本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





千野香織

没年月日:2001/12/31

読み:ちのかおり  美術史家で学習院大学教授の千野香織は12月31日、心不全のため東京都目黒区の自宅で死去した。享年49。千野は1952(昭和27)年8月19日、内科医中村光甫と香壽子の長女として神奈川県横須賀市に生まれた。東京学芸大学附属世田谷小中校、同中学校を経て71年3月同附属高校を卒業。72年4月京都大学文学部に入学、76年3月文学部哲学科美学美術史学専攻を卒業。同年4月東京大学大学院人文科学研究科美術史学専修課程日本美術史専攻に入学。この年、高校の先輩で音楽家の千野秀一と結婚(82年離婚)。78年3月同大学院修士課程を修了、同年4月博士課程に進み、83年3月博士課程単位取得退学。同年5月より東京国立博物館資料部資料第一研究室研究員(文部技官研究職)。88年4月資料第二研究室へ異動。1989(平成元)年4月学習院大学に転出して文学部哲学科助教授となり、94年4月教授に昇格した。この間、92年7月より93年1月までハーバード大学客員研究員、97年4月より98年3月までコロンビア大学客員研究員となり、94年3月より99年4月まで美術史学会常任委員、97年6月より7月までハイデルベルク大学客員教授、2000年10月より01年3月までお茶の水女子大学客員教授を務めた。また、79年4月より徳川美術館研究員、99年6月より国立歴史民俗博物館運営協議委員、00年4月より国立民族学博物館客員教授、01年5月より美術史学会常任委員、01年9月より国立歴史民俗博物館第二期展示委員を務めていた。93年10月『フィクションとしての絵画』(西和夫と共著、ぺりかん社 1991年)により小泉八雲賞を受賞、02年12月大韓民国褒賞を追叙された。京都大学での千野は清水善三助教授のもとで日本美術史を学んで古代中世絵画史を専攻し、京都在住の美術史家梅津次郎の指導を受けた。平安期の屏風絵や障子絵に見られる和歌と絵画に関心をもった千野は研究成果を卒業論文「新名所絵歌合」にまとめた。東京大学大学院では秋山光和教授に師事して大和絵の研究を進め、修士論文「神護寺山水屏風の研究」を提出。視野が広く発想の柔軟な千野の研究は刮目され将来を嘱望された。東京国立博物館資料部での千野は、資料第一研究室で『ミュージアム』など同館の出版物の編集を行うかたわら、86年度より始まった「館所蔵模写・模本類による原品復元に関する調査研究」の初年度に行われた「江戸城本丸等障壁画に関する調査研究」、87年度「古画類聚に関する調査研究」に携わった。その成果は特別展観「江戸城障壁画の下絵-大広間・松の廊下から大奥まで-」(1988年2~3月於同館東洋館)、『調査研究報告書江戸城本丸等障壁画絵様』(東京国立博物館 1988年)、『調査研究報告書古画類聚』(同 1990年)として公表された。88年1月から『茶道の研究』誌上に建築史家西和夫との「連論」形式の連載を始めた千野は、学習院大学に転出後、92年4月美術史学会東支部例会シンポジウム「絵画史料をどう読むか―建築史と美術史の立場、そして共通の視点―」を建築史学会と共催するなど、関連領域との交流を通じて美術史学のあり方を問うようになった。さらに欧米の状況に関心を向けた千野は「アメリカ合衆国における日本美術史研究の方法論に関する研究」をテーマに掲げ、ハーバード大学客員研究員として鹿島美術財団の「美術に関する国際交流の援助(海外派遣)」により92年9月より11月まで2ヶ月半米国に滞在した。同大学ではノーマン・ブライソン「フランス絵画における物語」、ジョセフ・カーナー「美術史の方法と理論」、エヴァ・ライヤーバーカート「フェミニスト理論と現代芸術」の講義を聴講するなど、90年頃に始まるニューアートヒストリーの潮流に接した。千野自身も「日本絵画における鑑賞者の役割と物語の構造」「日本の自己規定にみる性差(ジェンダー)、立場、他者―中国/日本、男性性/女性性―」を同大学で講演した。帰国後は93年1月の美術史学会東支部例会シンポジウム「フェミニズムと美術史」において「日本美術のジェンダー」を発表。以後、日本美術史にジェンダー批評を導入した議論を展開した。93年6月には美術史家鈴木杜幾子と共同でハーバード大学のブライソン教授を招聘して学習院大学で3回のセミナーを開催。95年3月には美術史家若桑みどり等とともにイメージ&ジェンダー研究会を発足させた。さらにポストコロニアル理論に関心を広げた千野は、国立民族学博物館の吉田憲司の主宰する共同研究「近代における「異文化」像の形成」(1995~97年度)、「近代日本の「異文化」像と「自文化」像の形成」(1998~00年度)に参加して、博物館の異文化展示を研究テーマとした。01年度からは自ら代表者を務めて共同研究「「伝統」の表象とジェンダー」を進めていた。吉田との共同研究がきっかけとなり千野はしばしば韓国を訪れるようになり、批評理論に関心をもつ韓国の研究者と交流した。98年10月に梨花女子大学校で開催された国際シンポジウム「身体と美術―記号学的アプローチ」では「醜い女はなぜ描かれたか―ジェンダーとクラスの観点からの分析」を発表して大きな反響を得た。大和絵研究から出発した千野は、80年代後半から学問の細分化や枠組みの問題を取り上げるようになり、90年以後は視覚表象のもつ社会的政治的側面に関心を向けた。特に後年は、現実社会の困難を解決する実践方法を求めて研究と批評を結び付ける努力をし、多くの発言と活発な活動を行った。また教育にも熱心に取り組んだ。01年12月の美術史学会東支部特別例会シンポジウム「中学校の歴史教科書における日本文化・美術の語られかた」の開催が最後の大きな仕事となったが、千野の急逝は各方面から惜しまれた。公正を重んじる誠実で穏やかな人柄は多くの人に慕われ、「お別れの会」(02年1月14日於学習院創立百周年記念会館)には1200人以上が参列した。なお、千野の旧蔵書は02年7月に韓国ソウル市の国立中央博物館の所蔵となった。 編著書 『名宝日本の美術11信貴山縁起絵巻』小学館1982 『フィクションとしての絵画―美術史の眼 建築史の眼』ぺりかん社1991(共著) 『日本の美術301伊勢物語絵』至文堂1991 『日本美術全集12南北朝・室町の絵画Ⅰ水墨画と中世絵巻』講談社1992(共編) 『岩波日本美術の流れ3 10-13世紀の美術 王朝美の世界』岩波書店1993 『日本美術全集13南北朝・室町の絵画Ⅱ雪舟とやまと絵屏風』講談社1993(共編) 『美術とジェンダー―非対称の視線』ブリュッケ1997(共編) 『女?日本?美?―新たなジェンダー批評に向けて』慶應義塾大学出版会1999(共編) 『日本の美術416西行物語絵』至文堂2001 『岩波講座近代日本の文化史』岩波書店2001~(編集委員) 主要論文・論説 「「西行物語絵巻」の復原的考察」『仏教芸術』120、1978 「神護寺蔵「山水屏風」の構成と絵画史的位置」『美術史』106、1979 「日高川草紙絵巻にみる伝統と創造」『金鯱叢書』8、1981 「日本の絵を読む―単一固定視点をめぐって」『物語研究』2、1988 「滋賀県立近代美術館蔵・近江名所図屏風の景観年代論について」山根有三先生古稀記念会編『日本絵画史の研究』吉川弘文館1989 「春日野の名所絵」秋山光和博士古稀記念論文集刊行会編『秋山光和博士古稀記念美術史論文集』便利堂1991 「建築の内部空間と障壁画―清涼殿の障壁画に関する考察」大河直躬ほか編『日本美術全集16江戸の建築1彫刻』講談社1991 「大学院生とのセミナー報告 ノーマン・ブライソン教授と「新しい美術史学」の模索―ジェンダー・国家・セクシュアリティ」『月刊百科』376、1994 「日本美術のジェンダー」『美術史』136、1994 「女を装う男―森村泰昌「女優」論」『森村泰昌 美に至る病―女優になった私』展図録、横浜美術館、1996 「嘲笑する絵画―「男衾三郎絵巻」にみるジェンダーとクラス」伊東聖子ほか編『女と男の時空 日本女性史再考2おんなとおとこの誕生―古代から中世へ』藤原書店1996 「日本の障壁画にみるジェンダーの構造」『美術史論壇』4、1996 「支配的・権力的な「視線」の意味を問い、美術史のパラダイムチェンジをはかる」『別冊宝島』322、1997 「醜い女はなぜ描かれたか―中世の絵巻を読み解く「行為体」とジェンダー」『歴史学研究』増刊号、1999 「戦争と植民地の展示―ミュージアムの中の「日本」」栗原彬ほか編『越境する知1身体―よみがえる』東京大学出版会2000 「「伊勢物語」の絵画―「伝統」と「文化」を呼び寄せる装置」 『特別展 伊勢物語と芦屋』図録、芦屋市立美術博物館、2000 「希望を身体化する―韓国のミュージアムに見る植民地の記憶と現代美術」『神奈川大学評論』39、2001 「視覚的に歴史の隠蔽をはかる」『別冊歴史読本』87、2001 「「ナヌムの家」歴史観から、あなたへ」ナヌムの家歴史館後援会編『ナヌムの家歴史館ハンドブック』柏書房2002 なお、論著の検索には『イメージ&ジェンダー』3(02年11月)収載の亀井若菜編「千野香織さんの一覧」がある。 

大辻清司

没年月日:2001/12/19

読み:おおつじきよじ  写真家で筑波大学名誉教授の大辻清司は、12月19日脳出血のため東京都渋谷区の自宅で死去した。享年78。1923(大正12)年7月27日東京市城東区大島(現江東区大島)に生まれる。戸籍上の出生日は8月15日。1942(昭和17)年東京写真専門学校(現東京工芸大学)芸術科に入学。在学中の43年に陸軍に応召、終戦まで軍役に就く(44年9月卒業の認定を終戦後受ける)。終戦後に勤務した写真スタジオで斎藤義重と出会い、斎藤の勧めで『家庭文化』誌編集部に入り撮影を担当。47年新宿で写真スタジオを開業。49年第9回美術文化協会展に「いたましき物体」を出品、同協会員となる(52年の第12回展まで出品し退会)。52年「小川義良・大辻清司写真二人展」(タケミヤ画廊)開催。53年より実験工房に参加、同年グラフィック集団の結成に加わる。55年の第2回グラフィック集団展(銀座・松屋)には石元泰博、辻彩子との共作、武満徹・音楽による実験映画「キネカリグラフ」を出品。同年石元泰博との共著『カメラが把えた朝倉文夫の彫塑』(朝倉彫塑塾)刊行。56年「第1回国際主観主義写真展」(日本橋・高島屋)に出品、同年『芸術新潮』嘱託(60年まで)となり、以後90年代前半まで美術雑誌や企業PR誌、展覧会図録などさまざまな出版物のための写真撮影を担当する。58年シカゴに渡った石元泰博の後任として桑沢デザイン研究所の講師となり(75年まで)、以後、東京綜合写真専門学校(1960~70講師)、東京造形大学(1967~72助教授、1972~76教授)、筑波大学(1976~87教授)、九州産業大学(1987~96教授)などで教鞭をとる。1960年代から『カメラ毎日』、『アサヒカメラ』などの写真雑誌に写真評論やエッセーを多く寄稿。77年個展「ひと函の過去」(フォトギャラリープリズム)、87年「大辻清司1948-1987」展(筑波大学会館)、同年「大辻清司展」(東京画廊)開催。1989(平成元)年『写真ノート』(美術出版社)刊行。96年日本写真協会賞功労賞を受賞。99年「大辻清司写真実験室」展(東京国立近代美術館フィルムセンター展示室)において初めてその業績の本格的な回顧がなされる。同年「大辻清司・静かなまなざし」(写大ギャラリー)開催、『日本の写真家21 大辻清司』(岩波書店)刊行。2000年作品掲載や執筆文章の書誌情報等を集成した『大辻清司の仕事1946-1999』(モール)が刊行される。02年「大辻清司写真作品展」(福岡アジア美術館交流ギャラリー)開催。戦前期の前衛写真運動に写真雑誌を通じて触れたことをきっかけに写真家を志した大辻は、シュルレアリスムと抽象を軸に展開した前衛写真の影響下に、被写体となるモノの存在を見つめる実験的写真で出発、実験工房やグラフィック集団の活動を通じて、メディアの枠を越えた表現を試みる一方、雑誌の嘱託としての撮影や商業写真、建築・美術・工芸作品写真などの仕事も数多く手掛け、多面的に写真に対する経験と思考を深めていった。また教育者、書き手として、後続の世代の写真家たちや同時代の写真表現に対する観察者・理解者としても重要な役割を果たした。60年代末に若手写真家のなかから現れた「コンポラ写真」に注目し、その動向に触発されるように、自らも小型カメラを用いたスナップショットによって表現主体としての「私」の位置を問い直していった一連の仕事に見るように、その写真家としての姿勢にはつねに、既成の写真表現の成果を踏まえつつ新たな展開を探ろうとする実験の姿勢が貫かれていた。

山口牧生

没年月日:2001/12/16

読み:やまぐちまきお  彫刻家の山口牧生は12月16日、肝不全のため京都府亀岡市の自宅で死去した。享年74。1927(昭和2)年6月20日、福岡県戸畑市に生まれる。44年、神戸高等工業学校精密機械科に入学。46年、京都大学文学部哲学科に入学、はじめ印度哲学を専攻するが、のちに美学美術史に転科した。50年、同大学を卒業、翌年から大阪市立美術研究所に入所した。はじめ絵画を描いていたが、しだいに彫刻に関心をもつようになった。また、この同研究所で、福岡道雄、保田春彦を知り、影響を受けることになった。53年、第17回自由美術展に初入選、58年の第13回行動美術展に出品、60年には行動美術協会彫刻部の会友に推挙されたが、63年には同協会を退き、以後、団体に属することはなく、東京、関西の画廊での個展による発表活動をつづけた。68年、公共の場に野外彫刻の設置をすすめるグループ「環境造形Q」を、小林陸一郎と増田正和と結成した(88年に解散)。74年、第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「股間の鳥」を出品し、京都国立近代美術館賞を受賞。75年には、第6回現代日本彫刻展に「日の鞍」を出品し、兵庫県立近代美術館賞を受賞。76年には、第5回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「棒状の石あるいはCosmic Nucleus」を出品、神奈川県立近代美術館賞を受賞した。79年には、第8回現代日本彫刻展に「四角い石」を出品、北九州市立美術館賞を受賞。80年の第7回須磨離宮公園現代彫刻展、82年の第8回展でも、それぞれ神戸市教育委員会賞、国立国際美術館賞を受賞した。とくに第8回展の出品作「15°」によって、翌年の第14回中原悌二郎賞を受賞した。また、環境造形Qの活動でも、84年に名古屋市名城公園に設置した「水の城」は、同年の名古屋市都市景観大賞を受賞し、翌年の第2回本郷新賞の対象ともなり、高く評価された。87年の第12回現代日本彫刻展では、「サン・サドル‘87」により大賞を受賞した。能勢の黒御影石を素材に、ときに表面にベンガラを塗るなど、ダイナミックなフォルムの抽象彫刻を制作し、自然と調和した野外彫刻の分野で高い評価をうけていた。

小松崎茂

没年月日:2001/12/07

読み:こまつざきしげる  SF画のパイオニアとして人気を集めた小松崎茂は12月7日午後9時26分、心不全のため死去した。享年86。1915(大正4)年2月14日、東京府北豊島郡南千住町(現東京都荒川区南千住町)に生まれる。高等小学校卒業後、池上秀畝門下の日本画家堀田秀叢に師事、花鳥画を学ぶが、やがて挿絵を志すようになり、秀叢の弟弟子で挿絵画家として人気のあった小林秀恒に学ぶこととなる。1938(昭和13)年『小樽新聞』連載の講談の挿絵でデヴュー。39年から少年科学雑誌『機械化』に描き続けた未来の兵器は、小松崎自身が創案した新兵器をヴィジュアル化したものだった。戦時下の43年には第2回陸軍美術展に「ただ一撃」、国民総力決戦美術展に「敵コンソリー爆撃機墜ツ」、第3回航空美術展に「ニュージョージヤ島の死闘」などの戦争画を出品。戦後は絵物語「地球SOS」(『冒険活劇文庫』1948~51年)や「大平原児」(『おもしろブック』1950~52年)により人気を集め、山川惣治と並ぶ少年雑誌界の寵児となる。絵物語のブームが去った後も細密で迫力のあるSFの世界や戦艦・戦闘機を雑誌やプラモデルの箱絵に描き続け、特撮映画のデザインにも参加、またテレビ全盛時代に入ると「サンダーバード」などのキャラクター画も数多く手がけた。77年には、20代の頃描きためた銀座や浅草のスケッチを載せた『懐かしの銀座・浅草』(文:平野威馬雄 毎日新聞社)が刊行。1990(平成2)年画業をまとめた『小松崎茂の世界 ロマンとの遭遇』(国書刊行会)で日本美術出版最優秀賞受賞。

吉田善彦

没年月日:2001/11/29

読み:よしだよしひこ  日本画家で日本美術院理事の吉田善彦は11月29日午前10時17分、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年89。1912(大正元)年10月21日、東京府荏原郡大崎町(現東京都品川区)に老舗の呉服屋の次男として生まれる。本名誠二郎。現在の世田谷区岡本に育ち、小学校在学中に南画家中田雲暉に絵の手ほどきを受ける。1929(昭和4)年いとこの吉田幸三郎の義弟でその後援も受けていた速水御舟に師事、その感化は生涯にわたる影響を及ぼし、とりわけ東洋古典の重要性を認識するに至る。33年の御舟急逝後、吉田幸三郎の計らいで御舟の旧画室を使用して描いた「もくれんの花」が37年第24回院展に初入選、以後院展に出品を続け、また同年より小林古径の指導を受けることになる。40年より法隆寺金堂壁画模写事業に加わり、橋本明治の助手として第九号大壁と第十一号小壁を担当、春秋は奈良で模写に従事する。翌41年高橋周桑ら御舟遺門の同志九名と圜丘会を結成、また同年日本美術院院友に推挙される。44年応召し、46年台湾より復員、再び法隆寺金堂壁画の模写に従事するが、49年法隆寺金堂の火災により壁画は焼失。54年奈良より東京世田谷にもどり、安田靫彦門下生による火曜会に参加する。57年第42回院展「臼杵石仏」、61年第46回「高原」、63年第48回「袋田滝」がいずれも奨励賞、62年第47回「滝」が日本美術院次賞を受賞、64年同人に推挙される。法隆寺での模写事業を通じて第二の故郷ともいうべき大和地方をはじめ、四季折々の日本の風景を描き続けるが、その技法は一度彩色で描いた上に金箔でヴェールを被せ、その上にもう一度色を置き再度描き起こすという独自のもので、吉田様式と呼ばれた。73年第58回院展「藤咲く高原」が文部大臣賞、81年第66回「飛鳥日月屏風」が内閣総理大臣賞を受賞。82年には同作および前年開催した「吉田善彦展」(日本橋高島屋)により第23回毎日芸術賞、また第63回院展出品作「春雪妙技」(78年)により日本芸術院恩賜賞を受賞した。この間、67年法隆寺金堂壁画再現模写に従事し、安田靫彦班で第六号大壁を担当。また64年東京芸術大学講師、68年助教授、69年教授(80年まで)に就任。70年には東京芸術大学第三次中世オリエント遺跡学術調査団の模写班に参加し、トルコ・カッパドキアへ赴く。73年には主にイタリア(ローマ、フィレンツェ、シエナ、アッシジ)の壁画研究に出かけ、75年には日本美術家代表団の一員として、中国(北京、大同、西安、無錫、上海)を訪れる。78年より日本美術院評議員、87年より同院理事。86年には東京芸術大学名誉教授となる。なお82年に朝日新聞社より『吉田善彦画集』が出版され、また1990(平成2)年に山種美術館、94年にメナード美術館、98年に世田谷美術館で回顧展が開催された。

山田光

没年月日:2001/11/29

読み:やまだひかる  陶芸家の山田光は11月29日午後5時58分、肺炎のため京都市左京区の病院で死去した。享年77。1923(大正12)年12月23日、東京府豊多摩郡杉並町阿佐ヶ谷に生まれるが、関東大震災の混乱を避けるため、一家で岐阜県岐阜市大江町にあった母てつの実家に帰郷、翌年1月7日同地に生まれたとして届出された。1945(昭和20)年京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)窯業科卒業。この年、父喆(徹秀)とともに八木一艸宅を訪ね、八木一夫に会う。46年「青年作陶家集団」結成に参加。第1回日展、第2回京展に入選。48年京展賞および新匠賞を受賞。同年、「青年作陶家集団」を解散し、同年7月、叶哲夫、鈴木治、松井美介、八木一夫とともに前衛陶芸家集団走泥社を結成。戦後やきもののあり方を模索していた陶芸の世界に、オブジェという用途性をもたない新たな造形としての道を切り拓いた。オブジェ制作の初期には、ロクロでひいた壺の側面を切ってタタラを貼り付ける、花器をその用をなさないほどに口を狭める、あるいは口を塞ぐなど、器形に立ち向かうかのような試みを重ねた。55年、鈴木治との二人展(東京新橋・美松書房画廊)では当時の制作を語る上で重要な作品が発表された。50年代後半には形体分割によるキュビスム的志向を示したが、60年代に入ると、後の山田に特徴的な板状または帯状の陶板があらわれ、オリベや伊羅保などの釉薬や焼き締めといった表面への試行を続けながら、同時に土はより薄く少なくなり、素材がもつ力の限界に挑むような形体が現われた。61年日本陶磁協会賞受賞。またプラハ国際陶芸展(62年)やファエンツァ国際陶芸展(72年)など海外展への参加も少なくない。一方で、62年、八木とともに「門工房」を設立し、本格的にクラフトを手がけた。79年9月大阪芸術大学教授に就任し(~94年)、この頃から黒陶による制作をはじめる。87年からはパラジウムの銀泥、1994(平成6)年の個展ではパイプ状の形体も取り入れた作品を発表し、飄々としつつも理知的な山田独自の制作に透明感を増したさらなる境地を開いた。95年京都市文化功労者、第36回日本陶磁協会賞金賞受賞。98年京都美術文化賞受賞。1999~2000年「陶の標―山田光」展(伊丹市立美術館、岐阜県美術館、目黒区美術館)。日本クラフトデザイン協会名誉会員。

金森映井智

没年月日:2001/11/25

読み:かなもりえいいち  金工作家で、彫金の重要無形文化財保持者の金森映井智は、11月25日午前11時20分、心不全のため富山県高岡市の病院で死去した。享年93。1908(明治41)年2月3日、高岡市母衣町(現京町)に七人兄弟の長男として生まれた。本名榮一。生家は仏事用の菓子の製造販売業を営んでいた。1920(大正9)年、小学校を卒業すると高岡の地場産業である銅器工芸で身を立てることを決意するが、高岡金工に新風を吹き込んだ富山県立工芸学校(現富山県立高岡工芸高等学校)教師の内島市平のすすめで同校に入学する。ここで、彫金、鋳金、鍛金、板金など、金工の幅広い知識を習得する。また、日本画を中島秋圃に学ぶ。卒業後は内島の内弟子として二年間彫金技法を学び、職人ではなく作家としての道を歩む。1930(昭和5)年、商工省第17回工芸展覧会に初入選し、褒状受賞。また同年、工芸の革新を目指して高村豊周らが結成した无型展に入選。翌年、23歳で金工作家として独立する。33年、第14回帝展に「胴張型青銅花瓶」が初入選し、以来、帝展、文展、日展に入選を繰り返す。41年には母校に非常勤講師として迎えられ、公募展の入選を目指しながら多くの後進を育成。また、富山県や高岡市の美術工芸指導者として、県展や市展をはじめ、その他の美術展や美術団体でも活動を展開。戦後すぐの作品には、写生をもとにしてつくり出された具象的な草花文がよく用いられており、この時期の特徴となっている。57年からは日展を離れ、第4回日本伝統工芸展に「青銅瑞鳥香炉」を出品し初入選。以後は同展を舞台に、金、銀の線象嵌、布目象嵌による作品を発表。62年には日本工芸会正会員となる。69年、高岡市市民功労者表彰。翌年には県政功労者表彰を受ける。73年に号を映井智と改め、76年の第23回日本伝統工芸展では「鋳銅象嵌六方花器」が日本工芸会総裁賞を受賞。翌年、日本工芸会金工部会評議員。80年には鑑査委員と審査委員を務める。同年、勲四等瑞宝章受章。その翌年には日本工芸会理事に就任した。1989(平成元)年、「彫金」で富山県初の重要無形文化財保持者に認定される。90年には高岡市名誉市民の称号を受ける。91年、富山県民会館美術館で「金森映井智回顧展」が開催され、2003年には高岡市美術館において「金森映井智の偉業を偲んで」と題した没後初の回顧展が開催された。作品は鋳銅製で、その多くは花器であるが、花器には具象的な意匠は不似合いと考え、直線や曲線による幾何学的模様を意匠に用いた。高岡の伝統である浮象嵌を基本に、さまざまな象嵌技法を組み合わせて、現代感覚にあふれた重厚な作風で独自の世界を築き上げた。 

緑川洋一

没年月日:2001/11/14

読み:みどりかわよういち  写真家の緑川洋一は、11月14日胃がんのため岡山市の病院で死去した。享年86。1915(大正4)年3月4日岡山県邑久郡裳掛村(現邑久町)に横山知(さとし)として生まれる。1936(昭和11)年日本大学専門部歯科医学校卒業。37年岡山市内に横山歯科医院を開業。学生時代に写真を撮影するようになり、39年頃から緑川洋一の作家名で写真雑誌の月例懸賞に応募を始める。同年、中国写真家集団に参加。47年東京の写真グループ銀龍社に参加。53年銀龍社を母体に二科会に新設された写真部に出品、第1回二科賞を受賞。54年「植田正治・緑川洋一展」(東京・松村画廊)、55年「秋山庄太郎・林忠彦・緑川洋一・植田正治4人展」(東京・松島ギャラリー)、個展「大阪」(松島ギャラリー)開催、同年二科会写真部会員となる。57年秋山庄太郎・岩宮武二・植田正治・林忠彦・堀内初太郎と「6人展」(東京・富士フォトサロン)開催。62年写真集『瀬戸内海』(美術出版社)を刊行、同書により第6回日本写真批評家協会賞作家賞、昭和37年度中国文化賞、翌年の日本写真協会賞年度賞などを受賞。78年作家名として用いてきた緑川洋一名で戸籍登録。80年代以降はカメラメーカー系ギャラリーを中心にほぼ毎年個展を開催。2001(平成13)年から翌年にかけ5会場を巡回した「光の交響詩 緑川洋一の世界」(岡山・天満屋、呉市美術館、他)が生前最後の個展となった。90年勲四等瑞宝章、第23回岡山県三木記念賞、99年日本写真協会功労賞を受賞。92年岡山市内に緑川洋一写真美術館が開設され、館長に就任する(2001年末より休館)。緑川は、中国写真家集団以来の盟友であった山陰の植田正治と同様、戦前のモダニズム写真の影響下に出発し、地方を拠点に独自の制作活動を展開した写真家であった。戦中期から50年代にかけては、瀬戸内の農漁村や塩田、大阪の商人町などをテーマとしたドキュメンタリー写真も手掛け、またヌードや群像などの人物写真にもとりくむ。59年の四ヶ月にわたる欧州11カ国歴訪を契機に、風景写真に集中するようになり、瀬戸内海をモチーフに、フィルターや多重露光などの技法を駆使した構成的なカラー作品により独自の作風を確立した。『国立公園』(中日新聞社、1967年)、『日本の山河』(矢来書院 1975年)など、日本各地の景勝地に取材した風景写真による写真集を中心に作品集・技法書・随筆集など著書は79冊に及んだ。73年以降18回に渡ってアマチュア向けの海外撮影旅行を主催、81年には全国組織の写真集団・風の会を結成、主宰するなどアマチュア写真家の指導にも熱心にとりくんだ。

横山隆一

没年月日:2001/11/08

読み:よこやまりゅういち  漫画「フクちゃん」で知られる漫画家の横山隆一は、脳梗塞のため神奈川県鎌倉市の湘南鎌倉総合病院で死去した。享年92。1909(明治42)年5月17日、高知県高知市堺町に生まれる。1927(昭和2)年、高知城東中学校を卒業後、同年上京した。翌年、川端画学校に通いはじめ、同郷の彫刻家本山白雲に弟子入りした。この頃から、アメリカの雑誌に掲載されたナンセンス漫画に惹かれて、漫画を描きはじめ、雑誌に投稿するようになる。30年、体力的な不安から、彫刻を断念する。31年、雑誌「新青年」に表紙画、挿絵、漫画が採用されるようになる。翌年、近藤日出造、杉浦幸雄とともに「新漫画派集団」を結成。36年1月、朝日新聞東京版に「江戸っ子健ちゃん」を連載、この漫画に脇役として登場させた「フクちゃん」の人気がたかまり、同年10月より、「養子のフクちゃん」として連載を再スタートした。38年、「フクちゃん」に対して、日本文化協会より第1回児童文化賞を受賞。44年、アニメーション映画「フクちゃんの潜水艦」を制作。45年、終戦後、連絡のとれた26名の漫画家たちとともに「漫画集団」を再発足させる。46年、永井龍男、小林秀雄に勧誘され、「新夕刊」に「フクちゃん」を連載。48年11月、毎日新聞朝刊に「ペ子ちゃん」を連載、翌年12月、同紙に「デンスケ」を連載、同漫画は55年まで連載2000回を数えた。51年、サンフランシスコ対日講和会議取材のため、毎日新聞より派遣され、渡米。3ヶ月の滞在中、ウォルト・ディズニー、スタインベルクに会う。54年、月刊「漫画読本」(文芸春秋社)に漫画集団として寄稿。56年1月1日より、毎日新聞に「フクちゃん」の連載を開始。同年、アニメーション制作のために「おとぎプロダクション」を設立、翌年アニメーション「ふくすけ」を完成させ、この作品によって同年のブルーリボン賞、58年の毎日映画コンクール教育文化映画賞を受賞。66年、まんが集「勇気」(日本YMCA同盟出版部)によって、同年の毎日出版文化賞特別賞受賞。71年、「フクちゃん」、連載5534回を記録して終了した。74年、紫綬褒章を受ける。79年、まんが集「百馬鹿」(奇想天外社)を出版、これにより同年の日本漫画家協会漫画大賞を受賞。1992(平成4)年、日本漫画家協会漫画賞特別賞として文部大臣賞を受賞。94年、漫画家として初めて文化功労者となる。96年、高知市名誉市民、鎌倉市名誉市民となる。戦前からの長きにわたる漫画家としての活動のなかから、「フクちゃん」に代表される国民的なキャラクターを生み、つねにユーモアと諷刺にあふれた作品を描きつづけた。没後の2002年4月、高知県高知市に横山隆一記念まんが館が開館し、多数の漫画とともに、横山のユーモアにみちたユニークなコレクションと資料が展示されている。

金子鴎亭

没年月日:2001/11/05

読み:かねこおうてい  書家で文化勲章受章者の金子鴎亭は11月5日午前11時18分、肺炎のため東京都新宿区の病院で死去した。享年95。1906(明治39)年5月9日、北海道松前郡雨垂石村(現松前町静浦)に生まれる。本名賢蔵。1921(大正10)年札幌鉄道教習所に入学、そこで大塚鶴洞の指導により書を古典から直接学習することを覚え、とくに北魏の高貞碑を学ぶ。24年鉄道に勤務しながら川谷尚亭の主宰する『書之研究』を購読、尚亭に入門し通信教育を受ける。その後鉄道を退職し函館師範学校二部に入学、1929(昭和4)年同校を卒業し、小学訓導になる。32年上京、本所高等学校で教鞭をとるかたわら戦前書道における革新運動のリーダーであった比田井天来に師事、天来の書学院で中国の正統な漢字書を学ぶ。33年『書之研究』誌上に漢字とかなを交えた革新的な「新調和体論」等、論説を毎月発表、35年には『書之理論及指導法』(北海出版社)を刊行し、時代を反映した芸術としての現代書の創造を提唱する。37年天来企画の第1回大日本書道院展で特別賞受賞。47年かな書家の飯島春敬とともに毎日新聞社に日本書道の大合同展開催を建議、交渉を重ねた末、翌年東京都美術館にて毎日書道展が創設される。52年、および63年以降、全国戦没者追悼式の標柱に「全国戦没者追悼之標」(75年より「全国戦没者之霊」)を揮毫、1993(平成5)年まで続けることになる。66年第9回日展出品作「丘壑寄懐抱」により文部大臣賞、67年日本芸術院賞を受賞。64年に創玄書道会を結成して以来、石川啄木や宮沢賢治などの近代文学を素材とした「近代詩文書」を提唱し、古い詩文から離れ現代人の心に語りかけ、親しめる清新な書により現代書道に新領域を開いた。73年には近代詩文書作家協会を設立。84年北海道立函館美術館に自作107点、および収集した東洋の書画・陶磁器や美術館系図書を寄贈、86年に開館なった同美術館内に鴎亭記念室が開室される。87年、井上靖の西域詩篇を題材にした「交脚弥勒」で毎日芸術賞受賞。同年文化功労者となり、90年文化勲章受章。87年には北海道立函館美術館で「現代書の父―金子鴎亭六十年のあゆみ」、93年には板橋区立美術館で「金子鴎亭―四季を謳う」展が開催される。著書に『入門毎日書道講座・近代詩文書1・2』(毎日新聞社 1976・77年)、『書とその周辺 金子鴎亭対談集』(日貿出版社 1984年)がある。

藤原雄

没年月日:2001/10/29

読み:ふじわらゆう  備前焼の陶芸家で国指定重要文化財保持者(人間国宝)の藤原雄は、10月29日午前6時34分、多臓器不全のため岡山県倉敷市の川崎医大付属病院で死去した。享年69。1932(昭和7)年6月10日、同じく備前の陶芸家で人間国宝となった父・藤原啓の長男として岡山県和気郡伊里村穂浪(現・備前市)に生まれる。55年、明治大学文学部を卒業後、一時みすず書房に編集者として勤務するが、父の看病のため岡山へ戻る。復帰した父の助手となり、備前焼の技法を学んだ。58年、第5回日本伝統工芸展にを出品し初入選、また第7回現代日本陶芸展でも入選を果たす。60年には、初の個展(岡山天満屋、東京日本橋三越)を開催。翌61年には日本工芸会正会員となり、またスペイン・バルセロナにおける国際陶芸展では、グランプリを受賞(63年)するなど、備前焼の俊英としての地歩を固めた。64年にアメリカ、カナダ、メキシコ、スペイン等の国々を廻り、各地で備前焼講座や個展(アメリカ、カナダ)を開催、同時に米国コロンビア大学における第1回国際工芸家会議で日本代表として備前焼の解説を行うなど、海外へ広く備前焼を紹介した。こうした経験は後年、備前焼を世界に普及するという雄の一貫した活動へと結びついていく。67年に独立。同年、日本陶磁協会賞を受賞。金重陶陽や父・啓たちが拓いた茶陶としての現代備前陶という認識から出発した雄は、備前の土味を生かし、穏やかで明快な器形に削ぎや透かし、箆目、線彫で作家の作為性を加味した作風を確立した。とくに壷の制作に焦点を絞り、「百壷展」(岡山天満屋 1972年、及び東京日本橋高島屋 1974年)を開くなど、どっしりとした豪放な壷で新境地を開拓した。「古備前と藤原啓・雄父子」展(パリ市立チェネルスキー美術館他 1976年)、「備前一千年、そして今、藤原雄の世界」展(韓国国立現代美術館 1988年)など海外での発表も積極的に行い、備前焼の発展と普及に貢献した。1996年、備前焼で重要無形文化財保持者の認定を受ける。98年、紫綬褒章受章。96年から99年まで倉敷芸術科学大学で芸術学部教授も務めた。主な作品集に『藤原雄 備前 作陶集』(求龍堂 1987年)、『藤原雄 陶の譜:作陶生活40周年記念』(藤原雄陶の譜刊行会 1995年)がある。

寺島龍一

没年月日:2001/10/26

読み:てらしまりゅういち  洋画家寺島龍一は、10月26日午後7時17分、肺炎のため東京都港区の病院で死去した。享年83。本名は寺嶋龍一。1918(大正7)年4月27日東京築地に生まれる。千葉県九十九里で幼少期を過ごし、栃木県立宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を卒業後、川端画学校に学ぶ。1938(昭和13)年東京美術学校に入学、小林萬吾教室に学び、ついで寺内萬治郎に師事した。人物画をよくする。在学中、41年第4回新文展に「父の像」が入選したほか、翌年の第29回光風会展に「部屋にて」が入選。46年第1回日展に入選、57年に「N氏像」が第13回日展特選、同年光風会でも会員となり、以後は日展と光風会を活躍の場とする。60年から一年半滞欧し、シエナ派の絵画から線描表現や幻想性を、またジャコメッティの作品から人体と空間の表現方法を学んでいる。帰国後は舞妓をはじめとする女性像をよく描き、その一方で、前景に女性を配してスペインやイタリアの風景と組み合わせた構図を作り上げた。76年以降14回渡欧、特にアンダルシア地方の風景を好んだ。油彩画のほかに児童書や事典に挿絵を描き、69年には産経児童出版文化賞を受賞。77年東京新聞連載小説「愛しい女」(三浦哲郎作)の挿絵を担当する。78年筑波大学教授となるが、翌年辞している。80年と83年に日動サロンで個展を開催。1991(平成3)年紺綬褒章受章、92年「アンダルシアの宴」で日展内閣総理大臣賞を、96年度には「アンダルシア賛」で日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。98年日本芸術院会員。99年日展顧問、2000年光風会理事長となる。著書に『人物画の新しい工夫』(アトリエ社 1969年)があり、『寺島龍一画集』(ビジョン企画出版社 2000年)が刊行されている。 

今泉今右衛門

没年月日:2001/10/13

読み:いまいずみいまえもん  「色絵磁器」の重要無形文化財保持者で、日本工芸会副理事長の十三代今泉今右衛門は、10月13日午後4時26分、心不全のため佐賀県有田町の自宅で死去した。享年75。1926(大正15)年3月31日、佐賀県有田町に、色鍋島を家業とする十二代今泉今右衛門の長男として生まれ、善詔(よしのり)と通称する。同家は、江戸初期いらいの鍋島藩窯の流れを汲む陶家で、江戸時代には、上絵(赤絵・色絵)を専門とするいわゆる御用赤絵屋として、鍋島藩直営の色絵磁器・色鍋島の制作の一翼をになった。明治に入り、藩窯が解体されてからは、当時の当主十代今右衛門が、従来の分業体制にのっとった上絵専業の家業から、素地づくり、本焼、上絵にいたるまでの一貫制作体制へと転換を進めて、現在の今右衛門陶房の基礎を築く。父・十二代の時代には、「色鍋島」が無形文化財の指定を受け、さらに1971(昭和46)年には、十二代を代表とする色鍋島技術保存会が、重要無形文化財の保持団体として指定を受けている。明治以降、代々の当主によって続けられてきた、このような伝承技法保存の試みは、十三代にも受け継がれた。49年、東京美術学校工芸科卒業後は、家業に従事して家伝の技術を習得。52年頃から、大川内や有田町などの窯跡発掘調査に随行し、初期伊万里の陶片を多数、実見。鍋島以外の古陶磁に触れたことが、のちの独自の作風の開拓につながったと、後年みずから回顧している。古陶磁研究のかたわらで、公募展への出品を開始しつつ、自身の表現を模索。57年、日展初入選、以後、59まで日展に出品する。62年からは日本伝統工芸展に主たる発表の場を移し、以後毎年、出品を重ねた。65年、第12回日本伝統工芸展への出品作「手毬花文鉢」が日本工芸会会長賞を受賞。同年、日本工芸会正会員となった。75年6月、父・十二代の逝去により、十三代今右衛門を襲名。翌76年4月、十二代から継承した技術保存会を色鍋島今右衛門技術保存会として再組織、会長となって、文化庁から重要無形文化財「色鍋島」の総合指定を受けた。おおよそこの頃までの作品は、伝統的な色鍋島の様式を踏襲し、白磁、染付の素地に、赤、黄、緑の上絵という特徴的な賦彩をほどこしたものが多いが、写生にもとづく細密な描写や、余白を生かす動的な構成において、新しい意匠への試みが見てとれる。十三代襲名後の76年からは、コバルトの染付の絵具を吹きつける「吹墨」の技法を用いて濃淡に富む地文の表現を実現し、さらに78年には、貴金属を含んだ黒色の顔料を、吹墨と同様の技法で地文に用いる「薄墨」の技法を創案して、複雑な色彩効果をもつ新たな色絵の表現を確立した。この技法を用いた「色鍋島薄墨草花文鉢」が、79年の日本伝統工芸展でNHK会長賞を受賞、さらに81年の日本陶芸展で、同じく「色鍋島薄墨露草文鉢」が、秩父宮賜杯を受賞した。「薄墨」や「吹墨」のほか、中国・明代の緑地金彩にヒントを得て、緑の上絵具を地色として塗りこめる技法も好んで用い、白地や淡色地の多い従来の色鍋島に、新しい作風をもたらした。88年、毎日芸術賞、MOA岡田茂吉賞を受賞。1989(平成元)年3月には、「色絵磁器」の重要無形文化財保持者に認定された。同年、日本陶磁協会金賞受賞。99年には、勲四等旭日小綬賞を受賞。また93年より2001年まで、佐賀県立有田窯業大学校校長をつとめ、後進の育成に尽力したほか、96年、財団法人今右衛門古陶磁美術館を開館し、かつて蒐集した初期伊万里の陶片や、伝来の鍋島、近代以降の歴代今右衛門の作品などを展示して、近世色絵磁器の研究発展にも貢献した。なお、十三代の逝去により、次男の雅登が、02年に十四代今右衛門を襲名している。

秋野不矩

没年月日:2001/10/11

読み:あきのふく  インドの大地と人物を描き続けた日本画家で文化勲章受章者の秋野不矩は10月11日午前11時27分、心不全のため京都府美山町の自宅で死去した。享年93。1908(明治41)年7月25日、静岡県磐田郡二俣町(現天竜市二俣町)の神主の家に生まれる。本名ふく。静岡県女子師範学校卒業後小学校の教師をしていたが、1927(昭和2)年19歳で画家を志し、父親の知人の紹介により帝展の日本画家で、千葉県大網町に住む石井林響に入門、住み込みの弟子となる。29年林響が脳溢血症で倒れると京都に移り、西山翠嶂の画塾青甲社に入る。30年第11回帝展に「野を帰る」が初入選、その翌年は落選するも32年から34年にかけて連続入選を果たす。32年には塾の先輩である沢宏靭と結婚、その後もうけた六人の子供を育てる傍ら身辺のモティーフを題材に制作を続け、そこで育まれたヒューマニズムは生涯貫かれることになる。36年新文展鑑査展で天竜川岸の白砂に寝そべる女と子供を描いた「砂上」が選奨、38年第2回新文展では紅の着物をまとう五人の女性を円形に構成した「紅裳」が特選を受賞し、無鑑査となるなど官展で着実に地歩を築いていく。40年には大毎東日奉祝(大阪毎日・東京日日新聞主催)日本画展覧会で夫をモデルにした「陽」が特選一席となり、43年京都市展では「兄弟」が京都市展賞を受賞。戦後48年には日展を離脱、日本画の革新を目指して創造美術の結成に参加。51年同第3回展に自分の子供をモデルとした「少年群像」を出品、同作により第1回上村松園賞を受賞する。51年創造美術は新制作派協会と合併、新制作協会日本画部となり、同会会員として同展に出品する。一方、49年京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)助教授となる。62年ビスババーラティ大学(現タゴール国際大学)の客員教授として一年間インドに滞在。これを契機にそれまでの人物画からインドの自然風物、宗教に主題を求めた浄福感あふれる作品へと移行する。その後も度々インドに渡り、中近東へも足を伸ばした。74年京都市立芸術大学を退官し、同大学名誉教授となる。また同年新制作協会より独立結成された創画会の会員となる。この時期二度にわたり火災によりアトリエを失うが、80年に京都市内から同府北部の山間にある美山町に画室を移し、制作を続ける。78年京都市文化功労者、81年京都府美術工芸功労者、83年天竜市名誉市民となり、85年「秋野不矩自選展」(京都ほか)を開催、86年には毎日芸術賞を受賞した。88年第1回京都美術文化賞を受賞。1991(平成3)年に文化功労者となる。92年には画文集『バウルの歌』(筑摩書房)を出版。93年第25回日本芸術大賞受賞。98年には生地である天竜市二俣町に天竜市立秋野不矩美術館が開館。99年には文化勲章を受章。2000年のアフリカ行きが最後の海外旅行、翌年の第28回創画会出品作「アフリカの民家」が最後の出品となったが、個展準備のためインドへの取材旅行を計画していた矢先の逝去であり、最晩年に至るまでその創作意欲は衰えることがなかった。没後の03年には兵庫県立美術館ほかで大規模な回顧展「秋野不矩展―創造の軌跡」が開催されている。

本間正義

没年月日:2001/10/10

読み:ほんままさよし  ながらく美術館の運営に携わり、美術史研究、美術評論でも多くの業績を残した本間正義は、10月10日膵臓がんのため死去した。享年84。1916(大正5)年12月25日、新潟県長岡市に生まれる。1940(昭和15)年3月、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、同年12月応召。中国各地に渡り、終戦後の46年6月に復員した。49年11月から53年9月まで埼玉大学文理学部助手として勤務した。同年同月より国立近代美術館調査員に任命され、57年10月より同美術館事業課研究員となった。63年3月には同美術館事業課長となり、69年7月からは同美術館次長に昇任した。77年、国立国際美術館の初代館長となる。81年に同職を辞した後、82年から1991(平成3)まで、埼玉県立近代美術館長を歴任した。この間、文化庁保護審議会臨時委員をはじめ、京都国立近代美術館、国立西洋美術館、国立国際美術館の評議員会評議員、公私立美術館の各種委員をつとめた。また、68年の第1回インド・トリエンナーレ展、71年の第9回リュブリヤナ国際版画ビエンナーレ展、同年の第11回サンパウロ・ビエンナーレ展など、国内外の展覧会の審査員をつとめた。85年から90年まで、全国美術館会議副会長をつとめた。旺盛な美術評論活動のほか、美術史研究の面では、「天平時代絵師考」(『国華』732号から735号、1953年)など仏教美術研究から発して、近代日本の彫刻にも視野をひろげ、「平櫛田中の芸術」(『平櫛田中彫琢大成』講談社 1971年)、『近代の美術16 円空と橋本平八』(至文堂 1973年)などの業績がある。とくに、橋本平八研究では、造形主義的な近代美術研究に対して、円空から影響をうけた、アニミズムの視点がユニークで、近代美術にながれる水脈に焦点をあてたことは評価される。ほかに、『近代の美術3 日本の前衛美術』(至文堂、1971年)など、大正期の前衛美術研究についても先駆的な業績を残した。88年には、それまでの執筆してきた作家論と広範な視野にたって論じた展覧会、美術館の問題をめぐる評論文をまとめて、『私の近代美術論集』(全2巻 美術出版社)を刊行した。

堀池春峰

没年月日:2001/08/31

読み:ほりいけしゅんぽう  日本仏教史の研究者で東大寺史研究所長あった堀池春峰は8月31日午前9時、骨盤内腫瘍のため奈良市内の病院で死去した。享年82。1918(大正7)年12月8日、代々東大寺の会計を務めた「小綱(しょうこう)」の家系堀池家に長男として生まれる(本名は義也)。1936(昭和11)年3月、奈良県立奈良中学校を卒業。同年4月6日、雲井春海東大寺管長のもと得度、春峰と改名する。翌年2月には東大寺小綱職となり、80年までほぼ毎年、同寺二月堂の修二会(お水取り)に出仕。物資不足の戦中戦後にも用度担当者として資材の確保に尽力し、行の中断を防いだ。40年、雑誌『華厳』の編集委員となる。同年3月、修二会参籠中に応召されるが、7月、傷病し、除隊。48年3月、京都大学文学部国史学専攻卒業。同年4月、京都大学文学部大学院(旧制)に入学。51年、文化財保護委員会の依嘱により、京都市・滋賀県・和歌山県・奈良県の寺院所蔵の仏典・文書の調査に従事(65年7月まで)、現在の聖教調査の基礎をつくりあげるとともに、高山寺、醍醐寺といった近畿古刹の古文書研究で業績を残した。52年4月、奈良県綜合文化調査委員、53年4月、奈良国立文化財研究所の非常勤調査員(2001年3月まで)、61年5月、東大寺図書館司書、66年、奈良市文化財審議委員・東寺百合文書査定委員、1989(平成元)年、奈良文化財委員を兼務し、奈良国立博物館評価委員をたびたび勤めた。また、関西大学文学部非常勤講師(1964、66~68年)、奈良女子大学文学部非常勤講師(1965年)、奈良大学文学部客員教授(古文書学、1970~88年)を歴任した。85年には東大寺史研究所長に就任。この間、65年に全真言宗文化賞を受賞、77年には『古代朝鮮・日本仏教文化交渉史の研究』で朝日新聞文化賞を受賞する。2000年には文化財保護法五十年特別功労者文部大臣表彰を受けた。著書・編著に大著『南都仏教史の研究(上・下)』(法蔵館 1980・82年)のほか、『東大寺』(京都印書館 1945年)、『東大寺遺文(一~八)』(東大寺図書館 1951~56年)、『公慶上人年譜聚英』(東大寺 1954年)、『重源上人の研究(続)』(南都仏教研究会 1955年)、『聖武天皇御伝』(東大寺 1956年)、『高山寺遺文抄』(私家版・田中稔との共編 1957年)、『東大寺図書館蔵宗性・凝然写本目録』(東大寺 1959年)、『東大寺国宝重文善本聚英』(東大寺図書館 1968年)、『唐招提寺古経選』(中央公論美術出版 1975年)、『東大寺お水取り二月堂修二会の記録と研究』(小学館 1985年)、『霊山寺菩提僧正記念論集』(霊山寺 1988年)、『東大寺文書を読む』(思文閣出版 2001年)があり、学術論文には「法華堂地蔵菩薩像についての一考察」(『美術研究』166)、「法華堂の旧不動明王像について―椿井仏師と高天仏師―」(『大和文化研究』三-六)ほか100以上に及ぶ。

北村治禧

没年月日:2001/08/21

読み:きたむらはるよし  彫刻家北村治禧は8月21日午前4時53分、慢性白血病のため東京都北区の病院で死去した。享年86。北村は1915(大正4)年1月1日、長崎県島原に彫刻家北村西望の長男として生まれる。1933(昭和8)年東京美術学校彫刻科に入学。39年、同校を卒業後に進学した同研究科を修了。同校在学中、36年の文展鑑査展に「少女」が初入選する。その後も新文展、日展を活動の場とし、43年第6回新文展では「髪」が特選を受賞した。戦後も第3回、5回、6回の日展で「空」、「光」、「砲丸」が特選を受賞、その後も順調に日展に作品を発表し、52年には日展会員、58年に日展評議員となる。66年、第9回新日展で「巻雲」が文部大臣賞受賞。68年に、前年の日展出品作「光る波」により第24回日本芸術院賞を受賞、80年には日本芸術院会員になる。81年日展常務理事、1995(平成7)年日展顧問に就任。一方、日本彫塑会(のちの日本彫刻会)にも作品を発表、81年には常務理事となる。86年勲三等瑞宝章を受章。主にブロンズを素材とし、様々なポーズをとった女性像には、父・西望に師事した写実力がうかがえる。日本橋三越での妖精シリーズを扱った個展(71年)のほか、高島屋などでも個展を開催。

吉田漱

没年月日:2001/08/21

読み:よしだすすぐ  歌人で美術史家の吉田漱は8月21日、肺炎のため死去した。享年79。1922(大正11)年3月11日、東京府北豊島郡雑司谷町(現豊島区南池袋)で彫刻家吉田久継の長男として生まれる。1941(昭和16)年東京美術学校油絵科に入学。43年の学徒出陣により中国大陸中部を転戦。敗戦、復員後の47年に東京美術学校を卒業。この年アララギ歌会に出席し土屋文明に入門、翌年にはアララギの若手集団「芽」に参加。49年東京の区立中学教員となる。51年には近藤芳美を中心とする歌誌『未来』の創刊に参加。56年には歌集『青い壁画』を刊行、さらに短歌に関する編集・注釈にたずさわる一方で64年に『開化期の絵師・小林清親』(緑園書房)を出版、以後美術史、とくに浮世絵関係の執筆をも多く手がけるようになる。『浮世絵の基礎知識』(雄山閣出版 1974年)では絵師伝中に墓所の記述を添えるなど、行動力に基づき実体験で立証する真摯で手堅い学風だった。67年東京都立秋川高校へ転任。自身がエスペランティストだったこともあり、69年には利根光一のペンネームでエスペランティスト長谷川テルの一生を描いた『テルの生涯』を著す。70年代に入ると美術教育に関する執筆も増え、76年に横浜国立大学教育学部講師となり、同年から78年まで文部省高等学校学習指導要領作成協力者を務める。78年岡山大学教育学部助教授、79年同大学教授となり85年に退職、同大学大学院講師(87年まで)、多摩美術大学講師(90年まで)を務める。小林清親研究の延長で出会った河鍋暁斎の研究とその再評価にも大きく貢献し、87年には河鍋暁斎研究会会長となる(94年まで)。1992(平成4)年日本浮世絵協会第11回内山賞を受賞。95年第31回短歌研究賞、98年『「白き山」全注釈』で第9回斎藤茂吉短歌文学賞を受賞。生前の『未来』570号(1999年7月)に詳細な自筆年譜が掲載されている。 主要著書(美術関係) 『開化期の絵師・小林清親』(緑園書房 1964年) 『浮世絵の基礎知識』(雄山閣出版 1974年) 『浮世絵の見方事典』(溪水社 1987年)

小野忠弘

没年月日:2001/08/05

読み:おのただひろ  美術家の小野忠弘は、8月5日午前3時、急性心不全のため福井県三国町の自宅で死去した。享年88。1913(大正2)年3月3日、青森県弘前市に生まれる。31(昭和6)年、青森県立弘前工業学校土木科を卒業、33年に東京美術学校彫刻科に入学、在学中、鳥海青児の知遇をうけ、アトリエに出入りするようになり、油彩画を描くようになる。38年、同学校を卒業後、徳島県立富岡中学校の図画担当教員として赴任した。卒業後から42年まで、春陽会に出品をつづけた。42年、福井県立三国中学校に転任。47年、北陸美術会が結成され、会員として第1回展から出品をつづけた。50年、第14回自由美術家協会展に出品、会員となる。53年、ロンドン国際彫刻コンクールに「無名政治犯」を出品し、佳作賞を受賞。同年、福井大学工学部の非常勤講師となり、「造形学」を担当する。57年、国立近代美術館の「前衛美術の15人展」に「タキスの天」、「モナノドック」等を出品。同年、ブリヂストン美術館でのミシェル・タピエ選「世界・現代芸術展」にも出品。59年、第5回サンパウロ・ビエンナーレに「シモセファロス」(立体)を出品、翌年、第30回ヴェネツィア・ビエンナーレに「作品」(絵画)2点、「作品」(立体)1点を出品、また第4回現代日本美術展に「アンチプロトン」を出品した。この頃より、鉄屑、陶片、木屑などの廃品によって構成したジャンク・アートとして、国内外から評価をうけるようになった。73年、福井県立三国高等学校を定年退職。79年、東京セントラル美術館で個展を開催し、106点を出品。80年には、東京の小田急グランドギャラリーで「妖星の画家―小野忠弘」展を開催、「タダの人」シリーズ、「テラテラの曠野」シリーズなど新作100点余を出品した。これらの作品は、重厚なマチエールに線がのたうちまわるような情念的な表現の作品であった。85年11月、福井県立美術館で「隕石・縄文・写楽の系譜 小野忠弘展」が開催され、戦前の作品から新作「ゲームの廃墟」シリーズまで224点を出品した。福井にあって、終生、反骨的な気概のもと、情念的な作品をつくりつづけた美術家であった。

福永重樹

没年月日:2001/08/05

読み:ふくながしげき  東京都の目黒区美術館長の福永重樹は、メキシコのガナファト市で開催される現代日本版画展の開会式に出席するため滞在していたが、脳梗塞で倒れ、レオン市の病院で急性肺炎のため死去した。享年68。1933(昭和8)年7月7日、東京都港区明石町に生まれる。53年、東京都立一ツ橋高等学校を卒業、同年上智大学文学部史学科に進学、57年に卒業、同年より静岡県の雙葉高等学校に赴任した。67年、東京のサントリー美術館の学芸員となった。同美術館在職中、上智大学大学院文学研究科史学専攻に学び、71年に修了した。同美術館では、少数の学芸スタッフのなか、年に6、7回の企画展を担当し、国内外の工芸、日本画、版画の展覧会をつぎつぎに開催し、視野を広げていった。76年5月、京都国立近代美術館事業課主任研究官として異動した。同美術館在職中は、「今日の造形―アメリカと日本」(77年)、「現代ガラスの美―ヨーロッパと日本」(80年)、「今日のジュエリー―世界の動向」(84年)、「現代イタリア陶芸の4巨匠」(87年)など、世界的な視野にたったユニークな工芸関係の展覧会を企画担当した。1993(平成5)年、国立国際美術館学芸課長に昇任した。95年6月に目黒区立美術館館長に就任した。同美術館では、毎年開催された「朝日陶芸展」、「昭和シェル石油現代美術賞展」の審査をつとめるとともに、「染めの詩 三浦景生展」(98年)、「京友禅 きのう・きょう・あした」(99年)、「陶の標―山田光」展(2000年)、「栗辻博展 色彩と空間とテキスタイル」(同年)などを企画した。伝統工芸から現代美術まで、広い視野で数々の論文、批評を残し、主な編著作には、「近代の美術40 近代日本版画」(至文堂、77年)、「現代日本美人画全集 第2巻 鏑木清方」(集英社 1977年)、「近代の美術47 現代の金工」(至文堂 1978年)がある。また美術館人として多くの展覧会を企画担当し、展示にあたっても、既成の感覚にとらわれない斬新な試みもつづけていた。

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