棟方志功

没年月日:1975/09/13
分野:, (版)

木版画家で文化勲章受賞者、棟方志功は、9月13日午前10時5分、肝臓ガンのため東京都杉並区の自宅で死去した。享年72歳。棟方志功は、明治36年(1903)、青森市の刃物鍛冶屋の15人兄弟のうちの3男に生まれ、青森市立長嶋尋常小学校を卒業後、給仕の職など働きながら画家を志して大正13年(1924)上京、独学で絵を学んだ。白日会展、帝展などに出品、版画制作へむかったのは、大正14年、川上澄生の版画「初夏の風」をみて感動したことにはじまっている。版画家平塚運一前田政雄らを知り、春陽会展、日本創作版画協会展、国画会展などに出品したが昭和11年(1936)第11回国画会展に出品した「瓔珞譜大和し美し版画巻」が柳宗悦河井寛次郎浜田庄司らの注目を集め、棟方版画の出発点となった。以後、「釈迦十大弟子」(昭和14年)、「鐘溪頌」(昭和20年)、「湧然する女者達々」(昭和29年)などをつぎつぎと発表し、昭和30年第3回サンパウロ・ビエンナーレ展、同31年第28回展ヴェネチア・ビエンナーレ展でそれぞれ版画部門グラン・プリを受賞し、国際的な名声をうるにいたった。その後も、「群生の柵」(昭和32年)、「飛流の柵」(昭和33年)「円空の柵」(昭和36年)、「恐山の柵」(昭和38年)、「大世界の柵、乾」(昭和44年)などを発表し、昭和45年(1970)第11回毎日美術賞、同年、文化勲章を受章し、文化功労者に指定された。昭和38年ころから極度に視覚が弱くなったが、ときに縄文的とか、青森の祭ねぶたのエネルギーとかと評される奔放な作風と旺盛な制作意欲は変ることなく晩年まで続いた。また、独特の文体をもった随想・随筆でも知られた。著書に『板画の話』(宝文館、昭和29年)、『板極道』(中央公論社、昭和39年)ほかがある。
棟方志功年譜
明治36年(1903) 9月5日、青森市で生まれる。父鍛冶職棟方幸吉、母さだの三男。
大正5年 3月、青森市立長嶋尋常小学校を卒業。家業の鍛冶職を手伝う。このころ、凧絵とネブタに熱中し、武者絵を描く。
大正9年 10月25日、母さだ死去、享年41歳。この年、青森地方裁判所弁護士控所の給士となる。
大正10年 秋、友人松木満史、古藤正雄、鷹山宇一ら3名と洋画の会「青光社」をつくり、第1回展覧会を日本赤十字社青森支部で開く。このころから、松本、古藤両名と「貉の会」をつくり、文学、演劇を研究、『ドモ又の死』の上演、『その妹』の朗読会などを行う。この会は週1回集まり、約1年半続く。
大正13年 9月、絵の修業のため上京し、伯母よねの知り合いに当たる渡辺勝兵衛宅に下宿する。毎月、よねと次兄賢三より10円ずつの送金を受ける。
大正14年 4月、5回国画創作協会展で川上澄生の版画「初夏の風」を見て感銘を受ける。10月26日、父幸吉死去。享年56歳。
油絵「清水谷風景」白日会に入選する。このころから約1年半、紀尾井町の東京教材出版社に勤める。渡辺勝兵衛の紹介で生涯の後援者島丈夫と相識る。
昭和3年 春、同郷の先輩下沢木鉢郎の紹介で版画家平塚運一に会い、版画の道に入る。
平塚、前田政雄、深沢索一、畦地梅太郎らと刀画房より刊行の版画誌『版』に同人として参加。
8回日本創作版画協会展に初めて7点出品し、4点陳列され、自信を得る。6回春陽会展に版画7点を出品、3点入選。10月、油絵「雑園」で第9回帝展に初入選、5年ぶりに帰郷する。
「冬の景色」「ボンネットの花売娘」「貴女たち3人」(のち「聖堂に並ぶ3貴女」と改題)「夏衣松の木」(8回日本創作版画協会展) 「聖堂を帰る人々」(のち「貴女ら聖堂を出る」と改題)
「星座の絵」「箒星をみる人々」(のち「貴女ら箒星を見る」と改題)(6回春陽会展)
昭和4年 中野区の松木満史のアトリエで2人で共同生活に入る。
9回日本創作版画協会展に「貴婦人と蝶々7」など3点出品。
「貴婦人と蝶々」「花か蝶々か」「星座に命名する二人の女」(9回日本創作版画協会展)
昭和5年 4月9日、赤城チヤと結婚。
国画会展にはじめて「群蝶」など4点を出品し、入選する。
生活費を得るため、四色摺り版画数枚1組の芝居絵「白野弁十郎」を制作、帝劇で販売する。
「群蝶」「ベツレヘムに聖堂を観る」「貴女行路」「貴女裳を引く」(5回国画会展)
昭和6年 4月、神田鈴蘭通りの文房堂で第1回個展を開く。
白日会より油絵「猫と少女」で白日賞を受け、会友に推される。
この年、同会を脱会。
4月、これまで各展に出品したものより9点を選び収めた処女版画集『星座の花嫁』を、東京・渋谷区代々木山谷の創作版画倶楽部より刊行。
6月、郷里青森で長女けよう生まれる。日本創作版画協会と洋画版画会が合併し、日本版画協会となる。
9月、その第1回展を開き、「蟹集まる集まる」など5点を出品する。
秋、島丈夫の縁で新潟県南蒲原郡の田下家、同県中蒲原郡の長谷川家に滞在する。
「禽虫2題」「十和田奥入瀬」(6回国画会展)「蟹集まる集まる」「犬吠崎2題」「十和田」「里芋ばたけ」(1回日本版画協会展)
昭和7年 5月、7回国画会展に4点出品、うち「亀田・長谷川邸の裏庭」で国画会奨励賞を受ける。
この年、郷里より上京した家族と中野区に住む。
「亀田・長谷川邸の裏庭」はボストン美術館、「青森・合浦の公園」はパリ・リュクサンブール美術館の買い上げとなる。
日本版画協会2回展に「鯨群がる」「渦巻く鳴門」(のち「竜飛渦巻く」と改題)を出品。
この年、日本版画協会会員となる。
「合浦・青森の公園」「越後・加茂にての庭」「亀田・長谷川邸の裏庭」「亀田・長谷川邸の内園」(7回国画会展)
「鯨群がる」「竜飛渦巻く」(2回日本版画協会展)
昭和8年 7月8~10日の3日間、日本赤十字社青森支部で棟方志功後援会主催による個展を開催。10月、長男巴里爾生まれる。
白と黒社より『棟方志功画集』を刊行、同じく白と黒社より棟方志功手摺版画集『北方の花』を出版する。
7年から8年にかけて、料治熊太編集の二つの版画誌『白と黒』及び『版芸術』に、毎号のように作品が掲載される。
「十和田奥入瀬4題」「季節々々の花籠」(8回国画会展)
「桃真盛り」「証々寺の庭」「薬師寺の庭」(3回日本版画協会展)
昭和9年 堀口大学の『ヴェニュス生誕別冊画譜』9柵を彫り、裳鳥会より刊行する。
「海峡寺・桜の庭」「青森・瀬野村の山」「青森・蛸田村の沼」(9回国画会展)
「首の鳥」「昔の鳥」(4回日本版画協会展)
昭和10年 10回国画会に出品した「万朶譜 146」(7柵)により国画会会友に推される。
9月、次女ちよゑ生まれる。
「万朶譜」(10回国画会展)
昭和11年 3月、ベルリンオリンピック芸術競技に版画「ラジオ体操」「ウオーミングアップ」の2点を出品。
4月、11回国画会展に出品の佐藤一英詩「大和し美し版画巻」(20柵)が契機となり、柳宗悦河井寛次郎浜田庄司富本憲吉、水谷良一らの知遇を受ける。夏、河井に招かれ、40日間、京都の河井宅に滞在する。その間、昼は京都の神社仏閣を見学し、夜、河井から経典の講義を受けた。
12月発行の雑誌『工芸』71号を棟方志功特集号とし、柳宗悦「棟方のこと」、河井寛次郎棟方志功君のこと」を掲載して、志功を世に紹介する。
この年の暮れ、水谷良一の提唱で棟方志功後援会が発足し、柳、河井、浜田、浅野長量、武内潔真らが会員となる。
この年、「『古事記』の神々」を制作する。
「瓔珞譜大和し美し版画巻」(11回国画会展)「ラジオ体操」(ウオーミングアップ)(ベルリンオリンピック芸術競技)
昭和12年 「華厳譜」(23柵、改刻5、計28柵)、佐藤一英の連詩による拓摺板画「空海頌」(54柵)、同じく佐藤一英の詩「鬼門」をモチーフとした「東北経鬼門譜」を発表する。
このころより蔵原伸二郎を通じて、保田興重郎、中谷孝雄、前川佐美雄、淀野隆三らの作家、詩人との交際が始まり、単行本の装幀を手がける。
春陽堂の「少年文庫」中、山村暮鳥『鉄の靴』、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の挿絵を描く。
10月、銀座・鳩居堂で日本民芸館主催「第1回新作展」に「東北経鬼門譜」を出品。
「曼陀羅譜そらうみのたたへ版画冊」(12回国画会展)
「東北経鬼門譜」(日本民芸館主催第1回新作展)
昭和13年 10月、第2回文展に「善知鳥板画巻」(31柵)のうち9点を出品、特選となる。
12月、河井寛次郎の紹介で倉敷・大原孫三郎邸の襖に「五智如来」を描く。この年、初めて裏彩色によって柔らかい味わいのある棟方板画の第一作「観音経板画巻」(35柵)を制作し、日本民芸館展に出品する。
「開闢譜東北経鬼門版画屏風」(13回国画会展)
「善知鳥版画巻」(第2回文展)「観音経版画巻」(日本民芸館展)
昭和14年 板画「釈迦十大弟子」(12柵)を制作し、翌年この作品を15回国画会展に出品し、佐分賞を受ける。(なお両端に位置する普賢、文殊の板木のみ戦災で焼失し、戦後改刻する)なお、14回国画会のポスターを会より委嘱されて制作する。
「菩提譜観音経版画曼荼羅屏風」(14回国画会)
昭和15年 保田興重郎の啓示により、上田秋成の小説『雨月物語』中の一挿話、夢応の鯉魚を板画にした「夢応鯉魚板画柵」(20柵、のち「夢応鯉魚版画巻」と改題)および聖徳太子の遺徳をたたえる「上宮太子版画鏡」(25柵、のち「上宮太子板画巻」と改題)を開板する。
「呵呍譜二菩薩釈迦十大弟子版画屏風」(15回国画会展)
昭和16年 「門舞男女神人像」(のち「門舞頌」「東西南北頌板画柵」と改題)、「般若心経板画柵」(未完現存20柵)などを発表する。
11月、次男令昭生まれる。
倉敷市大原邸の襖に倭画「群鯉図」を制作。
「閻浮檀金頌門舞男女神人像版画屏風」(16回国画会展)
昭和17年 親友蔵原伸二郎の詩「崑崙」を16柵に刻みこんだ「繧𦅘頌崑崙板画巻」(のち「崑崙頌」と改題)を17回国画会展に出品する。
9月、高島屋日本橋店で「棟方志功油絵展覧会」を開催し、「十和田湖神社」など27点出品。
12月、この出品油絵のほとんどを収録した唯一の油彩画集『棟方志功画集』が昭森社より発行される。
この年も倉敷市大原邸で襖に倭画「華厳壁図」、六曲一双屏風に「連山々図」を描く。
富山県西砺波郡福光町光徳寺の襖に「般若心経」を描く。「繧𦅘頌崑崙板画巻屏風」(17回国画会展)
昭和18年 4月、18回国画会展に『コギト』正月号に掲載された保田興重郎の「年頭謹記」をもとに、文字を主体とした「神祭板画巻 167」(18柵)を制作出品したが、不敬を理由に主催者側の手で会期中に撤去される。
同月、中野区より渋谷区「雑華山房」(大原孫三郎命名)に転居する。倉敷の大原邸で、六曲一双「群鯉図」「群童図」、六曲一隻「風神雷神図」、二曲一隻「両妃図」を描く。
この年、「清浄韻施無畏の柵」「挙身微笑の柵」を制作する。
「年頭謹記神祭板画巻屏風」(18回国画会展)
昭和19年 「南北頌万朶溟華板画柵」(2柵)を19回国画会展に出品したが、のちに、戦火により焼失したため詳細不明。
5月、富山県西砺波郡福光町光徳寺の襖に「華厳松」を描く。
このころ宮沢賢治の詩「雨ニモ負ケズ」をもとに13柵の板画を制作したが、現在表紙が見つからないため、作品名は不詳である。
河出書房より板画入りの随筆集『板勁』を刊行。「南北頌万朶溟華板画柵」(19回国画会展)
昭和20年 4月、富山県西砺波郡に疎開する。
5月25日、代々木山谷の雑華山房は空襲のため焼失し、版木のほとんどを失う。
年末より、恩師河井寛次郎の仕事を賛美した「鐘渓頌板画巻」(のち「鐘渓頌」と改題)24柵を制作、翌21年秋の第2回日展に出品し、岡田賞を受ける。
昭和21年 「愛染品板画巻」(15柵)を戦後第1回日展に出品。
5,6月、柳宗悦河井寛次郎浜田庄司、外村吉之介らと越中の秘境五箇山などを旅行する。
12月、富山県西砺波郡に新居を建て、「愛染苑」と称す。
細川書店より『夢応の鯉魚』、大日本板画院より『愛染品』を刊行する。
「愛染頌元創炎竜王鏡版画柵」(1回日展)
「鐘渓頌公案鯉雨板画経」(2回日展)
昭和22年 河井寛次郎の詞による「火の願ひ板画柵」を制作する。
福光の光徳寺の依頼により拓摺板画「越中国躅飛山光徳寺梵鐘銘」を開板し、翌年の22回国画会展に出品する。このころ、前田普羅、暁烏敏らと交わる。
細川書店より『棟方志功板画集』、西東書店より『火の願ひ』、旺文社より『善知鳥板画巻』英訳本を刊行。
「天雲頌音神炎板画柵抜枠六韻」(21回国画会)
昭和23年 河童の幻想を物語りにした「瞞着川板画巻」(34柵)、「板経板画柵」(乾・坤2柵、乾巻はいろはのみ30冊、坤巻は34柵、計64柵)を制作する。「釈迦十大弟子」中、板木焼失した文殊・普賢両菩薩を改刻する。
10月、天皇の富山ご旅行に際し、新聞「北陸夕刊」の特派記者として随行し、「天皇拝従記」を書く。
臼井書房より、『板愛染』、大阪・萌木より『板経板画柵』、北海道・鶴文庫より『鯉雨』を刊行。
「越中国躅飛山光徳寺梵鐘銘抜粋拓摺」(22回国画会展)
昭和24年 岡本かの子の詩による「女人観世音板両巻」(12柵)「山恩男・海恩女板画柵」などを発表。6月、日本民芸館で「棟方志功特別展」を開き、板画、倭画百余点を展観する。
「芸業頌板経右座菩薩」「左弟菩薩」(23回国画会展「女人観世音板画柵」のうち「振向の柵」「仰向の柵」のこと)
「万朶譜」外100点余(日本民芸館・棟方志功特別展)
昭和25年 前田普羅句集をもとに「栖霞品板画柵」(34柵)「板歎異経・十二芸業仏達板画屏風」(のち浜田庄司を頌して「道祖土頌」と改題)「蒼嚇童女板画柵」(2柵)などを発表する。
小品「松河伯」「波乗菩薩」の各柵を制作する。また越中五箇山中の行徳寺の開祖「赤尾道宗臥像の柵」を制作する。
「板歎異経十二芸業仏達板画屏風」(24回国画会展)
昭和26年 大原総一郎のビニロン開発を讃えた「美尼羅牟頌板壁画」(のち「運命板画柵」と改題)、柳宗悦を讃える「柳仰板画柵」(3柵)、後援者工楽長三郎を頌した「工楽頌両妃散華」(「天妃乾坤韻」ともいう)、石田波郷の句集をもとに「胸形変板画巻」(49柵、昭和32年に『惜命板画柵』と改題して出版)「仔鷹の柵」(のち「鷹持妃の柵」ともいう)などを発表する。
フランスのサロン・ド・メイに「鐘渓頌」「運命板画柵」を招待出品する。
12月、富山県より東京都杉並区に居を移す。
「美尼羅牟頌運命讃板壁画」(25回国画会展)
「鐘渓頌」「運命板画柵」(フランス、サロン・ド・メイ)
昭和27年 「いろは板画柵」(6曲1双・48柵)「道祖土板画柵」(4柵)、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を板画にした「不来方板画柵」(2柵、のち「不来方の柵」と改題)「御七姫板画柵」などを発表する。
2月、河井寛次郎の紹介により五島慶太、高橋禎二郎の知遇を得て、東横渋谷店で「第1回芸業展」を開く。以後、昭和50年まで毎年開催する。(昭和39年より東急日本橋店に移る)4月、スイスの第2回ルガノ国際版画展で、「女人観世音板画柵」が優秀賞を受ける。
秋、ニューヨークのウィラード・ギャラリーで、海外での初の個展を開く。
5月、日本版画協会を脱会、笹島喜平、下沢木鉢郎らと日本板画院を、また中川紀元、下沢木鉢郎らと日本芸術院を結成する。
10月、東横渋谷店で第1回日本板画院展を開催し、ベートーベンの「第九交音曲」をモチーフとした「歓喜頌板画柵」(六曲一双、のち「歓喜頌」と改題)を出品する。
毎日新聞社で文化映画「板画の神様」を撮影。
「歓喜頌柳仰韻板画柵抜粋屏風」(26回国画会展)(1回板院展)
「いろは板画柵」(1回日本国際美術展)
「女人観世音板画柵」(スイス、ルガノ第2回国際版画展)
昭和28年 「大蔵経板画柵」(2柵、のち「湧然する女者達々」と改題)、愛誦した吉井勇の歌集「流離集」より31首を板画にした「流離抄板画巻抜粋屏風」(のち「流離頌」と改題)を発表する。
また敬愛する梅原龍三郎の国画会退会を機に、同会を脱会して、7年ぶり、9回日展に「耶蘇十二使徒板画柵」を出品する。
この年から畏友保田興重郎の歌を「炫火頌」として制作し始める。
「四神板経天井画柵」(2柵、のち「宇宙頌」と改題)「国想板両柵」(のち「炫火頌」に収録される)「閒風の柵」「太子立の柵」「リラ花の柵」「山路の柵」「秋扇の柵」「四神頌板画柵」「鳥兎頌板画柵」などを発表する。
京都の祖国社より文集『板響神』を出版。
「流離抄板画巻抜粋屏風」(27回国画会展)
「不来方頌大恩世主十二使徒板画鏡柵」(9回日展)
「鳥兎頌板画柵」(2回日本国際美術展)
昭和29年 100号大の「華狩頌板壁画」(のち「華狩頌」と改題)を制作し、10回日展に発表する。
「身沁の柵」「風立の柵」(この2点は「炫火頌」となる「夜橋の柵」「みみずく板画柵」(2柵)などを制作する。
5月、1回現代日本美術展に「湧然する女者達々」を出品する。
宝文館より『板画の話』、竜星閣より『板歓喜』『板歎異』『流離板画巻』、大阪・萌木より『棟方志功板画小品集』を刊行する。
「炫炎頌御華狩舞板画柵」(10回日展)
「湧然する女者達々」(1回現代日本美術展)
昭和30年 「柳緑花紅頌」「鷹持妃」「鷹と松」、疎開中の自作歌にちなむ「紫袂」をはじめ、「御立仏像」「美業」「炎身」の各柵を制作し、11回日展に「邂逅板画柵」を発表する。
7月ブラジルの「第3回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展」に「釈迦十大弟子」「湧然する女者達々」などを出品、版画部門最高賞を受ける。
8月、東横渋谷店で、日本民芸館主催、サンパウロ・ビエンナーレ受賞記念「棟方志功板業展」を開催し、代表作200余点を展示する。その出品目録の表紙に「板業韻々の柵」を制作。
9月、5回日本板画院展に、山川京子の歌による「山川抄板画柵」、原石鼎の句集による「青天板画柵」(35柵)の抜粋を出品する。
銀座・資生堂で油絵の個展を催し、約30点出品する。
竜星閣より板画集『湧然する女者達々』を刊行
。「一遍頌邂逅板画柵」(11回日展)
「柳緑花紅頌屏風」(3回日本国際美術展)
「釈迦十大弟子」「湧然する女者達々」(第3回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展)
「山川抄板画柵抜粋風炉先屏風」「青天抄板画柵抜粋風炉先屏風」(5回日本版画院展)
昭和31年 淡交社の企画で「茶韻十二ヶ月板画柵」(12柵)、谷崎潤一郎の短歌を板画にした「歌々板画柵」(のち「歌々頌」と改題)、『中央公論』連載の小説「鍵」の装幀、挿絵板画「鍵板画柵」(59柵)、草野心平の詩による「山脈板画柵」、江戸川乱歩の小説「犯罪幻想」の挿絵板画「幻想板画柵」(11柵)、12回日展出品作「蒼原板壁画」(のち「蒼原の柵」と改題)、富山県福光町の山河をうたった「竜胆の柵」、そのころの作と思われる「夢殿の柵」「救世観音の柵」などを制作。
3月、東横渋谷店で「第5回棟方志功芸業展」を開催。6月、東京国立近代美術館の「世界版画展」に「柳緑花紅頌」を出品。6月、イタリアの「第28回ヴェニス・ビエンナーレ国際美術展」に「柳緑花紅頌」など11点を出品し、国際版画大賞受ける。
この年、青森、弘前、八戸、室蘭、京都、徳島等で個展を開催。
宝文館より『青天抄板画巻』『板画の道』、河出書房より『板画の肌』、北海道豆本の会より『瞞着川』、講談社より『アートブック棟方志功』を刊行。
日展審査員になる。
「蒼原板壁画」(12回日展)
「釈迦十大弟子」「耶蘇十二使徒」「四神板経天井画柵」「柳緑花紅頌」等11点(第28回ヴェニス・ビエンナーレ国際美術展)
「柳緑花紅頌」(東京国立近代美術館世界版画展)
「歌々板画柵抜粋屏風」(6回日本板画院展)
「十二の仏者達々の柵(「道祖土頌」のこと)「鍵板画抜粋柵」(7回日本板画院展)
昭和32年 この年、「鼓笛の柵」、『古事記』をもとに神々の創生をうたった「群生の柵」、柳宗悦の箴言を開板した「心偈頌」(77柵)「追開心経の柵」(16柵、のち「追開心経頌」と改題)を発表する。13回日展に「北脈の柵」を出品。
2月から日本民芸館主催の「棟方志功板業展」を大阪、倉敷、松江、福岡、名古屋の各地で開催。同月、三越日本橋店の「現代版画秀作展」に「女人観世音」「鷹持妃の柵」のそれぞれデテールが出陳される。
3月、東横渋谷店で「第6回棟方志功芸業展」を開く。
4月、佐藤一英らと名古屋紅葉山鉈薬師に案内され、円空作の月光菩薩、十二神将、童子などを見て、感銘を受ける。
8月より9月にかけて北海道へ旅行。
12月、沖縄タイムスの招きで沖縄旅行、同地で個展を開催する。
宝文館より『惜命板画巻』(「胸形変板画巻」の改題したもの)、『歌々板画巻』を刊行。
「北脈の柵」(13回日展)
「群生の柵」(1回東京国際版画ビエンナーレ展)
「歓喜頌」(4回日本国際美術展)
「柳緑花紅頌」(8回選抜秀作美術展)
「御多福妃・御鷹鼻尊」(8回日本板画院展)
「仏誕の柵」「神誕の柵」「鬼誕の柵」(9回日本板画院展)
昭和33年 「飛流の柵」(2柵、のち「龍原頌」と改題)「海山の柵」を制作。他に「高館の柵」「雪しんしんの柵」「雲山の柵」、般若心経をバックに彫った「十一面観音の柵」と「聖観音の柵」の二部作、「不動明王の柵」「道神の柵」、江戸川乱歩の挿絵板画「緋薔薇頌」など制作。
2月、三越日本橋店での「第2回現代版画秀作展」に「天妃乾坤の柵」(「工楽頌」の別名)が出陳される。
3月、ニューヨークの聖ジェームス教会での「現代日本版画展」に「柳緑花紅頌」中の「葦蓮の柵」を出品、1等賞となる。5月、京橋・中央公論画廊でオレンダ人ベン・ヨッペと2人展を開催する。
筑摩書房より柳宗悦編『棟方志功板画』、京都・丁字屋より『棟方志功心経柵巻』を刊行。
「海山の柵―乾坤なる父母上に捧げる」(1回日展)
「飛流の柵」(3回現代日本美術展)
「葦蓮の柵」(ニューヨーク・現代日本版画展)
「群生の柵」(9回選抜秀作美術展)
「湧然する女者達々」「追開心経頌」(日本美術欧州巡回展)
「日本の季歌」(「柳緑花紅頌」のこと)(10回日本板画院展)
昭和34年 1月、ロックフェラー財団とジャパンソサエティーの招きで、山下汽船山君丸で渡米。ニューヨーク、ボストン、クリーブランド、シカゴ、シアトル、サンフランシスコなど各地の大学で版画の講義と個展を開催し、11月帰国。この間8月中旬からオランダ、フランス、スペイン、イタリア、スイスへ1ヶ月旅行し、パリ郊外オーベルのゴッホの墓を訪れる。
6月、ニューヨークにマレー・ジャフ夫妻が「棟方ギャラリー」を設立する。
10月、「棟方志功板画欧州主要都府展」の国内展が東京国立近代美術館で開かれ、約2年間ヨーロッパを巡回した。なお、渡米の際、山君丸の船内で後援者水谷良一の病気平癒を祈り、「水谷頌」を開板したほか、多くの作品を制作した。また滞米中、11月より創刊の中央公論社『週刊公論』の表紙(35年4月まで続く)や2回日展出陳の「マンハッタンに立つ」を制作する。他に連作「ホイットマン詩集抜粋の柵」など発表する。
青森県第1回文化賞を受賞。
えくらん社より「空海頌」を刊行。
「摩奈波門多に立ね」(2回日展)
「ホイットマン板画の柵」(11回日本板画院展)
昭和35年 「狩漁の柵」「鷺畷の柵」「松網の柵」「般若心経板画柵」などを制作。
1月より半年にわたってクリーブランド美術館主催の「棟方志功展」がアメリカ各地で開かれる。
3月、日展評議員となる。同月、東横渋谷店で帰国記念展を兼ね「第9回芸業展」を開催。
この年はじめより眼疾すすみ、秋には左眼ほとんど失明する。
大阪・萌木より『妙肌韻板画柵』を刊行。
「狩漁の柵」(3回日展)
「松網の柵」「鷺畷の柵」(4回日本現代美術展)
「丑午の柵」(12回日本板画院展)
昭和36年 1月、青森県庁玄関上に板壁画「花矢の柵」を制作。日本国際美術展に「七海の柵」、日展に「円空の柵」などを発表。
10月より『中央公論』連載の谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」の挿絵板画の制作を始める。
3月、「棟方志功芸業展第10回記念展」として障壁画、襖絵を展示。
5月、恩師柳宗悦死去。
7月、京都・嵯峨の法輪寺より法橋位を受ける。
9月、東京・浅草の東本願寺の茶室の襖絵を描く。
ブリヂストン美術館で「棟方板画屏風展」をまた神奈川県立鎌倉近代美術館でも屏風展を開催する。
この年より『大法輪』誌上に自叙伝「板妙肌」(口述)を連載する。
「円空の柵」(4回日展)
「七海の柵」(6回日本国際美術展)
「鼓妃の柵」(13回日本板画院展)
昭和37年 「風舞の柵」(のち「風韻の柵」「渦風の柵」と改題)「巴舞の柵」(のち「巴韻の柵」と改題)「誕生の柵」、日展に「伊我良天神像」(のち「怒天神の柵」と改題)などを発表する。14回日本板画院展に郷土の作家葛西善蔵の歌をもとにした「哀父頌」を、谷崎潤一郎原作の「瘋癲老人日記板画柵」(37柵)を制作する。このころより、小林正一郎の歌による「山懐頌」を制作する。
元旦、富山県の真言密宗大本山目石寺より法眼位を受ける。続いて京都嵯峨法輪寺よりも法眼位を再叙位される。
5月、東横渋谷店で「第11回棟方志功芸業展」を開催。
6月、松江市庁舎市民室に板壁画「鼓笛の柵」(「宇宙頌」と同じもの)を完成、同市公会堂で記念展を開く。
7月、外務省の委嘱でローマ日本文化会館へ「華狩頌」「柳緑花紅頌」を送る。
大原総一郎がその母寿恵子33回忌追善のため、棟方板画による私家本『大原寿恵子歌集抄』(「大原頌」と改題)を刊行。この年『国際写真情報』に4月より6回にわたり版画の講義を連載する。
「伊我良天神像」(5回日展)
「風舞の柵」「巴舞の柵」(5回日本現代美術展)
「悲しき父」(「哀父頌」のこと)(14回日本板画院展)
昭和38年 日展に「貝族の柵」、日本国際美術展に「恐山の柵」を発表する。
1月、南米チリで日本大使館主催で「棟方志功展」を開催する。
外務省製作の映画「日本美術と工芸」の版画部門を受け持ち、その制作状況を撮影される。つづいて八戸市の郷土芸能えんぶりを見るため帰省する。
2月、東京国立近代美術館で現代日本版画名作展が開催され、「天妃乾坤韻」(「工楽頌」の別名)が陳列される。
3月、東横渋谷店で第12回棟方志功展開催。このころ、駿河銀行岡野喜一郎頭取より現代の東海道五十三次版画の制作依頼を受け、4月より取材に着手、翌39年3月まで7回の取材旅行を行う。
5月、石川県加賀市片山津温泉よしのや旅館の板壁画完成する。
11月、倉敷市国際ホテルの大板壁画「乾坤頌―人類より神々へ」(栄航―滋航の2柵、のち「大世界の柵―坤」と改題)が完成する。同月、倉敷市大原美術館に棟方板画館落成する。
10月、長野、富山両市で個展を開催。
この年、藍綬褒章を受ける。
「貝族の柵」(6回日展)
「風韻の柵」(14回選抜秀作美術展)
「恐山の柵」「巴韻の柵」(7回日本国際美術展)
「楽妙の柵」(15回日本板画院展)
昭和39年 「道標の柵」「讃々の柵」「天網の柵」「賜顔の柵」などを制作、「東海道棟方板画」62柵を開板する。
1月、皇居の御歌会始に招かれる。同月、弘前市民文化会館の緞帳「御鷹を揚げる妃達々」の原板画を作る。
2月、伊勢神宮に奉献する倭画「富士山」「不二山」を完成。
3月、棟方ギャラリー、東横渋谷店より白木屋日本橋店に移る。同月、虎の門の国立教育会館に「柳緑花紅頌」による板壁画四面完成。
4月、「雲をかたどる十二妃達」(横浜新駅用原板画)を作る。
首相官邸の貴賓室に「柳緑花紅頌」屏風を制作。
10月より翌年3月にかけて朝日新聞社主催の「棟方志功板業代表作展」を東京、名古屋、鹿児島、熊本、広島、大阪、仙台、山形で開催する。
中央公論社より自伝『板極道』、朝日新聞社より『東海道棟方板画』を刊行。
「賜顔の柵」(7回日展)
「道標の柵」(6回日本現代美術展)
「湧然する女者達々」(15回選抜秀作美術展)
「貝族の柵」(4回東京国際版画ビエンナーレ展)
「讃々の柵」(オリンピック協賛展)
「釈迦十大弟子」(東京オリンピック芸術展示)
「青森の自板像」(16回日本板画院展)
昭和40年 「津軽海峡の柵」、草野心平の詩による「富嶽頌」(20柵)、「弁財天妃の柵」などを制作する。他にハワイ、アメリカでの作品「ミキの首飾り」「ミキの耳飾り」「ワイキキ水泳場」「キナ撫子の柵」「胴長妃の柵」などを制作し、東急日本橋店の「滞米展・近作展」に出品する。1月、日本の木版画に尽くした功績により昭和39年度朝日文化賞を受ける。
2月、セントルイスのワシントン大学の招きで渡米し、4月まで日本版画を講義する。その間、ダートマス大学より名誉文学博士号を受ける。6月帰国。イタリア芸術院より名誉会員に推される。
紺綬重飾褒章を受ける。
「津軽海峡の柵」(8回日展)
「富嶽頌」(朝日賞受賞記念展)
「道標の柵」(16回選抜秀作美術展)
「積丹の歌」「揉足の柵」(「キナ撫子の柵」を改題したもの)(17回日本板画院展)
昭和41年 日本現代美術展に「乳願の柵」を出品する。倭画「富士十題」などを制作。
倉敷・大原美術館「棟方板画館」に出陳するため、「追開東海道棟方板画妙黛屏風」(8曲1双64柵)を完成する。
7月14日、脳血栓で倒れる。秋ごろより制作再開。
岩崎美術社より草野心平詩、棟方板画による『富士山』を刊行する。
11月、河井寛次郎死去。
「乳願の柵」(7回日本現代美術展)
「追開東海道棟方板画妙薫屏風」(大原美術館棟方板画館陳列)
「賜顔の柵」(17回選抜秀作美術展)
昭和42年 日本国際美術展に「津軽三味線の柵」(4柵)、日展に「巴礼寿の審判の柵」(のち「審判の柵」と改題)「砂山の柵」「誓刻の柵」などを発表する。
日本板画院より名誉会員に推される。
10月、アメリカのクリーブランド市のメイ・カンパニー主催による「棟方志功板画屏風形体ワンマンショー」のため渡米。続いてニューヨークのブルックリン美術館、ワシントンのスミソニアン美術館でも展示。翌43年1月末帰国。
4月、東京・新宿の紀伊国屋ホールでの劇団民芸公演「ヴィシーでの出来事」(アーサー・ミラー原作)の美術を担当する。
「巴礼寿の審判の柵」(10回日展)
「津軽三味線の柵」(9回日本国際美術展)
昭和43年 日本現代美術展に「手に負う者達々の柵」、日展に「御志羅の柵」(のち「飛神の柵」と改題)を発表。他に「安於母利妃の柵」「立つ者々の柵」「湧く者々の柵」(のち「湧然美神の柵」と改題)「撫生子の柵」「釈迦三尊の柵」「合浦の柵」などを制作。
大阪万国博のための大板壁画「大世界の柵」の制作に着手する。
7月、大原総一郎死去する。
「手に負う者達々の柵」(8回日本現代美術展)
「飛神の柵」(11回日展)
「ハドソン落日の柵」(18回日本板画院展)
昭和44年 日展に「東北風の柵」を出品したほか、「光明の柵」「烏帽子鷹妃の柵」「大世界の柵 乾 」を制作。縦2.4メートル、横13.5メートルの大作で、8月に完成し、翌年3月から開催された大阪万国博の日本民芸館に展示した。
2月、青森市名誉市民第1号とその称章を受ける。
3月、伏見稲荷大社新儀式殿に七面の倭画大壁画を完成する。
6月、アメリカCBC放送の要望により、アポロ11号月着陸宇宙放送のため「月三題」の墨絵半折を描く。
10月、青森市文化センターの板壁画「華狩頌」「宇宙頌」の除幕と同館開館記念の「青森名誉市民棟方志功作品展」を開催。同月、朝日新聞社主催による板芸業四十周年記念「棟方志功障壁画展」が東急日本橋店で開かれる。講談社より『棟方志功板画大柵』、弘前・緑の笛豆本の会より『哀しき父と悲しき母の物語』刊行。
「東北風の柵」(1回日展)
「道標の柵」「海山の柵」(9回日本現代美術展)
「円空造仏の柵」(19回日本板画院展)
昭和45年 安川電機より委嘱のカレンダー用の「西海道棟方板画」に着手。
日展に「第九の祭柵」(「亦楽窓頌板画柵」ともいう)、友人の竹内俊吉のために「竹内俊吉句板頌」などを制作。
1月『棟方志功板画大柵』と「板芸業40年記念障壁画展」に対し、第11回毎日芸術大賞を受ける。
4月、名古屋・名鉄百貨店で「毎日芸術大賞受賞記念棟方志功展」を開催。
6月「西海道棟方板画」(表紙とも13柵)開板。
11月3日、文化勲章を受賞、文化功労者に指定される。
講談社より『棟方志功芸業大韻』を刊行。
「第九の祭柵」(2回日展)「大世界の柵 乾 」(万博日本民芸館展)
「釈迦十大弟子」(20回日本板画院展)
昭和46年 日展に「八甲田山の柵」「名久井鷹妃の柵」「十三の詩の柵」などを制作する。9月、「続西海道棟方板画」を完成、日比谷公会堂の緞帳原版画「空海頌」、マニラのアジア開発銀行会議室タピストリー壁画の原板画「輝躍の柵」などを制作。
2月、沖縄タイムスの招きで沖縄本島、八重山群島に旅行し、沖縄で浜田庄司芹沢銈介と三人展を開催。
5月から朝日新聞社主催の文化勲章受章記念展を東京、大阪、福岡、熊本、青森、名古屋、広島で開催する。
8月、陸奥新報社創刊25周年を記念し、「棟方志功ねぶた」(弘前式の扇ねぶた)を作る。
10月、東奥日報社制定の第1回佐藤尚武郷土大賞を受ける。
10月、九州工業大学明専会館に壁画「安川第五郎翁韻頌図」を制作する。この月から著書『板極道』をもとにしたテレビドラマ「おかしな夫婦」が半年にわたり放映る。
「八甲田山の柵」(3回日展)
「モウッコ面・大世界の柵」(21回日本板画院展)
昭和47年 八曲半双の大作「厖濃の柵」を発表する。2月から3月にかけ、草野心平らとインドを旅行し、この旅行から想を得て、板画「厖濃の柵」、倭画「厖茫濃膿図」、油絵「大印度厖濃図」をはじめ、スケッチを含め百余点を制作する。インド独立25周年を祝して、10月、東急日本橋店で外務省、インド大使館後援で「棟方志功芸業頌厖濃展」を開く。
5月、30年ぶりの油絵写生の旅を信州に行い、70余点の作品を得る。
6月、四国に取材した「南海道棟方板画」13柵完成。
講談社より『大和し美し』を複刻刊行。また、この年同じく講談社より浜田益水の写真集『写真棟方志功』『日本の名画・棟方志功』が刊行された。
「厖濃の柵」(棟方志功芸業頌厖濃展)
「沙羅苑の柵」「名碑苑の柵」(22回日本板画院展)
昭和48年 1月、金沢・三越で「棟方志功芸業展」開催。
3月、東急日本橋店で「蘭奢待頌展」開催する。
5月、芭蕉の『奥の細道』のあとを東京から北にたどり、青森まで足を伸ばして取材。この旅行での三百余点のスケッチをもとに「奥海道棟方板画」13柵のほか、板画10数点などを制作する。8月、青森に帰り、倭画「八甲田山」連作などを制作、8月末、神戸・湊川神社楠公会館の倭画大壁画を完成する。この年、日展に「華厳経の柵」春夏秋冬4柵を出品、「墨面と板業者の柵」「日本板画碑原校画の柵―地水火空」「殺生石の柵」などを制作する。
9月より11月まで文化庁主催の地方巡回美術展(「近代日本の版画展」)に「柳緑華紅頌」と「工楽頌両妃散華」が出陳され、宇都宮、浜松、下館、いわきの各市を巡回。
10月、財団法人棟方板画館を設立。東急札幌店開店記念として「宝門加得渡宇頌韻展」を開催。続いて旭川、釧路、阿寒を旅行する。
11月、『奥の細道』の後半に当たる羽越地方を取材し、中旬、東急日本橋店で新作による「棟方志功芸業昴展」を開く。
春秋社より柳宗悦の偈、棟方板画による『心偈』を刊行。
「華厳経の柵」(5回日展)
「日本板画碑原校画の柵 327」「千載の柵」「登利加牟渡の柵」(「墨面と板業者の柵」の別名)(日本国際美術展)「柳緑華紅頌」「工楽頌両妃散華」(近代日本の版画展)
「佳宵石割桜の柵」(23回日本板画院展)
昭和49年 正月全長17メートルの「禰舞多運行連々絵巻」を制作。
春、武蔵野を取材し、「むさしのひめかみの柵」「深大寺鐘桜の柵」など20数点を制作、また「『わだはゴッホになる』の柵」を発表。
3月、日本放送協会より放送文化賞を受ける。
5月、『奥の細道』後半の新潟から大垣まで、芭蕉の足跡を取材。
6月、「羽海道棟板画」13柵を制作。東急吉祥寺店開店を記念して「吉祥展」を開催。
7月、志功を改め、志昴とする。3月より8月まで毎日映画社制作の記録映画「彫る」の撮影続く。
9月、鎌倉市津1182-4(鎌倉山旭ヶ丘)に棟方板画館開館。
10月18日渡米。ダラスのサザン・メソジスト大学、ミシガン州のクランブルック美術アカデミー、ニューヨークのジャパンソサエティー、セントルイスのワシントン大学で講演と木版画制作のデモンストレーションを行う。ニューヨークでリトグラフ20数点を制作。この旅の途中、10月末に脳貧血で倒れ、ニューヨークで静養。12月2日帰国し、直ちに慈恵会医科大学付属病院に入院する。
12月、志昴を再び志功に改める。
この年、日展に「捨身施虎の柵」出品。
夏、最後の板画制作品「墓碑銘」を作る。
この年、平凡社より『称舞多運行連々絵巻』原寸複刻版を刊行。
「捨身施虎の柵」(6回日展)
「讃々の柵」(24回日本板画院展)
昭和50年 3月、NHK放送開始50周年記念切手「観聞の柵」発行。
同月、日展理事、4月、日展常任理事となる。同月、毎日映画社の記録映画「彫る-棟方志功の世界」完成。
4月退院、自宅で療養を続ける。
5月下旬、旧作「瞞着川板画巻」から13点を選び彩色、51年度安川カレンダーとする。まとまった仕事としては、これが最後の作品となる。
9月13日、東京・杉並区の自宅で肝臓癌のため死去。戒名は華厳院慈航真海志功居士。従三位を追贈される。
11月16日、青森市市葬。
11月17日、青森市に棟方志功記念館が開館。
10月31日より6日間、東急日本橋店で昭和42年と49年の2度の滞米中に制作したリトグラフ34点を展示した「棟方志功石版画展」を開催する。
この年、集英社より『現代日本の美術・棟方志功』刊行。
昭和51年 9月、朝日新聞社より板画の主要作品を網羅した『棟方志功板業集』を刊行。9月10日より年内にかけて
棟方板画館、朝日新聞社の主催で「棟方志功展」が東京・名古屋・大阪・京都・横浜・札幌で開催。

出 典:『日本美術年鑑』昭和51年版(310-319頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「棟方志功」『日本美術年鑑』昭和51年版(310-319頁)
例)「棟方志功 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9584.html(閲覧日 2024-04-17)

以下のデータベースにも「棟方志功」が含まれます。

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