本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





小川裕充

没年月日:2019/12/28

読み:おがわひろみつ  東京大学東洋文化研究所名誉教授および國華編輯委員の小川裕充は12月28日に死去した。享年71。 小川は1948(昭和23)年10月、大阪市に生。77年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程(美術史学専攻)を中退し、79年より東京大学東洋文化研究所助手、82年に東北大学文学部助教授となり、87年、東京大学東洋文化研究所に助教授として赴任した。1992(平成4)年に同研究所教授となり、2013年の定年退官まで教鞭をとった。その間、ハイデルベルク大学藝術史研究所客員教授(1990年)、北京日本学研究センター客員教授(1993年)、美術史学会代表委員(2000~03年)、東方学会理事(2003~09年)等を務めた。13年、東京大学名誉教授。 その業績は多岐に亘るが、まず斯学のプラットホームの構築と言える『中国絵画総合図録』出版(東京大学出版会 正編1982・83年、続編1998~2001年、三編2013~20年)における貢献を挙げるべきであろう。正編では学生として調査に参加、実際の編輯業務に従事し、続編では助教授として調査隊を指揮、出版に至るまで中心的な役割を果たし、三編では調査隊を編成、出版の道筋をつけた。その意味で、小川がいなければ刊行は継続しなかった、と言っても過言ではない。 個人の研究としては、中国絵画研究においては「唐宋山水画史におけるイマジネーション 溌墨から「早春図」「瀟湘臥遊図巻」まで(上・中・下)」(『國華』1034~1036、1980年)、「雲山図論 米友仁「雲山図巻」(クリーブランド美術館)について」(『東京大学東洋文化研究所紀要』86、1981年)、「院中の名画 董羽・巨然・燕粛から郭煕まで」(『鈴木敬先生還暦記念 中国絵画史論集』吉川弘文館、1981年)、「中国花鳥画の時空 花鳥画から花卉雑画へ」(『花鳥画の世界10 中国の花鳥画と日本』学習研究社、1983年)、「牧谿 古典主義の変容(上)」(『美術史論叢』4、1988年)、「相国寺蔵 文正筆 鳴鶴図(対幅)(上・中・下)」(『國華』1166・1181・1182、1993・94年)、「宋元山水画における構成の伝承」(『美術史論叢』13、1997年)、「中国山水画の透視遠近法 郭熙のそれを中心に」(『美術史論叢』19、2003年)、「五代・北宋絵画の透視遠近法 伝統中国絵画の規範」(『美術史論叢』25、2009年)、「中国山水画の透視遠近法 燕文貴のそれの成立まで」(『美術史論叢』26、2010年)等宋代絵画を中心に大きな成果を上げている。 東アジアの視点からそれを拡げたものとして、「雲山図論続稿 米友仁「雲山図巻」(クリーヴランド美術館)とその系譜(上・下)」(『國華』1096・1097、1986年)、「大仙院方丈襖絵考 方丈襖絵の全体計画と東洋障壁画史に占めるその史的位置(上・中・下)」(『國華』1120~1122、1989年)、「泉涌寺蔵 俊律師・南山大師・大智律師像(三幅) 東洋絵画における連幅表現の問題1」(山根有三先生古稀記念会編『日本絵画史の研究』吉川弘文館、1989年)、「薛稷六鶴図屏風考 正倉院南倉宝物漆櫃に描かれた草木鶴図について」(『東京大学東洋文化研究所紀要』117、1992年)、「黄筌六鶴図壁画とその系譜 薛稷・黄筌・黄居〓から庫倫旗一号遼墓仙鶴図壁画を経て徽宗・趙伯・牧谿・王振鵬、浙派・雪舟・狩野派まで(上・下)」(『國華』1165・1297、1992・2003年)、「山水・風俗・説話 唐宋元代中国絵画の日本への影響 (伝)喬仲常「後赤壁賦図巻」と「信貴山縁起絵巻」とを中心に」(『日中文化交流史叢書[7]芸術』大修館書店、1997年)、「北宋時代の神御殿と宋太祖・仁宗坐像について その東アジア世界的普遍性」(『國華』1255、2000年)等があり、中国のみならず韓国・日本絵画を捉え直すことを促し、東アジア絵画史研究の可能性を切り開いた(「東アジア美術史の可能性」『美術史論叢』27、2011年)。 これらの集大成と呼ぶべきものが09年第21回國華賞を受賞した『臥遊 中国山水画 その世界』(中央公論美術出版、2008年)であり、巨視的な観点から中国山水画の展開を新たに提示し、さらに日本・西洋などの絵画をも射程に収めることで、東アジア、さらに世界美術史における中国絵画の位置をも示すことを試みている。

嶋崎丞

没年月日:2019/12/19

読み:しまさきすすむ  石川県立美術館・同七尾美術館長の嶋崎丞は12月19日、虚血性心疾患のため死去した。享年87。 1932(昭和7)年4月17日、石川県小松市に生まれる。57年立教大学文学部史学科卒業。59年九州大学大学院文学研究科国史学専攻修士課程修了。59年7月に石川県総務部の石川県美術館開設準備室に入り、同年10月の開館を経て翌年7月より学芸員として勤務、74年同館副館長となる。また83年に開館した現在の県立美術館の建設に携わり、1991(平成3)年から28年にわたり同館長を務めた。 専門は日本工芸史、日本文化史。金沢の出身である建築家の谷口吉郎、漆工家の松田権六の薫陶を受け、加賀藩の時代より伝わる美術工芸を育んだ文化的土壌の掘り起こしに努めた。とくに九谷焼について谷口の助言により古九谷を研究し、76年には古九谷が素地の大半を九州の有田から移入し、色絵技術は初期の京焼の影響が強いとする素地移入説を提唱、古九谷の発祥をめぐる論争に一石を投じた。また同じく谷口の示唆を受け、俵屋宗達の流れを汲み金沢で活動するも不明な点の多かった宗雪と相説について研究、その成果を75年に石川県美術館で開催した「宗雪・相説展」で公にした。 石川県美術館、石川県立美術館に奉職する一方で、その芸術文化全般に関する知識が高く評価され、石川県や金沢市の歴史・文化関係の各種委員、文化庁文化財保護審議会専門委員等を歴任、全国美術館会議や日本博物館協会の理事も務めた。一方で石川県内の大学で博物館学を講義し後進を育成するなど、生涯を通して美術館・博物館の発展のために尽力。さらに石川県の各種工芸技術関連施設において指導にあたり、伝統文化の継承、発展に貢献した。 主な著書は以下の通り。『日本のやきもの 18 九谷』(講談社、1975年)『日本陶磁全集 26 古九谷』(中央公論社、1976年)『日本の陶磁 13 九谷』(保育社カラーブックス、1979年)『加賀・能登の伝統工芸』(監修解説、主婦の友社、1983年) 亡くなる直前の2019(令和元)年10月17日から没後の12月31日にかけて『北國新聞』で「美術王国の軌跡」と題して、六十年にわたる美術館勤務についての聞き書きが連載される。また『石川県立美術館紀要』25・26(2021・22年)には、西田孝司の編による年譜と著作目録が収載されている。

山野勝次

没年月日:2019/10/29

読み:やまのかつじ  保存科学分野(応用昆虫学)の研究者である山野勝次は10月29日、自宅にて死去した。享年85。 1934(昭和9)年6月18日に生まれる。57年宮崎大学農学部を卒業後、同年、日本国有鉄道鉄道技術研究所、鳥栖白蟻実験所に就職。その後、79年以降、財団法人文化財虫害研究所評議員、87年同常務理事。同年より、東京国立文化財研究所保存科学部生物研究室、調査研究員を併任。また、社団法人日本しろあり対策協会理事、日本家屋害虫学会評議員等を歴任する。 日本国有鉄道時代から、白蟻をはじめとする有害生物の生態および防除に関する研究に従事し、文化財虫害研究所、東京国立文化財研究所でも文化財の虫害の調査、被害の対策に生涯を捧げ、多大な功績を残した。文化財を守り伝えていく真摯な姿勢とその温かく誠実な人柄から、多くの親交があり慕われた。 農学博士(1981年、東京大学)。日本家屋害虫学会賞、日本国有鉄道総裁表彰(功績賞)、国土交通大臣表彰、日本家屋害虫学会森八郎賞等を受賞。また2007(平成19)年の文化財虫害研究所の第1回読売あをによし賞受賞にも大きく貢献した。 主要な研究業績は以下の通り。『建築昆虫記』(相模書房、1974年)『しろあり詳説』(第2章被害と探知)(日本しろあり対策協会編、1980年)『家屋害虫』「等翅目,家屋害虫の形態と生態,シロアリの防除」(日本家屋害虫学会編、井上書院、1984年)『防蟻・防腐ダイジェスト』「シロアリの生態と被害」(日本しろあり対策協会編、文唱堂、1985年)『生物大図鑑』「-昆虫-(シロアリ目(等翅目))」(世界文化社、1985年)『文化財の虫菌害と保存対策』「等翅目,シロアリの防除」(文化財虫害研究所編、白橋印刷所、1987年)『しろあり及び腐朽防除施工の基礎知識(シロアリの生態と被害)』(日本しろあり対策協会編、1988年)『防虫・防腐用語事典』(日本しろあり対策協会、白橋印刷所、1988年)『家屋害虫(2)』「イエシロアリの探餌行動に関する実験,イエシロアリの加害習性および物理的防除,ゴム材料の耐蟻性ならびに耐菌性に関する研究,木造建築物のシロアリ被害,シロアリの群飛に関する調査,ダイアジノン・マイクロカプセル剤による新幹線ゴキブリの防除」(日本家屋害虫学会編、井上書院、1988年)『暗黒の住者-シロアリ研究の手引-』(訳書)(キャッツ環境科学研究所、1990年)『文化財・保存科学の原理』「文化財の害虫とその防除」(丹青社、1990年)『害虫とカビから住まいを守る-その基礎知識と建築的工夫-』(神山幸弘と共著、彰国社、1991年)『文化財の虫菌害防除概説』(共著、文化財虫害研究所編、1991年)『美術工芸品の保存と保管』(共著、フジ・テクノシステム、1994年)『家屋害虫事典』(共著、日本家屋害虫学会編、井上書院、1995年)『文化財の害虫-被害・生態・防除-』(写真・編集)(文化財虫害研究所編、1995年)『ネズミ・害虫の衛生管理』(共著、フジ・テクノシステム、1999年)『シロアリと防除対策』 (共著、日本しろあり対策協会編、2000年)『文化財害虫事典』(共著、東京文化財研究所編、クバプロ、2001年)『文化財の虫菌害と防除の基礎知識』(共著、文化財虫害研究所編、2002年)『生活害虫の事典』(共著、朝倉書店、2003年)『写真でわかるシロアリの被害・生態・調査』(文化財虫害研究所、2005年)『文化財の燻蒸処理標準仕様書(2007年改訂版)』(文化財虫害研究所、2007年) “Studies on Biophysical Control of Termites(Reports2and3combined)”T.Kikuchi,M.Nakayama,T.Oi,T.Asano,T.Imai and K.Yamano,Quarterly Reports(Railway Technical Research Institute,JNR,Vol.7,No.1,1966)「土佐原駅構内信号用ケーブルのシロアリ被害調査」(『鉄道技術研究所速報』 67-214、1967年)「Sonic Detectorによるシロアリの巣の探知」(『しろあり』15、日本しろあり対策協会、1971年)「東北地方のしろあり被害について」山野勝次・八木舜治・今井忠重(『しろあり』18、日本しろあり対策協会、1973年)“Prevention of Rat Damage to Rubber and Plastic Insulated Cable with Use of Repellents” K.Yamano and S.Yagi,Quarterly Reports(Railway Technical Research Institute,JNR,Vol.17,No.1,1976)「ダイアジノン・マイクロカプセル剤による新幹線のゴキプリの防除」(『家屋害虫』27・28、日本家屋害虫学会、1986年)「東京都板橋区で発見されたアメリカカンザイシロアについて」(『家屋害虫』12-2、日本家屋害虫学会、1990年)三浦定俊・木川りか・山野勝次「臭化メチルの使用規制と博物館・美術館等における防虫防黴対策の今後」(『月刊文化財』414、第1法規出版、1998年)木川りか・宮澤淑子・山野勝次・三浦定俊・後出秀聡・木村広・富田文四郎「低酸素濃度および二酸化炭素による殺虫法;日本の文化財害虫についての実用的処理条件の策定」(『文化財保存修復学会誌』45、文化財保存修復学会、2001年)山野勝次・木川りか・三浦定俊「東大寺法華堂・戒壇堂におけるアナバチ類の被害とピレスロイド樹脂蒸散剤による防除対策」(『文化財保存修復学会誌』45、文化財保存修復学会、2001年)小峰幸夫・原田正彦・野村牧人・木川りか・山野勝次・藤井義久・藤原裕子・川野邊渉「日光山輪王寺本堂におけるオオナガシバンムシの発生状況に関する調査について」(『保存科学』49、東京文化財研究所、2010年)

竹内奈美子

没年月日:2019/08/30

読み:たけうちなみこ  東京国立博物館上席研究員で、日本漆工史を中心に多大な功績を残した竹内奈美子は8月30日に死去した。享年52。 昭和42(1967)年5月5日、神奈川県藤沢市に生まれる。1990(平成2)年3月、早稲田大学第一文学部史学科美術史学専修卒業。93年3月、早稲田大学大学院文学研究科芸術学(美術史)博士前期課程修了。94年3月、早稲田大学大学院文学研究科芸術学(美術史)博士後期課程中退。94年4月より東京国立博物館に勤務し、学芸部工芸課漆工室、学芸部企画課展示調整室、学芸部企画課列品室、学芸部工芸課漆工室の研究員、文化財部展示課平常展室、文化財部列品課列品室、事業部事業企画課特別展室、学芸企画部企画課特別展室の主任研究員、学芸研究部調査研究課工芸・考古室、学芸研究部調査研究課工芸室、学芸研究部列品管理課登録室(兼)学芸研究部列品管理課貸与特別観覧室の室長、上席研究員を歴任し、その間、調査・研究・展示・収集をはじめとする博物館の学芸業務に尽力した。また、東京文化財研究所の在外日本古美術品保存修復協力事業に係る調査等、他機関の調査・研究にも協力した。 研究活動は、日本漆工史を中心に論文執筆や研究発表を行った。論文には、「高台寺御霊屋内陣における花筏・楽器散らし文様-その意味するものについて」(『美術史研究』31、1993年)、「東京国立博物館新収品「花樹鳥獣蒔絵螺鈿櫃」-鮫皮貼輸出漆器の一例として」(『MUSEUM』538、東京国立博物館、1996年)、「竹厨子」(『日本の国宝』43、朝日新聞社、1997年)、「輸出漆器-欧州エキゾティシズムの遺産」(『漆芸品の鑑賞基礎知識』至文堂、1997)、「東京国立博物館保管「楼閣山水蒔絵椅子」(H-4528)-17世紀後半の輸出漆器作例として」(『MUSEUM』563、東京国立博物館、1999年)、「印籠と根付の魅力」『目の眼』294、里文出版、2001年)、「南蛮漆器-二つの相とその時代-」(『南蛮美術と室町・桃山文化』熱田神宮宮庁、2002年)、「総論 江戸蒔絵:光悦・光琳・羊遊斎」(『創立130周年記念特別展 江戸蒔絵-光悦・光琳・羊遊斎-』図録、東京国立博物館、2002年)、「江戸時代前期五十嵐派作品について-前田家関連遺品を中心に」(『東京国立博物館紀要』40、2004年)、特集陳列『五十嵐派の蒔絵』解説(2004年12月)、「高台寺蒔絵の絵梨子地」(『近世漆工芸基礎資料の研究-高台寺蒔絵を中心に-』平成16~17年度科学研究費補助金(基盤研究B)研究成果報告書、2006年)、「五十嵐作「蓮池蒔絵舎利厨子」の制作年」(『MUSEUM』615、東京国立博物館、2008年)、「三つの秋野蒔絵硯箱」(『日本美術史の杜 村重寧先生・星山晋也先生古稀記念論文集』2008年)、「描くことと作ること 琳派と漆芸」(特別展「大琳派展」展覧会図録、東京国立博物館、2008年)、「未詳の蒔絵師「不尽」について」(『美術フォーラム21』19、美術フォーラム21刊行会、2009年)、「蒔絵香合の計測的調査・研究―手箱内容品を基準として―」茶道文化学術助成研究報告書、財団法人三徳庵、2009年)、「神仏への供酒・供物器」ほか扉解説(『根来』根来展実行委員会、2010年)、「葦穂蒔絵鞍鐙」(『國華』1378、國華社、2010年)、「«表紙解説»菊螺鈿鞍」(『MUSEUM』634、東京国立博物館、2011年)、Musical Instruments and the Lacquer Arts Tradition,Elegant Perfection―Masterpieces of Courtly and Religious Art from the Tokyo National Museum,(Tokyo National Museum,The Museum of Fine Arts,Houston,Distributed by Yale University Press,New Haven and London,2012)、「朱漆輪花盤」(『國華』1421、國華社、2014年)、「色彩と彫技の豊穣-明代漆芸の魅力」(特別展「台北 國立故宮博物院―神品至宝―」図録、東京国立博物館ほか、2014年)、「明月椀」ほか扉解説(『鎌倉の名宝 明月椀-漆絵、美の饗宴-』小西大閑堂、2016年)、「牡丹漆絵三重椀」(『國華』1446、國華社、2016年)、「甦る王朝の技と美」(特別展「春日大社 千年の至宝」図録、NHK:NHKプロモーション:読売新聞社、2017年)、「漆器の領分-婚礼調度の世界」(『URUSHIふしぎ物語-人と漆の12000年史-』国立歴史民俗博物館、2017年)等がある。 研究発表には、「五十嵐様式の蒔絵について―前田家関連の作品を中心に―」(早稲田大学美術史学会日本美術分科会、2005年10月発表)、「東北地方伝来の蒔絵絵馬について」(歴博・展示型共同研究「学際的研究による漆文化史の新構築」平成26年度第6回研究会、2014年12月25日発表)、「五十嵐道甫様式の蒔絵について―細部表現と地蒔を中心に」(歴博・展示型共同研究「学際的研究による漆文化史の新構築」平成26年度第7回研究会、2015年2月26日発表)、「漆器の領分-婚礼調度の世界」(第105回歴博フォーラム「URUSHIふしぎ物語-人と漆の12000年史-」国立歴史民俗博物館、2017年8月5日発表)等がある。 それらの研究成果は、東京国立博物館での平常展および創立130周年記念特別展『江戸蒔絵―光悦・光琳・羊遊斎―』(2002年8月20日~10月6日)、特集陳列『五十嵐派の蒔絵』(2004年12月14日~2005年2月13日)、特集陳列『欧州を魅了した漆器と磁器』(2005年12月23日~2006年2月19日)等の展示を通じて広く公開された。

小沢健志

没年月日:2019/07/04

読み:おざわたけし  写真史家の小沢健志は7月4日、老衰のため東京都板橋区内の自宅で死去した。享年94。 1925(大正14)年1月9日東京市に生まれる。1950(昭和25)年日本大学法文学部芸術学科卒業。51年より国立博物館附属美術研究所(現、東京文化財研究所)資料部に文部技官として勤務(1961年3月まで)。日本大学芸術学部講師を経て、74年より九州産業大学芸術学部・同大学院芸術研究科教授として教鞭をとった(1993年3月退任)。 専門は幕末・明治期における日本写真史。この分野の開拓者の一人として、各地に遺された初期写真の調査や文献の収集を重ね、初期日本写真史の実証的研究に取り組んだ。その業績の一つに75年鹿児島の島津家別邸で発見された肖像写真を調査し、これを銀板写真(ダゲレオタイプ)による〓摩藩十一代藩主島津斉彬像と判定したことがあげられる。関連した文書などから、同肖像写真は、藩命により銀板写真の研究に取り組んだ〓摩藩士市来四郎らによって1857(安政4)年に撮影されたものであることが確認され、幕末期、日本人による銀板写真の撮影は成功しなかったとされてきた従来の定説を書き換える発見となった。この島津斉彬像は1999(平成11)年、写真としては初の重要文化財指定を受けている。 91年には日本写真芸術学会の設立に参加、副会長に就任。98年から2002年まで会長を務め、退任後は同名誉会長となる。また日本写真協会副会長、東京都歴史文化財団理事等を歴任した。 主要な著作に『勝海舟:写真秘録』(尾崎秀樹との共著、講談社、1974年)、日本写真協会編『日本写真史年表』(編集委員として編纂に参加、講談社、1976年)、『日本の写真史:幕末の伝播から明治期まで』(ニッコールクラブ、1986年、のち、『幕末・明治の写真』と改題、ちくま学芸文庫、1997年)、『写真で見る幕末・明治』(編著、世界文化社、1990年、新版、世界文化社、2000年)、『幕末:写真の時代』(編著、筑摩書房、1994年、のち、ちくま学芸文庫、1996年)、『写真明治の戦争』(編著、筑摩書房、2001年)、『古写真で見る幕末・明治の美人図鑑』(編著、世界文化社、2001年)、『写真で見る関東大震災』(編著、ちくま文庫、2003年)等がある。幕末・明治期の写真の調査研究を通じて、数多くの初期写真の作例や文献等の関連史料を自ら収集したことでも知られ、そのコレクションは上記の著作においても多く紹介されている。 長年の功績に対し、90年に日本写真協会賞功労賞、02年には日本写真芸術学会名誉賞を受賞した。

菅谷文則

没年月日:2019/06/18

読み:すがやふみのり  滋賀県立大学名誉教授で奈良県立橿原考古学研究所第5代所長の考古学者・菅谷文則は脳腫瘍のため6月18日に死去した。享年76。 1942(昭和17)年9月7日、奈良県宇陀郡榛原町(現、宇陀市)に生まれた。親和幼稚園、榛原第一小学校に学び、榛原中学校在学の時、小泉俊夫・百地保次両教諭の引率で初めて発掘現場を訪れた。奈良県立畝傍高等学校に進学し、メスリ山古墳や大和天神山古墳の発掘調査に参加し、また山岳部に所属してインターハイ出場を果たした。61年、関西大学文学部史学科に入学し、末永雅雄の研究室に学んだ。65年、同大学院文学研究科に進み(~1967年9月)、文学修士号を授与された。この間、奈良県立橿原考古学研究所調査協力員として県下の遺跡調査に従事し、大学院修了後は関西大学文学部考古学研究室嘱託となった。68年4月、奈良県教育委員会文化財保存課技師に任ぜられ、74年4月には奈良県立橿原考古学研究所研究職技師となり、1995(平成7)年3月までの間、シルクロード学研究センター研究主幹、調査第一課長等を務めた。公務の一方、69年には森浩一・櫃本誠一らと朝鮮半島南部を踏査し、これが自身にとって最初の海外調査となった。77年には西田信晴・床田健治・中井一夫らとアフガニスタンでの1カ月にわたる調査を実施した。79年9月、日中国交正常化後の初の交換留学生として北京語言学院に学び、翌年7月からは北京大学歴史系考古学専業進修課程にて宿白に師事した。95年4月、新設の滋賀県立大学に転じ人間文化学部教授を命ぜられた。この頃、日中共同の発掘調査を実現すべく当局との調整を重ね、同年より谷一尚を日本側代表とする中日聯合原州考古隊の日本側副隊長兼発掘隊長として、寧夏回族自治区における北周田弘墓、唐史道洛墓の発掘を指揮した。また、山東省において漢鏡の調査をおこなうなど、中国での考古学調査を本格化させた。国内にあっては兵庫県三田市史編纂事業に伴う古墳群の測量調査や、和歌山県那智勝浦町下里古墳の発掘調査を指導した。 2008年3月に大学を定年退職し、09年4月をもって奈良県立橿原考古学研究所第5代所長に就任した。11年には中国・陝西歴史博物館で「日本考古展」を開催して日中交流を推し進め、また14年には室生埋蔵文化財整理収蔵センターを開所させるなど、文化財保護の環境整備にも尽力した。この間、奈良県文化財保護審議委員副議長、奈良県史跡等整備活用補助金選定審査会委員長、宇陀市文化財審議会委員長など各地の文化財審議委員のほか、ユネスコ・アジア文化センター文化遺産保護協力事業運営審議会委員、中国社会科学院中国古代文明研究中心客員研究員として学識を公益に供した。2019(令和元)年5月31日、所長職を退任した。 菅谷の研究は、その広範な調査範囲が示すように一時代一地域に留まるものでなく、ユーラシア全土を基盤とした東アジア考古学であり、シルクロード学であった。そこでは特に王権と信仰、そして武器・武具の諸相を命題に掲げ、これに関する山の考古学研究会(1987年発足)、古代武器研究会(2000年発足)、ソグド文化研究会(2007年発足)、アジア鋳造技術史学会(2007年発足)等の創設や運営に携わり研究基盤を整備した。 王権に関わる研究課題のひとつである三角縁神獣鏡の研究では、技術論(『製作技術を視座とした三角縁神獣鏡の編年と生産体制研究』、「三角縁神獣鏡における製作技術の一側面―二層式鋳型と型押し技法の検証―」(共著)『古代学研究』220、古代学研究会 2019年)、資源論(「自然銅の考古学(1)」『古代学研究』150、2000年)、系譜論(『中日出土銅鏡の比較研究』、『中国出土銅鏡の地域別鏡式分布に関する研究』、『中国洛陽出土銅鏡と日本弥生時代出土銅鏡の比較研究』)等多岐に及んだ。 信仰に関しては、発掘調査と実地踏査を重んじ、法隆寺若草伽藍や大峰山における山岳霊場の発掘等で成果をあげた。後者では多年にわたる功績により真言宗醍醐派大山龍泉寺より「正大先達」の称号を授与された。 武器武具では、中国出土の画像資料や副葬用の模型明器を素材にこれを論じ(「晋の威儀と武器について」『古代武器研究』1、2000年、「中国南北朝の木製刀剣」『古代武器研究』2、2001年、「中国晋の盾と前期古墳の盾について」『古代武器研究』8、2007年)、古墳時代を東アジア史のなかで位置づけるための重要な視座を示した。 著書に『日本人と鏡』(同朋舎出版、1991年)、『健康を食べる 豆腐』(共著、保育社、1995年)、『三蔵法師が行くシルクロード』(新日本出版社、2013年)、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳を読む』(南都大安寺編、東方出版、2020年)、『甦る法隆寺 考古学が明かす再建の謎』(柳原出版、2021年)等があり、そのほか多数の発掘報告書を手掛けた。

本江邦夫

没年月日:2019/06/03

読み:もとえくにお  美術評論家で多摩美術大学名誉教授の本江邦夫は心筋梗塞のため6月3日急逝した。享年70。 1948(昭和23)年9月25日、愛媛県松山市に生まれる。東京の小学校にあがるが、少年期は中学2年生まで札幌と小樽ですごす。高校時代は数学や宇宙工学に興味をもった。76年東京大学人文系大学院修士課程(西洋美術史専攻)修了。同年より東京国立近代美術館に勤務。78年から1年間『美術手帖』の展評欄(東京)を執筆。81年マチス展、83年ピカソ展、87年ゴーギャン展、1989(平成元)年ルドン展といった西洋近代の作家の回顧展に携わった。テーマ展として、84年の「メタファーとシンボル」展は国内外22名の作家により、表象としての作品の傾向を体系からずれていく隠喩と根源的な象徴へ向かう二方向として捉えようとする意欲的な企画だった。また、92年の「現代美術への視点 形象のはざまに」展は、流行に追随せず80年代に活動が顕著な国内の中堅作家15名による展示をみせた。90年には国立美術館として初の漫画家の展示となった手塚治虫展、93年フランス在住の画家黒田アキ展、94年フランスで制作を続けた画家木村忠太の回顧展、95年国立美術館で現役最年少の展覧会となった辰野登恵子展を手がけた。 98年多摩美術大学教授に就任。休講はしない熱心な教員として教職に取り組む。美術館学芸員時代とは異なる方向をもったのは、公募団体展系の批評に取り組んだことだ。もとより町場の画廊を巡ることを死去する直前まで行っていたが、新たな場へ踏み出したのは、大学において団体公募展が若者たちのデビューのきっかけとなることを身近に感じたからという。コンクールの審査も数多く務め、VOCA展は開始直後からの委員を、シェル美術賞の委員も長く務めた。執筆活動も幅広くなり、頼まれた原稿は「原則ことわらない」ことを常に語っていた。2001年より09年まで府中市美術館館長(兼務)。 主要な著書として、『ポール・ゴーガン』(千趣会、1978年)、『世界版画美術全集 マティス/ブラック』(講談社、1981年、共著)、『アート・ギャラリー ゴーギャン』(集英社、1986年)、『ポール・ゴーギャン:«ノアノア»連作全版画と周辺』(伽藍洞ギャラリー、1987年)、Toeko Tatsuno Paintings(Fabian Carlsson Gallery,London,1987)、『朝日美術館 ゴーギャン』(朝日新聞社、1992年、編著)、幾何学的抽象絵画への入門書『○△□の美しさって何?』(ポプラ社、1991年、2003年増補改定され〓凡社ライブラリーから『中・高校生のための現代美術入門』として発行)、『世界美術大全集 キュビスムと抽象美術』(小学館、1996年、共・編著)、『絵画の行方』(スカイドア、1999年)、『オディロン・ルドン 光を孕む種子』(みすず書房、2003年、芸術選奨新人賞受賞)。『現代日本絵画』(みすず書房、2006年)。主な翻訳書として、『スーチン』(アルフレッド・ヴェルナー著、美術出版社、1978年)、『ドイツ・ロマン派』(フーベルト・シュラーデ著、美術出版社、1980年)、『クレー』(コンスタンス・ノベール=ライザー著、岩波書店、1992年)等がある。『月刊美術』での美術界の人々との連載対談「今日は、ホンネで」は19年7月号で134回にいたった。退官記念文集に『多摩美術大学と私 1998―2019』(多摩美術大学、2019年)がある。

長谷川堯

没年月日:2019/04/17

読み:はせがわたかし  建築史家、建築評論家で武蔵野美術大学名誉教授の長谷川堯は4月17日、癌のため東京都内で死去した。享年81。 1937(昭和12)年6月16日、島根県八束郡玉湯村(現、松江市玉湯町)で老舗旅館保性館(同館幽泉亭は国登録有形文化財)を営む家に生まれる。県立松江高等学校から56年に早稲田大学第一文学部に入学、美術史を学ぶ。77年に武蔵野美術大学造形学部助教授、84年に同教授、2008(平成20)年定年退職。 大学を卒業した60年に、指導教授だった板垣鷹穂の勧めにより、卒業論文をもとにした「近代建築の空間性 ミース・ファン・デル・ローエとル・コルビュジエ」が『国際建築』誌に掲載される。65年創刊の『SD』編集部などで働きつつ、68年に「日本の表現派」を『近代建築』誌に発表したのが建築評論家としての本格的デビューで、彼自身の言葉によれば、「の建築の発展を、建築家の「自己性の確立」という過程の中でとらえ」ることで、それまで明治と昭和の間での移行期のように扱われていた大正建築を一時代として定置して見せた。続く「大正建築の史的素描」(1970年、『建築雑誌』掲載)では、明治の古典主義建築と昭和の近代主義建築に通底するのは、「国家」と支配体制の側に立つ「建築を上から、外から見る視界」であると喝破し、「神殿か獄舎か」(1971~72年、『デザイン』掲載)において、戦後日本の建築界を席巻していたモダニズム、とりわけその中心的存在であった丹下健三とその建築を「神殿的思惟」の象徴として激しく攻撃した。これら最初期の論考をまとめた『神殿か獄舎か』(相模書房)が72年に刊行されると、まさに高度成長を追い求めた戦後日本社会の矛盾が様々な形で顕在化しつつあった時期にあって、戦前までの国家主義への対立概念のように捉えられていたモダニズム建築への痛烈な批判は、安保闘争で国家権力への敗北を味わった学生や若手建築家たちに衝撃をもって受け止められた。 『都市廻廊-あるいは建築の中世主義』(相模書房、1975年、毎日出版文化賞)では、東京をはじめとする近代の都市が失いつつあった水面からの景観や路地などの空間的豊かさを説き、機能優先主義への警鐘を鳴らした。また、『建築有情』(中公新書、1977年、サントリー学芸賞)では、建築を「作る者のあるいは使う者のそれぞれの立場から寄せられる感情とか内面的脈動の相関物である」としてその社会性を強調するとともに、市井で使われ続ける「生きた建築」への人々の関心の低さを憂え、『建築の生と死』(新建築社、1978年)でも歴史的空間を形作る無名の建築がもつ重要性を訴えた。当時まだ十分に評価が定まっていなかった大正期以降の近代建築の保存と再生活用に与えた影響は大きく、村松貞次郎らとともに各地での市民レベルの保存運動にも積極的に協力した。 美術史出身で建築を作る立場ではない長谷川の近代主義建築批判は、理念や論理が先行する建築家のアプローチに向けられており、必ずしも作品そのものが持つ力を否定しているわけではなかった。むしろ、その力が強ければ強いほど権力装置として作用する建築のシンボリズムに対抗して、より内発的、個人的な感性や想像力に立脚した建築創造の可能性を復権させることに力点があった。その意味において彼が注目した建築家が村野藤吾で、モダニズムも含めた古今東西の様式を自在に操りながら空間性とディテールに富んだ作品を生み続ける姿勢を大正建築家の最後の一人として高く評価していた。村野本人との数十回に及ぶ対談も踏まえた研究の成果は、大部の『村野藤吾の建築 昭和・戦前』(鹿島出版会、2011年)としてまとめられ、これが長谷川の遺作となった。続いて構想されていた『戦後』篇の刊行を見ずに逝ったことは、さぞや心残りであったに違いない。 86年に「日本近代建築史再考に関する評論活動」で日本建築学会賞(業績)。上記以外の主な著作に、『建築-雌の視角』(相模書房、1973年)、『建築の現在』(鹿島出版会、1975年)、『生きものの建築学』(平凡社、1981年)、『建築逍遥-W・モリスと彼の後継者たち』(平凡社、1990年)、『田園住宅-近代におけるカントリーコテージの系譜』(学芸出版社、1994年)、『建築の出自』『建築の多感』(長谷川堯建築家論考集、鹿島出版会、2008年)等がある。また、建築・住宅系雑誌を中心に、数多くの論考や建築家との対談が掲載されている。

紺野敏文

没年月日:2019/04/15

読み:こんのとしふみ  美術史家・仏教彫刻史研究者で慶應義塾大学名誉教授の紺野敏文は4月15日、心原性脳塞栓症のため亡くなった。享年80。 1938(昭和13)年5月13日、東京都杉並区に生まれる。58年3月、福島県立田村高等学校を卒業し、同年4月に慶應義塾大学文学部に入学。62年3月同大文学部哲学科西洋哲学専攻を卒業、アジア問題研究会を経て三井生命保険相互会社に勤務。同社を退職した後、74年4月に慶應義塾大学大学院文学研究科美学美術史学専攻修士課程に入学し、76年3月に同課程を修了、同年4月に同大学院博士課程に入学した。79年1月より文化庁文化財保護部美術工芸課調査員(~1979年12月)、同年3月に慶應義塾大学大学院博士課程を単位取得退学し、80年1月より奈良県教育委員会文化財保護課に着任、技師・主査を務める。84年4月に慶應義塾大学文学部哲学科に助教授(日本・東洋美術史担当)として着任した。1990(平成2)年4月より同大教授、2004年3月に同大を定年退職し、4月から同大文学部・大学院非常勤講師を務める(~2007年3月)。成蹊大学、東北大学文学部・同大学院、東京大学文学部・同大学院、武蔵工業大学で講師・非常勤講師として教鞭を執ったほか、92年8月から93年9月まで中国上海市同済大学建築系特別共同研究員。三田哲学会会長、文化庁文化審議会文化財分科会専門委員、遠山記念財団理事、國華賞選衝委員長、美術院評議員等を歴任した。77年第4回北川桃雄賞、02年東京都北区教育文化功労者表彰、09年東京都江戸川区区政功労者表彰、18年千葉県市原市文化財保護尽力者表彰。 慶應義塾大学文学部では哲学を専攻したが、在学中に古美術に対する関心を深め、会社員時代に大津へ赴任した際には関西地域の古社寺を訪ね歩いたという。36歳で大学院に進学、日本彫刻史研究の第一人者である西川新次に師事して修士論文「平安初期における真言系密教彫刻の展開:観心寺・安祥寺・仁和寺諸像の造立年代と造寺背景を中心に」を提出する。その一部に基づく最初の論文「創建期の安祥寺と五智如来像」(『美術史』101、1976年)では、従来下寺が先に創建されたとの説が優勢であった安祥寺について、上寺の先建と五智如来像の当初安置を明快に論じ、優れた美術史研究者に贈られる北川桃雄賞を受賞。以後、平安彫刻を中心とした論考を精力的に発表する。論考においては史料を精読し、造形を含めて複眼的に彫刻をとらえて緻密に論証を進めながらも、大局的な視点で論じられたものが少なくない。平安初期における木彫像への転換や造像環境の変遷などを論じた大部の「平安彫刻の成立(1)~(10)」(『佛教藝術』175~225、1987~96年)や、古代における信仰の実態を分析し、図像や作例を検証した「虚空蔵菩〓像の成立(上)~(下)」(『佛教藝術』140・229・232、1982・96・97年)、大陸から請来された彫刻を「本様」として日本彫刻史の展開を追う「請来「本様」の写しと仏師(一)~(三)」(『佛教藝術』248・256~270、2000年~03年)などはその代表である。また、奈良県教育委員会で地域の社寺調査を多数経験したことから、大学へ移ってからも実地調査を重要視する姿勢は終生変わらなかった。東京都江戸川区や北区、渋谷区、千葉県市原市、奈良県桜井市では長く文化財審議委員等を務め、『市原市内仏像彫刻所在調査報告書(北部篇)・(南部篇)』(市原市教育委員会、1992・93年)、『江戸川区の仏像・仏画Ⅰ・Ⅱ』(東京都江戸川区教育委員会、2004年・13年)、『浅草寺什宝目録 第一巻 彫刻篇』(金龍山浅草寺、2018年)など多くの報告書の刊行に尽力。長く教壇に立った慶應義塾大学はもちろん、講師を務めた各大学や社寺調査を通じてその薫陶を受けた者も多く、厳しい指導を行う一方で教え子に囲まれた酒席を何より好んでいたことはよく知られている。 著書に主要論文を収録した『日本彫刻史の視座』(中央公論美術出版、2004年)、長く講師を務めた近畿文化会が発行する『近畿文化』誌での執筆をまとめた『仏像好風』(名著出版、2004年)のほか、『奈良の仏像(アスキー新書)』(アスキー・メディアワークス、2009年)がある。編著に『日本の仏像大百科2 菩〓』(ぎょうせい、1990年)、『神像の美 すがたなきものの、かたち。(別冊太陽)』(平凡社、2004年)、共著として『平等院大観 第二・彫刻』(岩波書店、1987年)、『日本美術全集5 密教寺院と仏像』(講談社、1992年)など多数。論文に「仁和寺阿弥陀三尊像の造立年代の検討」(『佛教藝術』122、1979年)、「観心寺如意輪観音像の風景」(『日本美術全集5』講談社、1992年)、「房総の仏像―古代の造像を中心に―」(『國華』1265、2001年)、「初期の八幡神像祭祀とその造立過程―御調八幡宮の神像をめぐってー」(『國華』1351、2008年)ほか。業績は『紺野敏文先生 著作目録』(紺野敏文先生の傘寿をお祝いする会、2018年)に詳しい。

大井健地

没年月日:2019/03/01

読み:おおいけんじ  美術史研究者で美術評論家であった広島市立大学名誉教授の大井健地は、3月1日広島市内の病院で死去した。享年72。 1947(昭和22)年1月30日、三重県志摩市に生まれる。本名大井健二。65年3月、岡山県立岡山朝日高等学校を卒業。72年3月、東京藝術大学美術学部芸術学科を卒業、在学中には、同大学教授の吉沢忠、山川武、そして東京国立文化財研究所主任研究官の陰里鉄郎から薫陶を受ける。同年4月から、株式会社筑摩書房編集部に勤務。84年に同社を退社。86年4月から広島県立美術館学芸員となる。同美術館在職中には、「靉光-青春の光と闇-」展(1988年10月-11月、同展は同年9月-10月に練馬区立美術館で開催後に巡回)、「和高節二展」(1989年1月-2月)、「浅井忠展」(1990年9月-10月)等を企画担当。1994(平成6)年3月に同美術館を退職し、同年4月から広島市立大学国際学部助教授となる。98年4月に、同大学同学部教授となり、2012年3月に退職。在職中の10年から12年まで同大学芸術資料館の館長を務めた。同大学では、日本美術史、博物館学等を講じた。また、広島県立図書館友の会会長、広島日伊協会理事、公益法人ひろしま文化振興財団運営委員等の社会活動もつづけた。 主要な著作は、下記の通りである。編著『靉光デッサン集』(岩崎美術社、1989年)『大井健地の美術図書館』(形文社、1998年)『絵のまえ本のうしろ』(渓水社、2012年)共著『観光コースでない広島』(高文研、2011年) 上記の著作中、『大井健地の美術図書館』は、月刊誌『美術の窓』65号(1988年4月)から 165号(97年3月)まで連載した書評記事「大井健地の美術の窓図書館」をまとめたもので、毎月、美術の一般書から展覧会カタログ、研究書にいたるまで広範に取り上げ縦横に批評した内容であった。同書刊行後、この書評の寄稿は、同誌191号(1999年8月)まで不定期につづけた。また大学在職中は、学生、若いアーティストたちをつねに励まして慕われ、また、地域の文化活動にも積極的に参加していた。没後の2021(令和3)年3月には、広島市のgallery Gにて、大井の逝去を偲ぶために、その仕事の全貌を、ノート、原稿等の資料によって紹介する「大井健地の表現をカキトル手」展が開催された(主催:一般社団法人HAP、会期:3月2日から7日)。

河﨑晃一

没年月日:2019/02/11

読み:かわさきこういち  兵庫県立美術館で館長補佐などを歴任し、前衛美術集団「具体」の魅力を発信、その世界的評価を高めた河﨑晃一は2月11日、すい頭部がんで死去した。享年67。 1952(昭和27)年1月9日、兵庫県芦屋市に生まれる。祖父は実業家で白隠ら江戸時代の高僧と三輪田米山の墨蹟及び佐伯祐三の油彩画の蒐集家と知られる山本發次郎。74年に甲南大学経済学部を卒業、染織家中野光雄に師事、染めた布を使った造形作品を制作。77年に出版された『画・論=長谷川三郎』の編纂に刊行委員として参加、各地で作品調査、資料収集、長谷川の知友への取材を行う。造形作家としても活動し、80年から大阪・番画廊、京都・ギャラリー・すずきを中心に個展を開催。87年、第4回吉原治良賞美術コンクールで優秀賞を、また同年第18回現代日本美術展で大原美術館賞を受賞。アート・ナウ’88、兵庫の美術家’93(いずれも兵庫県立近代美術館)に選出。1993(平成5)年には兵庫県芸術奨励賞を受賞。89年、芦屋市立美術博物館準備室に着任。90年、同館学芸課長に就任。同館では「小出楢重と芦屋」展(1991年)や阪神間モダニズム展(1997年)、「震災と表現:震災から5年」展(1999年)といった地域の美術を検証する展覧会の企画展も担当、とりわけ吉原治良展(1992年)、具体展(1992-93年、3期)では兵庫県立近代美術館の尾崎信一郎、平井章一と協力、芦屋市立美術博物館編にて資料集『ドキュメント具体』(芦屋市文化振興財団、1993年)を刊行。1980年代以降に活発化した「具体」調査研究のなかにあり、のちの国内外での評価の高まりの基盤のひとつを築いた。93年、第45回ヴェネツィア・ビエンナーレの企画「東洋への道」での初期具体野外展の再現展示へ協力。2003年には芦屋市の財政難で同館存続の危機に見舞われた際は、地方の特色ある公立美術館の意義を訴えた。06年に兵庫県立美術館へ移り、常設展・コレクション収集管理グループリーダーとなる。同館で12年まで館長補佐、学芸部門マネージャーを歴任。12年からはインディペンデントキュレーターとして活動。13年に甲南女子大学文学部メディア表現学科教授(第三種特任)、翌年同学科教授となる。15年秋にがんが判明、病室に資料を持ち込み仕事を続け、科学研究費補助金基盤研究C「写真・映像による具体美術協会の研究-戦後美術史研究の基盤構築と活性化の試みとして」(2016~2018年度、研究代表者逝去のため、中途終了)に取り組み、19年「イサム・ノグチと長谷川三郎」展(横浜美術館)にも協力した。同展で講演を予定していたが、実現しなかった。 著書や監修した書籍に『中山岩太』(淡交社、2003年)、『山本發次郎コレクション:遺稿と蒐集品にみる全容』(淡交社、2006年、日本書芸院創立60周年記念事業、第1部として『山本發次郎遺稿』改訂版を収録)などがあり、作品は大原美術館、華道未生流会館(大阪)、資生堂アートハウス(静岡)、中京大学(名古屋)に収蔵されている。

直木孝次郎

没年月日:2019/02/02

読み:なおきこうじろう  大阪市立大学名誉教授で日本古代史学研究者の直木孝次郎は、老衰のため2月2日に西の京病院で亡くなった。享年100。 1919(大正8)年1月30日、兵庫県神戸市に米穀商を営む父・憲一と母・とよのあいだに次男として生まれた。第一神戸中学校(現、神戸高等学校)を経て1938(昭和13)年4月、第一高等学校文科乙類に入学、41年3月に同校を卒業し、同年4月に京都帝国大学文学部史学科に入学、43年9月に同大を繰り上げ卒業する。同年10月土浦海軍航空隊に入隊。45年9月に京都帝国大学大学院に復学し、46年3月に同大学院特別研究生、50年3月、大阪市立大学法文学部に助手として着任する。52年6月同大法文学部講師、55年1月同大文学部助教授、66年10月同大文学部教授。69年5月、『日本古代兵制史の研究』(吉川弘文館、1968年)により文学博士(京都大学)を授与される。81年3月、大阪市立大学を退職。同年4月、岡山大学文学部に教授として着任し、84年3月同大を退職、同年4月より相愛大学人文学部教授、1989(平成元)年3月同大を退職。同年4月甲子園短期大学教授、98年3月同大を退職した。 89年大阪文化賞。2004年第11回井上靖文化賞受賞。また、続日本紀研究会代表、橿原考古学研究所所員、財団法人高麗美術館理事、条里制研究会会長、財団法人大阪市文化財協会理事などを歴任した。 中学時代に『万葉集』に触れたことで古典への関心を深め、一高生時代には和辻哲郎の『古寺巡礼』を読み、法隆寺の百済観音像に強い感銘を受けたことで当初は美術史を志して日本史を専攻したという。京都大学在学中に「法隆寺資財帳の食堂及び延長焼亡以前の講堂に関する研究«法隆寺の食堂と講堂»」(『美術史学』80、1943年)を発表する。卒業論文のテーマは「上代神祇思想に関する二、三の考察」。 直木の学問的姿勢は歴史学者・津田左右吉の古典批判を継承するもので、文献を精力的に渉猟して晩年まで実証的な古代史像を提示し続けた。天照大神を祀る伊勢神宮が地方神から皇祖神、そして国家的神への転換を論証した研究や、応神・仁徳天皇の頃に大和を中心とした政治勢力に代わって河内地域に新政権が成立したとする河内政権論は、いずれも『古事記』・『日本書紀』を批判的に検証したもので、直木の代表的な研究テーマと言える。歴史や古典の歪められた解釈が政治的あるいは思想的に利用されることを危惧し、65年に家永三郎が起こした教科書裁判には家永側の証人として出廷、67年に神武天皇即位を建国記念の祝日として制定した紀元節問題では、反対の立場から各地で講演会を行い公聴会で意見を論述した。また、50年代から本格的な発掘が始まった難波宮跡をはじめ、平城京跡や大和古墳群、飛鳥池遺跡、吉野や和歌の浦など多くの遺跡や歴史的景観の保存活動で主導的な役割を果たした。2000年には長年の文化財保護活動の功績に対して第1回和島誠一賞を受賞。古代史のみならず美術史や文学にも高い関心を持ち、特に一高時代に土屋文明の指導を受けた短歌は生涯にわたって創作を続けて三冊の詩集を出版、16年には第32回朝日歌壇賞を受賞した。 代表的な著作は『日本古代国家の構造』(青木書店、1958年)、『持統天皇(人物叢書)』(吉川弘文館、1960年)、『壬申の乱(塙選書)』(塙書房、1961年)、『日本古代の氏族と天皇』(塙書房、1964年)、『奈良時代史の諸問題』(塙書房、1968年)、『奈良―古代史への旅―(岩波新書)』(岩波書店、1971年)、『倭国の誕生(日本の歴史1)』(小学館、1973年)、『夜の船出―古代史から見た萬葉集―』(塙書房、1985年)、『日本古代国家の成立』(社会思想社、1987年)、『飛鳥 その光と影』(吉川弘文館、1990年)、『新編 わたしの法隆寺』(塙書房、1994年)、『山川登美子と与謝野晶子』(塙書房、1996年)、『古代河内政権の研究』(塙書房、2005年)、『額田王(人物叢書)』(吉川弘文館、2007年)、『直木孝次郎 古代を語る』全14巻(吉川弘文館、2008~09年)『日本古代史と応神天皇』(塙書房、2015年)、『武者小路実篤とその世界』(塙書房、2016年)ほか多数。その経歴と論文・著作は『直木孝次郎先生年譜・著作目録』(「直木孝次郎先生追悼のつどい世話人会」編集、2019年)に詳しい。

柳宗玄

没年月日:2019/01/16

読み:やなぎむねもと  西洋中世美術を専門とする美術史家で、お茶の水女子大学名誉教授の柳宗玄は1月16日、急性呼吸不全のために死去した。享年101。 1917(大正6)年2月18日、東京(千駄ヶ谷町大字原宿)生まれ。父は民藝運動の創始者・柳宗悦、母は声楽家の柳兼子。幼少期を白樺派の文人たちの集う我孫子を経て赤坂区青南小学校に入学、23年の関東大震災後は京都に移り真如堂付近で過ごす。京都府立一中から第一高等学校を経て、1939(昭和14)年、東京帝国大学法学部に入学。42年、法学部法律学科を卒業したのち、同大学文学部美学美術史学科に転入する。45年同学科を卒業し、47年東京大学文学部副手、ついで助手となる。52年フランス政府給費生としてパリに留学(エコール・デ・シャルト)、翌年にはベルギーのルーヴァン大学に移って研鑽を積み、55年に帰国。その後57年に東京藝術大学美術学部助教授に着任する。1962年フランス政府招聘による渡航研究、その折に得た知見をもとに66~70年にかけて、カッパドキア調査団を組織(文部省給費)、三回の現地調査を行った。68年、お茶の水女子大学文教育学部教授に就任。精力的に調査旅行や美術全集などの編集執筆を行いつつ後進の指導に尽力し、82年に同大学を定年退官、名誉教授となった。その後は武蔵野美術大学にて教鞭を執り、88年に退任。教壇を離れたのちも調査旅行を重ねながら旺盛な著作活動を続けた。 初期の業績において注目すべきは、得意の語学力を駆使してなされた翻訳活動(モリヤックやルネ・ユイグの来日講演録など)、50年代の渡欧で得られた現地調査による新知見の成果である。各地に点在するロマネスク・ゴシック美術関連の史蹟巡歴を行い、自らの眼で確かめ記録を写真に収めての実地検分を重ねた結果、50年代後半に早くも透徹した審美眼と独自の史観を確立させていたことは、例えば「12世紀におけるモザン美術の役割」と題された学術論文(『美術史』19・20、1956年)や一般読者向けながら、キリスト教美術の本質を的確に把握し平易な言葉で綴られた「キリスト教美術の歴史」(『月刊キリスト』1959-60年、全12回連載)、『キリスト 美術にみる生涯』(現代教養文庫、1959年、2012年新版)などに明らかであろう。 その学風にさらなる奥行きとスケールを加えたのは、上述カッパドキア調査であった。63年の渡欧中、単身トルコのカッパドキアへ赴き、イヒララ渓谷に残る壮大なキリスト教壁画に魅了され、その調査を目的に東京藝術大学で中世オリエント遺跡学術調査団を組織、メンバーには吉岡堅二、平山郁夫、平島二郎、眞室佳武、長塚安司らが名を連ねた。66,68,70年と三度にわたり実行されたこの学術調査は、67年刊行の『太陽と洞窟の谷』(朝日新聞社)、『カッパドキヤ トルコの洞窟修道院』(鹿島出版会)、『秘境のキリスト教美術』(岩波新書)という豊かな副産物をもたらした。 70年代に入ると、西欧の美術・文化の古層へ向けて思索をさらに深化させ、最も充実した時期を迎える。名著の誉れ高い『西洋の誕生』(新潮社、1971年)をはじめ、「大系世界の美術」(学習研究社、1972-75年)、「世界の聖域」(講談社、1979-82年)、「岩波美術館」(岩波書店、1981-87年)などの大型企画の立案・監修等に従事、特に「大系世界の美術」では『ロマネスク美術』『初期ヨーロッパ美術』『東方キリスト教美術』の三部作を執筆し、斬新な章立てで知られる『ロマネスク美術』の巻は、第26回毎日出版文化賞(1972年)を受賞した。「世界の聖域」では『サンティヤゴの巡礼路』の巻を、「岩波美術館」では『天と地の賛歌』他計8巻を執筆している。 現地踏破を重んじる学風はその後も変わることなく続けられ、80年代に入るとインド、中国、東南アジア、南米などに対象を拡げつつ毎年のように調査旅行を行った。東と西、古と今を自在に往還するこの時期の境地を示す著書として『虚空散華』(福武書店、1986年)が知られ、アジア・南米の「用の美」に関心を傾斜させた最晩年の遺作に『祈りとともにある形 インドの刺繍・染と民画』(みすず書房、2009年)がある。 また生涯を通じて、フランスの画家ジョルジュ・ルオーに熱い共感を抱き、その紹介に努めたことも特筆に値する。『ルオー全版画』『ルオー全絵画』(共訳、岩波書店、1979、90年)はカタログ・レゾネとして資料的価値を有し、『ルオー・キリスト聖画集』(学習研究社、1987年)はルオー絵画の本質に迫る筆者渾身の作である。 さらにまた、学界の枠を越え読書界全般への貢献として、岩波書店『図書』(1964-65、75-84年)、『学士会会報』(1965-2007年)表紙デザインと図版解説を長きにわたり担当し、人々の眼と心を愉しませた。 参考資料として、『柳宗玄教授著作目録』(柳先生古稀祝賀会編、1986年)、『柳宗玄著作選』(全6巻、八坂書房、2005-11年)がある。

梅原猛

没年月日:2019/01/12

読み:うめはらたけし  哲学者の梅原猛は1月12日、肺炎のため自宅で亡くなった。享年93。 1925(大正14)年3月20日、宮城県仙台市に父・梅原半二と母・石川千代の間に生まれ、母の病没後は伯父夫婦のもとで育つ。東海中学校、広島高等師範学校を経て、1943(昭和18)年3月、第八高等学校文科乙類(現、名古屋大学)に入学、45年3月に同校を卒業し、同年4月、京都帝国大学文学部哲学科に入学したのち陸軍野砲兵隊に入営。終戦後の同年9月に大学に復学し、48年9月京都大学を卒業した。京都大学大学院特別研究生を経て52年10月、龍谷大学文学部に専任講師として着任。55年4月より立命館大学文学部専任講師、57年4月同大助教授、67年4月に同大教授となったが、学園紛争によって69年に立命館大学を辞職。72年4月京都市立芸術大学美術学部に教授として着任。同大では二度にわたって学長を務めた(1974年7月~80年6月、83年7月~86年3月)。86年3月京都市立芸術大学を退職、同年4月に国際日本文化研究センター創設準備室長となる。87年5月には国際日本文化研究センターが発足し初代所長に就任した(~1995年5月)。1995(平成7)年5月国際日本文化研究センター顧問。97年4月、第13代日本ペンクラブ会長(~2003年4月)。京都市立芸術大学名誉教授。 65年第19回毎日出版文化賞、69年第3回仏教伝道文化賞、72年第26回毎日出版文化賞、87年第15回大谷竹次郎賞、91年第44回中日文化賞、92年第43回NHK放送文化賞、同年文化功労者、98年第5回井上靖文化賞、99年文化勲章。叙従三位。 梅原は八高時代に哲学書を読み漁り、西田幾多郎ら京都学派に憧れて京都帝国大学に入学、哲学者の山内得立に師事した。京都帝大では西洋哲学を学んだが、最初の著作となった『仏像―心とかたち』(共著、日本放送出版協会、1965年)を契機として日本文化や仏教への関心を深める。続く『地獄の思想―日本精神の一系譜』(中公新書、1967年)で、日本における地獄思想の形成と表象を論じて一躍注目をあつめた。その後も怨霊史観で古代史を大胆に解釈した『隠された十字架―法隆寺論』(新潮社、1972年)や『水底の歌―柿本人麻呂論』(新潮社、1973年)、出雲神話を論じた「神々の流竄」(『梅原猛著作集8』集英社、1981年)、東北地方に縄文文化の基層を見いだす『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』(佼成出版社、1983年)など話題作を次々と発表。フィールドワークを重視し、仮説から論を展開する梅原の手法に対しては、実証性や史料解釈の面から批判的な意見も少なくなかったが、斬新な切り口で古典や歴史、宗教、日本文化を縦横無尽に論じた著作は数多くの読者を獲得、また、歌舞伎や能の戯曲を執筆するなど晩年まで多彩な分野で活躍した。 『仏像―心とかたち』で梅原は精神史的側面から仏像を読み解いて独自の芸術論を切り開き、以降、芸術や作家に関する著作を数多く執筆した。梅原の芸術論は作品の造形が人間の精神的な営為を象徴するものと見る、あるいは作家・芸術家の生い立ちやその人間性に強い関心を寄せるものであった。主な著作に夭折した画家・三橋節子に関する『湖の伝説 画家・三橋節子の愛と死』(新潮社、1977年)や浮世絵師・写楽を歌川豊国と同一人物であると論じた『写楽 仮名の悲劇』(新潮社、1987年)、江戸時代の仏師・円空の作例を網羅的に訪ね歩いた『歓喜する円空』(新潮社、2006年)があるほか、監修を手掛けた『人間の美術』全10巻(学習研究社、1989~91年)では自身も『1 縄文の神秘:縄文時代』・『4 平城の爛熟:奈良時代』・『10 浮世と情念:江戸時代2』・『7 バサラと幽玄:室町時代』を執筆。岡本太郎や横尾忠則をはじめとする作家とも交流が深く、京都市立芸術大学時代の同僚には秋野不矩や石本正、安田謙、藤平伸、三浦景生ら、学生には森村泰昌や山本容子、森田りえ子らがいた。2001年以後、梅原と関わりの深い作家による展覧会が断続的に開かれ、2014年には「梅原猛と25人のアーティスト―梅原猛 卆寿記念―」(高島屋京都店ほか)が開催された。作家らとの対談集に『梅原猛対談集 芸術の世界』(講談社、1980年)、『美の奇神たち 梅原猛対話集』(淡交社、2013年)がある。また、自身でも書を手掛け藤平や三浦らとの個展も開催している。 そのほかの著書に『笑いの構造』(角川書店、1972年)、『美と宗教の発見:創造的日本文化論(講談社文庫)』(講談社、1976年)、『空海の思想について(講談社学術文庫)』(講談社、1980年)、『梅原猛著作集』全20巻(集英社、1981~83年)、『海人と天皇 日本とは何か』(朝日新聞社、1991年)、『梅原猛著作集』全20巻(小学館、2000~03年)、『天皇家の“ふるさと”日向をゆく』(新潮社、2000年)など、ほか多数。死後、国際日本文化研究センターから『梅原猛先生追悼集―天翔ける心』(2020年)が出されたほか、『ユリイカ 4月臨時増刊号』736(2019年3月)や『芸術新潮』832(2019年4月)で特集が組まれた。

富山秀男

没年月日:2018/12/20

読み:とみやまひでお  近代日本美術の研究者で、京都国立近代美術館、ブリヂストン美術館の館長を歴任した富山秀男は12月20日、胃がんのため死去した。享年88。 1930(昭和5)年7月26日、東京に生まれ、53年に東京教育大学教育学部芸術学科を卒業、同年国立近代美術館(1967年に東京国立近代美術館に改称)に研究員として採用された。76年4月に国立西洋美術館学芸課長に異動。82年8月に東京国立近代美術館次長となる。1992(平成4)年4月、京都国立近代美術館長となる。98年まで同美術館に勤務した後、同年6月にブリヂストン美術館長となる、2001年には、勲三等旭日中綬章を受ける。02年から13年まで、式年遷宮記念神宮美術館長を務めた。 東京国立近代美術館に在職中は、今泉篤男、河北倫明、本間正義という歴代3人の次長から薫陶を受けた。とりわけ河北倫明とは、その晩年まで親交があり、多くの影響を受けたといわれる。89年に河北倫明夫妻が、若手研究者と美術家を顕彰する目的で公益信託として設立した倫雅美術奨励賞では、20年以上にわたり同賞の運営委員長を務めた。 研究面では、岸田劉生の研究が特筆される。没後50年にあたる79年にあたり、画家の遺族ならびに各界の劉生愛好者と研究者によって企画された、劉生芸術顕彰を目的とする展覧会開催、全集、画集の刊行の計画と実施にあたっては、いずれにも深く関与した。国立西洋美術館に勤務していた79年に、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館において「没後50年記念 岸田劉生展」が開催された折には、調査の面で協力を惜しまなかった。また、『岸田劉生全集』全10巻(岩波書店、1979年から80年)にあたっては、編集のための委員となり、84年に刊行された東京国立近代美術館監修『岸田劉生画集』(岩波書店)では、編集委員を務めた。これらの成果をもとに86年には、単著として『岸田劉生』(岩波新書)を刊行した。同書は、今日まで岸田劉生を知るための入門書であり、実証的な評伝として高く評価されている。 その他、主要なものを下記にあげるように画集等の編著が多数ある。 岡鹿之助共著『世界の名画 第6巻 ルソー・ルドン』(学習研究社、1965年) 『近代の美術 第8号 岸田劉生』(至文堂、1972年) 山崎正和、高階秀爾共著『世界の名画 第7巻ルノワール』(中央公論社、1972年) 『日本の名画41 国吉康雄』(講談社、1974年) 『日本の名画21 岸田劉生』(中央公論社、1976年) 『近代の美術 第42号 安井曾太郎』(至文堂、1977年) 『原色現代日本の美術 第7巻 近代洋画の展開』(小学館、1979年) 『日本水彩画名作全集4 岸田劉生』(第一法規出版、1982年) 『近代日本洋画素描大系3 昭和1 戦前』(講談社、1984年) 原田実共編著『20世紀日本の美術14 梅原龍三郎/安井曾太郎』(集英社、1987年) 浅野徹共編著『20世紀日本の美術15 岸田劉生/佐伯祐三』(集英社、1987年) 『日本の水彩画17 萬鉄五郎』(第一法規出版、1989年) 『昭和の洋画100選』(朝日新聞社、1991年) 『日経ポケットギャラリー 佐伯祐三』(日本経済新聞社、1991年) 安井曾太郎、梅原龍三郎、岸田劉生をはじめとして、大正、昭和期の洋画家の中心とする実証的な美術史研究が中心であったが、実際に接してきた巨匠といわれる画家たち、あるいは画家を直接知る多くの関係者との間で生まれた豊富なエピソードの数々は、残された多くの画家論のなかで巧みに織り込まれている。そして草創期の国内の主要な美術館に勤務し、しかも館長としてその運営にあたった一貫した美術館人であった。

水沼啓和

没年月日:2018/12/20

読み:みずぬまひろかず  千葉市美術館学芸員の水沼啓和は12月20日死去した。長く人工透析を続けるなか、自身が担当した展覧会「1968年 激動の時代の芸術」が開幕したのちの逝去であった。享年55。 1965(昭和40)年8月1日生まれ。1992(平成4)年慶應義塾大学文学部哲学科卒業、同大学大学院文学研究科修士課程入学、94年修了。修士論文は「マルセル・デュシャンと展示制度:1913―68における言説と実践の推移」。同年4月、財団法人千葉市文化財調査協会(千葉市美術館開設準備室担当)学芸員となる。翌年11月、千葉市美術館にともない開館、同館に赴任、日本と欧米の現代美術に関する展覧会を担当、その研究発展に貢献した。精緻な調査をを反映した論考、資料編による充実した展覧会カタログを数多く出版した。担当したおもな展覧会に、「ジョゼフ・コスース 1965―1999 訪問者と外国人、孤立の時代」(1999―2000年)、「ダン・グレアムによるダン・グレアム展」(2003―04年)、「瀧口修造とマルセル・デュシャン」(2011年)、「須田悦弘展」(2012年)、「赤瀬川原平の芸術原論 1960年代から現在まで」(2014年)、「杉本博司 趣味と芸術―味占郷/今昔三部作」(2015年)、「見立ての手法―岡崎和郎のWho’s Who」(2016年)、「小沢剛 不完全―パラレルな美術史」(2018年)、「1968年 激動の時代の芸術」(2018年)がある。「赤瀬川原平の芸術原論展」は、2015年、第27回倫雅美術奨励賞を共同受賞。また「1968年 激動の時代の芸術」は、18年、美連協大賞を共同受賞。 論文に「ジョゼフ・コスースとアド・ラインハート:1960年代後期におけるコンセプチュアル・アートと絵画に関する一考察」(千葉市美術館研究紀要『採蓮』2、1999年)、「ダン・グレアムの«連結する三つのキューブ/ヴィデオ上映スペースのためのインテリアデザイン»について―コンテクストの介入からコンテクストの仲介へ」(『採蓮』8、2005年)、「不要になったら捨てられるアート―ニューヨークのコンセプチュアル・アートとエフェメラ」(『セログラフィーと70年代:Xerography and 70s』富士ゼロックス、2005年)、「ダン・フレイヴィンとコンセプチュアル・アート」(『採蓮』13、2010年)等がある。 没後、『千葉市美術館ニュース「C’n」』96号(2020年)において、同館長河合正朝が、美術館での水沼と美術家や同僚、後輩との交友、あるいは担当展や美術館の将来への向き合い方等をエッセイにまとめ、「美術が大好き、展覧会には持てる全力を尽くす、何事にも策を弄することのない真っ直ぐな性格の、わが社中の快男児」と評した。

持田季未子

没年月日:2018/12/18

読み:もちだきみこ  大妻女子大学名誉教授の美術史家持田季未子は12月18日、がんによる多臓器不全のため死去した。享年71。 1947(昭和22)年東京都港区高輪に生まれる。本名公子。70年国際基督教大学教養学部人文科学科を卒業。同学では関屋光彦に師事し、プラトンやアリストテレスなどの西洋古典を読むことによって、「自分の頭と心で物事を考える方法をつかみとることが重要」(『美的判断力考』)であることを学ぶ。80年東京大学人文科学研究科比較文学比較文化修了(文学修士)単位取得満期退学。立原道造研究から絵画、建築、庭園に興味を持ち、作品とは本来、それぞれ「本質的な固有の意味の層を持つ」(『絵画の思考』)という立場から、既存の方法論に依拠せず、作品のみを拠り所として、言葉を紡ぐことを目指すようになる。80年東京造形大学助教授となり、同学教授で『ことばのない思考―事物・空間・映像についての覚書』(田畑書店、1972年)、『生きられた家』(田畑書店、1976年)等、目に見えるものから過去の人の営みを明らかにする書物を世に問うていた多木浩二の知遇を得る。83年、アンリ・マスペロ著『道教の養生術』(せりか書房)、『芸術の記号論』(谷川渥 加藤茂らと共著、勁草書房)を刊行。84年1月に「連なりの史学」(『東京造形大学雑誌』)、85年9月に「庭園の眼差し、あるいは生成する庭園」(『思想』)を発表し、87年には『生成の詩学 かたちと動くもの』(新曜社)、ルーシー・スミス著『1930年代の美術 不安の時代』(多木浩二との共訳、岩波書店)、1991(平成3)年には『立原道造と伝統詩』(新典社)を刊行。92年にモンドリアン、マイケル・ハイザー、ロバート・スミッソンらによるアースワーク、村上華岳の作品について論じた『絵画の思考』(岩波書店)を刊行し、同書により吉田秀和賞受賞。93年東京造形大学教授となる。その後、『草木の精の能にみる日本的自然観』(共著、中央公論社、1994年)、『ベルリン―芸術と社会』(エバーハルト・ロータース編集、多木浩二らと共訳、岩波書店、1995年)、『芸術と宗教』(岩波書店、1997年)、『希望の倫理学 日本文化と暴力をめぐって』(平凡社選書、1998年)を刊行。98年に大妻大学比較文学部比較文化学科教授となり2016年まで教授として勤務し、18年に同学名誉教授となった。この間、『十七世紀の光―オランダ建築画の巨匠サーレンダム』(岩波書店、2009年)、自身の祖父について記した『明治の精神 持田巽の生涯』(彩流社、2012年)、『セザンヌの地質学 サント・ヴィクトワール山への道』(青土社、2017年)を刊行し、77年から様々な雑誌や書籍に発表した文章をまとめた『美的判断力考』(未知谷、2019年)を構想中に死去した。「第一章 絵画の世界」「第二章 建築・庭園」「第三相 詩から始まる」「第四章 哲学すること」「第五章 英語・フランス語論文」で構成された同書は、持田の仕事の展開を示すものとなっている。

松浦正昭

没年月日:2018/12/07

読み:まつうらまさあき  美術史家・仏教彫刻史研究者の松浦正昭は、肺がんのため12月7日に死去した。享年72。 1946(昭和21)年7月21日、群馬県新高尾村中尾(現、高崎市)に生まれる。65年3月、群馬県立前橋高等学校を卒業、同年4月に東北大学文学部に入学。70年3月、同大学を卒業、読売新聞社勤務を経て72年4月、東北大学大学院文学研究科美学・美術史学専攻に入学。74年3月、同研究科修士課程を修了し、4月より同大学文学部助手に採用される。77年10月、奈良国立博物館に着任。学芸課教育普及室長、仏教美術資料研究センター仏教美術研究室長を務め、2004(平成16)年4月より東京国立博物館に上席研究員として着任(文化庁美術学芸課美術館・博物館主任文化財調査官を兼務)。06年4月に富山大学芸術文化学部教授、11年3月、同大学を定年退職した。放送大学客員教授。 東北大学文学部東洋・日本美術史研究室で仏教美術史研究者の亀田孜、高田修、日本中・近世絵画史研究者の辻惟雄に指導を仰ぐ。とりわけ亀田からは、文献学に基づいた実証的な研究方法や自然科学的手法を取り入れた調査といった面で強い影響を受けたという。修士論文のテーマは平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像だった。奈良国立博物館に勤務して以降は日本彫刻のみならず、韓国・中国の仏像、絵画や工芸にも関心を広げていく。作品を徹底して観察することに重きをおき、自らX線透過撮影を行うなどして彫刻の素材や技法的側面に関する研究を深めた。 奈良国立博物館在職中には展覧会「菩薩」(1987年)、「檀像―白檀仏から日本の木彫仏へ―」(1991年)、「東アジアの仏たち」(1996年)、「ぶつぞう入門」(1996年)、「阿修羅との出会い」(1997年)、「国宝中宮寺菩〓像」(2000年)等を担当した。特に「東アジアの仏たち」は、広範にわたる地域や時代、横断的なジャンルの作品によって構成されており、松浦の関心領域の幅広さを示した展覧会と言える。東京国立博物館に籍を移して以降も「国宝吉祥天画像」(2005年)、「模写・模造と日本美術―うつす・まなぶ・つたえるー」(2005年)等の展覧会に携わった。著書に『日本の美術315 毘沙門天像』(至文堂、1992年)、『日本の美術455 飛鳥白鳳の仏像 古代仏教のかたち』(至文堂、2004年)。論文に「鳳凰堂供養飛天群とその密教的性格」(『美術史』97・98、1976年)、「東寺講堂の真言彫像」(『佛教藝術』150、1983年)、「天台薬師像の成立と展開」(『美術史学』15、1994年/『美術史学』16、1995年)、「頭塔石仏の図像的考察」(『國華』1215、1997年)、「毘沙門天法の請来と羅城門安置像」(『美術研究』370、1998年)、「法華堂天平美術新論」(『南都仏教』82、2002年)、「年輪に秘められた法隆寺創建―法隆寺論の美術―」(『古代大和の謎』学生社、2010年)等。

中村昌生

没年月日:2018/11/05

読み:なかむらまさお  建築家・建築史家で京都工芸繊維大学名誉教授の中村昌生は11月5日、呼吸不全のため死去した。享年91。 1927(昭和2)年8月2日愛知県名古屋市に生まれる。47年に彦根工業専門学校建築科を卒業後、京都大学工学部研修員を経て、49年に同助手。62年に京都工芸繊維大学工芸学部助教授、73年に同教授となる。1991(平成3)年に定年退官し、同大学名誉教授。同年より2002年まで福井工業大学教授。 日本建築史における数寄屋建築の伝統、とりわけ茶室と生涯一貫して向き合い、この分野での研究を第一人者として牽引するとともに、実作を通じてその継承と普及に努めた。 62年に「初期茶室の基礎的研究」にて京都大学より工学博士号授与。71年には、千利休をはじめとする六人の代表的茶匠の作風を分析し、その造形思想と設計方法を探ることを通じて室町末から江戸初期に至る茶室の形成・展開過程を明らかにした「茶室の研究」(同年に墨水書房より公刊)にて日本建築学会賞(論文賞)を受賞した。 社寺建築においては時代ごとの様式や木割といった意匠や寸法比例の規範が明確に存在するのに対して、数寄屋はそこから逸脱する自由さに本質があり、作者の嗜好と感性に依拠する性格が極めて強い。このことからも、中村において数寄屋や茶室の研究はその設計活動の実践と表裏一体の関係にあり、建築家あるいは茶人として数多くの建物の創作や復元を行ってきた。67年に京都の大工棟梁や工務店関係者などと伝統建築研究会を結成、これを母体として78年に伝統木造建築技術の保存向上を実践する組織として文化財修理を含む設計・施工も行う京都伝統建築技術協会(1980年に財団法人化)を発起人代表として設立する。そして最初に設計を手掛けたのが宝紅庵(山形、1979年)で、特定の流派・流儀に偏らず、茶の湯以外にも多目的に使用できる「公共茶室」という新たな分野を開拓した。「庭屋一如」を理想として掲げた設計作品は数多いが、主なものとして、大濠公園日本庭園茶会館(福岡、1984年)、新宿御苑楽羽亭(東京、1987年)、山寺芭蕉記念館(山形、1989年)、出羽遊心館(山形、1994年)、兼六園時雨亭(石川、2000年)、ギメ東洋美術館虚白庵(パリ、2001年)等がある。91年には白鳥公園「清羽亭」(愛知)の建築設計にて日本芸術院賞を受賞した。 これらのプロジェクトは創作活動の場であると同時に、伝統木造建築技術の伝承と発展のための機会としても常に意識されていた。87年には後継技術者養成を目的とする日本建築専門学校の設立に協力、後に理事長を務めた。さらに、11年には一般社団法人伝統を未来につなげる会を設立し、理事長として伝統木造建築技術の継承普及に尽力した。 数寄屋や茶室を中心とする歴史的建造物の保存への貢献も中村の大きな功績である。桂離宮の昭和大修理に伴って宮内庁が設置した整備懇談会の委員を76年から83年まで務めたほか、86年から03年まで文化庁文化財保護審議会の専門委員を務め、京都府をはじめとする地方自治体でも文化財保護審議会委員として文化財保護行政に助言した。 その他の受賞歴として、98年京都市文化功労者、00年淡々斎茶道文化賞、06年京都府文化賞特別功労賞等。上記以外の主な著作に、『茶匠と建築』(鹿島出版会、1971年)、『日本建築史基礎資料集成20 茶室』(中央公論美術出版、1974年)、『茶室大観1~3』(創元社、1977―78年)、『数寄屋建築集成』(小学館、1978―85年)、『図説 茶室の歴史-基礎がわかるQ&A』(淡交社、1998年)、『古典に学ぶ茶室の設計』(建築知識、1999年)、『茶室露地大事典』(淡交社、2018年:監修)等があり、設計作品集としては『公共茶室―中村昌生の仕事』(建築資料研究社、1994年)、『数寄の空間―中村昌生の仕事』(淡交社、2000年)等がある。

小笠原信夫

没年月日:2018/10/29

読み:おがさわらのぶお  日本刀剣史の研究者である小笠原信夫は、10月29日心筋梗塞により死去した。享年80。 1939(昭和14)年、千葉県香取市佐原に父勤一、母らくの長男として生まれる。62年、早稲田大学政治経済学部を卒業。幼少の頃から日本刀が好きであったと語っており、大学時代に師となる佐藤貫一(寒山)の指導を受け、64年佐藤が設立に加わった財団法人日本美術刀剣保存協会に研究職として採用される。67年、東京国立博物館の学芸部工芸課に転職し、刀剣室員・主任研究官を経て83年刀剣室長、1994(平成6)年、工芸課長を務め、2000年3月退官する。その後10年まで聖心女子大学の非常勤講師として博物館学等を講義した。 専門とした日本刀剣史では、初めは桃山から江戸時代の新刀について、実物作品の作風や銘文の精査、それに当時の刀剣書のみならず随筆などから刀工について再検討を行い、多くの論文を発表した。江戸の刀工については、『長曽祢乕徹新考』(雄山閣、1973年)、「江戸の新刀鍛冶」(『MUSEUM』209・213・225、1968年・68年・69年)、また京、大阪の新刀については、「大阪新刀鍛冶・河内守国助考」(『MUSEUM』197、1967年)、「出羽大掾国路に関する一私考」(『MUSEUM』265、1973年)、「埋忠明寿とその周辺に関する一考察」(『MUSEUM』265、1976年)等がある。 その後研究の幅を広げ、古刀についても実物資料を重視するとともに、室町時代以来の刀剣書の記述内容を再検討し、刀工の系譜や代別等について新たな見解を示した。79年の「長谷部国重についての一考察」(『MUSEUM』338)では相州鍛冶新藤五国光との関係と系譜に新解釈を加え、83年の『備前大宮鍛冶の系譜に関する問題』(『MUSEUM』385)では、これまでの大宮鍛冶と言われていた者は全くの別系統であることを示した。これらの論文のほか、古刀に関しては、「備前長船鍛冶長光の研究」(『東京国立博物館紀要』15、1979年)、「山城鍛冶了戒・信国考」(『MUSEUM』409、1985年)、「正宗弟子説の成立過程―『古今銘尽』開版の諸条件―」(『MUSEUM』495、1992年)等がある。18年、それまでの論文をまとめた『刀鍛冶考―その系譜と美の表現』(雄山閣、2019年、没後刊行)を発刊準備中に亡くなった。 東京国立博物館では特別展「日本のかたな 鉄のわざと武のこころ」(1997年)、特設展観「打刀拵」(1987年)等の展覧会を企画した。

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