本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





長屋勇

没年月日:1961/12/27

洋画家、日展委嘱、新世紀美術協会委員長屋勇は、12月27日午後3時15分東京品川の東芝大井病院で胃ガンのため逝去した。享年68歳。明治26年7月28日山口県佐波郡に生れた。大正6年4月東京美術学校西洋画科本科に入学し、同11年3月同校卒業、続いて研究科に籍を置いた。同13年4月商工省海外実業練習生に命ぜられ渡仏、西洋画並びにポスターの研究をなし、昭和2年5月任期満了で帰朝するまで、ベルギー、オランダ、ドイツ、イタリア、スペイン等に遊学した。大正14年第6回帝展に「老人の肖像」で初入選以来昭和9年まで9回、帝展に入選、昭和11年新文展の無鑑査に推薦せられた。戦後は、昭和21年第2回日本美術展より出品、同27年第8回日展では、「画室にて」で岡田賞を受賞した。同33年第1回新日展の委嘱となり、没前の第4回日展まで、終始穏健な写実風作品を発表した。一方、旺玄社同人、旺玄会委員を経て、昭和30年親友大久保作次郎らと新世紀美術協会を結成、委員として同会の中心的な存在であった。各展覧会に長らく作品発表を続けた。主要作に「渓流」(第6回日展)、「鏡」(第7回日展)、「椿さく庭」(昭和25年、毎日新聞社主催・第4回美術団体連合展)、「新緑の芝公園」(昭和26年、第5回連合展)等がある。なお、昭和16年より多摩美術学校に講師として勤務、以後、多摩美術大学教授、昭和17年より共立女子学園-共立女子大学教授として、逝去に至るまで美術教育に専念した。〔昭和35年物故者追記〕

須田国太郎

没年月日:1961/12/16

洋画家で、日本芸術院会員、独立美術協会会員の須田国太郎は、12月16日、長い間の肝硬変により肝性こん睡のため京都大学病院で逝去した。享年70歳。明治24年6月6日京都市中京区に、麻商彦太郎の次男として生れた。第三高等学校を経て京都帝国大学文学部哲学科に入学、美学美術史を専攻し、大正5年6月卒業した。のち関西美術院に入って洋画を学んだ。大正8年インドを経由してヨーロッパに留学、主としてスペインに滞在し、ヴェネツィア派やスペインの大家の作品を模写、研究して大正12年帰国した。昭和8年以来、京都帝国大学文学部、京都市立美術大学、京都工芸繊維大学、京都学芸大学などで美術史を講じ或いは実技を指導した。昭和31年から翌年にわたって京都市立美術大学の学長代理をつとめた。のち同校名誉教授に推された。また昭和9年には招かれて独立美術協会会員となり、毎年作品を発表し、同22年には日本芸術院会員を命ぜられた。同32年12月から京大病院に入院したが、病床でも筆を捨てず、毎年の独立展に出品した。その作風は、西欧的な画風から次第に東洋的な画風へ移り、褐色を主調とする渋い独自の色調の中に深い精神性をひそめている。そのデッサン力の秀抜さは、現代稀に見るものがあった。代表作には「法観寺塔婆」「唐招提寺礼堂」「歩む鷲」「海亀」「冬」「真名鶴」「フクロウ」などがあり、著作に「グレコ」(アトリエ社、西洋美術文庫)、「ゴヤ」(美術出版社)、「南方バロック」(みすず書房)などの単行図書のほか、諸誌に載せた論文、随想はきわめて多い。略年譜明治24年 6月6日、京都市に生れる。明治42年 3月30日、京都府立京都第一中学校卒業。この間、横山常五郎に学ぶ。大正2年 6月、第三高等学校(一部丙)卒業。大正5年 6月、京都帝国大学文学部哲学科卒業。大正6年 5月、関西美術院入学。大正8年 2月、インドを経て渡欧。主にスペインに留まったが、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ギリシヤ、エジプト等を巡歴。大正12年 7月、帰国。大正14年 9月、和歌山高等商業学校講師となり、美術史を講ず。12月滋賀県神崎郡五箇荘松井氏の五女松井絹子と結婚、昭和3年 6月、全関西展に「丘上の村」出品。昭和5年 6月、関西美術会展に泰西名画の模写発表。昭和6年 長男寛生れる。昭和7年 9月、銀座資生堂に個展開催。昭和8年 9月、和歌山高等商業学校講師を退く。京都帝国大学文学部講師となり、美術史を講ず。昭和9年 3月、独立美術協会会員となる。第4回独立展に「夏の午後」「西班牙の山間」「法観寺塔婆」「唐招提寺礼堂」等16点出品。昭和10年 1月、大阪美術新論画廊に個展。3月、第5回独立展に「水浴」「少女」出品。5月、京都市美術展に「信楽」出品。昭和11年 3月、京都帝大文学部講師を退く。4月、第6回独立美術協会展に「工場地帯」「夏」出品。昭和12年 1月、京都三角堂に個展開催。3月、田7回独立展に「書斉」出品。5月、第2回京都市美術展に洋画部審査員となり「村」出品。6月、大阪美術新論画廊に個展開催。昭和13年 3月、第8回独立展に「修理部」「水田」出品。昭和14年 3月、第9回独立展に「河原」出品。昭和15年 3月、第10回独立展に「海亀」「黄比叡」「卓上静物」出品。4月、銀座資生堂に油絵小品展開催、「坂」「雨」等12点出品。10月、紀元二千六百年奉祝美術展に「歩む鷲」出品。昭和16年 3月、第11回独立展に「戸外静」「月明」「芍薬」出品。11月、新関西美術協会第1回展審査員となる。昭和17年 3月、第12回独立展に「冬」「夏」出品。10月、独立美術秋季展に「きつつき」発表。11月、竹頭会を結成。昭和18年 3月、第13回独立展に「校倉(甲)」「校倉(乙)」、独立美術会員春季小品展に「鷲」出品。10月、第6回文展に「八坂神社西門」出品。昭和19年 2月、第14回独立展「石組」3点出品。10月、戦時特別文展に「河内金剛山」発表。昭和22年 4月、第15回独立展に「叢」出品。7月14日、帝国芸術院会員に選ばる。京都大学工学部講師となり、実技を講ず。昭和23年 4月、京都市立美術大学講師となり、実技を講ず。10月、第16回独立展に「脱衣」を出品。昭和24年 4月、京都大学文学部講師となり、1年間美術史を講ず。9月、京都市立美術専門学校客員教授となる。10月、第17回独立展に「浜(室戸)」「岬(室戸)」出品。昭和25年 2月、自選作品鑑賞展を大阪高島屋に開く。3月、京都大学工学部講師を退く。京都工芸繊維大学工芸学部講師となり、実技を講ず。5月、京都市立美術大学教授および京都市立美術専門学校教授となる。奈良学芸大学講師となる。10月、第18回独立展に「犬」「溜池」「卓上」出品。昭和26年 1月、第2回秀作美術展に「犬」出品。5月第5回美術団体連合展に「牡丹」出品。10月、第19回独立展に「法観寺塔婆」「書斉」出品。昭和27年 1月、第3回秀作美術展に「断崖と漁夫達」出品、3月、京都市立美術専門学校教授を解かる。4月、京都学芸大学講師となり、実技を講ずる。5月、第1回日本国際美術展に「静物」出品。8月、京都国立博物館評議員となる。10月、第20回独立展に「鵜」「棚上静物」出品。昭和28年 1月、第4回秀作美術展に「鵜」出品。5月、第2回日本国際美術展に「動物園」出品。10月、第21回独立展に「マナヅル」「走鳥」「イヌワシ」出品。9月、国立公園絵画展に「春の来島海峡」出品。昭和29年 1月、第5回秀作展に「春の来島海峡」出品。5月、第1回現代日本美術展に「樹下」出品。10月、第22回独立展に「芥子」「八幡平(焼山)」出品。昭和30年 1月、第6回秀作展に「芥子」出品。5月、第3回日本国際美術展に「杉」出品。10月、第23回独立展に「窪八幡」「檮原」出品。昭和31年 1月、第7回秀作展に「窪八幡」出品。2月、京都学芸大学講師を退く。5月、第2回現代美術展に「老馬」出品。7月、京都市立美術大学学長代理となる。10月、第24回独立美術展に「ある建築家の肖像」「るりみつどり」出品。ヴェニス、ビエンナーレ展に出品。昭和32年 2月、神奈川県立美術館に於て北川民次と二人展開催。5月、京都市立美術大学学長代理を解かる。第4回日本国際美術展に「魚市場」出品。10月、第25回独立展に不出品。昭和33年 3月、奈良学芸大学講師を退く。10月、第26回独立展に「偶感」出品。昭和34年 1月、関西画壇の向上に貢献した功績により、毎日美術特別賞を受ける。10月、第27回独立展に「鉱山」出品。昭和35年 8月、京都市立美術大学教授を退く。同大学名誉教授の称号を受ける。京都国立博物館評議員を解かる。昭和36年 10月、京都市篤志者として表彰される。12月16日、京都大学病院で死去。従四位、勲3等に叙せられ、瑞宝章を授けらる。12月22日、正四位、勲3等に叙せらる。

大隅為三

没年月日:1961/11/23

美術評論家大隅為三は11月23日大動脈腫ようのため東京都品川区の自宅で逝去した。享年80歳。明治14年滋賀県に生れ、哲学館大学(現東洋大学)を卒業、明治38年渡仏、ソルボンヌ大学考古学科に学び大正3年帰国、在仏中フランス政府よりレジオン・ド・ヌール賞をうけている。帰国後は、ギリシヤ美術の研究、古渡更沙の研究から、更に一般美術批評に従事し、東洋大学、金沢市立美術工芸大学、多摩美術大学で教鞭をとっていた。主な著書に、「ギリシヤ・レキトス」「満蒙美観」「ギリシヤ芸術」「古渡更沙」などがある。

吉野富雄

没年月日:1961/11/08

文化財専門審議会専門委員吉野富雄は11月8日肺臓癌のため、東京都葛飾区の自宅で逝去した。享年77歳、明治18年4月1日千葉県茂原市で生れた。明治43年東京美術学校漆工本科を卒業、大正6年帝室博物館に入り、昭和4年から8年迄は東京美術学校講師をつとめていた。又昭和15年から25年まで重要美術品等調査委員会臨時委員を依嘱され、また、文化財専門審議会発足後は第一分科会工芸品部会の専門委員となっていた。東京芸術大学講師でもあり、特に漆の技術面で豊富な経験と高い識見をもっていた。

井川洗厓

没年月日:1961/10/13

挿絵を描いて知られた井川洗厓は、10月13日神奈川県厚木に於いて死去した。享年86歳。明治9年5月1日岐阜市に生れ、明治25年大阪に出て、稲野年恒に師事し人物画を学び、後上京して富岡永洗に就いた。明治39年都新聞社に入り、挿絵を担当したのを初めとして、以後各雑誌の挿絵を執筆して、有名となった。昭和13年以後は、挿絵界を引退し、その後は専ら美人画を描いていた。

麻生豊

没年月日:1961/09/12

漫画家麻生豊は9月12日に心臓衰弱のため浦和市の自宅で死去した。64歳。彼は1898(明治31)年大分県宇佐郡に生れた。1923(大正12)年より5年にわたって報知新聞に勤務し、1924年から「ノンキナトウサン」を連載し好評を得た。1929(昭和4年)より読売新聞社、1932(昭和7)年より朝日新聞社勤。この間「人生勉強」「只野凡児」を連載し、わが国の新聞連載漫画の草分けの一人となった。

木内省古

没年月日:1961/08/23

日本工芸会理事で、木画及撥鏤の技持に対して無形文化財の選定をうけていた木内省古は8月23日脳軟化症のため逝去した。享年79歳。本名友吉。明治15年7月東京向島で生れた。幼児から祖父喜八、父半古の指導をうけ三代にわたる家業の指物、螺鈿、木象嵌を学び、又、竹内久一、前田貫業に師事して彫刻、上代様の画法、書法を修得した。明治37年以降は、父半古に従って正倉院御物整理掛に出仕し、木画、螺鈿、撥鏤等の修理、復原、模作に従事するかたわら、天平文様の意匠、色彩を会得して玳★装、木画等に工芸、絵画、彫刻等各種技術を混然融合させる境地をひらいた。又大正年間には、朝鮮李王家美術品製作所に勤務して、半島、大陸の工芸技術を修得し、その作域をひろめている。代表的作品は多いが、主なものに正倉院御物紫檀木画双六局(昭和7年模作、東京国立博物館蔵)紫檀木画手筥(大正14年パリ万国装飾美術工芸博出品、金賞受賞)などがある。昭和28年文化財保護委員会より木画及び撥鏤の技術保存のため助成の措置を講ずべき無形文化財として選定され、翌29年東京芸術大学講師に任ぜられたが、生涯の大半を在野の一作家として終始し、ほとんど独力によって古来の伝統工芸技術の保存とその向上発展につとめた。その生前の功により没後の10月8日、褒賞条例により追章が贈られた。

西田武雄

没年月日:1961/07/26

戦前、東京麹町に室内社画堂を経営し、夙くエッチング技法の推進普及につとめ、日本近代美術史の在野研究家として知られた西田武雄は、7月26日、昭和20年疎開したままの郷里、三重県一志郡で脳溢血のため死去した。号、半峰。享年67歳。明治27年7月11日三重県一志郡で、西田清蔵の5男として生れた。7歳の時横浜市大川福松家の養子となる。同42年横浜商業学校に入学、大正3年同校在学中、第8回文展に水彩画「倉入れ」が入選した。同7年東京本郷洋画研究所に入り岡田三郎助の指導を受けた。同10年支那旅行に出向き、上海にて天然痘にかかり2ヶ月入院、その間日本倶楽部で個展を開き、12月漢口へ出発、北京、天津、大連を経由して、翌11年8月帰国した。同14年日米ビルに画堂室内社を開き、芝川照吉、石井鶴三、木村荘八、小杉未醒、石井柏亭、田辺至、岡田三郎助、中沢弘光らの個展を催した。同15年6月丸善と共同主催にて燕巣会第1回展を開いた。昭和2年燕巣会第2回展を開く。同年日米ビルより麹町に移転した。同5年木星書院より「エッチングの描き方」を発行した。同6年「西田武雄デッサン集」を出版。「アサヒグラフ」へ正木不如丘作「第二診察簿」にエッチング挿絵を描く。同7年雑誌「エッチング」を創刊。同8年「画工志願」を出版、同10年「アサヒグラフ」(25巻10号)へ「回顧70年明治初期洋画」を執筆する。同13年4月麹町室内社画堂にて旧草土舎展を開く。また5月には銀座資生堂画廊にて岸田劉生展を開催し、7月には広山インキ株式会社を設立した。同14年一ツ橋高商図書館の蔵書票をエッチングで作製した。「みづゑ」419号に「岡田三郎助」を書く。同20年室内社画堂戦災に遭い郷里三重県一志郡に疎開、農家に居住した。妻女と別居し、以来郷里の新聞雑誌に寄稿、孤独を紛す為各地の知友にハガキ絵或いは狂歌を書き送った。同27年「アトリエ」9月号に「日本美書考」を執筆。この年1月1日よりハガキ絵と狂歌の普及を志して精励し、同36年7月26日没するまで、その発送のハガキ(7月23日発送の分が絶筆)が26,744通に達したという

細島昇一

没年月日:1961/07/14

水彩画家細島昇一は、7月14日中野区の自宅で、脳溢血のため死去した。享年66歳。明治28年栃木県真岡市に生れ、栃木県師範学校を卒業後、久しく教員職にあり、昭和9年日本水彩展に「賓頭廬尊者」を出し、N賞を得て会員となった。その後図画教育書の編纂にたずさわり、その傍ら財団法人育英奨学会を創立し主事となる。戦後再び教職に戻り、昭和24年日本水彩画会幹事となり同会の運営に当った。また27年には示現会会員となり日展にも入選している。尚日本水彩画会会誌19号には多くの追悼の辞がよせられている。

柳宗悦

没年月日:1961/05/03

日本民芸運動の創始者であり、その運動を発展させ、それに理論的な根拠を与えた日本民芸館長柳宗悦は5月3日脳出血のため都内目黒区駒場の日本民芸館で死去した。72歳。略年譜1889(明治22)年 3月2日東京に生れる。1910年 友人志賀直哉・武者小路実篤らと「雑誌」「白樺」創刊。このころバーナード・リーチ(銅版画家、のち陶芸家)を知り、ブレークや民芸運動についてのちのちまで相互に影響し合う。1911年 「科学と人生」(籾山書店」出版。学習院高等科卒。1913(大正2年) 東京帝国大学文学部卒(心理学専攻)。1914年 「ヰリアム・ブレーク」(洛陽堂)出版。1919年 東洋大学宗教学教授就任(~1923年)。1921年 明治大学予科倫理学および英文講師就任(~1924)。「宗教的奇跡」(叢文閣)、「ブレイクの言葉」(叢文閣)刊行。1922年 「朝鮮の美術」(私版本)、「朝鮮とその芸術」(叢文閣)、「陶磁器の美」(私版本)、「宗教の理解」(叢文閣)刊行。1923年 「神に就て」(大阪毎日新聞社)刊行1924年 朝鮮京城府緝敬堂に朝鮮民族美術館を設立し朝鮮における蒐集品を陳列。1925年 京都同志社女学校専門部教授に就任。「木喰上人作彫刻」(木喰五行研究会)、「信と美」(警醒書店)出版。1926年 同志社大学英文科講師、関西学院英文科講師に就任(~1929年)。「木喰上人和歌集」(木喰五行研究会)刊行。1927(昭和2年) 「雑器の美」(工政会)刊行1928年 「宗教とその真理」(叢文閣)、「工芸の道」(グロリア・ソサエティ)刊行。1929年 米国ハーバート大学講師として渡米。「工芸美論」(万里閣)、「日本民芸図録」「初期大津絵」(工政会)刊行。1930年 ヨーロッパを廻って帰国1931年 月刊雑誌「工芸」創刊(第二次大戦後120号で廃刊まで重要な論文を掲載)、「ブレイクとホヰットマン」(2年間続いた月刊雑誌、寿岳文章との共著出版)。1933年 「民芸の趣旨」(私版本)、「蒐集に就て」(私版本)刊行。米国ハワイ大学講師としてホノルルに滞在。1934年 「美と工芸」(建設社)刊行。1935年 「美術と工芸の話」(章華社)刊行。1936年 日本民芸館開設。館長に就任。「Folk Crafts in Japan」(国際文化振興会)、「茶道を想ふ」(私版本)刊行。1937年 国際女子学園講師に就任。「美の国と民芸」(私版本)刊行。1938年 第1回沖縄旅行(沖縄県学務部の招聘による)。1939年 民芸協会同人と共に再度渡島し、調査と蒐集や製作指導を行った。雑誌「月刊民芸」創刊、(編集・式場隆三郎)1940年 専修大学教授に就任(~1944年)。「富本憲吉、河井寛治郎、浜田庄司作品図録」(民芸協会発行)、「琉球の織物」(民芸協会発行)刊行。1941年 東洋美術国際研究会常務理事に就任。「民芸とは何か」(民芸叢書・昭和書房)「茶と美」(牧野書房)、「工芸」(創元社)発行。1942年 「工芸文科」(文芸春秋社)、「工芸の美」(私版本)、「私の念願」(不二書房)、「美と模様」(私版本)、「藍絵の猪口」(工芸選書・私版本)、「雪国の蓑」(工芸選書・私版本)「琉球の陶器」(編集・民芸叢書・昭和書房)、「現在の日本民窯」(編集・民芸叢書・昭和書房)出版。1943年 「日田の皿山」(私版本)、「木喰上人の彫刻」(工芸選書・私版本)、「諸国の土瓶」(工芸選書・私版本)、「信と美」(新版)1944年 「和紙の美」(私版本)1945年 戦争苛烈のため3月に民芸館を閉鎖したが、12月には再開。1946年 日米教育委員となる。1947年 「民芸館案内」(私版本)刊行。1948年 「手仕事の日本」(靖文社)、松ヶ岡文庫の理事長となる。1949年 「美の法門」(私版本)刊行。1950年 「妙好人因幡の源佐」(大谷出版社)刊行。1951年 雑誌「大法論」に「南無阿弥陀仏」を21回にわたり連載しはじめる。1952年 柳個人の所有である住宅、敷地、調度の一切を民芸館に寄贈し、その登記を終る。国際工芸家会議に列席のため毎日新聞文化使節を兼て渡欧米。1953年 2月帰国。ホノルル大学での講演が「The Responsibility of Craftes Man」、「The Way of Tea」としてホノルル大学によって刊行。1954年 「柳宗悦選集」全10巻(「手仕事の日本」、「工芸文化」、「朝鮮とその芸術」「琉球の人文」、「物と美」、「民と美」がこの年出版)(春秋社)、「日本民芸館」(20周年記念私版本)刊行。1955年 選集(「工芸の道」、「茶と美」、「木喰上人」、「大津絵」、「南無阿弥陀仏」(大法論閣)刊行。1956年 「蒐集物語」(中央公論社)、「民芸の立場」(私版本)、「丹波の古陶」(私版本)刊行。12月重病に倒れる。1957年 7月から小康を得て執筆再開。文化功労賞授賞。沖縄タイムズより沖縄文化の貢献者として感謝状を受ける。「無有醜好の願」(私版本)出版。1958年 「民芸四十年」(宝文閣)、「棟方志功の板画」(筑摩書房)、「茶の改革」(春秋社)刊行。1959年 「心偈」(私版本)刊行。富山県砺波郡城端別院客舎の前庭に美の法門の記念碑建設される。1960年 朝日文化賞授賞。「民芸図鑑」第一巻(宝文閣)、「大津絵図録」(三彩社)、宗教選集(「南無阿弥陀仏」「宗教随想」、「宗教とその真理」)(春秋社)、「美の浄土」(私版本)、「日本の民芸」(宝文閣)刊行。1961年 「民芸図鑑」第二巻(宝文閣)、「法と美」(私版本)、宗教選集(「宗教の理解」)、「船箪笥」(私版本)刊行。5月3日永眠。5月7日、日本民芸館葬が行われた。

斎藤隆三

没年月日:1961/04/08

日本美術院常任理事、文学博士斎藤隆三は、4月8日茨城県北相馬郡の自宅で老衰のため死去した。享年86歳。明治8年4月6日同地に生れ、同35年東京帝国大学文科大学国史科を卒業し、明治40年より大正5年迄三井家家史並に事業史編纂の仕事に携った。大正3年日本美術院の再興に際し、横山大観らと経営者の一人となり、常任理事として今日に至った。昭和7年「江戸時代前半期の世相と衣裳風俗」の論文により文学博士となり、17年には財団法人岡倉天心偉績顕彰会専務理事となった。著書多く、主なものは次の通りである。守谷志 明治33年元禄世相志 明治38年近世世相史 明治42年新美術史 大正6年画題辞典 大正8年美術行脚古社寺めぐり 大正10年江戸趣味 昭和2年江戸時代前半期の世相と衣裳風俗 昭和8年江戸時代の風俗(岩波歴史講座) 昭和9年模様小袖講座(国際写真情報) 昭和6~10年江戸のすがた 昭和11年近世の飲食 昭和12年赤穂義士の考察 昭和12年Japanese coiffure(国際観光局叢書) 昭和14年近世世相史概観(創元選書) 昭和15年大痴芋銭 昭和16年日本美術院史(創元社) 昭和19年芸苑今昔 昭和23年史郷守谷 昭和30年芸苑雑筆 昭和32年横山大観(中央公論美術出版) 昭和33年岡倉天心(弘文館人物叢書) 昭和35年

小宮康助

没年月日:1961/03/24

重要無形文化財「江戸小紋」の保持者小宮康助は3月24日肺気腫のため都立墨田病院で逝去した。本名定吉。享年78歳。明治14年東京都墨田区に農家の二男として生れた。12歳頃浅草小紋染をしていた浅野茂十郎に弟子入りして小紋染の技術を学んだ。26歳のとき独立し、昭和4年水質の関係で現住所の中川辺りに居を移し、以来江戸小紋の染上げに苦心を重ねた。こまかな模様染にすぐれ、とくに品のある独自の美わしい発色には定評があり、昭和30年1月重要無形文化財に指定された。

小柴錦侍

没年月日:1961/03/24

洋画家小柴錦侍は、3月24日直腸癌のため死去し、東京四谷イグナチオ教会で葬儀が行われた。享年72歳。明治22年日本に於ける石版印刷の創始者として有名な、小柴英の二男として、東京都千代田区に生れた。九段暁星中学を終え、明治44年東京高等工芸学校を卒業後フランスに留学、9年間同地に滞在し、大正9年帰朝した。フランスではモーリス・ドニのアカデミー・ランソンに入学し、更にルーブル美術館学校に学び、欧州各国の絵行脚等もしている。帰国後は帝展に宗教画を多く発表し、第2回帝展「美しき五月マリアの月」、第4回「花つみて主の御母にささぐ」第7回「卒世やさしいサンタ・マリア」等があり、いづれも特選になっている。日本では、松岡寿、満谷国四郎、和田英作等に教えをうけ、帝展の他、創元会にも出品がみられる。戦時中は、軽井沢星野温泉に疎開し、制作をつづけていた

清水礼四郎

没年月日:1961/03/20

彫刻家、京都学芸大学助教授清水礼四郎は3月20日朝、京都市左京区の自宅で、ゼンソク、心臓衰弱のため死去した。享年45歳。大正4年9月18日京都市東山区五条坂の陶芸の名家、5代目清水六兵衛の4男として生れた。現芸術院会員6代目六兵衛の実弟にあたる。昭和8年3月京都市立美術工芸学校卒業、同13年3月東京美術学校彫刻科塑造部を卒業、続いて同校研究科に進み、同15年3月修業した。在学中の昭和12年第1回文展に入選し、以来2600年奉祝展をはさみ、第6回文展まで連続入選した。終戦直前の同21年7月住居を京都に移し、同25年京都学芸大学彫刻科に講師として奉職、同27年同大学助教授となった。一方、戦後の日展にも作品を発表し、第5回日展(昭和24年)では「過ぎにし日」で特選に挙げられ、同34年まで毎年入選を続けた。戦前戦後を通じ、京都市展や関西総合美術展で授賞したり、審査員を勤めるなど、また日本彫塑家クラブ関西支部展などで、関西彫塑界の中心的な存在として活躍したが、これからという業半ばで逝ったことは惜しまれる。

赤堀佐平

没年月日:1961/03/09

独立美術協会会員赤堀佐平は、3月9日朝胃ガンのため東京都下、立川中央病院にて死去した。享年57歳。明治37年3月31日岡山県勝田郡に生れ、大正13年3月大阪の関西甲種商業学校(現、関西大学附属一高)を卒業、しばらく家業を継いだが、昭和3年上京して洋画家を志し、東京代々木三谷の1930年協会洋画研究所に学んだ。同7年には第2回独立美術展に初入選し、同13年第8回展には、「岩と舟」「立木」で独立賞を受けた。同17年同会会友に、同19年準会員に推薦された。同19年第二次大戦のため郷里に疎開、戦後疎開中の同23年会員となった。翌年郷里より再び上京、都下南多摩郡の田園色豊かな環境にある農家の二階に妻子3人の戦後の画生活があった。傍ら南多摩郡稲城村の同村立第一小学校の教員を上京の年より同28年まで勤めた。昭和37年3月19日より25日まで、知己、先輩、同窓の多くが相寄り、銀座の文芸春秋画廊で遺作展を開催した。

西村貞

没年月日:1961/03/03

美術史家西村貞は3月3日腎臓腫瘍のため京都府立医大病院で死去した。67歳。1893(明治26)年12月12日大阪市に生れた。松原三五郎に洋画を習い、絵画専門学校に学び、明治大学中退後、主としてルネッサンス絵画を研究して1921(大正10)年から1923年にかけて欧州遊学。帰国後日本美術研究に転じ、奈良県下に石仏を調査した。そののち日本における西洋美術の受容に関する研究に進み、この間その研究の一環として茶道・庭園の研究も行った。彼は在野の研究家にふさわしく、官学派の美術史家が見落しがちな石仏・キリスト教初期洋風画等を精力的に調査し、その分野に最も基本的な諸研究を残した。「民家の庭」(1953、美術出版社)は1954年度毎日出版文化賞を受けた。主要著書目録「画の科学」(1928、中央美術社)、「南都石仏巡礼」(1929、太平洋書房)、「黄檗画像志」(1934、創元社)、「日本銅版画志」(1941、書物展望社)、「フラ・アンジェリコ」(アトリエ社)、「奈良の石仏」(1943、全国書房)、「日本初期洋画の研究」(1945、全国書房)、「キリシタンと茶道」(1948、全国書房)、「民家の庭」(1953、美術出版社)、「庭と茶室」(1955、講談社アートブックス)、「庭と茶室」(1957、講談社)、「南蛮美術」(1959、講談社)、「日本版画美術大系・民俗版画篇」(藤沢衛彦と共著、1961、講談社)、「キリシタン美術」(共編1961、宝文館)

龍居松之助

没年月日:1961/02/16

文化財専門審議会専門委員龍居松之助は、2月16日動脈硬化のため中野区の自宅で逝去した。享年77歳。号は枯山。明治17年1月9日、参事院書記生龍居頼三の長男として東京市京橋区に生れた。東京府立四中、学習院高等科を経て東京帝国大学文科大学の国史家に学び、明治44年卒業した。大正6年、同大学院に学び「我邦近世の住宅及び庭園の研究」をテーマとした。この前後から青山学院高等部講師、日本女子大学教授をつとめ、文化史を講じていた。大正7年、北支那、殊に北京を中心とする住宅、庭園の視察旅行を行い、また同年日本庭園協会を創立した。つづいて大正13年、同志と私立東京高等造園学校を設立、さらに日本造園学会、日本造園士会の設立にも参加、また早稲田大学理工学部、早稲田高等工学校で造園史の講義をするなど活発な動きを示している。昭和9年文部省より史蹟名勝天然記念物調査委員を委嘱され、戦後の昭和26年、文化財保護法設立に伴い文化財専門審議会名勝部会の委員となり32年までつとめた。造園学校は、昭和17年東京農大と合併し、農大教授となったが32年退職、早大も又30年に退職した。大正9年龍居庭園研究所を創設、公私園の設計、施工監督を手がけたもの多く、古名園の修理復旧にも従事し、また著書も多い。晩年の昭和33年、庭園保存事業の功により紫綬褒章を授与された。主要著書「大江戸の思い出」「女性日本史」「日本名園記」「日本式庭園」「近世の庭園」GARDENS OF JAPAN」

中野勇

没年月日:1961/01/31

東京学芸大学教授中野勇は1月31日狭心症のため東京都世田谷区の自宅で逝去した。享年63歳。明治30年7月19日東京都港区で生れた。大正15年、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、更に大学院に学んだ。昭和4年から10年まで、同大学研究室副手を勤める傍ら、法制大学予科(昭和3年-9年)、成城高等学校(昭和8年-11年)の講師となった。昭和13年国際文化振興会に入り、副参事として、また調査部長として、日本文化の海外紹介のため、我国文化関係出版物の文献目録作成の仕事に当っていた。昭和21年から25年まで龍村織物研究所々員となり正倉院裂、古代裂の調査研究に従事した。その後、多摩美術大学講師(25年-26年)を経て、26年東京学芸大学教授となり、美学美術史を講じ、美術史方法論の研究に主力を注いでいた。著書に、ヴォーリンガ「ゴシック美術形式論」(昭和19年座右宝刊行会発行)の訳書がある。

若山為三

没年月日:1961/01/28

春陽会々員若山為三は、1月28日午前4時10分東京都世田谷区の自宅で脳内出血のため死去した。享年66歳。明治26年3月30日広島市に生れ、広島県立忠海中学を中途退学して同42年上京、同43年太平洋画会研究所に入って満谷国四郎に洋画の指導をうけた。大正11年渡仏し、5月パリのアカデミー・ランソンでモリス・ドニに就き、またアカデミー・グランショミエールでシャルル・ゲランに同13年初めの帰国まで学んだ。同14年第3回春陽会展に初出品し、昭和2年第5回春陽会展に、「浴後の幼児」他4点で春陽会賞を受けた。同5年第8回展にて、それまでの受賞者として無鑑査推挙となり、同9年春陽会々員に推挙された。以後死去に至るまで春陽会展に専ら作品を発表した。

佐々木象堂

没年月日:1961/01/26

蝋型鋳造の無形文化財保持者佐々木象堂は、1月26日新潟県佐渡郡の児玉病院で急性肺炎のため死去した。78歳。彼は本名を文蔵と云い、1882(明治15)年3月14日に新潟県佐渡郡に生れたが、戸籍面は2年後の同月同日生になっている。1897年に、河原田小学校を卒業し、17歳ごろ画家を志して上京したが極度の近視眼のため帰郷し、1901年より佐渡郡沢根町宮田藍堂(初代)に蝋型鋳金を学び、1907年5月より河原田町で鋳金家として自立した。1913(大正2)年上京し農商務省(図案及応用作品)展(第一回)に出品入選し、また東京鋳金会展、日本美術協会展などに出品し、宮内省より数度買上げられた。1915・6年から象堂を号としている。1922年平和博覧会出品の「鋳銅菊花丸紋花瓶」は金牌を受賞した。1927(昭和2年)新たに工芸部が設けられた第八回帝展に出品した「鋳銀孔雀香炉」に特選を得て宮内省買上げとなる。1929年11月帝国美術院推薦となり、同年第10回帝展出品「金銅鳳凰置物」も特選となる。以後1931、1932、1934年に帝展審査員を務め、1935年には帝国美術院参与に推薦となる。1936、1937、1939年に文展審査員を務め、1940年には日本工芸美術展に展覧会委員依属となる。1938年には新潟市に越路焼窯新潟陶苑を興し、1945年まで郷土の陶器製作と弟子の養成にたずさわった。1944年戦禍を避けて佐渡に疎開し、戦後1947年真野町に真野山焼窯を創設し、再び陶芸と子弟を養成する。1945年より日展に依属出品を続け1953年より第5回日本伝統工芸展に蝋型鋳銅置物「釆花」を出品し文化財保護委員長賞受賞、同じく6回展には「蝋型鋳銅置物・瑞鳥」に日本工芸会総裁賞を受賞し、共に文化財保護委員会の買上げとなった。1960年4月重要無形文化財蝋型鋳造技術保持者と認定され、名実共に鋳金界の最長老の一人として活動していた。

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