本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





鶴巻鶴一

没年月日:1942/12/28

前京都高等工芸学校長正4位勲3等工学博士鶴巻鶴一は12月28日自宅で脳溢血のため急逝した。享年70。明治六年新潟県に生れ、同37年東京帝大応用化学科を卒業、京都市染織学校、京都高等工芸学校長などを歴任、独逸に留学、大正4年工学博士となつた。又京都商工会議所特別議員に推され、斯界に貢献するところがあつた。

安田禄造

没年月日:1942/12/16

東京高等工芸学校名誉教授前校長従3位勲2等安田禄造は胃腸障害のため藤沢市の自宅で静養中のところ12月16日逝去した。享年69。明治7年東京に生れ、明治35年東京高等工芸学校教員養成所を卒業、大正3年から5年へかけて墺国に留学、同10年東京高等工芸学校創立と同時にその教授となり、昭和3年校長に進み、同16年まで在職13年の長きに及んだ。この間帝国工芸会の理事として、又工芸展の審査委員長として、我国工芸界に残した功績は洵に大きいものがあつた。

永地秀太

没年月日:1942/12/14

旧帝展審査員元東京高等工芸学校教授洋画家永地秀太は、淀橋区の自宅で糖尿病療養中のところ脳溢血を併発12月14日逝去した。享年70。明治6年7月15日山口県に生れ、同23年9月松岡寿に師事、25年明治美術会附属教場絵画科に入り、27年4月卒業した。35年中村不折石川寅治等と大平洋画会創立に参加、又31年から陸軍中央幼年学校に勤務して大正8年教授となり、同9年退官、同年より文部省在外研究員として外遊、11年7月帰朝して8月東京高等工芸学校教授に任ぜられた。この間諸展に作品を発表、第3回文展出品「静物」は褒状となり、第7回文展出品「しぼり」は3等賞に推された。大正11年仏国官設美術展へ本邦美術品を出陳するに際してその事務を囑託され、翌年同展の準備委員、同年仏国政府よりレジヨンドノール勲章を贈られた。第4回展より審査員たること数回、昨年まで東京高等工芸学校にあつて後進の教育にあたつてゐた。

渡辺幽香

没年月日:1942/12/05

女流洋風画家渡辺幽香は12月5日逝去した。享年88歳。安政2年初代五姓田芳柳の子として生れ、洋風画を学び、後洋風画家渡辺文三郎に嫁して、渡辺姓を名乗つた。華族女学校に教鞭をとつたこともあり、明治19年には「寸陰蔓稿」なる日本風俗画集を石版画によつて玄々堂より発行し、翌年にはA Pictorial Museum of Japanese Manners and Customsなる同様な風俗画集を出版した。晩年は東京市外吉祥寺に在つて老齢を養ひつつあつた。

竹田敬方

没年月日:1942/12/04

日本美術協会々員、川端画学校評議員竹田敬方は12月4日逝去した。享年70。明治6年2月7日東京銀座に生る。同20年12月より水野年方について人物画を学び、24年6月川端玉章に師事して山水画を修め、早くから日本青年絵画協会、日本美術協会等に活躍した。34年には文墨協会評議員、42年川端画学校教諭となり、その他明治絵画界にも幹事或は審査員として重きをなしてゐた。主なる作品には次の如きものがある。 明治24年「源義家過勿来関図」(日本青年絵画協会臨時展)同28年「祭礼図」(第4回内国勧業博覧会)同29年「少女遊劇図」(第1回日本絵画共進会)同44年「田子富士図」及「夕月」(東京勧業博覧会)大正3年「塩原龍化瀑図」(明治絵画会)同6年「雪渓図」(明治絵画会)昭和2年「秋景」墨絵屏風(日本美術協会展)同3年「日光華巌瀑図」「塩原秋景」他3点(独逸に開催せる日本画組合協会絵画展)同11年「海辺富岳」「日光神橋」他5点(翌12年仏印河内に開催せる日本画組合協会展)

木村武山

没年月日:1942/11/29

日本美術院の経営者同人木村武山は7年前脳溢血に倒れ、昭和12年以来郷里茨木県西茨城郡に隠退静養してゐたが、近年小康を得て?素に臨み、本年初頭より世田谷区別邸に仮寓中のところ、宿痾の喘息のため11月29日逝去した。享年67。12月2日谷中功徳林寺を式場に日本美術院葬取行はれ、畏くも東伏見宮家、久迩宮家より供御を賜り、島田海相はじめ多数名士の会葬あり、遺骨は茨城の月桂寺に埋葬された。武山本名は信太郎、明治9年7月3日茨木県西茨城郡に生れた。父は信義、代々笠間藩牧野家の家臣であつたが、廃藩後同地に帰農したものである。少年にして上京、私立開成中学校に入り、又川端玉章について学び明治24年開成中学校第3学年より東京美術学校に入学した。29年7月同校本科を卒業、創立当時の日本絵画協会に参加し、天心の率ゐる新興画壇の第一線に立つた。31年前期日本美術院創立されるや直ちに補員となり、同年秋の第5回日本絵画協会共進会には「野辺」を出して銅牌8席に推された。同第8回には「林和清」第10回には「桜狩」第11回「蒙古義経」第12回「熊野」第13回「以仁王」と何れも銅賞を得て次第に世に著はれるに至つた。この間1年志願兵として入営し、日露戦役には応召、陸軍歩兵中尉に進んだ。明治39年日本美術院改組と共に第一部教育主任となり、その五浦移転に際しては家族を伴うて同地に移住、大観観山春草と共にあくまで岡倉天心に随行した。明治40年文展開くや「阿房劫火」を出して3等賞を受け、41年の国画玉成会には「祗王祗女」を出品、43年文展第3回には「孔雀王」によつて再び3等賞を受けた。大正3年日本美術院再興については発起人として尽すところあり、爾後経営者同人として後年に及んだ。再興第1回展に「秋趣」を出品以来、昭和10年発病に至るまで連年出品を怠らず、前半には主として花鳥画を尋ね、後半は専ら仏画の構成に努力した。技巧が確かで壮麗な彩色にすぐれ、代表的な大作としては東伏見宮御殿御襖絵「群鶴之図」久迩宮御殿御襖絵「菊花之図」聖徳記念絵画館「明治天皇徳川家行幸図」官弊大社長田神社格天井「百花百草」高野山金剛峯寺金堂内面壁画等がある。その日本美術院の功労者としての業績は特記さるべきであつた。

加藤静児

没年月日:1942/11/27

文展無鑑査、光風会々員加藤静児は、胃癌のため11月27日渋谷区の自宅で逝去した。享年56。明治20年6月1日愛知県海部郡に生れ、明治43年東京美術学校洋画科卒業、在学中第3回文展に「山かげ」「元学習院」「早春」を出してより連年作品を発表、その間大正9年4月より11年7月にかけて外遊した。大正12年光風会々員となり、昭和5年には帝展無鑑査に推された。昭和11年招待展出品の「奥日光の秋」は文部省買上となり、本年度文展に出品した「秋晴」も宮内省買上となつたところであつた。文展以外に光風会に作品を陳べ、そのほか屡々個展を開いてゐた。又愛知社同人として郷土芸術振興に尽力するところがあつた。

能勢亀太郎

没年月日:1942/11/23

従軍画家として南支にあり、大東亜戦争後昭南に向つた能勢亀太郎は、現地で発病還送されたが、その後自宅にて療養中11月23日死去した。享年50。明治26年12月17日鳥取県東伯郡清水範忍二男に生れ、後改姓、大正8年東京美術学校西洋画科卒業、研究科を経て同14年には欧州へ遊学し、昭和2年帰国、同4年から6年へかけて再度渡仏した。帰国後は帝展文展に出品、白日会々員となり、能勢洋画塾を開いてゐた。昭和13年から北京に遊び、同15年には陸軍航空本部嘱託として支那を巡歴、重慶爆撃行にも参加、翌年「重慶三部作」のうち二部を完成して第1回航空美術展に出品したが、同年末より再び南支従軍となつたものである。

岡田七蔵

没年月日:1942/11/11

元春陽会々友岡田七蔵は6月頃より健康を害してゐたが11月11日逝去した。享年47。明治29年北海道札幌に生れ、日本水彩画会研究所並に本郷絵画研究所に学び、大正5年より二科会に出品、同13年より春陽会に出品した。昭和3年「鉄橋」を発表して春陽会賞に推され、同5年会友となつた。9年春陽会を脱退、15年には国展に「尾の道風景」を発表して精進を重ねてゐた。

川村曼舟

没年月日:1942/11/07

帝国芸術院会員、京都市立絵画専門学校長兼京都美術工芸学校長川村曼舟は腎臓炎のため11月7日洛西嵐山の自宅で逝去した。享年63。本名万蔵、明治13年7月9日京都に生れ、山元春挙に師事、文展第2回に「黄昏」を出品して3等に推されて以来連年秀作を発表、殊に温雅な風景画を得意とした。大正8年以降毎年帝展審査員、昭和6年帝国美術院会員となり、春挙没後の早苗会の指導者として、又京都市立絵画専門学校長として美術界の教育指導に尽瘁してゐた。代表作に「比叡三題」「連峯映雪」「竹生島」「古都の春」「晃雲暁靄」「驟雨過」「伊都岐島」等がある。略年譜明治13年 7月9日京都市に生る、名は万蔵明治31年 8月山元春挙に入門明治33年 新古美術品展覧会「春風」2等褒状明治35年 新古美術品展「薩摩潟」3等賞、10月京都市立美術工芸学校助手拝命明治38年 新古美術品展「春雨」4等賞明治39年 1月京都市立美術工芸学校助教諭拝命、新古美術品展「烈婦孟姜」明治40年 新古美術品展「寒天炎天」3等賞明治41年 新古美術品展「渓間の春」4等賞、文展「黄昏」3等賞明治42年 文展「山村暮靄」3等明治43年 文展「夕月」3等、4月京都市立美術工芸学校教諭任命明治44年 文展「高野山の秋」褒状大正2年 文展「鶺鴒」大正3年 文展「比叡三題」2等(震災焼失)大正4年 文展「連峰映雪」2等大正5年 文展「竹生島」特選大正6年 文展「日本三景」大正7年 文展「古都の春」無鑑査大正8年 帝展審査員「海二題」大正9年 帝展審査員「三十三間堂」大正10年 帝展審査員「悶え」大正11年 帝展審査員「雨二題」、6月叙従7位、7月絵画専門学校教授大正12年 日本美術展「寝覚の床」大正13年 帝展「薄れ日」、8月叙正7位大正14年 帝展「斜陽」大正15年 聖徳太子奉賛展「神苑」10月叙従6位、帝展「移る潮」昭和2年 帝展「嶺雲揺曳」昭和4年 帝展「塩田夏晨」昭和5年 伊太利展「晃雲暁靄」、帝展「驟雨一過」昭和6年 米国トレド展「荒磯」、10月帝国美術院会員被仰付昭和7年 10月叙勲6等授瑞宝章昭和8年 帝展「阿里山の五月」昭和9年 京都市展「細雨空濠」昭和10年 6月帝国美術院会員被仰付、12月叙正6位昭和11年 6月20日任京都市立絵画専門学校長兼美術工芸学校長、文展「霧氷」、大礼記念京都美術館評議員、京都市美術教育顧問昭和12年 文展「秋空」昭和13年 京都市展「白雲無尽」文展「時雨るゝ山湖」、11月叙従5位昭和14年 京都市展「朝」、文展「信濃の秋」3月叙勲5等授瑞宝章昭和15年 皇紀二千六百年奉祝展「微雨」、紐育万国博「伊都岐島」、恩賜元離宮二条城評議員昭和16年 京都市展「暮雲」、「白馬嶽」京都護国神社奉納額昭和17年 日本画家報国会献納画展「暁靄」、5月1日勅任官を以て待遇せらる、同15日叙正5位、6月3日叙勲4等授瑞宝章、11月7日逝去、同16日京都市立絵画専門学校にて校葬執行

高橋英吉

没年月日:1942/11/02

応召中の文展無鑑査高橋英吉は11月2日南方戦線で戦死した。年32。明治44年石巻市に生れ、昭和11年東京美術学校卒業、同年文展に「少女像」を発表、14年には「潮音」を出して特選となつた。16年東邦彫塑院会員となり、同年秋には文展無鑑査に推され「漁夫の像」を出品した。遺作にガダルカナル島に於て制作したる「不動明王」及び「聖観音」等がある。

杉本三郎

没年月日:1942/10/22

文展無鑑査、直土会々員杉本三郎は神経衰弱を患つてゐたが10月22日逝去した。明治31年東京に生れ、初め木彫を森鳳声に学び、のち東京美術学校に入学、大正10年卒業後帝展文展に入選すること9回、昭和16年文展無鑑査となつたものである。

山本広洋

没年月日:1942/10/20

「新美」編輯者山本広洋は腸狭窄症のため10月20日死去した。享年56。本名信太郎、明治21年3月15日姫路に生れ、同45年東京美術学校日本画科卒業、大正元年より神戸一中の図画教師を勤めたが、後新聞界に入り、神戸新聞、大阪時事新報等に関係した。久しく兵庫県美術協回を主宰し、本年1月兵庫県新美術聯盟結成されるやその幹事となつてゐたものである。

内田青薫

没年月日:1942/10/04

日本美術院々友内田青薫は10月4日死去した。享年41。明治35年東京板橋に生れ、大正6年川端画学校入学その後大正10年より荒井寛方に師事してゐた。大正15年第1回聖徳太子展に出品、翌昭和2年からは連年院展に発表して院友から推されたが、12年脱退して新興美術院同人となり、昨16年再び院展に復帰した。復帰後の作は「城」「春昏る」であつた。

岡田蘇水

没年月日:1942/10/03

日本美術協会委員であつた南画家岡田蘇水はかねて胃腸病を患ひ療養中のところ10月3日上野の自宅で逝去した。享年63。本名喜市郎、明治13年6月2日栃木県安蘇郡に生れ、明治33年上京して佐竹永湖に師事した。35年より日本美術協会展、日本画会展、日本南宗画会展等に出品、屡々賞牌をうけ、御前揮毫、宮内省買上等のことも幾度かあつた。文展にも大正元年より6回にわたつて「梅花書屋」「松林仙館」「夏山避暑」「秋山閑居」「秋巒横靄」等の山水画を出品してゐる。

柴田正重

没年月日:1942/09/04

文展無鑑査柴田正重は脳溢血のため9月4日急逝した。享年56。明治20年5月29日愛媛県に生れ、早くより京阪地方にて工芸を修業したが、大正3年上京、白井両山の門に入り、その没後は建畠大夢に師事した。一時桂華と号したが、又本名に帰つた。帝展第2回に「気の進まぬ日」、3回に「後悔」を発表していづれも特選となり、以後無鑑査として連年出品、大正14年12月帝展委員となつた。その後「パツシヨン」「建設」「輝く日」「赤陽のもとに」「業」「希望」「黙せる瞳」「無題」「若さ」「小春日」「双葉」「北満の義人」「放心」「協力」「試曲」等の発表作がある。

竹内栖鳳

没年月日:1942/08/23

明治大正昭和三代の画界に独歩の境地を礎き、大なる足跡を残した帝室技芸員帝国芸術院会員竹内栖鳳は、神奈川県湯河原天野屋旅館別荘で病気療養中のところ肺炎のため8月23日午前6時40分死去した。享年79。同月27日洛東黒谷本房に於て葬儀執行され、畏き辺りでは幣帛並に祭粢料を御下賜、また久迩宮家より御菓子を賜り、葬儀委員長西山翠嶂をはじめ全画壇をあげての会葬があつた。同日特旨を以て位1級を進められ正4位に叙せられた。栖鳳本名は恒吉、元治元年11月22日京都の料理屋「亀政」こと竹内政七の長男として生れ、14歳のとき土田英林の門に入り、18歳に至つて幸野楳嶺に師事した。明治16年より京都府画学校に出仕、爾来京都新興画壇の先頭に立つて活躍、明治33、4年外遊後、棲鳳を栖鳳と改めた。この頃より次第に軽妙斬新な独自の写生画風をなし「獅子」「和蘭の春・伊太利の秋」「古都の秋」「羅馬古城跡真景」「蕭条」等の習作を相次いで発表、明治40年文展開設と同時にその審査員に選ばれ、42年には京都絵専教授、大正2年早くも帝室技芸員を仰付けられた。文展開始以来次々と問題作を出陳、大正9、10年には渡支して画嚢を肥し、大正11年日仏交換展には「蘇州の雨」を出品して、12年仏国サロン会員に推薦された。昭和6年病んで後は湯河原に定住、悠々自適しつつ、一層画道に精進し愈々画境を洗煉した。この間帝国美術院、帝国芸術院の創立と共にその会員となり、昭和12年4月には初の文化勲章を拝受した。記憶される作は数多いが、初期文展時代には「雨霽」「飼われたる猿と兎」「絵になる最初」「日稼」「河口」帝展時代に入つて「蘇州の雨」「鯖」「蹴合」昭和期には「潮来出島」「蛙と蜻蛉」「夏鹿」「若き家鴨」等々がある。本年に入つて「海幸」の如き優作あり、7月完成の陸軍省依囑による「宮城を拝して」が絶作となつた。略年譜元治元年 11月22日京都市にて出生、父竹内政七明治9年(13歳) 11月より同12年(16歳)12月迄吉田勘介に就て漢籍を学ぶ明治10年(14歳) 土田英林に師事し画学修行を初む、5月17日母きぬ死去(49歳)明治14年(18歳) 秋、幸野楳嶺の門に入る明治15年(19歳) 私塾工芸長に任ぜらる、10月第1回内国絵画共進会「雁に双鶴」「瀑布」明治16年(20歳) 3月京都府画学校に出仕を命ぜらる明治17年(21歳) 第2回絵画共進会「山水」「花鳥」褒状、巴里日本美術縦覧会「月下桜樹図」明治18年(22歳) 3月乃至5月東本願寺光勝法主巡錫随行の楳嶺に随ひ東京経由北越地方旅行明治19年(23歳) 6月フエノロサの美術講演を聴く、9月京都青年絵画研究会「藤房遁世」2等石印明治20年(24歳) 4月新古美術会「池塘浪静図」、8月開業、高山奈美と結婚明治21年(25歳) 新古美術品蒐集会「看花美人図」明治22年(26歳) 2月より高島屋に勤務明治23年(27歳) 1月逸三出生、4月京都美術博覧会「寒林鳴鹿」3等、5月第3回内国勧業博覧会「枯木寒鴉図」褒状、10月日本美術協会第3回展「保津川秋靄」銅牌明治24年(28歳) 1月京都青年画家懇親会に議長となり共進会開催の件を決議、4月京都市工業物産会「田家急雨」3等8席、5月日本青年絵画共進会審査員「秋渓遊鹿」出品1等1席、同高島屋帛紗図案「古代文具図」3等入賞明治25年(29歳) 2月9日父政七死去(65歳)、4月京都博覧会「猫児負喧」3等明治26年(30.歳) 米国市俄古閣龍博覧会「秋渓遊猿」受賞、6月園出生、9月楳嶺帝室技芸員被仰付、10月2日門生発企にて祝宴、10月日本美術協会第5回展「秋景暮雨」明治27年(31歳) 4月京都美術工芸品展「平軍驚禽声逃亡図」2等2席、7月10日如雲社革新小数幹部制を多数委員制に改め委員に挙げられる、9月-12月東本願寺須弥壇揮毫の楳嶺の助手となる、10月日本美術協会第7回展「漁村夕照」3等明治28年(32歳) 2月2日幸野楳嶺逝去、2月広島大本営御慰献画帳「一路功名」、4月京都美術協会春季陳列会「南泉斬猫」、同京都青年絵画共進会審査員「山村晩帰」1等1席、5月1日京都市美術工芸学校教諭、5月第4回内国勧業博覧会「松間纎月」3等、10月日本美術協会「霜樹秋水」3等、12月如雲社を後素協会と改名、委員となる明治29年(33歳) 4月日本絵画共進会(大阪)審査員「炭竃」2等1席、6月京都奠都一千年記念博覧会協賛会屏風揮毫、10月日本美術協会「山水」、同日本絵画協会第1回展「秋夕」銅牌5席(鴫立沢の西行法師)明治30年(34歳) 1月ヴエニス万国博覧会「竹下激湍」、4月日本絵画協会「廃園春色」銀牌3席、同第1回全国絵画共進会(後素協会主催)「凉蔭放収」2等2席、9月日本絵画協会「枯野の狐」銅牌5席、10月日本美術協会「孤猿待月」明治31年(35歳) 4月新古美術品展鑑査委員「田舎風光」、10月日本美術院第1回展「春郊細雨」明治32年(36歳) 10月日本美術院展「十二ヶ月」銀牌5席明治33年(37歳) 4月巴里万国博「雪中燥雀」銅牌、5月百双画会締切、8月渡欧、フランス、イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、イタリヤ等巡遊5ヶ月明治34年(38歳) 2月帰朝、3月京都美術協会例会に「西洋美術巡遊見聞談」講演、4月新古美術品展覧会審査員「獅子」(六曲一双)出品1等金牌、棲鳳を栖鳳と改む明治35年(39歳) 4月新古美術品展「和蘭の春・伊太利の秋」六曲一双、4月日本美術院「古都の秋」銀牌7席明治36年(40歳) 4月叙正8位、5月第5回内国勧業博覧会審査員「羅馬古城趾真景」協賛賞明治37年(41歳) 2月1日楳嶺10周年祭執行追悼展「蕭条」六曲一双、「ヴエニスの月」高島屋依囑にて天鵞絨友染下図として揮毫、完成品は43年春第10回関西府県聯合共進会に出品、6月後素協会頒布画陳列会「印度奇果」明治38年(42歳) 1月楳嶺門凌雲会より月刊美術雑誌「画林」第1号発行以後続刊15号迄発行、4月新古美術品展「雪の加茂川」11月京都美術工芸学校々友会大会参考品部に長幅「ライオン」出品、同竹杖会内水曜会第1回大会開催以後毎秋第3回迄、機関雑誌「黎明」第1号発刊以後続刊5号迄発行明治39年(43歳) 2月6日姉こと死去(53歳)明治40年(44歳) 4月新古美術品展「宿霧」屏風、10月文展審査員「雨霽」明治41年(45歳) 10月文展審査員「飼はれたる猿と兎」明治42年(46歳) 2月10日叙従7位、4月京都絵画専門学校教諭、5月美術工芸学校講演会「獅子の作品に就いて」、10月文展審査員「あれ夕立に」、此年大原三千院本堂襖絵揮毫明治43年(47歳) 6月文展審査員被仰付、9月東本願寺山門天井絵「天女舞楽の図」下図提出、此年京都市上京区役所に「熊図」揮毫明治44年(48歳) 7月叙正7位、10月文展審査員「雨」、此年嵯峨別荘成る大正元年(49歳) 6月文展審査員、11月大阪高島屋展「群鴉」四曲一双大正2年(50歳) 10月文展審査員「絵になる最初」、12月18日帝室技芸員被仰付大正3年(51歳) 御大典御用主斎田風俗絵軟障揮毫、8月文展審査員、大阪高島屋展「芳野山」大正5年(53歳) 東京高島屋伝馬町店開店記念展「紅葉に鹿」大正6年(54歳) 10月文展審査員「日稼」大正7年(55歳) 1月国画創作協会組織、顧問となる、4月22日叙勲六等授瑞宝章、9月10日叙従6位、10月文展審査員「河口」大正8年(56歳) 9月帝国美術院創設会員被仰付大正9年(57歳) 4月渡支上海、蘇州、杭州、南京、漢江、鄭州、北京、朝鮮経由、7月帰洛、10月帝展「薫風行吟」「槐下博戯」大正10年(58歳) 4月渡支上海、蘇州、鎮江、楊洲、南京、九江、盧山、南京、済南、天津、北京、八逹嶺、張河口、大同、北京、京城経由、7月帰洛、9月30日叙正六位大正11年(59歳) 日仏交換展「蘇州の雨」、リユクサンブール美術館買上、7月31日叙従5位大正12年(60歳) 3月大阪高島屋展「駅路」、7月聖徳記念絵画館壁画調製委員、10月大毎東日主催日本美術展「黄河々畔」大正13年(61歳) 摂政宮御成婚京都府献上屏風「和暖」、東宮御所献上画「春の海」、2月1日大毎附録「富貴くさ」、5月31日附京都絵画専門学校教授被免、11月19日附仏国勲章シユバリエ・ド・ラ・レジヨンドノールを贈らる、11月淡交会第1回展「城趾」「斑猫」大正14年(62歳) 1月8日竹杖会主催仏国勲章拝受祝賀会開催、夏来沼津滞在、7月大阪高島屋「富岳」、10月帝展「鯖」、11月25日附叙勲5等授宝瑞宝章、11月淡交会第2回展「鳶」「海」大正15年(63歳) 1月大阪高島屋「富塘飛雪」、4月聖徳太子奉賛展「蹴合」、御用画「小春」「収穫」春秋双幅、10月帝展「南清風物」11月淡交会第3回展「松魚」「宿鴨宿鴉」昭和2年(64歳) 5月久迩宮殿下嵯峨別荘御成、東亜博「蘇州山水」、11月淡交会第4回展「秋興」「水郷」昭和3年(65歳) 1月「瑞鳥」大毎附録絵葉書版色刷発行、春撰美堂二曲屏風「狐」「おぼろ月」、夏渋沢男委嘱六曲一双「老柳に鳶」、秋御大典京都府献上六曲屏風「虎」昭和4年(66歳) 3月淡交会第5回展「蜆籠」「白菜」、夏御池より高台寺邸に移る、秋肺炎臥床昭和5年(67歳) 日独展「千代田城」「魚菜」、6月淡交会第六回展「虎」「潮来出島」「炎暑」10月帝展「秋」(潮来風景)、帝展出品拒絶問題曲折の後東上審査終了後暫く伊豆伊東に滞在、11月東京三越邦画展「朧月」「笹」、同24日久迩宮同大妃両殿下高台寺邸御成、支那石仏御観覧、翌日知己に公開昭和6年(68歳) 2月上旬以来歯痛・レウマチス・胃疾・感冒連続、3月下旬肺炎併発、一時重態に陥りしも恢腹病後湯河原に赴く、5月2日匈牙利最高美術賞を贈らる、8月米国トレド日本画展「炎暑」、11月1日文展開設25周年記念式に際し美術功労者として金杯1個を下賜せらる昭和7年(69歳) 4月31日湯河原より帰洛、6月1日湯河原へ赴く、10月独逸1等赤十字章受昭和8年(70歳) 3月東京高島屋新築展「夕月」「海日」、3月独逸政府よりゲーテ名誉賞を贈らる、同淡交会第7回「春」「晩鴉」「目ざし」、5月3日湯河原より帰洛、11月東京高島屋展「柿に小禽」、11月24日画塾竹杖会解散式挙行、12月東京三越展「揚雲雀」昭和9年(71歳) 1月5日湯河原へ赴く、3月東京高島屋展「魚菜」4月東本願寺壁貼り「風竹野雀」「老柳眠鷺」「喜雀」、5月京都市美術館新築記念展「水村」、高島屋展「初夏」、6月淡交会第8回展「松上白鷺」「家兎」「花に蔵」、蝸牛会「麦秋」、多聞洞展「青たゝみ」、8月満洲国皇帝陛下献上画「山寺鐘声」(水墨)、10月帝展「蛙と蜻蛉」、11月1日湯河原より帰洛、同東京高島屋展「山村秋暮」、12月東京三越春掛店「春暁」(桜木兎図)「松竹梅」(三幅対大観玉堂連作)、大阪高島屋展「春の海」昭和10年(72歳) 3月春虹会第1回展「炉辺」、4月大阪高島屋展「春の富士」、5月淡交会第9回展「支那風光図絵」紙本12幅、同満洲国皇帝より銀花瓶下賜さる、7月15日湯河原へ、7月五葉会「驟雨一過」、9月東京三越新築記念展大観玉堂雪月花三幅対、11月東京高島屋展「水風静」、12月三越日本画展「竹落葉」昭和11年(73歳) 1月1日以降朝日新聞「栖鳳芸談」、1月31日報知新聞「新帝展に対する意見」発表、5月16日平生文相に建白書提出、6月4日文相官邸会員懇談会出席、6月7日土田麦僊危篤見舞の為め帰洛、7月五葉会「兎」、9月11日文展審査員選定会議の為東上、10月京都市中京区役所大広間額面「老松図」、同新文展「夏鹿」、11月高島屋「秋興」、12月京都大丸「柿」、丸物「柿」、九品庵「魚介」、東京三越「渋柿」、「草相撲」、東京会「満林秋色」、多聞洞「鮮魚」、尚美堂「秋晴」、同月「栖鳳閑話」発行昭和12年(74歳) 2月11日文化勲章授与発令、3月倫敦大使館「水村過雨」、春虹会「堅魚」、大阪松坂屋春風会「鮮魚」、4月28日文化勲章授与拝受、5月春芳堂展「国瑞」、黒光堂「南国初夏」(南京城外)、6月選美堂「巣立」、7月15日文化勲章拝受報告の為め帰洛、8月18日湯河原へ、10月文展「若き家鴨」、11月国民精神総動員運動ポスター「若鷹旭日」、東京会「朝寒」、12月九品庵「鯖」、選美堂「鯵」、京大丸「万歳」、東京高島屋「秋の一日」、三越「長江盛夏」昭和13年(75歳) 3月春虹会「憩へる水車」、5月京都美術倶楽部30周年記念茶会「柳蔭雑居」、6月本山竹荘還暦記念展「初夏」、墨光堂「新凉」、8月西村五雲葬儀の為め帰洛、12月高島屋「錦鯉」、洛秀舎「兎」、同7日湯河原へ昭和14年(76歳) 4月美の国15周年展「鯵」、研?会「かれひ」、梅軒展「野月」、5月大阪高島屋店舗統合展「海幸」、扶桑会「鯖」、崑山堂展「五月晴」、凌雲会「伊豆清光」、6月7日潮来出島水神森来遊碑除幕式、8月世界一周機日本号の為めに「菊」、12月高島屋「老梅」、東京会「渋柿」、三越「池畔」昭和15年(77歳) 春来喜寿自祝の扇面「?」図を描き自作の句を添へ知久へ配る、2月春芳堂展「二龍争珠」、3月春虹会「城外霞色」、九品庵「春の潮」、4月大毎東日奉祝展「艶陽」(豆の花に蛇)、6月京都大丸「家鴨の仔」、選美堂「家鴨」、7月祇園会孟相山見送り「孟相竹」、10月2日京都絵専美工校庭楳嶺翁建碑除幕式、10月皇紀二千六百年奉祝展「雄風」、11月雑誌「塔影」喜寿記念号発行、同22日陸海軍部へ各一万円献納、12月大阪朝日ビル美術部開設展「暖冬」昭和16年(78歳) 1月元旦竹杖会より寿像贈呈、「楳嶺遺墨」刊行、2-3月風邪、4月春虹会「田植時」、5月上野松坂屋現代巨匠展「慈母」、6月汪主席「江南風光」贈呈、9月仏印巡回展「厨の秋」、12月三越展「しぐるゝ池」、東京高島屋展「柳蔭古寺」昭和17年(79歳) 2月11日陸海軍部へ各壱万円献納、2月新嘉坡陥落記念挿絵東京日々新聞、3月日本画家報国会献納画展「海幸」「春雪」、4月三笠宮殿下御結婚記念として京都府よりの献上画揮毫「海幸山幸」、6月陸軍省依嘱「宮城を拝して」完成、8月23日午前6時45分客舎湯河原にて逝去、戒名霊山院瑞誉栖鳳居士、特旨を以て位1級を進められ正4位に叙せらる、同27日午後1時洛東黒谷金戒光明寺本房にて葬儀執行。

葛西万司

没年月日:1942/08/19

建築界の長老、工学博士葛西万司は8月19日逝去した。享年80。文久3年7月21日旧南部藩家老鴨沢舎二男として盛岡市に生れ、後葛西重雄の養子となつた。12歳の時上京、明治23年工科大学建築科を卒業して日本銀行に入り、辰野金吾博士を輔けて建築設計監督に当つたが、同36年8月京橋区日吉町に辰野葛西事務所を設立、建築事務所活躍の先鞭をつけた。大正4年工学博士、同8年辰野博士没後単独経営としたが、昭和2年田中実と共同して葛西田中事務所と改称、同12年以降再び単独経営として今日に至つたものである。この間、工学院、早稲田大学理工科等に講じ、官庁諸会社の顧問或は囑託として設計監督に従事、又建築学会、日本建築士会等の役員を兼ねた。主なる作品には次の如きものがある。帝国生命保険本社及支店、東京火災保険本社及支店、安田商事大阪事務室、第一生命保険本社、永楽ビルデイング、帝国海上運送火災保険本社、川島甚兵衛商店東京支店、第一銀行京都・神戸・麻布支店、朝鮮銀行本店・東京支店、日本銀行函館支店、生命保険会社協会、有栖川宮家麻布盛岡町御殿、東大工科大学教室、明治専門学校、岩手医専、順心高女、富山市図書館、岩手病院、厚生会東京大阪産婦人科病院、生命保険厚生会、東京駅本家、釜山沢本家、両国国技館、浅草及名古屋国技館、盛岡映画劇場、赤坂霊南坂教会堂等

野口良一呂

没年月日:1942/08/02

創元会々員野口良一呂は8月2日死去した。享年39。明治37年9月18日東京下谷に生れ、清原重以智及び富田温一郎に師事、又本郷絵画研究所に学んだ。昭和7年白日会々員となり、15年退会後創元会に参加したものである。この間帝展、文展をはじめ諸展に作品を発表してゐた。

中村逹太郎

没年月日:1942/07/28

建築学界の先逹東京帝大名誉教授正3位勲3等工学博士中村逹太郎は7月28日逝去した。享年83。万延元年11月15日江戸麹町尾張藩邸に生れ、明治9年工学専門へ官費入寮、同15年5月工部大学卒業後、営膳局、皇居御造営事務局に勤務、明治20年12月20日工科大学助教授となつた。同24年7月には内務技師、25、6年欧米へ留学、27年教授に任ぜられ、32年工学博士、以後大正9年退官後も講師として昭和4年まで久しく大学に在つて研究と教育に尽瘁した。大正10年中村田辺事務所を開設、同年東大名誉教授、大正14年には建築学界名誉会長に推され、此の間各方面の委員、顧問として建築界に残した功績は大なるものがあつた。著述も多いが「建築構造」並に「日本建築辞彙」などは殊に有名である。趣味としては古銭蒐集が知られてゐた。

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