太田喜二郎

没年月日:1951/10/27
分野:, (洋)

日展参事、京都学芸大学教授太田喜二郎は、脳出血のため10月27日京都市上京区の自宅に於て逝去した。享年68歳。明治16年12月1日京都市に生れ、同36年東京美術学校西洋画科に入学して黒田清輝の薫陶を受け、同41年卒業した。同年ヨーロツパに遊学して白耳義国ガン市立美術学校に入学、傍らエミール・クラウスに師事した。新印象派の画風を習得して大正2年帰国した。翌3年大正博覧会に「赤き日傘」を出品して2等賞を受けたのをはじめ、文展に新印象派風の明るい作品を出品して2等賞を受け、同5年文展推薦となつた。この時代の作品に「帰路」「薪」「桑摘み」などがある。大正8年帝展開始以来しばしば審査員を仰せ付けられたが、次第に点描的な作風から写実的な印象主義に移り、京都の山水や田園風物をしきりに描いた。新文展日展にも屡々審査員となり、昭和25年日展参事に挙げられた。またはやくから光風会に出品して会員となつた。教育方面に於てもはやく京都市立絵画専門学校、京都帝国大学工学部の講師を嘱託され、昭和22年から同24年にわたり京都市立美術専門学校教授となり、同25年には京都学芸大学教授に任ぜられた。また昭和9年紫野洋画研究所を創立して後進を指導していた。
略年譜
明治16年 京都市に生る。
明治35年 京都府立第一中学校卒業。
明治36年 東京美術学校西洋画科に入学。
明治41年 同校卒業。渡欧、白耳義国ガン市立美術学校入学、傍らエミール・クラウスに師事。
大正2年 帰国。
大正3年 大正博覧会へ「赤き日傘」を出品し2等賞を受く。第8回文展へ「麦刈」「帰路」「子守」出品2等賞を受く。
大正4年 第9回文展に「薪」「少女」「暖き日]出品2等賞を受く。
大正5年 第10回文展に「桑摘み」「夏の朝」を出品推薦となる。
大正6年 京都市立絵画専門学校講師を嘱託さる。
大正8年 帝国美術学院美術展覧会審査委員被仰付。同展に「薮」「夏の昼」出品。
大正9年 帝展審査員被仰付。京都帝国大学工学部講師を嘱託さる。
大正10年 帝展審査員被仰付。同展に「老椎の花」「洛北の農家」出品。
大正11年 帝展審査員被仰付。平和記念東京博覧会審査委員。
大正13年 帝展審査員被仰付。
大正14年 帝展に「初秋の朝」「庭に立つ女」出品。
大正15年 帝展審査員被仰付。
昭和4年 帝展審査員被仰付。
昭和5年 帝展審査員被仰付。
昭和8年 帝展審査員被仰付。
昭和9年 帝展審査員被仰付。京都府風致委員を嘱託さる。紫野洋画研究所を創立す。明治神宮絵画館壁画「黄海海戦図」完成。
昭和11年 文部省美術展覧会審査委員を嘱託さる
昭和13年 文部省美術展覧会審査委員を嘱託さる。
昭和14年 文部省美術展覧会審査委員を嘱託さる。
昭和15年 紀元二六〇〇年奉祝展審査員を嘱託さる。
昭和22年 京都市立美術専門学校教授に補せらる。
昭和24年 第5回日本美術展覧会審査員を嘱託さる。京都市立美術専門学校教授解任。
昭和25年 日展参事となる。日展第二科審査員を依嘱さる。京都学芸大学教授に任ぜらる。
昭和26年 脳出血のため京都市の自宅に於て逝去。

出 典:『日本美術年鑑』昭和27年版(138頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「太田喜二郎」『日本美術年鑑』昭和27年版(138頁)
例)「太田喜二郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8886.html(閲覧日 2024-04-19)

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