横山大観献納
1941年12月第二十八回日本美術院展覧会に絵巻「耀く大八州」を出品した横山大観は、帝室技芸員として渡部帝室博物館総長を通じ 天皇陛下に献上方手続中のところ、十二月十八日御嘉納あらせられた。
第二十八回日本美術院展覧会に絵巻「耀く大八州」を出品した横山大観は、帝室技芸員として渡部帝室博物館総長を通じ 天皇陛下に献上方手続中のところ、十二月十八日御嘉納あらせられた。
わが国文化の進展に寄与せんとの故野間清治の遺志に依り今回学術、文芸、美術各文化方面に野間賞の設定を見たが、第一回野間美術賞は帝室技芸員、帝国芸術院会員、日本美術院同人たる安田靫彦に決定、十二月十七日大日本雄弁会講談社講堂に於いて授賞式を挙行、賞及副賞一万円が授与された。尚各部門奨励賞が授与されるが本年度美術奨励賞はこれを欠いた。審査関係者は次の通りである。(顧問)清水澄、細川護立、(委員)横山大観、竹内栖鳳、川合玉堂、鏑木清方、安田靫彦、小林古径、藤島武二、安井曽太郎、梅原竜三郎、高村光太郎、田中豊蔵、児島喜久雄、矢代幸雄。
第二回中央協力会議に於いて各界代表高村光太郎は「全国の工場施設に美術家を動員せよ」との議案を提出した。即ち国民士気の源泉たる健康なる精神生活向上の為美術家を動員し、大工場の食堂、休憩室、合宿所、病院等に合理的美を与へるのみならず、壁面に彫刻或は絵画を活用すべきであるとの主旨であつた。
十二月八日米英両国に対する宣戦の大詔渙発され、わが国は米英両国と交戦状態に入つた。
東京市に於いては皇太子継宮明仁親王殿下の御誕生を寿ぎ奉るにふさはしき記念事業を企画しつゝあつたが、十一月十三日「皇太子継宮明仁親王殿下御誕生記念日本近代美術館」をその事業に決定、その計画案を発表した。即ち建設費約七百万円、敷地坪数四千坪乃至七千坪、建坪二千坪、延坪五千七百坪の建築を予定し、明治以降現代及将来に亘る美術及美術工芸品を蒐集陳列し、わが近代美術の精華を顕揚すると共に国民文化の向上に資し、日本美術の健全な進展に貢献せんとするものである。
文部省は東洋文化を綜合的に研究するため、東洋文化研究所を東京帝国大学に附置するに決定、十一月二十七日の官報で官制を公布した
第三次近衛内閣の後を承けて後継内閣組織の大命を拝した東条陸相は、十月十八日組閣を完了した。
上村松園及三谷十糸子は支那風物と風俗描写のため十月二十九日京都出発渡支、上海、抗州、南京、鎮江、蘇州等を旅行した。尚十一月十三日汪首席を訪問、十二月一日帰朝した。
大阪市立美術館を中心とし京阪神在住の美術同好者に依り大阪美術懇話会が結成され、九月十六日同美術館に館長上野直昭、主事望月信成をはじめ田万清臣、野田吉兵衛、水野?之助等会合し第一回発起人会を開催、会長に上野直昭を推し、毎月一回鑑賞、講演、研究会等を開催することゝなつた。因みにその第一回例会は十二月四日大阪市美術館に於いて催された。
国際文化振興会、日本印度支那協会主催、帝国芸術院後援に依り、仏印に送り現代日本洋画を紹介すべき作品五十七点が日本橋三越に於いて内示された。尚仏印に於ける展覧会は、十一月二十四日ハノイ百貨店グラマンカザンに於いて開かれた。
高松宮、同妃両殿下には九月二十七日より二日間日本橋三越に開かれた日仏印親善洋画展示会へ御成り遊ばされ、出陳作品を順次台覧遊ばされた。
高松宮、同妃両殿下には九月九日「仏印巡回日本画展覧会」内示会に御成り遊ばされ、出品作品を順次台覧あらせられた。
わが国現代美術の粋を紹介する為、日伊協会に於いては紀元二千六百年奉祝美術展覧会の作品より日本画、洋画各約五十点を選び、日伊両国語の解説を添へて編纂中であつたが、完成したのでムツソリーニ首相をはじめ伊太利亜宣伝省、各文化団体、大学、美術館、図書館等に寄贈した。
日本画、洋画、彫刻各団体の中堅人より成る忠愛美術院が結成され、総裁に八角八郎中将が推された。
国際文化振興会に於いては、帝国芸術院の後援の下に、現代日本芸術の紹介を通じ日本仏印両国文化交流の為仏印巡回日本画展覧会を企劃しつゝあつたが、その出品作品日本画、?風、版画等百六十二点の内示会を九月九、十の両日日本橋三越に開催した。尚仏印に於ける展覧会は十月十七日ハノイ市安南クラブに於いて開催されたのをはじめ、次でハイフオン、サイゴン、ユエ等に於いて展観された。特に藤田嗣治は日本絵画紹介の為帝国芸術院及国際文化振興会から派遣された。
都下美術雑誌は従来三十八種に上つたが、内務省警保局企画掛に於いてその統制が行はれた。即ち七月二十一日全誌廃刊届を提出、七月三十一日新しく当局より八誌が指定され、各誌は題号を改めて九月より発行した。その新題号、主宰者等は次の通りである。「国画」専門日本画誌(旧「塔影」斎田元次郎)「新美術」専門洋画誌(旧「みづゑ」大下正男)「国民美術」日本画大衆誌(旧「美術」岩佐新)「生活美術」洋画大衆誌(旧「アトリエ」山口寅夫)「画論」綜合評論誌(旧「造形芸術」藤本韶三)「季刊美術」季刊誌(旧「美の国」石川宰三郎、「美術日本」広橋善司、「美術評論」藤森順三)「旬刊美術新報」旬刊(旧「日本美術新聞」猪木卓爾)「美術文化新聞」週刊通信(旧「美術通信」佐久間善三郎)尚これと同時に八主催者により日本美術雑誌会が創立された。
南宗画家が一致団結し絵画を通じて日、満、華の親善融和並に文化交流を図らんが為に新しく大東南宗画院が結成され、八月八日帝国ホテルに於いて委員長小室翠雲、幹事長岩切重雄、学芸研究所長河野桐谷等二百名の画家の外来賓として帝国芸術院長清水澄、頭山満、大攻翼賛会事務総長石渡敏一、同文化部長岸田国士等列席のもとにその結成式を行つた。同院は日満華三国画家と提携し、毎年一回三国の重要都市に於いて展覧会を開催し、又国体精神作興の為随時勤皇先覚志士の事跡顕彰並に遺墨展覧会等を開催する。なほ東洋文化並に芸術の闡明の為学芸研究所を置いた。
日本画家岩崎清峡は伊太利亜傷病兵慰問の為荒鷲、菊花、鴬等を描いた花鳥画を伊大使館を経て伊国衛戍病院に贈つた。
七月十七日後継内閣組織の大命を拝せる公爵近衛文麿は十八日第三次近衛内閣を組織し、同日親任式が挙行された。
橋本関雪は昭和十四年第一回聖戦美術展覧会へ出品した「江上雨来る」を七月十五日竹田宮殿下へ献上した。