本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





野田健郎

没年月日:1993/12/19

日展会員の洋画家野田健郎は、12月19日午後3時56分、心不全のため熊本市の済生会熊本病院で死去した。享年72。大正10(1921)年10月29日、北海道旭川市に生まれる。本名健郎。昭和14(1939)年川端画学校を修了。同19年東京美術学校油画科を卒業する。同29年第13回創元展に「静物」で初入選するとともに第10回日展にも「静物」で初入選。同年より熊本県立荒尾高校に勤務する。同30年第14回創元展に「花とラッパ」「ヴァイオリンと壷」を出品して受賞し、同会準会員に推される。同31年第15回創元展に「鶏のある静物」を出品して準会員賞を受賞し同会会員に推挙される。同年大牟田市民会館で第1回個展を開催。同42年熊日ホールで「野田健郎自選展」を開催。同年熊本県立済々黌高校に転勤となる。また同年第1回渡欧。同46年再び渡欧し、オランダ、フランス、スペイン、イタリア、ギリシャをめぐり、以後同47、48、50、58、59年にも渡欧。同46年第3回改組日展に「運河の午后」を出品して特選、同50年第7回改組日展に「広場」を出品して再び特選となり、同51年日展会友となった。同52年第1回日洋展に出品、また、同年熊本大学教育学部講師となる。同53年創元会を退会。同54年取材のためアラスカを訪れる。同58年日展会員となり、同62年には新日洋会の設立に参加した。初期には静物画を多く描いたが、後に街の一角に取材した作品を好んで描くようになった。対象を色面でとらえ、細かい色面によって画面を構成するのを特色とした。同60年熊本日日新聞社主催「野田健郎展」、同63年「熊本の現代作家」展(熊本県立美術館)に主要な作品を出品している。

野口鎮

没年月日:1993/11/17

行 動美術協会会員の彫刻家野口鎮は、11月17日午後2時2分、心不全のため東京都練馬区の高松病院で死去した。享年69。大正13(1924)年4月8日、東京に生まれる。本名鎮夫。昭和12(1937)年東京府湯島尋常小学校、同17年豊山中学校を卒業し、同年東京美術学校彫刻科に入学。同19年学業なかばにして宇都宮の陸軍飛行学校に入る。同20年、東京美術学校に復学、翌21年より加藤顕清に彫刻を学ぶ。同22年第3回日展に「若き人の像」が初入選するが、以後日展へは出品していない。同23年東京美術学校を卒業。父親が人形作家であったことから、翌24年人形劇団プークの美術部員となった。同29年より東京都港区立北芝中学校、同愛宕中学校、都立高等工芸学校の講師を歴任する。同37年UNIMA(国際人形劇連盟)日本代表としてポーランド、ワルシャワ会議に出席。同39年第19回行動展に「En,tropie」で初入選。以後同展に出品を続け、同41年同会会友、同46年第26回同展に「ほぞ」を出品して奨励賞を受賞。同48年同会会員となった。この間、同44年チェコ・プラハで行なわれたUNIMA第10回大会にも出席したほか、同年カンボジア・アンコールをも訪れている。初めは人体像を中心に具象彫刻を制作したが、戦後抽象彫刻へ移行。支柱と直交する角柱による「音叉」のシリーズの簡潔な造形から、昭和60年前後には、水道の蛇口などからしたたる水のしずくを共通のモティーフとする「水は天から貰い水」シリーズへと展開した。このほか、東京都田無福祉法人緑寿園ロビー、神戸市垂水区歌敷山通称院記念碑、泉佐野市犬鳴山七宝滝寺記念碑など公共の場のための制作も行なっている。美術教育にも寄与し、昭和51年から平成5年まで女子美術大学の講師をつとめた。

石井昭房

没年月日:1993/10/26

鎌倉中期の備前一文字助真の流れをひく「重花丁字乱れの刀文」で知られた刀匠、石井昭房は10月26日午後7時、心不全のため千葉県鴨川市の病院で死去した。享年84。明治42(1909)年10月3日、千葉県館山市に生まれる。本名昌次。千葉県安房郡館野の山本尋常小学校を卒業。昭和10(1935)年1月より栗原昭秀、笠間繁継に師事。笠間には同10年10月まで師事したが、後には専ら栗原のもとで備前一文字の作刀法を学ぶ。同14年5月独立。同30年第1回作刀技術発表会に入選。同31年第2回同展で努力賞、同32、33年の同展では特選となった。日本美術刀剣保存協会に所属し、千葉県指定無形文化財となった。山城の技術も研究したが、備前一文字の作刀法を最も得意とし、代表作に昭和15年制作の丁字の刀、同年作の安房神社蔵の丁字の太刀、同39年制作の長狭高校蔵の大丁字の太刀などがある。

松井正

没年月日:1993/10/25

二科会常務理事で大阪芸術大学名誉教授の松井正は、10月25日心不全のため兵庫県西宮市の上ケ原病院で死去した。享年86。本名正一。明治39(1906)年12月14日広島市に生まれる。大正12年県立広島工業学校電気科を中退し、翌13年大阪へ出、小出楢重に入門、赤松麟作画塾へも通ったが小出の信濃橋洋画研究所開設とともに同研究所へ移った。昭和2年第14回二科展に「樹間展望」で初入選し、以後同展へ出品を続け、第20回展「夏の日」が特待を受け翌昭和10年二科会会友となり、同16年第28回展に「人々」を出品し二科会会員に推挙された。この間、昭和13年には第5回佐分賞を受賞した。また、小出没後中之島洋画研究所(信濃橋作画研究所を改称)で教えたのをはじめ、大阪市立美術研究所などの講師をつとめた。戦後も二科会会員として活躍し、同25年第35回二科展に「二科三十五人衆」を出品、会員努力賞を受け、同40年第50回展には「好評と云う名の看板」で第1回青児賞を受賞した。同36年二科会理事に、同58年社団法人二科会常務理事にそれぞれ就任する。一方、同39年に大阪芸術大学教授となり後進の指導にあたり、美術学科長などをつとめ同63年退職、翌年同大学名誉教授の称号を得た。また、同49年には大阪芸術賞を受賞した。同63年大阪芸術大学塚本記念館・芸術情報センター展示ホールで「松井正画業70年記念展」を開催、二科展出品作を中心に49点が展示された。二科展への出品作には、他に「瓦焼風景」(20回)、「メルカード」(53回)、「カッパドキヤ」(63回)、「占師の庭」(67回)などがある。

小森邦夫

没年月日:1993/10/22

日本芸術院会員で日展事務局長をつとめた彫刻家小森邦夫は10月22日午後6時33分、心不全のため水戸市の水戸赤十字病院で死去した。享年76。大正6(1917)年6月6日、東京都浅草今戸に生まれる。赤坂高等小学校を経て日大皇道学院に学ぶ。昭和10年、構造社彫塑研究所に入り斉藤素厳に師事。構造展に出品し、同15年紀元2600年奉祝展に「めぐみ」で入選して官展初入選をはたす。翌16年第4回新文展に「断」で入選するが、後従軍。同21年春、第1回日展に「久遠」で入選し、以後同展に出品を続ける。同28年第9回日展に「ながれ」を出品して特選・朝倉賞受賞、同年第1回日本彫塑会展に「婦(A)」を出品して、以後同会にも出品を続ける。同30年第11回日展に「裸婦立像」を出品して特選、翌31年第12回展では「若い女」で2年連続特選となり、翌32年には日展依嘱となった。同年中国平和委員会からの招待で茨城県文化人代表として約40日間中国視察旅行、中国の古代遺跡等を訪れた。同33年よりたびたび日展審査員をつとめ、同34年日展会員、同39年日展評議員となる。同55年第12回日展に「腰かけた婦」を出品して文部大臣賞受賞。同60年、戦後間もない同23年から運営委員、審査員を続けていた茨城県展に「青春譜」を出品し、この作品により昭和59年度日本芸術院賞を受賞した。同60年日展理事、日本彫刻会理事となる。平成元(1989)年日本芸術院会員に選ばれた。裸婦像によって抽象的概念や情趣を表現するのを得意とし、流麗なポーズ、穏やかな作風を好んだ。代表作に茨城県立運動公園に立つ「緑に舞う」、勝田市駅前「であい」、土浦市にある「湖畔に佇つ」などがある。 新文展・日展出品歴昭和15年紀元2600年奉祝展「めぐみ」、同16年第4回新文展「断」、同21年春第1回日展「久遠」、同年秋第2回「想」、同22年第3回「女性」、同23年第4回「影」、同24年第5回「追憶」、同25年第6回「蒼茫」、同26年第7回「荒海」、同27年第8回「妻の首」、同28年第9回「ながれ」(特選・朝倉賞)、同29年第10回「残陽」、同30年第11回「裸婦立像」(特選)、同31年第12回「若い女」(特選)、同32年第13回「女の顔」、同33年改組第1回「野性」、同34年第2回「ポーズする女」、同35年第3回「手を組む」、同36年第4回「碧」、同37年第5回「抗」、同38年第6回「あすなろ」、同39年第7回「膝をつく」、同40年第8回「ヴェール」、同41年第9回「腰かけたポーズ」、同42年第10回「雲」、同43年第11回「丘に立つ」、同44年社団法人日展第1回「浴後」、同45年第2回「砂丘」、同46年第3回「樹下佳人」、同47年第4回「佇立女」、同48年第5回「遊歩」、同49年第6回「腰かけた女」、同50年第7回「ポーズするエイ」、同51年第8回「浴」、同52年第9回「渚」、同53年第10回「海辺」、同54年第11回「閑寂」、同55年第12回「腰かけた婦」、同56年第13回「晨(あした)」、同57年第14回「想」、同58年第15回「仰ぐ」、同59回第16回「粧い」、同60年第17回「湖畔に佇つ」、同61年第18回「南国」、同62年第19回「瀬音」、同63年第20回「風」、平成元年第21回「舞う」、同2年第22回「碧」、同3年第23回「佇む婦」、同4年第24回「磯」、同5年第25回「砂」

長沼孝三

没年月日:1993/10/22

日展参与の彫刻家長沼孝三は10月22日午前10時35分、心筋こうそくのため東京都品川区の昭和大学病院で死去した。享年85。明治41(1908)年1月18日、山形県西置賜郡に生まれる。長井小学校を経て大正14(1925)年県立長井中学校を卒業。同15年東京美術学校彫刻科に入学し、昭和6(1913)年、同校を卒業する。同年第12回帝展に「インテリゲンチャ」で初入選。以後官展に出品を続け、同12年第1回新文展には「踊る」を出品した。同14年中国北部を約二ケ月旅する。同15年紀元2600年奉祝展に「山の鎮」を出品。同16年第2回聖戦美術展に「英霊」を出品し陸軍大臣賞を受賞した。同17年7月高村光太郎を顧問とする造営彫塑人会の創立に参加し、同会会員となる。同年第5回新文展に「若者は征く」を出品して特選となる。同18年満州美術学校開校とともに同校教授となった。同20年陸軍美術展に聖戦記念碑「ラバウル」を出品。同21年春第1回日展に「葡萄」を出品。同年秋の第2回日展には「愛と平和」を出品し、以後同展に出品を続ける一方、同22年7月に沢田政廣らが設立した日本彫刻家連盟にも参加し、同23年の第1回同展に「女」を出品した。同24年7月戦後初めての野外彫刻「愛の女神」を東京・上野駅前広場に設置した。同28年日本彫刻家連盟が解散し、日本彫塑家倶楽部が設立されると同連盟に参加して出品を続けた。同35年日展評議員、同59年日展参与となる。後進の指導にも尽力し、同38年から同53年停年退官するまで東京家政大学教授をつとめたほか、同41年に設立された東京デザインアカデミー(現東京デザイン専門学校)の顧問を、設立時からつとめた。関野聖雲に師事し寓意的女性像を得意としたが、同49年からその後ライフワークのように連続してつくられることとなる念仏踊を主題とする作品の制作を始める。一方で、社会批判を含む作品を日展に出品し続けた。平成4年郷里長井市の生家、丸大屋敷内に長沼孝三彫塑館(山形筈長井市十日町1-11-7)が開設された。 帝展・新文展・日展出品歴第12回帝展(昭和6年)「インテリゲンチャ」、第13回「子供の家」、第14回不出品、第15回「坊やは春」、第1回新文展(同12年)「踊る」、第2、3回不出品、紀元2600年奉祝展(同15年)「山の鎮」、第4回新文展「熟慮」、第5回(同17年)「若者は征く」(特選)、第6回不出品、第1回日展(同21年春)不出品、第2回(同年秋)「愛と平和」、第3回「スタイル」、第4回「おとめ」、第5回(同24年)「風」、第6回「女」、第7回「女」、第8回「女」、第9回「ひととき」、第10回(同29年)「山羊と女」、第11回「手」、第12回「女」、第13回「女」、改組第1回日展(同33年)「女二人」、第2回「若い二人」、第3回「一姫誕生」、第4回「母の像」、第5回(同38年)「風」、第6回「辰年のうた」、第7回「七夕」、第8回「仮面」、第9回「縄文」、第10回(同43年)「女」、第1回社団法人日展(同44年)「若衆」、第2回「念」、第3回「うそふき」、第4回「傀儡」、第5回(同48年)「1973怪」、第6回「怪いよいよ怪」、第7回「ありうべからざる怪」、第8回「話があわない」、第9回「お先真っ暗」、第10回(同53年)「歌う」、第11回「居直り時代」、同12回「まず損得」、第13回「キナ臭い」、第14回「凶器を持たすな」、第15回(同58年)「心中はごめん」、第16回「桜下念仏」、第17回「雪国」、第18回「念仏踊 枕打」、第19回「舞う」、第20回(同63年)長井橋「今」、第21回(平成元年)「けん玉」、第22回「現代うかれ雛」、第23回「さかさに見るとおもしろい」、第24回「渋茶も結構」、第25回(同5年)「黒衣讃歌」(遺作)

杉山寧

没年月日:1993/10/20

読み:すぎやまやすし  日本芸術院会員で、文化勲章受章者の日本画家杉山寧は10月20日午前0時5分、心不全のため東京都文京区の東京日立病院で死去した。享年84。明治42(1909)年10月20日、紙や文具類を売る店を営んでいた杉山卯吉、みちの長男として東京浅草に生まれる。東京府立第三中学校を卒業した翌年の昭和3(1928)年に東京美術学校日本画科に入学。同校在学中の同6年の第12回帝展に「水辺」を初出品して入選する。翌年の第13回帝展にも「磯」が入選し、特選となる。同8年、同校を首席で卒業、在学中に師事した松岡映丘が主宰する研究会「木之華社」の例会に時折出席するようになる。翌年、第14回帝展に出品した「海女」が再び特選となる。この作品は、卓抜した描写力と構成力とともに、清新な感覚で描かれた作品であり、戦前期の画風の特色をよくつたえている。またこの年、松岡映丘門下の有志とともに「瑠爽画社」を結成、翌年同人とともに銀座資生堂ギャラリーにおいて第1回展を開催、同13年の第3回展までつづく。同17年、中国大陸を旅行、ことに雲岡石窟寺院では、約半月にわたり石仏の写生に励んだ。戦後は、同21年の文部省主催日本美術展覧会(日展)が発足し、出品を委嘱されたが応ぜず、同26年の第7回日展に戦後初めての大作であり、ギリシャ神話に取材した「エウロペ」を出品する。以後、日展には、同組織が社団法人となった同33年から会員として、同49年まで出品をつづけ、その間評議員、常務理事、また審査員などをつとめたが、同51年に退会、しかし請われて顧問に就任した。そのほか、同26年に東京美術学校出身の橋本明治、山本丘人、東山魁夷等とともに、画会「未更会」(兼素洞主催)の発足にあたり、会員として加わったのをはじめ、多くの画会に参加、そのつど新作を発表した。また、雑誌「文藝春秋」の表紙絵原画を同31年4月から同57年6月号まで毎号制作する。同32年の第12回日展出品の「孔雀」(東京国立近代美術館蔵)に対して、同13回日本芸術院賞を送られる。この作品は、緊張感のある画面構成ながら、新鮮な華やかさをもった作品で、中期の代表作となった。しかし、同36年の沖縄旅行、翌年のエジプト、ヨーロッパ旅行を契機に、それまでの平明な自然描写にかわって、重厚なマチエールによって自然を抽象化する傾向を強め、また「穹」(同39年、東京国立近代美術館蔵)に代表されるように、エジプトの古代遺跡を題材に象徴的な画面づくりに向かっていった。さらに、同48年頃から、夢幻的な空間の中に裸婦、鳥、動物を配した作品へと展開していった。同53年、56年に中近東に旅行し、トルコのカッパドキアの遺跡や風物など、その折の取材をもとにした作品が生まれた。同49年には、文化勲章を受け、また文化功労者として顕彰された。同57年11月から61年6月まで、日本芸術院の第一部長をつとめた。同62年8月には、東京国立近代美術館において、本画、素描等総点数123点からなる本格的な回顧展として「杉山寧展」が開催され、同年10月にも富山県近代美術館において回顧展が開催された。さらに、平成4(1993)年には、東京美術倶楽部において「杉山寧の世界」展が開催された。(同氏の年譜及び出品歴については、上記の展覧会図録に詳しい。)

西村愿定

没年月日:1993/10/18

読み:にしむらもとさだ  日展評議員、光風会評議員の洋画家西村愿定は、10月18日午前8時28分、肝臓ガンのため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年78。大正3(1914)年12月12日東京の小石川に生まれ、昭和14(1939)年、東京美術学校油画科を卒業、在学中から光風会、春台展等に出品し、同13年の第25回光風会展では、光風会賞を受けた。その後も、同展で各賞を受賞し、同16年に会友に推挙され、同21年に会員となった。また、戦後には同22年に銀座資生堂画廊にて初個展を開催したほか、同21年の第1回日展から出品をつづけ、同25年の第6回展では、「二人の女の構図」が特選となり、さらに第3回新日展の出品作「レゲンデ」が、菊華賞を受賞した。鋭角的なフォルムによる構成によって、独自の幻想の世界を描きつづけた。

町田甲一

没年月日:1993/10/05

美術史家で、武蔵野美術大学名誉教授の町田甲一は、10月5日午後8時脳内出血のため東京都多摩市の天本病院で死去した。享年76。大正5年12月9日、東京市麹町区で生まれる。父は文・帝展で活躍した日本画家町田曲江。昭和11年3月東京府立第三中学校を病気のため二年遅れで卒業し、同年4月姫路高校へ進む。その卒業直前の昭和15年3月、治安維持法違反の疑いで検挙され(神戸詩人事件)、神戸橘拘置所などに18ケ月の長きにわたって拘禁された。昭和17年4月東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し児島喜久雄に師事する。自身が述べるように(「めぐりあい-児島喜久雄先生のこと-」)、町田の美術史学の基礎をなす方法論は、師からの多大な影響のもとに形成された。昭和19年9月、同大学同学科を卒業し大学院へ進み、昭和21年9月には大学院在籍のまま長尾美術館へ勤務する。昭和22年12月、『天平彫刻の典型』(座右宝刊行会)を出版。昭和23年10月から東京大学大学院特別研究生。昭和24年3月、病気により長尾美術館を退職。翌年4・5月には胸部成形手術をうけ、以後昭和27年夏まで療養生活が続く。昭和28年4月東京教育大学講師、翌年4月助教授となる。昭和30年4月、『東洋美術史要説』上巻(深井晋司と共著、吉川弘文館)を刊行。また、同年12月、薬師寺金堂薬師如来像の調査をおこない、その成果を『薬師寺』(実業之日本社、昭和35年5月刊)として上梓する(後の昭和59年には、同書の改訂版がグラフ社から刊行される)。昭和30年から美術史学会常任委員(昭和55年まで)。昭和39年インドマハーボディ・ソサエティの招きにより渡印。昭和41年訪中。昭和43年、東京教育大学教授。この間、お茶の水女子大学、学習院大学、武蔵野美術大学、明治大学、東京大学等で講師を勤める。『奈良六大寺大観』全14巻(岩波書店刊、第2巻法隆寺二・第3巻法隆寺三・第6巻薬師寺・第14巻西大寺責任編集)の刊行が、昭和43年より始まる(昭和48年完結)。同書は、町田が編集委員代表として推進し、建築・美術の写真・解説・文献を可能な限り網羅した奈良美術史・建築史研究の基本資料であり、その意義は今日なお失われていない。また、この企画は町田の意向によって若手を中心とする多くの研究者を結集して進められた点でも画期的なものであった。昭和49年4月、名古屋大学教授。昭和52年には武蔵野美術大学教授となり、同62年に同大学名誉教授となる。平成4年勲三等瑞宝章受章。町田は、生涯一貫して、芸術としての仏像の追究に情熱を注ぎ続けた。その方法論は、リーグル、ヴォリンガー、あるいはヴェルフリンの理論に基づく自律的様式史観を前提としており、それを日本古代彫刻の様式区分論として展開させた一連の論考をあらわした(「上代彫刻史上における様式時期区分の問題」他)。また、薬師寺移建・非移建問題においては様式論の観点から積極的に論陣を張り、天平「様式の父」としての金堂薬師寺三尊像の意義を繰り返し主張した。これらの論考は、論理性の希薄な従来の造形論から大きな飛躍を示し、その後の彫刻史研究に大きな影響を与えた。その他、人・芸術・文化に対する想いや自伝的内容を綴った随筆も多数残し、『仏像の美しさに憑かれて』(保育社、1986)、『仏教美術に想う』(里文出版、1994)などに収載されている。また異色な著作に、自身の体験を基に太平洋戦争前夜の高校生活を描いた小説『鷲城下にかげる』(神保出版会、1994)がある。同書には詳細な年譜・著作目録が付されており、また町田甲一先生古希記念会論『論叢仏教美術史』(吉川弘文館、1986)の巻末には論文を含んだ主要著作目録がある。 ○その他の主要編著書概説日本美術史 吉川弘文館 1965日本古代彫刻史概説 中央公論美術出版 1974東大寺法華堂の乾漆像(奈良の寺15) 岩波書店 1974奈良古美術断章 有信堂 1975大和古寺巡歴 有信堂 1976上代彫刻史の研究 吉川弘文館 1977古寺巡歴 保育社 1982仏像イコノグラフィ(岩波グラフィックス8) 岩波書店 1983南無仏陀-仏教美術の図像学- 保育社 1986法隆寺(増訂新版) 時事通信社 1987概説東洋美術史 国際書院 1989仏の道-仏像の歩みの歴史と広がり- 同朋舎出版 1990芸術(中国文化叢書7)(鈴木敬と共著) 大修館書店 1971市川市史1~7 吉川弘文館 1971~1974奈良の寺1~21 岩波書店 1973~1975大和古寺大観1~7(第1巻法隆寺・法輪寺・中宮寺責任編集) 岩波書店 1976~1978日本美術小事典(永井信一と共編) 角川書店 1979

山本雅彦

没年月日:1993/09/20

元日本美術家連盟理事長で日展参与の彫刻家山本雅彦は、9月20日腎不全のため東京都中野区の横畠外科病院で死去した。享年92。山本は明治34(1901)年4月29日東京・芝に木彫家山本瑞雲の子として生まれた。はやくから父瑞雲のもとで木彫に親しんだが、やがて塑造の道へ進み、大正15年東京美術学校彫刻科塑像部を卒業した。在学中の大正13年、第5回帝展に「永却の詩」で初入選し、以後帝展への出品を続け、新文展では無鑑査出品となった。戦前は官展の他、サンフランシスコ万国博などにも出品する。昭和16年応召し戦後旧ソ連エラプカに抑留され、3年間在官労功などに携わる側ら小仏像の制作を続け、これらの小仏像は「エカプカ仏」と呼ばれ供養する会ができた。同23年9月帰還し、同25年第5回日展に「寂寥」を出品し特選、ついで第6回、7回日展にも「静華」「芽ざす」でそれぞれ特選、朝倉賞を受賞した。同33年第1回新日展では「北のひと」で文部大臣賞を受賞。人物をモチーフに独自の造形世界を拓いた。日本現代美術展、日本国際美術展、国際具象展にも出品し、日展では評議員、参与をつとめた。また、日本彫塑家クラブ理事、日本美術家連盟理事長などを歴任した。

山本日子士良

没年月日:1993/09/15

日展参与の洋画家山本日子士良は9月15日午前1時49分、胃がんのため東京都板橋区の都老人医療センターで死去した。享年82。明治43(1910)年9月21日、奈良県磯城郡に生まれる。同45年父を亡くし、大正4(1915)年に大阪へ転居。同12年大阪市北区済美第二小学校尋常科を修了して高等科へ入学し、図画教師山口重慶に画才を見出されて画家を志す。同13年済美第二小学校高等科1年を修了して同年4月より私立浪速中学校に入学。昭和4(1929)年、同校を卒業して東京美術学校西洋画科に入学し、和田英作教室で学ぶ。同9年第2回東光会展に「踏切番」を出品。同年東京美術学校を卒業。同年より翌年にかけて兵役につく。その後も東光会展に出品する一方、同11年文展鑑査展に「歌姫」で初入選する。同12年、上京して熊岡絵画道場で熊岡美彦の指導を受ける。同15年第8回東光会展に「水辺群像」「婦人像」を出品してY氏奨励賞受賞。同年の紀元2600年奉祝展に「ともだち」を出品。同16年第9回東光会展に「惑る老技師の像」「自画像」「甦生を誓ひ合へる三人兄弟像」を出品して東光会賞受賞。同年第2回聖戦美術展に「戦野のオアシス」「雪中の弾薬輸送」を出品して朝日新聞社賞、同年の第1回日本航空美術展には「一機還らず」を出品して陸軍大臣賞を受賞した。同17年東光会会友となる。また、同年中支方面へ従軍画家として赴く。同18年東光会会員となった。同19年第8回海洋美術展に「大漁」を出品して海軍大臣賞受賞。同年春より終戦まで中支方面に出征し、この間にアトリエにあった作品全てを焼失した。戦後は第2回日展に「白服のM子」で初入選して以降日展に出品したほか、東光会への出品も続けた。同25年第6回日展に「いこい」を出品して岡田賞を受け、同26年日展依嘱。同42年第10回改組日展に「忙中の閑」を出品して菊華賞を受け、同46年日展会員、平成2年日展評議員、同4年日展参与となった。戦後間もない同21年より同45年定年退官するまで東京都新宿区牛込仲之小学校で教鞭をとる一方で制作をつづけ、明快な色面で構成した女性像を得意とした。昭和29年より板橋区に住んでおり、同56年9月板橋区立美術館で「山本日子士良展」が開催された。年譜は同展図録に詳しい。

寺田竹雄

没年月日:1993/09/10

日本芸術院会員、二科会理事の洋画家寺田竹雄は9月10日午後5時21分、心不全のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年85。明治41(1908)年4月27日、福岡県糸島郡に生まれる。大正11(1922)年福岡県立中学修猷館を中退して渡米、昭和3(1928)年カリフォルニア州チーコ・ハイスクールを卒業、同6年カリフォルニア州美術専門学校を卒業、同年アートセンター美術協会会員、同7年サンフランシスコ・アート・アソシエーション会員、同8年ロスアンゼルス・アート・アソシエーション会員となる。同年より米国政府の壁画政策によってサンフランシスコ・コイト記念塔内に壁画を描き同9年カリフォルニア州壁画家協会の設立に会員として参加。同10年米国政府の依頼でカリフォルニア州サンタクララ郵便局内に壁画を制作。同年サンフランシスコ日本人美術家協会主事となった。同年10月帰国。同11年東京西銀座のコットンクラブに壁画を描き、以後も多くの壁画を制作した。同11年第23回二科展に「アメリカ風景」で初入選。以後同展に出品し、同13年第25回展に「見世物」「建設(フレスコ)」「壁画試作(フレスコ)」を出品して特待。同15年同会会友、同20年会員となった。同23年第32回二科展で会員努力賞、同28年第38回展には「よろこび(フレスコ試作)」等で同賞を受賞。同44年第54回二科展に「熱い国の女達」「果物ワゴン」を出品して青児賞。同51年第61回同展には「アラビアの女」を出品して内閣総理大臣賞を受賞して、同53年二科会常務理事となった。同59年、第68回二科展出品作「朝の港」で日本芸術院賞を受賞し、平成2年に日本芸術院会員に任命された。この間、同31年より32年まで、アメリカ、メキシコ、欧州、中近東を訪れ、同40年にも渡欧している。女性像、風景を得意とし、力強い構図の明快な画風を示した。国立競技場、アサヒ・ペンタックスビル、佐久市市庁舎、第百生命本社、松竹本社等に壁画を描いたほか、新聞挿絵に筆を染めた。日本美術家連盟理事、国際美術連盟国内委員長等をもつとめ、美術家の国際交流にも尽力した。 二科展出品歴第23回(昭和11年)「アメリカ風景」、24回「時間と空間の制限」「レール」、25回「見世物」「建設(フレスコ)」「壁画試作(フレスコ)」、26回「フェリーボート」、27回「地下道」「買出し」、28回「田園風景」「子供と山羊」、29回「憩時間」、31回(同21年)「街の女」「車内」「子供」、32回「街の女」「都会」「少女」、34回「裸婦」、35回「街」、36回「子供」「街」、37回「ユネスコ村」「サーカスの女」、38回「よろこび(フレスコ試作)」「貝殻のある静物(フレスコ試作)」「裸婦(フレスコ試作)」「ショウインドウをのぞく子供(フレスコ試作)」、「煙突の見える風景(フレスコ試作)」「再会(フレスコ試作)」「機械化された鳥(フレスコ試作)」「母子(フレスコ試作)」「防波堤(フレスコ試作)」「丘の上(フレスコ試作)」「顔(フレスコ試作)」、39回「ピアノの前の女」「三人の女」、40回(同30年)「街に生きる人々」、41回不出品、42回不出品、43回「メキシコ」「インドの家」「大地」、44回「沙漠地帯F」「沙漠地帯G」、45回「壁」「空から見た風景」「風景」、46回「マヤ(メキシコ)」「ハロ(メキシコの家)」、47回、48回「月光」「南の国」、49回「エトランジェー」、50回(40年)「アトリエの裸婦」「古いポスターのある壁」、51回「或る異国の港町」、52回「メキシコの女」、53回「古壁と入口」「がらくた屋の店番」、54回「熱い国の女達」「果物ワゴン」、55回(同45年)「夏の電車B」「夏の電車A」、56回「ポスターののある壁」「三人の女」、57回「楽屋」、58回「古都への想」、59回「果物屋は朝早く出かける」「シルクロードを行く」、60回(同50年)「重い荷物」「破戒」、61回「アラビヤの女」、62回「私の鳥たち」「鳩笛」、63回「洗濯する女(インド)」、64回「アフガニスタンの古い街」、65回(同55年)「フルーツワゴン」、66回「洗濯する女達(メキシコ)」、67回「川辺の母達」、68回「朝の港」、69回「港に近い小公園」、70回(同60年)「メキシコの果物ワゴン」、71回「泉」、72回「或る異国の港町の夜」、73回「Odalisque」、74回「アンティークショップの留守番娘」、75回(平成2年)「サーカスの人達」、76回「曲馬団の女王」、77回「ローラースケート」、78回「サーカス一家(未完成)」

山本倉丘

没年月日:1993/09/05

日展参与の日本画家山本倉丘は、9月5日心不全のため京都市上京区の西陣病院で死去した。享年99。花鳥画で知られ京都画壇の重鎮でもあった山本は、明治26(1893)年10月12日高知県幡多郡に生まれた。本名傳三郎。大正7(1918)年早苗会に入り山本春挙に師事、昭和8(1933)年京都市立絵画専門学校選科を卒業した。この間、大正15年第7回帝展に「麗日」が初入選し、卒業の年の第14回帝展出品作「菜園の黎明」は特選となった。春挙没後、昭和14年東丘社に入り堂本印象に師事した。戦後は日展に依嘱出品を続け、同31年第13回展に審査員として「冠鶴」を出品、同33年社団法人日展発足時に日展評議員となり、第1回展に「★」を発表した。同40年の第8回日展出品作「たそがれ」で、翌41年日本芸術院賞を受賞する。その後、同54年には日展参与となった。同53年京都市文化功労賞を受け、同56年京都府文化者、同63年京都府文化特別功労者として顕賞された。『山本倉丘画集』(同57年)がある。

川口雄男

没年月日:1993/09/01

日展参与の洋画家川口雄男は、9月1日脳こうそくのため神奈川県鎌倉市の額田記念病院で死去した。享年85。明治41(1908)年3月21日兵庫県姫路市に生まれる。昭和9年東京美術学校図画師範科を卒業し、神奈川師範学校に奉職した。創元会に所属し、戦前は新文展にも出品した。戦後は創元会展、日展を中心に制作発表を行い、同26年第7回日展出品作「ペテロとパウロ」で特選、朝倉賞を受け、翌年の創元会展では「受難のキリスト」で会員努力賞を受賞するなど、はやくからキリスト教を題材にした作品で知られた。その後も日展に委嘱出品を続け、同38年社団法人日展第6回では「復活」を出品し菊華賞を受賞した。同41年日展審査員をつとめ、翌年日展会員となる。この間、同35年にはフランス、イタリアを巡遊し、また同42年にはアメリカを訪ねた。昭和59年日展参与となった。

藤原成憲

没年月日:1993/08/31

読み:ふじわらせいけん  大阪の風俗を描いて親しまれた画家藤原成憲は8月31日午後5時23分、老衰のため兵庫県姫路市の遠藤病院で死去した。享年91歳。明治35(1902)年2月28日、大阪に生まれる。本名国太郎。造幣局に勤務する父の転勤にともない、2歳のときにソウルへ移り、京城工芸学校陶画科存学中の大正6(1917)年に、同校を中退して上京、日本画、洋画を独学で学び、児童書等の挿絵で生計を立てるようになる。しかし、同13年の関東大震災で浅草から大阪に転居、その後風刺漫画雑誌「大阪パック」の編集長を4年間勤めるが、昭和4(1929)年に「大阪毎日新聞」に連載された「大阪夏の陣従軍記」の挿絵を担当する。これを機に、諸雑誌に漫画や風俗画を寄稿するようになり、また上方芸能人や文化人との交流が生まれ、その交流を通して人物画や文人画を描くようになる。同17年、北京翼賛会文化部長として北京に赴任し、同20年帰国。戦後は、雑誌『商店界』(誠文堂新光社)に「あきない史」を連載、また一般向けに絵画教室を設け俳画等を指導、この教室を後に「藤白会」(とうはくかい)と命名し、指導に専念した。同50年、大阪市民表彰を受ける。主著に『続浪花風俗図絵』(杉本書店、昭和47年)等があり、また『米朝落語全集』全6巻(創元社、昭和55-57年)の挿絵を担当した。

桑原巨守

没年月日:1993/08/26

読み:くわはらひろもり  女子美術大学名誉教授、二紀会委員の彫刻家桑原巨守は8月26日午後7時28分、呼吸不全のため東京都大田区の自宅で死去した。享年66。昭和2(1927)年7月15日、群馬県沼田市に生まれる。同24年東京美術学校彫刻科を卒業。関野聖雲に師事した。同38年第17回二紀展に「裸婦B」「裸婦A」で初入選し同年同人に推される。同41年第20回二紀展に「しゃがむ」を出品して同人賞受賞、同50年第29回展では「風と花(その2)」「砂山」で菊華賞を受賞した。同57年第2回高村光太郎大賞展に招待出品し、美ケ原高原美術館賞受賞。この間の同48年彫刻の森美術館に「Fur Coat」が設置され、その後も同館に「風と花」等が設置された。公共の場のための制作としては、広島市中央公園の「風と花」、北海道中標津町公民館の「讃太陽・中」、日比谷シティの「風と花」、「凱風新頌」、「風の戯れ」、神奈川県民共済ビルの「貝を聴く」、名古屋市名城公園内「水の広場」の「風」、三洋証券白金研修センターの「花のロンド」、静岡県清水市の「大空に」、群馬県渋川市の「讃太陽」、名古屋市通町公園の「讃太陽」、群馬県沼田市の「新頌麗陽」などがある。裸婦像を得意とし、そのポーズによって抽象的概念を暗示しようとした。著書に『彫刻の四季』(絵本)、『彫刻の出来上るまで』(ポプラ社)などがある。

橋本興家

没年月日:1993/08/18

木版画家で日本版画協会理事長をつとめた橋本興家は8月18日午前10時14分、脳こうそくのため埼玉県所沢市の病院で死去した。享年93。明治32(1899)年10月4日、鳥取県八頭に生まれる。大正9(1920)年鳥取県師範学校を卒業し、小学校訓導となる。同10年東京美術学校師範科に入学。同13年同校を卒業して富山県立女子師範学校及び併設されていた同県立高女の教論となる。同14年11月、東京府立第一高女(現 都立白鴎高校)教諭となって上京し、昭和31年に退職するまで同校で教鞭をとった。一方で、版画制作を続け、昭和12年第12回国画会展に「名古屋城」「大坂城」で初入選。また、同年第6回日本版画協会展にも出品し、以後両展に出品を続ける。同13年第2回新文展に「古城ろの門」で初入選。同14年第3回新文展に「古城早春」を、同15年紀元2600年奉祝展に「古城清秋」、第15回国画会展に「二の丸附近」を、同16年第4回新文展に「夏景名城」、第16回国画会展に「春の城」、同18年第6回新文展に「古城松山」を出品。同19年画文集『日本の城』(文・岸田日出刀、加藤版画研究所刊)を刊行する。戦後は同21年春の第1回日展に「牡丹」、同年秋の第2回日展に「アルプスと城」を出品するが、以後官展への出品はない。国画会展へは同21年同会が戦後に再開した当初から再び出品を始める。こ間の同21年版画集『古城十景』(加藤版画研究所刊)を刊行。同20年代後半は、東京都教育委員会の公立学校使用教科書採択に関する専門委員、文部省の教材等調査研究委員などで教育関係の委員、調査員を数多くつとめる。同31、33、35、38年に東京・日本橋三越で個展を開いたほか、同32年の第1回東京国際版画ビエンナーレ展に姫路城をモティーフとした「菱の門」を出品し、以後35、37年の同展にも出品。同36年ローマ・日本現代版画展、同37年ルガノ国際版画ビエンナーレ展、同39年ストックホルム日本現代版画展にも出品し、国際的にも知られるところとなった。同49年より54年まで日本版画協会理事長をつとめる。同62年愛媛県立美術館に代表作75点を寄贈し、これを記念して展覧会を開催、同年鳥取県立博物館にも代表作88点を寄贈して記念展を開いた。翌63年には鳥取県堺港市に代表作199点を寄贈している。画業のはじめから日本の古城を好んでモティーフとし、伝統的な木版画の流れに新風を吹き込んだとして注目された。上記以外の画集に『日本の名城版画集』(昭和37年 日本城郭協会刊)、『日本の城』(同53年 講談社)などがある。

嶋谷自然

没年月日:1993/08/13

読み:しまやしぜん  日展参与、名古屋芸術大学名誉教授の日本画家嶋谷自然は、8月13日呼吸不全のため名古屋市昭和区の聖霊病院で死去した。享年89。嶋谷は明治37(1904)年3月19日三重県志摩郡に生まれた。本名藤四郎。大正11年東京で矢沢弦月の門に入り、昭和5年第9回帝展に「網屋」で初入選した。同16年、京都の西山翠嶂に師事、翠嶂が主宰する画塾青甲社同人となる。戦後は同21年の第1回日展に「冬日」を出品、以後日展を中心に制作発表を行った。同25年第6回日展に「緑影」で特選、白寿賞を受け、翌年第7回日展に無監査出品した「丘」で連続当選、朝倉賞を受賞した。同30年の第11回日展で最初の審査員をつとめ、同33年日展会員に挙げられた。同54年改組第1回日展に「湖心」を発表、文部大臣賞を受賞した。また、同45年名古屋芸術大学教授に就任、退職後同校名誉教授となった。同48年中日文化賞を受賞する。

中村輝

没年月日:1993/08/07

一陽会常任委員の彫刻家中村輝は8月7日午後8時30分、脳出血のため横浜市中区の警友総合病院で死去した。享年80。大正2(1913)年1月26日、岐阜県大垣市に生まれる。本名二郎。昭和6(1931)年、東京美術学校図案科を中退。同10年帝国美術学校彫刻科を卒業する。在学中の同8年第20回二科展に「習作」で初入選。この頃は「暉」と号した。以後同展に出品を続け、戦後も同21年第31回二科展に「牛」を出品するが、同29年に同展への出品を停止し、同30年、一陽会の結成に参加して、同会会友となった。同31年第2回一陽展に「人馬」を出品して同会会員となる。同49年同会が委員制を採択するに際し、同会委員となった。同39年日本橋高島屋、同42年新宿ステーションビル、同48年西武百貨店渋谷店、同52年日動画廊で個展を開催。同63年大垣市制70周年記念として「中村輝彫刻展」を開催している。野外彫刻も多く、「金森吉次郎翁」(大垣公園、昭和25年)、「ダイアナ女神像」(京成電鉄谷津公園、同33年)、「鶏」(岐阜駅前、同34年)、「一粒の種(女神像)」(大垣市水上公園、同58年)等がある。初期には人体像を多く制作したが、のち馬を好んでモティーフとするようになり、人物と馬を組みあわせた像を得意とするようになった。一陽展出品歴1回(昭和30年)不詳、2回「人馬」、3回「A女」「ポーズ」「マダム」「裸」「少女」、4回「男神」、5回「火の記録」、6回「女体」、「女体エスキス」「馬」「青銅の鳩」、7回「女体」「騎乗」「深尾氏の首」、8回「歓喜」「風雪」「鳥郡」「鵜」、9回「方舟」、10回(同39年)「馬」「少女」、11回「馬」、12回「馬」「裸」「手」、13回「モンゴル人馬」、14回「群鳥」「鳥」、15回「馬」、16回「オロチヨンの火の鳥」、17回「馬」「馬」、18回「無題」「馬」、19回「古代の昼と夜の記憶」「馬」、20回(同49年)「女体」「駿馬」「一孤庵哄笑」、21回「原始(浮彫)」「武帝の汗血馬」、22回「女賊アマゾンの休日1」「女賊アマゾンの休日2」、「笛」、23回「躍上する馬」「駿馬」、24回「嘶く駿馬」、25回「酒神バッカス」、26回「舞上る(広場の為の試作)」、27回不出品、28回「酒杯を掲ぐ」、29回「女賊アマゾニ」、「一粒のたね」、30回(同59年)「青銅小品」「記念碑の為の未完原型」、31回「一粒の種」、32回「象徴の馬」、33回「浮彫無題」、34回「浜辺の女」、35回(平成元年)「駿馬」「馬」、36回「少年と馬」、37回「婦人と馬」、38回「由美坐像」、39回「駿馬」「鵜」

米澤嘉圃

没年月日:1993/07/29

読み:よねざわよしほ  東洋美術史家で、東京大学名誉教授、武蔵野美術大学名誉教授、元武蔵野美術大学長、国華社主幹の米澤嘉圃は、7月29日午前8時15分、肝機能障害による呼吸不全のため、東京都新宿区の慶応大学病院で死去した。享年87。明治39年6月2日、父万陸、母貴勢子の長男として、秋田県鹿角郡にて出生、芳男と命名された。4人の姉がある。幼年は、鉱山技師であった父の転勤にともない、秋田・東京・茨城・大分・東京と居を移し、大正13年3月、曉星中学校を卒業。つづいて昭和2年3月、福岡高等学校を卒業後、病弱のため一年浪人し、3年4月、東京帝国大学文学部美学美術史学科へ入学した。かつて内藤湖南の父十湾の弟子であった板橋忠八に漢詩を学び、書画を愛蔵していた父万陸の文人趣味が、美術史学を専攻する機縁となった。6年3月、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業後、同年4月より、東京帝国大学文学部副手となり、同時に同文学部大学院へ進んだ。同年6月、父万陸の死去にあたり芳男を嘉圃と改名している。この間、大学において教授瀧精一の指導をうけ、7年、処女論文「狩野正信の研究」を『国華』に発表した。8年5月、文部省重要美術品等鑑査事務嘱託となり、著名な収集家の所蔵品を調査して鑑識眼を養い、10年6月、東方文化学院助手に迎えられる。この頃「田能村竹田と蘐園学派」を『国華』に発表したが、直載な鑑識と画家の精神の洞察とが遊離しない米澤の美術史学の形成を知る。この間、8年3月に、父に続いて母を失う。9年2月、加藤信子と結婚。以後、二男一女をもうけるが長男長女を幼少で失った。東方文化学院助手となって以降、中国絵画研究に本格的に没入し、13年3月、東方文化学院研究員となり、この間、中国上代の作画機構や絵画思想に関する多くの論文を『東方学報(東京)』・『国華』等に発表。15年9月から11月には、初めて中国各地(大連・奉天・北京・大同)と朝鮮を視察し、山西の高地で眼にした黄土景観に感慨をうけ、風土と美術との関係に思索を深める端緒となった。17年10月、『国華』の編集員となり、戦後、東方文化学院が経済的基盤を失うと、23年4月、結城令聞・窪徳忠とともに、東京大学東洋文化研究所研究員へ転じ、27年10月、文部技官を併任し、40年5月まで東京国立文化財研究所美術部に研究員として所属した。24年5月以降、東京大学教授を併任し、さらに美術史学会設立に関わり常任委員となった。東大教授、『国華』編集委員、美術史学会常任委員として、以後、長きにわたって、東アジア全般の美術の動向を視野におさめた数々の論文と作品紹介を『国華』を中心に発表し、戦後における東洋・日本の美術史研究を領導した。42年3月、東大を定年退官するまで、国内はもとより海外における中国絵画の調査も精力的に実施し、35年5月から6月にかけて東洋文化研究所研究員の鈴木敬・川上涇とともに台湾を訪問、当時、台中にあった故宮博物院の所蔵絵画約1500件(約5000点)を調査し、37年には、戦後はじめて、中華人民共和国の招待をうけ、美術史研究者団(長広敏雄・藤田経世・宮川寅雄・吉沢忠・米澤嘉圃)を組織し団長として訪中、12月から翌1月まで、北京故宮博物院をはじめ、上海・南京・西安・広州の各博物館で、中国絵画を調査し、各地の国立美術学院を視察した。41年5月から6月、再度、中華人民共和国を訪問し、南京・蘇州・上海・杭州を巡礼し調査し、同年9月から10月、日本経済新聞社の企画する北斎展に随行し、モスクワ・レニングラードに滞在、モスクワでは雪舟と文人画について二度にわたり講演した。この間、東京大学文学部、東京大学教養部、金沢大学文学部、名古屋大学文学部で教鞭をとって後進の指導にあたり、講談社『世界美術体系』の中国美術編を編集して中国美術の啓蒙につとめている。学会関係としては、美術史学会常任委員のほか、27年4月から44年10月まで、日本学術会議東洋学研究連絡委員会委員、36年から晩年まで東方学会評議員をつとめ、とくに37年から41年まで、美術史学会代表として指導力を発揮した。42年3月、東京大学を定年退官し、同4月から武蔵野美術大学教授をつとめた東京芸術大学でも教鞭をとった。同5月に東京大学名誉教授となる。44年7月には武蔵野美術大学学長代行、49年4月より同大学評議員となり、53年3月、同大学を定年退職した。同6月、武蔵野美術大学名誉教授となる。退職後も人望あつく、同12月、武蔵野美術大学ならびに武蔵野美術短期大学の学長に迎えられ、学校法人武蔵野美術大学理事となって学校の運営に携わっている。この間、42年8月から9月、アメリカ、ミシガン大学で開催された第27回東洋学者会議へ出席し、石濤について発表、鈴木敬とともにアメリカ各地の美術館・個人コレクションを調査したほか、48年8月~9月、欧州を旅行し、パリのチェルヌスキー美術館、ストックホルム極東美術館等、各地の美術館を訪れた。執筆活動も盛んで『国華』を中心に数々の論文と作品紹介を発表するとともに、朝日新聞社刊行の『東洋美術』、小学館刊行の『原色日本の美術』、講談社刊行の『水墨美術体系』、小学館刊行の『名宝日本の美術』等、主な美術全集の編集委員・監修者として尽力し、学問の啓蒙につとめている。文化財行政にも大きく寄与し、25年12月、文化財専門審議会、文化財保護審議会(改正後)の専門委員(絵画彫刻部長)、47年7月、高松塚総合学術調査会委員、同11月、東京国立博物館評議会評議員、55年11月、文化財保護審議会委員などの要職を歴任し、長らく国宝・重要文化財の指定に深く関与している。52年4月、勲二等旭日中綬章をうけた。52年8月、国華主幹となって以降、平成元年の『国華』創刊百年記念事業の実現に老齢を省みず尽力し、『国華論攷精選』上・下巻の出版、「室町時代の屏風絵展」(於東京国立博物館)の開催、「特輯東洋美術選」上・下(『国華』1127~28号)、「国華賞」の創設を果たし、新たに明治美術を『国華』掲載の対象とする指針を定めた。米澤の研究対象は、中国古代より現代までの絵画全般から朝鮮・日本の絵画におよび、文献を駆使した基礎研究を徹底して行う一方で、それまでの作品から遊離した高踏的な美学や画家の系統論に終始していた中国絵画史を、作品の実査と鋭い鑑識にもとづいて再検証し、実証的な近代学としての水準に高めた功績はきわめて大きい。具体的な形の変化に中国美学の最高理念をなす気韻論の変遷をあとづけながらも、作品分析の隘路に陥ることのない米澤の統一的視点に立った実証的研究は、近代における西洋美術の方法論を直接的に応用する試みと一線を画している。共感をもって語られる画家の精神の洞察と中国の自然や風土への深い見識こそが、『国華』誌上における膨大な数の優れた作品紹介とともに、その研究を支える母胎であった。唐代の画家呉道玄や明清の文人画家、南宋の繊細な絵画への愛着は、豪放磊落かつ繊細な審美眼をあわせもつ米澤の人柄を偲ばせる。日本美術についても東アジアを視野におさめた広い観点から検証する必要性を唱え、今日における研究動向の指針となっている。以下、主要著作と主要論文を年代順に掲載する。主要論文はすべて『米澤嘉圃美術史論集』に収録されている。米澤の執筆全般については『米澤嘉圃美術史論集(下巻)』に附す戸田禎佑編「著作目録」がある。尚、武蔵野美術大学美学美術史研究室米澤先生の喜寿を祝う会編「米澤嘉圃先生年譜・業績目録」も参照されたい。 主要著作『中国絵画史研究(山水画論)』(東洋文化研究所、昭和36年3月)(平凡社、昭和37年)『世界美術体系 8 中国美術』編集(講談社、昭和38年12月)『世界美術体系 10 中国美術』編集(講談社、昭和40年5月)『東洋美術 1 絵画 1』共編(朝日新聞社、昭和42年4月)『東洋美術 2 絵画 2・書』共編(朝日新聞社、昭和43年8月)『水墨画』(原色日本の美術11)共著(小学館、昭和45年4月)『請来美術(絵画・書)』(原色日本の美術29)共著(小学館、昭和46年9月)『八大山人・揚州八怪』(水墨美術体系11)共著(講談社、昭和50年5月)『白描画から水墨画への展開』(水墨美術体系1)共著(講談社、昭和50年12月)『米澤嘉圃美術史論集(上)巻』(国華社、平成6年6月10日)『米澤嘉圃美術史論集(下)巻』(国華社、平成6年6月10日)主要論文狩野正信の研究『国華』494・495・496号(昭和7年1・2・3月)田能村武田と蘐園学派『国華』540・541・542号(昭和10年11・12月、11年1月)東洋画の画布(Bildtafel)の形成に就いて『国華』654・655号(昭和21年9・10月)中国近世絵画と西洋画法『国華』685・687・688号(昭和24年4・6・7月)費丹旭筆美人図について『国華』701号(昭和25年8月)李蝉の花卉画冊に就て-揚州八怪論-『国華』722号(昭和27年5月)張風とその芸術 『大和文華』18号(昭和31年1月)中国古代における顔料の産地東京大学『東洋文化研究紀要11冊』(昭和31年11月)中国の美人画平凡社『中国の名画-中国の美人画』(昭和33年5月)李迪の生存年代についての疑問『国華』804号(昭和34年3月)長谷川等伯筆松林図の画風について『国華』814号(昭和35年1月)中国絵画史における持続と変化-序にかえて-講談社『世界美術体系(8)中国美術1』(昭和38年12月)禹之鼎筆楽春園図巻 『国華』870号(昭和39年9月)中国絵画の歩み講談社『世界美術体系(10)中国美術3』(昭和40年5月)書法上からみた石濤画の基準作『国華』913号(昭和43年4月)李森筆鬼子母劫鉢図巻について『国華』921号(昭和43年12月)東アジアにおける群像表現『国華』963・968号(昭和48年11月、49年5月)中国古代説話画の表現方法岩波書店『文学』42~48号(昭和49年)徐渭と八大山人講談社『水墨美術体系11』(昭和50年5月)漢代彫刻の動態表現 『国華』1000号(昭和52年8月)中国の金銀泥画朝日新聞社『光悦書宗達画金銀泥絵』(昭和53年3月)寒林山水図屏風覚書 『国華』1042号(昭和56年5月)現代中国美術の群像表現-莊兆和作難民図の場合-『国華』1051号(昭和57年5月)能阿弥画をめぐって 『国華』1060号(昭和58年2月)黄土の思出-その色と形-『国華』1076号(昭和59年9月)雲中麒麟図(絵紙)-呉道子の画風を偲んで-『国華』1078号(昭和59年12月)気韻生動考 『国華』1110号(昭和63年1月)中国古代の画魚 『国華』1127号(平成元年10月)正倉院の山水画をめぐる諸問題『国華』1137号(平成2年8月)気韻生動の源流を探る-「古代」分期への試み-『国華』1142号(平成3年1月)唐代における「山水の変」 『国華』1160号(平成4年7月)中国絵画における詩的表現『国華』1168号(平成5年3月)中国古代における器物の図形-「空間構成」『国華』1171号(平成5年6月)上林苑闘獣図の画風-書と画の筆法-『国華』1178号(平成5年11月)

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