新国宝指定
1947年12月一六日国宝保存会総会が開催されて、絵画二六件・彫刻三二件・文書典籍八六件・刀剣一七件・工芸一三件・建造物二〇件、合計一九四件の国宝が指定され、二〇日文部省から発表された。財産税で国庫に物納された御物の普賢菩薩像なども含まれて居り戦後始めての国宝指定である。二一日から五日間国立博物館で新国宝の展観を行つた。
一六日国宝保存会総会が開催されて、絵画二六件・彫刻三二件・文書典籍八六件・刀剣一七件・工芸一三件・建造物二〇件、合計一九四件の国宝が指定され、二〇日文部省から発表された。財産税で国庫に物納された御物の普賢菩薩像なども含まれて居り戦後始めての国宝指定である。二一日から五日間国立博物館で新国宝の展観を行つた。
終戦から二二年八月一四日迄の出版物を対象とした本年度の毎日出版文化賞が二〇日決定した。美術関係では小林太市郎著全国書房発行の「大和絵史論」が選ばれた。
千葉県検見川の草炭採掘場遺跡からは土器などの資料が発掘されていたが、慶応大学松本延広らによつて一四日古代丸木舟が発掘された。
全国印刷工業協同組合の第一回印刷技術賞が決定し、一二日授賞式が行われた。第二部の絵画・写真などを主とした印刷物で毎日新聞社発行便利堂印刷の国華百粋が一等に凸版印刷のポスターSilk Fairが二等に選ばれた。
国宝保存法は昭和四年制定されたまゝで実情とのずれを来しているので、文部省・国立博物館などで再検討の気運が高まつて来た。
埼玉県入間郡柳瀬村の財団法人柳瀬文化館が解散し、国宝法然上人絵伝・三六歌仙住吉社頭図や重要美術品の小栗宗湛水墨山水・有楽井戸茶わんなど一切が土地建物と共に元東邦電力社長松永安左衛門から国立博物館に寄贈された。
日本美術会の主催によつて初めての試みで自由出品制をとる第一回日本アンデパンダン展が九日から一八日迄東京都美術館で開催された。
帝国芸術院は四日政令によつて名称を日本芸術院と変更した。
在野工芸団体の一つとして新しい生活感覚を生かしてゆかうとする型々工芸集団が辻光典・佐藤正巳らによつて創立され、第一回展を一一月一〇日から一八日迄東京和光ギヤラリーで開催した。
登呂遺跡から発掘採集された夥しい出土品を一般に展観する登呂遺跡特別展観が国立博物館で二〇日から二三年一月二〇日まで行われた。
全国洋画商の有志が集り、美術親和会が結成され、同業組合として出発した。
愛知県豊橋瓜郷遺跡の発掘が行われ、弥生式土器・木鍬・米穀類等が発見された。
種々の障害によつてパリに残されたまゝになつている松方コレクシヨン洋画の一部が二二日パリで競売になつた。その中にモネの「太陽と柳」「しだれ柳」「牡丹の花束」等があり、四六八万四千フランに上つたと伝えられた。
戦後二度目の正倉院特別展観が二六日から一一月一五日まで国立博物館奈良分館に開かれた。
国立博物館では美術普及事業の一つとして子供のための文化史展を行うことになり、第一回として住居の歴史展を二九日から一二月二〇日まで開催した。
解体中の法隆寺五重塔の壁画を取外して保存するための工事が一二日から行われた。樹脂注射によつて剥落を止め、木組の枠で包み、柱からの抜きとりに成功した。
国立博物館において一五日から一一月三〇日まで国内にある多数の西洋絵画、彫刻の作品を集めて西洋美術名作展が開かれた。一一月一七日には天皇皇后両陛下が行幸啓になつた。
一六日から一一月二〇日まで文部省主催第三回日本美術展覧会が東京都美術館で開かれた。第二部油絵に有力な団体が参加せず、第一部日本画にも院展同人を始め芸術院会員の大部分と出品招待者の多くが出品せず淋しい会となつた。会期中の一一月一七日天皇皇后両陛下が御覧になつた。日展への行幸啓は始めてゞある。
美術における著作権は従来から非常にあいまいであつたが、四日開かれた日本著作家組合第二回総会でこのことが問題となり、美術団体に呼びかけて二一日美術著作権確立懇談会が開かれた。フランスの「美術追及権」制度をとり入れて著作権法に挿入立法化する決定を行い実現に努めることゝなつた。