、同28年同大学史料編纂掛に入り、32年学習院教授、40年東大史料編纂官に任ぜられ、大正7年帝国学士院恩賜賞を授与され、同10年文学博士の学位を授けられた。昭和8年依願免官となり、従3位勲2等に叙せらる。尚最近は帝国学士院会員の外史料編纂所嘱託、内閣嘱託、国宝保存会委員、重要美術調査委員会委員、国学院大学教授等の要職にあつた。
東京帝国大学名誉教授、帝国芸術院会員(正3位勲2等)工学博士塚本靖は豫て胃癌の為病臥中の処8月9日小石川の自邸で逝去した。享年69。我国建築及美術工芸界の耆宿であり、教育者として又実際家として幾多の功績を貽し、人格的にも徳望篤く、其の長逝は各方面の惜む処であつた。 略歴―明治2年京都に生れ、同26年東京帝国大学造家学科を卒業後大学院に於て建築装飾法の研究に従事、31年東京帝国大学工科大学講師を嘱託せられ、翌32年助教授に任命、同年より35年迄建築学研究の為、英仏独3ヶ国に留学、帰朝するや直ちに教授に陞任、翌36年工学博士の学位を授けられた。38年特許局審査員を命ぜられ、翌39年、貿易工芸品の意匠調査の為清国に差遣、翌年帰朝、41年再び差遣さる。42年日英博覧会の用務の為英国へ出張を命ぜられ、翌43年1月出発、同10月帰朝した。同43年議院建築準備委員会臨時委員を仰付られ、又特許局技師に任命。大正4年明治神宮造営局評議員を仰付られ、同5年帝室技芸員撰択委員、翌年、古社寺保存会委員を仰付らる。同7年明治神宮造営局参与、又臨時議院建築局常務顧問を仰付らる。8年東京帝国大学工学部講堂並教室及実験室新築工事設計を嘱託さる。翌9年宮内省内匠寮御用掛を仰付られ、同年東京帝国大学工学部長に補せらる。11年特許局審判官を命ぜられ、同年勲2等に叙せられ瑞宝章を授けられた。12年工学部長を免ぜられ、同大学評議員、旅順工科大学商議員の任に就いた。14年営繕管財局顧問を仰付られ、翌15年より昭和4年迄再度東京帝国大学工学部長に補せらる。昭和4年同大学教授を免ぜられ、同時に正3位に叙せられ、東京帝国大学名誉教授の称号を授けられた。昭和10年、同大学より工芸史に関する調査を嘱託さる。同12年、紀元二千六百年記念日本万国博覧会々場計画委員会委員を嘱託され、同年6月帝国芸術院創設さるるや会員を仰付られた。逝去に際しては、畏き辺より生前の建築界に致せる功績顕著なるを思召され特に金杯1個を下賜あらせられる旨の御沙汰があつた。上記の他に明治40年より連年7回に亙り文展審査員を命ぜられたのを始め、幾多の工芸展及博覧会等の鑑査、審査に鞅掌し、工芸美術界に貢献せる処多大であつた。又、博士の東西古美術に関する著作は多数に上るが、略歴年表と共に其の目録は建築雑誌(第51輯、第631号)に紹介されてある。
自由画壇同人西井敬岳は7月4日逝去した。本名敬次郎。明治13年福井県に生れ、同35年京都に出で山元春挙に師事、師の没後早苗会評議員として今日に至る。旧文展の入選8回に及び、又同志と共に日本自由画壇展覧会を組織し、毎次同会に出品した。尚文展第7回に「怒涛」を出陳、皇后宮御用品として御買上の光栄に浴した。
日本画家野沢如洋は、6月11日脳溢血の為逝去した。本名三千治。慶応元年弘前に生る。明治25年京都に出て、独力画法を研究、日本美術協会に毎回出陳して屢々受賞し、28年には1等賞を受領宮内省御買上の栄に浴した。37年支那に渡り、各地を巡歴、在留8年に及ぶ。又大正8年欧米美術行脚の途につき、翌年帰朝、昭和5年東京に転住し、爾後数次個展に依り作品を発表した。同11年弘前市に於ける秩父宮殿下御仮邸に伺候、御前揮毫の栄に浴した。
早苗会々員中村春楊は、宿痾の為5月4日京都太泰の自宅に於て逝去した。本名新太郎。明治24年京都に生れ、同40年故山元春挙に師事し、同門下生を以て組織する早苗会の一員として今日に至つた。大正7年文展第12回に初入選してより帝展を通じて入選10回に及んで居た。
竹工家、竹雲齋田辺常雄は4月26日堺市の自邸で逝去した。享年61。尼ケ崎市に生れ19歳の時初代和田和一齋に就て竹工の技術を修業、屡々畏き辺へ作品を献上し、大正14年大正天皇銀婚式に際し堺市よりの献上品「天盃形盛花籃」「貢船盛花籃」を製作し、又同年巴里万国博覧会に農商務省の指定に依り「瓢形花籃」を出品して銅牌を受領した。
日本画家高木長葉は4月21日永眠した。享年50歳。四日市市の出身、大正8年より?々個展に依り作品を発表し、同9年同志と共に蒼空邦画会を結成、日本画の創造運動に従つた。昭和4年銀座資生堂に意匠部長として入社し、翌年同社より広告美術の研究を目的として欧洲へ出張し、同10年に退社してゐたものである。
明朗美術聨盟主宰落合朗風は4月12日急性肋膜炎の為赤十字病院に於て逝去した。享年42。本名平治郎。明治29年東京芝区に生る。大正3年画家として立つことを決心し、京都の小村大雲に約半歳ほど師事した。同4年明治絵画会に「后興」を出品、翌年21歳の時第5回文展に「春永」が初入選した。次で8年院展に六曲一双「エバ」を出品し、是が出世作となつた。同10年院展と袂別、13年第5回帝展に「三十三間堂」を出品以後昭和6年迄殆ど毎回出品したが、帝展の内情に嫌焉たるところあり、之と袂別し、青龍社の主張に共鳴して同展第3回に「華厳仏」を出陳し、青龍賞に推奨された。昭和7年青龍社展第4回に「那覇の麗人」を出品、同人に推挙さる。次で同9年、惟ふ処あり、川口春波と青龍社を離脱し、明朗美術聨盟を創立。同年上野松坂屋に創立記念試作展を開催した。爾来同聨盟を率ゐて画壇に活動し、昭和12年3月下旬明朗美術春季試作展の出品画「春夏秋冬」四幅対を完成、又4月1日に紙本横物「白椿」を完成したが翌日から臥床し、同作が絶筆となつた。 其の画風は質朴で、舒情的な題材が多く扱はれ、甘美な色彩と装飾的形式化を其の特徴とした。明朗展第2回出品の「かまくら」は形式の発展を示す佳作であり、将来を期待せしめた作家であつた。作品略年表年次 年齢大正4年 20 明治絵画会第6回展「后興」六曲半双大正5年 21 第5回文展「春永」大正8年 24 第6回院展「エバ」六曲一双大正9年 25 第7回院展「島村余情」対幅大正10年 26 第8回院展「肥牛」四曲半双大正13年 29 第5回帝展「三十三間堂」大正15年 31 第7回帝展「洛外風趣」四幅対昭和2年 32 第8回帝展「梅ケ畑ノ麦秋」昭和3年 33 第9回帝展「漁村」昭和4年 34 第10回帝展「南房漁港」昭和5年 35 第11回帝展「内陣」昭和6年 36 第12回帝展「秋の北山」、第3回青龍展「華厳仏」、上野松坂屋に於て第1回個展開催昭和7年 37 第4回青龍展「那覇の麗人」八曲大屏風 上野松坂屋に於て第2回個展開催昭和8年 38 第5回青龍展「浴室」二曲大屏風、「室内静物」AB、上野松坂屋に於て第3回個展開催昭和9年 39 第1回明朗展「人魚」金地六曲一双、「東京風景三題」一、不忍池二、銀座三、地下鉄昭和10年 40 上野松坂屋に於て第4回個展開催、第2回明朗展「常夏の国」六曲大屏風一双、「三人の音楽隊」「道化」「画人の像」昭和11年 41 5月上野松坂屋に於て第5回個展開催、第3回明朗展「かまくら」二曲一双、「我が庭の眺め」二曲一双、「遊踪処々」、11月海軍大演習御召艦比叡の御座所奉掲画「章魚」の図を献上昭和12年 42 明朗美術春季試作展 春夏秋冬「春夢」「彩浜」「秋垣」「雪余」四幅対、「秋柿」