一灯賞決る
1949年12月安井曽太郎、梅原竜三郎両人の推挙で洋画壇の新人に与えられる一灯賞の第三回受賞者が決り二二日発表された。今回は一水会員小野末である。
安井曽太郎、梅原竜三郎両人の推挙で洋画壇の新人に与えられる一灯賞の第三回受賞者が決り二二日発表された。今回は一水会員小野末である。
二六日の暴風雨で国宝日光東照宮の陽明門、表門、輪王寺三仏堂に相当の被害があつた。
中央区銀座一ノ三東洋美術館では大観、玉堂の軸を盗まれたと一四日届出た。
二二日夜滋賀県滋賀郡坂本村天台宗天台律総本山安楽律院正殿天井から出火、本堂、庫裏、鐘楼など六むねを焼いた。国宝の本尊は焼けなかつたが、古仏書約一五〇箱など貴重な蔵品も焼失した。
東京芸術大学第一回芸術祭は大学、毎日、東京日日両新聞共催で行われ、一日記念式典で幕をあけ、二日から七日まで展覧会、演奏会、小学生動物写生大会、仮想行列などを催した。
法隆寺五重塔の立柱式は一一日佐伯老貫主導師となり古式にならつて行われた。有光国宝保存委員長ら約五百名が参列した。なお再建方針が村田、藤島工博ら委員十余名によつて検討され、(一)木造で再建し、各層の屋根を支える支柱は取りはずして旧型に復する(一)五重塔空洞内に玉砂利を入れて湿気をふせぐ(一)塔の瓦は金堂のものと同型の飛鳥式に統一する、などの方針を決めた。
ルネ・グルツセ博士は一ヶ月半の滞日を終えて二四日羽田から帰国した。
発掘と調査で問題を呼んだ法隆寺五重塔下の秘宝は二八日夜再びもとの舎利穴に埋められ、永久に保存されることになつた。
第五回日展は一日から二五日まで大阪市主催で大阪市美術館に開催された。そのため伝統的な京都展はひらかれなかつた。
文部省では民間の旧家、町村役場、寺院、神社などに残る古文書や記録を保存するため史料館の設立を準備していたが、品川区豊町一ノ一一三八の旧三井文庫を買取つて一九日学術史料展示会をかねて開館式を行つた。
二〇日上野駅前で愛の女神像の除幕式が行われた。作者は長沼孝三。
浅草寺発掘は一四日夕まで続けられ、平安朝初期と推定される巴瓦が旧本堂東坂下前の地下から発見された。
本年度の毎日美術賞は、福田平八郎「新雪」、林武「梳ずる女」、菊池一雄「青年像」の三者と決り一六日発表された。各々賞金一〇万円づつが贈られた。
香川県出身の美術家が主体となつて浄財をつのり、栗林公園内に美術館が設立された。三日落成、設計は山口文象、木造二八〇坪。美術の常設展観場となる。
日本学士院では一二日の総会で来朝中のルネ・グルツセ博士を学士院客員に推挙することに決定した。
三一日附で前文部大臣高橋誠一郎が国立博物館長に補せられ、在職中の日本芸術院長はそのまゝ兼任することとなつた。
明治大正昭和三代にわたる横山大観の画業を一堂にあつめた六十年展が、二日から一三日まで上野松坂屋でひらかれた。画壇に洋画化する傾向の強い折柄反省と感銘を与えた。
第五回日展は日展運営会規則によつて二九日より翌月二一日まで東京都美術館にひらき、一一月一一日には天皇、皇后両陛下と三笠宮、同一八日には皇太后陛下が御観覧になつた。その他来朝中のフランス国文化使節ルネ・グルツセ博士も一一月八日に来観し、同日は日展関係者と芸術についての懇談会も催された。
三〇日から一一月一三日まで国立博物館で正倉院御物特別展がひらかれ、以前出品されなかつた北倉の御物を中心に陳列された。一四日両陛下および皇太后陛下が御覧になつた。
今年になつて展覧会のアトラクシヨンがふえ、二科会の「額縁シヨー」や二紀会の「ダンス・パーテイ」が話題となつたが、これに対し石井柏亭、和田英作の両芸術院会員は三〇日「神聖な美術館を汚すものである」との抗議を都美術館当局に申入れた。