森芳雄

没年月日:1997/11/10
分野:, (洋)
読み:もりよしお

 主体美術協会会員で武蔵野美術大学名誉教授の画家森芳雄は11月10日午前8時20分、老衰のため東京都世田谷区のアトリエで死去した。享年88。明治41(1908)年12月21日、東京麻布区北新門前町に貿易商社社員福與藤九郎の第7子三男として生まれる。幼時に叔母森ふみの養子となるが、渡欧時まで実家で生活した。父の職業柄、幼少時から西洋美術の図録に親しみ、大正14(1925)年、慶應義塾普通部に通学する一方、白瀧幾之助に木炭デッサンを学ぶ。翌年慶應義塾普通部を修了し、東京美術学校を受験するが失敗したため、本郷絵画研究所に入り、デッサンを中心に学ぶ。翌年も東京美術学校を受験するが、再度失敗し、東京近郊の農園に1年あまり勤務した。昭和3(1928)年1930年協会絵画研究所で中山巍に師事し、あらためて油彩画とデッサンを学び、翌年第4回1930年協会展に初入選する。同5年第17回二科展に初入選。同6年第1回独立美術協会展に入選した。同年渡仏し、今泉篤男山口薫浜口陽三を知る。同7年サロン・ドートンヌに入選。同9年に帰国して、翌年東京銀座の近代画廊で「渡仏作品展」を開催した。同11年第6回独立美術協会展に「日時計」「晴日」「広告塔」「ローマ郊外」を出品してD賞を受賞、同13年同会第8回展に「母子」「坐像」を出品するが、同14年第9回展の出品を最後に同会を退会する。同年第3回自由美術家協会に出品し、同会会員となる。同18年東宝映画撮影所特殊映画部に入り、同23年まで勤務した。この間、同22年日本美術会主催第1回日本アンデパンダン展に出品。同26年より武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に勤務し、後進の指導にあたった。同37年ヨーロッパに渡り、パリを中心に5ヶ月滞在。同年同教授となり、同56年に退職するまで長く美術教育にあたった。同37年、神奈川県立近代美術館で麻生三郎との二人展を開催する。同39(1964)年、麻生三郎糸園和三郎寺田政明らを含む38名とともに自由美術家協会を退会し、同年主体美術協会を結成してその代表となった。同40年日中文化協会による日本美術家訪中団の一員として中国へ渡る。同44年ヨーロッパ旅行。同46年インドへ、同47年モンゴル・シルクロードへ旅行。同年より東京芸術大学でも非常勤講師として教鞭をとった。同49年、『森芳雄画集』(日本経済新聞社)を出版。同55年、『森芳雄素描集』(朝日新聞社)を刊行。同50年、東京渋谷の東急百貨店、大阪の梅田近代美術館で「森芳雄展」が開催された。同53年、武蔵野美術大学美術資料図書館で「森芳雄教授作品展」が開催される。同54年には東京銀座の松屋および仙台の藤崎で「森芳雄デッサン展」が開催される。同56年には渋谷区立松涛美術館で「森芳雄展」が開催された。同61年、名古屋画廊で「森芳雄展」、平成4(1992)年にも同画廊で「森芳雄近作展」が開催された。平成元(1989)年、東京日本橋高島屋で「森芳雄展」が開催され、また、写真集『画家森芳雄平成元年80歳』(森芳雄写真集刊行会)が刊行された。平成2年には茨城県近代美術館で「森芳雄展」が開催されている。かたちを簡略化した象徴的人体像を画面内に配置することにより、かたち相互の拮抗や調和に、造形上の整合性と論理性を求め、「母子像」を多く描いた。

出 典:『日本美術年鑑』平成10年版(403-404頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「森芳雄」『日本美術年鑑』平成10年版(403-404頁)
例)「森芳雄 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10665.html(閲覧日 2024-03-30)

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