川島理一郎帰朝

1951年08月

一五日朝八時横浜入港のフランス船ラ・マルセイエーズ号で芸術院会員川島理一郎は約六カ月間パリ画壇を視察して帰朝した。

環状列石の発掘調査終る

1951年08月

本欄七月既報の秋田県大湯町郊外にある遺跡環状列石に対する国営発掘調査は八日終了したが、多数の出土品について列石の年代及び使用目的を究明するため考古学、地質学、人類学、先史学、歴史学の各方面から科学のメスが加えられた結果、遺跡の年代は奈良朝時代説がくつがえり、石器時代(約三五〇〇年前)と確認され、列石の使用目的については依然墳墓説が有力だが、確証が上らず、資料を東京に持ち帰つて更に検討することになつた。

福島県で「戒壇」発掘

1951年08月

福島県教育委員会では国立博物館学芸部長石田茂作博士の指導で三日から同県最古の寺院耶麻郡磐梯村恵日寺跡を発掘、調査中のところ、七日に至り予想通り「戒壇」のあることが発見された。

張英超日華の文化交流に

1951年08月

日華の文化交流をはかるため来朝した中国江南派画壇の中心人物で前中国芸術専門学校校長張英超は七日、南画の芸術院会員松林桂月を訪ね、持参した自作の南画数点を中心に歓談、「これを機会に中日の文化的提携をはかりたいと思う」と語つた。又、一三日より一八日迄、日本橋丸善で個展をひらいた。

ブラジルで書道展

1951年08月

尾上柴舟、柳田泰雪、豊道春海ら現代書家三一名の揮ごう三一点がこのほどブラジルのサンパウロ市で開かれる展覧会に出品のため送られることになつた。

ブラジル国際美術展出品作の内示会

1951年08月

一〇月一日から三ヵ月間、ブラジルのサンパウロ市で開かれる同地近代美術館主催の第一回国際美術展に日本からも出品するよう六月末国際文化振興会に依頼があつたが、同会では現在第一線で活躍している美術家達に依嘱、出品作を用意し、九日横浜出港の長崎丸で送るに先だつて一日より五日まで日本橋三越で全作品の内示会を開いた。出品は日本画では伊東深水山本丘人吉岡堅二東山魁夷ら一四名、洋画は宮本三郎猪熊弦一郎ら一七名、彫刻は山本豊市ら七名、版画は恩地孝四郎ら八名の作品。

伊から「チベツト絵図」贈らる

1951年07月

三一日、イタリアの日伊協会長トッチ博士(ローマ大学教授)から外務省あてにチベツト文化史絵図を収めた豪華本三巻を送つて来た。これはさきに中央アジア史の研究家である同博士の依頼で外務省が「東邦考古学叢刊」五巻「遼金時代の建築とその仏像」二巻を送つたお礼だという。外務省はこれを日伊協会を経て東京芸術大学へ寄贈する。

伊の博物館へ日本陶磁器

1951年07月

イタリヤへ送られ、ファエンツァー博物館に入れられる現代日本陶器の代表作一五点は三〇日午後港区三田イタリヤ代表部で文部省宇野芸術課長代理、博物館小山富士夫技官からイタリヤ大使B・L・ダエタ侯爵に贈られた。

秋田環状列石遺跡の調査始る

1951年07月

十和田湖の南、大湯町郊外にある環状列石遺跡に対し“埋蔵文化財の保護とその学問的解明”を結論付けるため長谷部言人博士以下各大学考古学関係教授など文化財保護委員会一行三〇名は二六日午前一〇時のクワ入れ式で国営第二回の発掘を開始した。この遺跡は世界でも珍しいもので、注目されて居り同委員会ではこの学術発表をユネスコ等を通じ米国はじめ世界各国の諸大学に紹介発表のてはずをとゝのえている。

都美術館に「友の会」

1951年07月

都教育庁ではこのほど都民の美術愛好家のため“美術館友の会”をつくり、作品の鑑賞、製作、講演会などを行い、都民への美術普及と便宜をはかることになつた。

二科会に商業美術部

1951年07月

五月漫画部の設立を発表した二科会では、更に商業美術部をも新設すると、このほど発表した。漫画部同様今秋の二科展から発足、公募も行うことになり、今年は絵画部会員の手で審査するが、将来は同部の会員を置く筈。

第一回文化功労者決る

1951年07月

わが国文化の発達に多年貢献した文化功労者を顕彰する「文化功労年金法」が三月末国会を通過したので文部省では選考審査会を設け授与者の審査を行つていたが、二一日午前一〇時から審査会を開き最終的に決定、初の年金支給者は文化勲章帯勲者中現存の者全部三二名と一般から植物学の牧野富太郎博士と長島愛生園長光田健輔の二人を加え合計三四名となつた。実際に年金が伝達されるのは八月中旬の見込で支給額は一人五〇万円(税込)。

輸出向け手工芸の技術保護

1951年07月

輸出向け手工芸品は外国人の間で珍重されているに拘らず、都内技術者は恵まれずこのまま放置すれば衰微するばかりなので東京都では技術保存のため輸出向工芸育成費九五万円を次の都議会に上程保護育成に乗り出すことになつた。

五百羅漢寺の復興運動

1951年07月

江戸時代の名刹で、もと本所五ッ目にあつた目黒の羅漢寺は最近すつかり荒れ果て、このまゝ放置すれば元禄年間巨匠松雲元慶作の五百羅漢も鉄牛和尚の銘のある鐘(重要美術)も散滅してしまうだろうと、このほど作家長谷川伸や料理研究家本山荻舟らが復興運動をはじめた。

近代美術館設立委員決る

1951年07月

文部省では去る臨時国会に於て予算一億円の通過をみた国立近代美術館の設立準備委員として一〇日岡安彦三郎(東京都副知事)岸田日出刀(東大教授)高橋誠一郎(日本芸術院長)団伊能(参議院議員)安田靭彦、山下新太郎(芸術院会員)ら二三名を委嘱、一八日文部省で初会合を開くことになつた。 五百羅漢寺の復興運動 江戸時代の名刹で、もと本所五ッ目にあつた目黒の羅漢寺は最近すつかり荒れ果て、このまゝ放置すれば元禄年間巨匠松雲元慶作の五百羅漢も鉄牛和尚の銘のある鐘(重要美術)も散滅してしまうだろうと、このほど作家長谷川伸や料理研究家本山荻舟らが復興運動をはじめた。

ピカソ作品展開催を発表

1951年07月

読売新聞社では四日附朝刊紙で春のマチス展につずき近く「ピカソ作品展」を開く旨発表した。

目黒不動の鐘楼焼く

1951年07月

江戸時代の民衆的寺社建築の傑作といわれていた目黒区下目黒の目黒不動尊滝泉寺の鐘楼(国宝指定を申請中)から一日午前五時一五分ごろ出火、同建物一むね九坪を全焼した。

国際建築会議へ二代表

1951年06月

七月七日から一四日まで英国ロンドンの郊外で世界一五ヶ国の建築家を集めて開かれる第八回国際近代建築会議に日本からの代表二名が二二年振りに招かれ、一九二九年度の会議にオブザーバとして出席したことのある前川国男と広島ピースセンターの設計者東大工学部助教授丹下健三が今月末空路渡欧することになつた。

「開国百年記念文化事業会」創立

1951年06月

来年は明治天皇御生誕百年、明後年はペルリ提督来日百年に当るので、文部省ではかねて「明治文化史」「日米交渉史」の編集を計画していたが、一四日夜工業倶楽部に学界代表、財界代表数氏を招き文部省側天野文相、日高次官らと協議した結果、今年度助成金一千万円を基金にした財団法人「開国百年記念文化事業会」を創立、史料の収集と日英両文による前記両史の編集を主な事業として発足することに決定、八月から事業を開始することになつた。

第七回日展審査員決定

1951年06月

第七回日展審査員は八日日展理事会で決定、一二日日展運営会から発表された。新人審査員は五科総計二一名だつたが第四科(工芸)では初の女性審査員として人形作家の堀柳女が加わつている。

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