- 本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された彙報・年史記事を網羅したものです。
- 現在、2019年/平成31(令和元)年まで公開しています。(記事件数 5,450 件)
塊人社復活
1939年12月今春絵画部を解消して彫刻のみの団体となつた主線美術協会は、旧称に戻つて塊人社を復活させた。
現代美術館建設建議
1939年12月東京市の紀元二千六百年記念事業として現代美術館を建設されたいとの建議が、東京美術学校長芝田徹心、正木直彦、川合玉堂、横山大観、藤島武二、和田英作、山崎朝雲、朝倉文夫、香取秀真、板谷波山の署名で十二月二十一日頼母木市長宛に提出された。
宮城外苑整備事業奉賛会設立
1939年12月東京市の紀元二千六百年記念事業として実施中の宮城外苑整備事業完成のため、市民各層の代表者を網羅し頼母木市長を会長とする宮城外苑整備事業奉賛会が結成された。
伊勢神宮模型ヴアチカンに寄贈
1939年12月三井高陽男の寄附により国際文化振興会の斡旋で、伊勢神宮の白木造りの模型をローマのヴアチカン宮に贈ることになり、十二月初旬ほぼ完成、来春一月ローマ教皇使節館を通じて発送されることになつた。
浅井忠三十三回忌
1939年12月浅井忠の三十三回忌が、門人達による黙語記念会の主催で、十二月十六日故人の画室の現存する下谷区上根岸町三八河合勝夫宅で行はれた。遺族を囲んで旧友門下等四十余名参集し盛会であつた。
朝日新聞挿絵コンクール
1939年12月朝日新聞社では同紙創刊五十周年を記念して、現代小説当選作の挿絵担当を約束する挿絵コンクールを募つたが、去る九月末の締切で応募千二百七十八点に達し、爾来審査中の所第一次予選(通過七十一点)及び第二次予選の結果関東側三名、関西側四名を得たので、十二月三日この七名を東朝社に招き、席上試作、街頭スケッチ等に最後の審査を行つた。
現代日本画贈呈式
1939年11月藤原銀次郎によつて齎されたヒトラー総統に贈る綴れ錦壁掛並にドイツ政府に贈る六十一点の現代日本画の贈呈式が、十一月二十七日ドイツ国立博物館で行はれた。
関雪聖戦記念画献納
1939年11月橋本関雪は聖戦記念画八点を製作したが、いづれも適当な所へ献納又は寄贈することとなり、「恵日東臨」六曲一双は宮内省へ、「戦塵」「残照」は靖国神社へ、「軍馬二題」六曲一双は帝室博物館へ夫々献納と決定、「焼土春かへる」外の草稿七点は大礼記念京都美術館へ寄贈、「江上雨来る」「河霧」は未定、未完成の「両面愛染明王」は引続き執筆中で、これらの作品は「聖戦余塵」と題して出版された。
長尾建吉記念館設立計画
1939年11月静岡県美術協会では、昨年物故した長尾建吉の県美術界に尽尽した功績に酬ゆるため記念美術会館設立を計画中であつたが、紀元二千六百年を期し国策に沿ふべく案を改め静岡特産指導会館を建設することになつた。静岡市内に二階建の建物を作り、展覧会場、集会場、美術工芸指導研究室等を設ける計画である。
山南会結成
1939年11月土田麦僊逝去後その山南塾は解散されたが、新に門下の有志十四名は山南会を結成した。
献上画依嘱
1939年11月南洋興発株式会社が畏きあたりへ献上する南洋風景画製作の依嘱をうけた丸山晩霞は、十一月中旬南洋委任統治領へ出立した。
ラグーザ玉追憶碑建設
1939年11月今夏逝去したラグーザ玉の追憶碑が玉交会によつて麻布区宮村町長玄寺の故人の墓側に建設され、十一月十八日関係者参集除幕式が行はれた。
失明作家の彫刻イタリアに寄贈
1939年11月眼病のため失明した彫刻家和田垣良雄は、イタリアの失明軍人フィリツプ・パウゾラから今春大日本傷痍軍人会に贈られた愛児を撫する盲人のブロンズ像に感激し、返礼の作品として群像「親睦」を製作、構造社に出品したが、斎藤素厳の援助を得てブロンズに仕上げイタリアの傷兵に贈ることとなつた。
植松包美七周忌
1939年11月蒔絵の名家植松包美の七周忌を迎へ、十一月十一日門下生参集四谷須賀町円通寺で法要を営み、翌十二月築地花月で遺作を展観した。
美術問題協議会結成
1939年11月荒木季夫、岩佐新、大隈為三等批評家、美術記者十九名を発起人とし「我邦に於ける美術の正常なる発展に寄与する為、斯界に生起する諸問題を研究討議し、是に善処するを以て目的とす」る美術問題協議会が結成された。
清麿公銅像競作
1939年11月大日本護王会では紀元二千六百年記念事業として和気清麿公銅像を宮城前、京都護王神社、宇佐八幡宮の三ケ所に建設する計画をたて、清麿公銅像建設期成会を組織して実現に努めてゐたが、製作者として北村西望、朝倉文夫、佐藤朝山の三名が推され何れとも決しかねて右三名に原型を委嘱、その一を選出することとなり、競作問題として美術界の注意をひいたが、十月末に至り朝倉は製作を辞退、北村、佐藤の原型高さ六尺の雛形ができたので十月二十九日帝国産金会社で関係者が内見した。細川護立候、正木直彦、清水澄、滝精一、矢代幸雄、児島喜久雄、関保之助らが審査を委嘱されたが、審査は穏当ならずとしてその形式をとらず参考意見を提出し、結局佐藤が宮城前、北村が護王神社の分を夫々担当することに決つた。然るにこの結果には公正な芸術的批判以外のものが伏在するといふ理由で、その後北村は製作を辞退し佐藤の製作のみが実現されることとなつた。
天覧演習を謹写
1939年11月近衛師団の演習は大元帥陛下天覧の下に十一月八日富士裾野で行はれたが、同師団ではこの光栄を伝ふるため清水良雄に委嘱、その盛儀を謹写せしむることとなり、清水は従軍して写生を行つた。
桑港万国博閉会
1939年10月サンフランシスコ金門万国博覧会は十月二十九日閉会したが、日本館は開場以来人気をあつめ最終日も入場者殺到の盛況を呈した。同日午後五時佐藤総領事初め多数在留民参列、厳粛な日本館閉鎖式を行つた。
紐育万国博日本館寄贈
1939年10月ニユーヨーク万国博覧会は十月末を以て閉会、更に来春再開される予定であるが、ニユーヨーク市では同博覧会終了後その敷地に公園を建設する計画で、かねてより好評であつた日本館を庭園と共に同公園内に永久保存したき旨申出があつたが、わが当局では十月三十日右希望の通りこれらを同市に寄贈する旨正式に通告した。