駒井哲郎

没年月日:1976/11/20
分野:, (版)

銅版画家、東京芸術大学教授駒井哲郎は、11月20日舌癌肺転移のため東京築地の国立ガンセンターで死去した。享年56。大正9(1920)年6月14日東京都中央区に生まれた。慶応義塾普通部在学中にエッチング研究所に銅版画の技法を学び、昭和13年東京美術学校油画科に入学、在学中の同16年第4回文展に銅版画を出品入選し、翌17年卒業した。同23(1948)年日本版画協会展に銅版画を初出品して受賞、会員に推され、同25年には春陽会展に初出品受賞、翌26年同会会員になるとともに、この年国際展としては日本が戦後はじめて参加した第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に「束の間の幻影」で受賞し、版画家としての地歩を築いた。同27年ルガーノ国際版画展で受賞、パリのサロン・ド・メイに出品、翌28(1953)年浜口陽三らと日本銅版画家協会を設立、同29年3月渡仏しパリ国立美術学校版画科に学び翌年12月帰国した。また同46年には東京芸術大学助教授に就任、翌47年教授となった。鋭い線をもつ独自の技法でわが国銅版画界に新境地をひらいたが、とくに詩画集にすぐれた仕事を残し、安東次男との『人それを呼んで反歌という』などがある。没後その技法を明らかにした『銅版画のマチェール』(美術出版社昭和51年)が刊行された。
略年譜
大正9年(1920) 6月14日東京都中央区に生まる。
大正12年 9月1日関東大震災に会い五反田にあった家へ移る。
昭和9年 麹町にあった室内社画廊で、メリオン、ホイッスラー、ムンクなどの銅版画を見る。同所にあったエッチング研究所(西田武雄主宰)で銅版画の技法を習う。
昭和13年 慶応義塾普通部卒業。東京美術学校油画科入学。
昭和16年 第4回文展に銅版画入選。この頃より麻布桜田町に住む。
昭和17年 東京美術学校油画科卒業。
昭和18年 東京外国語学校フランス語専修科卒業。
昭和19年 平田重雄に建築設計の教えを受ける。応召。
昭和20年 復員後、軽井沢の疎開先に落着き、油絵、銅版画を制作。年末から世田谷区駒沢に住む。
昭和23年 日本版画協会展に戦中、戦後に製作した銅版画を初出品し受賞、恩地孝四郎らに注目され会員に推挙さる。
昭和25年 春陽会展に初出品し受賞。「現代フランス創作版画展」(東京国立博物館)の批評を『みづゑ』に書く。
昭和26年 第28回春陽会展に「夜の魚」「人形と小動物」他10点を出品、同会会員になる。第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に「束の間の幻影」受賞。第7回サロン・ド・メイ出品。『マルドロールの歌』(ロオトレアモン 青柳瑞穂訳木馬社)の銅版挿絵を制作。
昭和27年 第2回ルガーノ国際版画展に出品優秀賞。第8回サロン・ド・メイ「時間の迷路」出品。春陽会「裏庭」他4点出品。実験工房に参加。
昭和28年 第2回日本国際美術展、「Radio activity in my room」「エチュード」出品。第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に「Poison de la unit」他5点出品。資生堂画廊で銅版画による最初の個展を開催。日本銅版画家協会設立に加わり理事になる。
昭和29年 養清堂画廊で個展。3月渡仏、長谷川潔を訪ねる。5月にエドモン・ド・ロチルドコレクションの素描と版画展を見る。パリ国立美術学校のビュラン教室(ロベール・カミ教授)へ入る。
昭和30年 レバークーゼン美術館での「パリの日本人画家展」、リュブリアナ国際版画ビエンナーレに出品。12月帰国。
昭和31年 第2回現代日本美術展に「作品A、B」を出品。南画廊で個展、久保貞次郎を知る。
昭和32年 日本国際美術展に「或る終曲」出品。小山正孝と『愛しあふ男女』(ユリイカ)刊行。
昭和33年 現代日本美術展に「夜の森」「樹木」出品。ヨーロッパ巡回日本現代絵画展に「思い出」「束の間の幻影」「樹木」出品。南画廊で個展、安東次男を知る。
昭和34年 日本国際美術展に「鳥と果実」を出品しブリヂストン美術館賞を受賞。第5回サンパウロ・ビェンナーレ展に「調理場」他9点出品。渡仏。
昭和35年 南画廊で個展。現代日本美術展に「置かれた首」「静物」を出品。安東次男との詩画集『からんどりえ』(ユリイカ)、青柳瑞穂との『睡眠前後』(大雅洞)刊行。
昭和36年 日本国際美術展に「二つの円周」、春陽展に、「青い家」出品。
昭和37年 東京芸術大学美術学部、多摩美術大学の非常勤講師を委嘱される。フィレンツェ美術アカデミアの名誉会員となる。現代日本美術展に「受難」「晩餐」を出品。
昭和38年 10月20日交通事故にあう。日本国際美術展に「版画」を出品。
昭和39年 詩画集『距離』(永田茂樹 昭森社)、『断面』(馬場駿吉 昭森社)を刊行。
昭和40年 日本国際美術展に「大洪水」出品。
昭和41年 詩画集『人それを呼んで反歌という』(安東次男 ギャルリー・エスパース)、『詩集』(福永武彦 麦書房)、『鵜原抄』(中村稔 思潮社)を刊行。現代日本美術展に「食卓にて」「洪水」を出品。
昭和42年 日本国際美術展に「孤独」、近代日本の版画展(東京国立近代美術館)に「束の間の幻影」「木ノ葉と飛んでいる鳥」出品。
昭和43年 石川淳作『一目見て憎め』(俳優座公演)の舞台装置、衣裳を担当。『エッチング小品集』(版画友の会)を刊行。現代日本美術展に「オーフォルト1、2」を出品。
昭和44年 現代日本美術展特別陳列「現代美術20年の代表作」に「森」出品。『季刊芸術』第3号から「銅版画の技法」を書き始める。『野間宏全集』第一巻に銅版画挿絵10点を制作。
昭和45年 自由が丘画廊で個展。野間宏『夜のコンポジション』(青地社)、埴谷雄高『九つの夢から』(青地社)、金子光晴『よごれていない一日』(弥生書房)のため銅版画制作。
昭和46年 東京芸術大学助教授となる。金子光晴の書画との銅版画展開催(小田急百貨店)。現代日本美術展に「星座A,B,C」出品。
昭和47年 東京芸術大学教授となる。
昭和48年 自由が丘画廊、渋谷西武百貨店で個展。詩画集『蟻のいる顔』(中央公論社)刊行。『駒井哲郎銅版画作品集』(美術出版社)刊行。
昭和50年 7月渡仏、長谷川潔を訪ねる。11月パリのジュンヌ・グラビュール・コンタンポレーヌに招待出品。『恩地孝四郎画集』特製本(形象社)のために銅版画作成。自由が丘画廊で個展開催。
昭和51年 11月20日死去。没後『銅版画のマチェール』(美術出版社)刊行。「アトリエC-126プリントショウ-師駒井哲郎に捧ぐ」展が銀座みゆ画廊で開催される。

出 典:『日本美術年鑑』昭和52年版(289-291頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「駒井哲郎」『日本美術年鑑』昭和52年版(289-291頁)
例)「駒井哲郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9582.html(閲覧日 2024-04-27)

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