ロスアンゼルスの中国陶磁展へ我が国からも出品

1952年01月

アメリカ、ロスアンゼルスのカウンテイ・ミューゼアムで三月一五日から四月二七日まで開かれる予定の中国陶磁展にわが国にある最高級の陶磁器一五点が特別出品されることになり三一日送り出された。国立博物館のほか細川、岩崎、長尾各家所蔵の宋明時代の作品である。

ユネスコから浮世絵複製の希望

1952年01月

ユネスコ事務局文化活動部のピータア・ベリウから日本政府ユネスコ常駐代表萩原徹に対し、浮世絵版画の複製五〇セット(一セット一〇〇枚)を購入し、希望するユネスコ加盟国に一セットないし二セットずつ貸し出し、これを博物館や学校などで展示させたいという趣旨の依頼があつた。文化財保護委員会、国立博物館が協力して、作家を指定するなど準備をはじめた。

アメリカ絵画展開催

1952年01月

国立博物館表慶館において一月二四日より二月二四日までの一ケ月間、複製によるアメリカ絵画展を開催した。CIEの企画にもとづき現在までのアメリカ絵画の発展史を原色複製によつて展示したものである。

国立近代美術館の建物決定

1952年01月

昭和二五年の九月に原案が作られ、二六年度に一億円の予算で建設される予定であつた国立近代美術館は敷地の問題で捗らなかつたが、一五日京橋の日活本社を買上げることに決定した。改装して美術館として使用することになつた。

ブリッヂストン美術館開館

1952年01月

昭和二六年東京の京橋に新築されたブリッヂストン・ビルの二階に常設近代美術館としてブリッヂストン美術館が一一日開館した。西洋近代絵画と日本洋画の蒐集で著名な石橋正二郎のコレクションを主に展観する。

一九五二年サロンドメエ出品作発表展開催

1952年01月

毎年五月パリで開かれるサロン・ド・メエは昨年我が国でも展観され注目を受けたが、今年からその外国部に我が国の作家も出品することとなつた。毎日新聞社の斡旋により一九名の作家の作品が集り、その国内発表展が一〇日から一八日まで日本橋高島屋で開かれた。

「美術批評」創刊

1952年01月

「みづゑ」「美術手帖」を発行している美術出版社から月刊雑誌「美術批評」が創刊された。一般的な啓蒙、鑑賞を目的とした雑誌とはちがつて美術界の問題が批評的に取扱われている。

土曜会創立

1952年01月

大阪在住の工芸家の研究団体として昭和二五年一二月発足した土曜倶楽部は、更に京都からの作家八名を加えて土曜会として一月から新発足をした。工芸の新しい研究と京都大阪の作家の連携親睦を趣旨としている。

上野駅に大壁画

1951年12月

上野駅中央ホールの改札口上に新制作会員猪熊弦一郎作の大壁画「自由」が飾られ、二七日午前一一時から除幕式が行われた。  

有楽町駅に大壁画

1951年12月

二五日夜新装なつた有楽町駅の銀座口階段の壁に新制作会員荻太郎作の「子供の群像」大壁画がはめこまれた。千代田生命保険会社寄贈のもの。

法隆寺壁画模写遂に完成

1951年12月

昭和一五年九月以来法隆寺国宝保存工事の一環として金堂壁画の模写が二〇余名の画家によつて行われていたが、心血を注ぐこと一二年空前の難事業といわれた八壁画の模写もこのほど遂に完成、二七日午前一〇時から法隆寺講堂前に八壁画を安置、佐伯同寺貫主導師となり壁画模写落慶法要を行つた。

国立近代美術館の新設はご破算

1951年12月

本年度一億円の予算で建設の予定だつた国立近代美術館は、日比谷公園内や和田倉門テイト・ホテル前空地に新設敷地を求めていたが、いずれも反対され実現不可能となつてもめていたが、このほど天野文相、池田蔵相の話合いで結局当分新設は認められないことになり、同館設置準備会では二〇日委員会を開き「新設出来るまで時期を待つか、既存の建物を買つて改造するか」など白紙に還つて今後の方針を協議した。

玉堂年金の買上げ作品内定

1951年11月

芸術院会員川合玉堂が文化功労者年金五〇万円を辞退、これで日展作品を買上げ文部省に寄付すると申出で日展運営会で選考中であつたが、二八日次のように内定した。▽日本画「蔦のある白い家」堂本尚郎、「うす陽さす春の古城」児玉希望 ▽洋画「雪晴れの港」太田喜二郎、「婦人像」小山敬三、「バレリーナ」鬼頭鍋三郎 ▽彫塑「人間」加藤顕清、「五木の精」沢田晴広、「禿鷹」中村直人 ▽工芸「手織錦躍進壁掛」中村鵬生、「板金馬飾函」中野恵祥。

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