国宝指定解除
1948年12月二一日の国宝保存会で国宝六五件の指定解除が決定、二八日発表された。仙台城大手門などの建造物四六件、華厳文義要訣など一九件の戦災による焼失を確認したもの。
二一日の国宝保存会で国宝六五件の指定解除が決定、二八日発表された。仙台城大手門などの建造物四六件、華厳文義要訣など一九件の戦災による焼失を確認したもの。
日本学術会議議員の始めての選挙が行われ、二二日学術体制刷新委員会中央選挙管理会から決定が発表された。第一部(哲学・史学・文学)に和辻哲郎(哲)、藤田亮策(史)、第三部(経済学・商学)に高橋誠一郎(経)、第五部(工学)に岸田日出刀(建築学)等がある。
二一日国宝保存会が開催され絵画一四件・彫刻四件・文書典籍書籍五三件・工芸一一件・刀剣四件・建造物六件の九二件の指定が議決され二八日文部省から発表された。大阪市立美術館の伏生授経図・岩崎家の古文書大手鑑などが含まれる。二四年一月一五日から二一日迄国立博物館に於て特別展観が開かれた。
日本作家協会洋画部・現代美術作家協会・新生派美術家協会の三団体は二〇日解散、合同して新に現代美術協会を創立した。
正倉院御物の横笛・尺八等による古代音楽の再現が一六日から二〇日にわたつて、古代音楽研究家の林謙三、科学研究所員田口?三郎、宮内府楽部々員芝祐奏によつて行われ成功した。
登呂周辺遺跡調査の一つとして静岡市片山の奈良時代寺院跡の発掘が日本考古学協会登呂特別委員会によつて二三日から一二月二日まで行われ奈良時代寺院の建築物跡があらわれた。
経済安定本部長官官邸で昭和二十二年五月以来東京美術学校から借用していた関野聖雲作木彫毘沙門天像が行方不明となり問題となつた。昭和一九年戦時特別文展の出品作である。
第六回文化勲章受領者五名の決定が一日文部省から発表され、二日授与式が行われた。美術関係からは、安田靭彦、朝倉文夫、上村松園の三名で女性の文化勲章受領は今回の松園が始めてであつた。
大田区田園調布で関東地方には珍しい前方後円型古墳が三一日から東洋大学教授和島誠一、明大教授後藤守一らによつて発掘された。円型のところに横穴式石室が発見され埴輪や副葬した装飾品などが出土した。
学術研究会議に古代文化資料自然科学的研究特別委員会が設置された。貴重な古代文化資料の保存・修理を科学的に研究するのを目的とし、委員長には資源科学研究所長柴田桂太が就任した。
天皇陛下は芸術院会員を宮中に招いて御懇談なさる催しを計画され、その第二回目として二五日第一部会員のうち日本画家を御招きになつた。上村松園・小野竹喬・奥村土牛・鏑木清方・川合玉堂・中村岳陵・西山翠嶂・野田九浦・福田平八郎・前田青邨・松林桂月・安田靭彦・横山大観の一三名が伺つた。
戦後第三回の正倉院御物特別展観が二八日から一一月一〇日まで国立博物館奈良分館において行われた。
武蔵野文化協会と東京都では武蔵野市井之頭自然文化園内に郷土文化資料を集め武蔵野博物館を開設、二四日から一般に公開した。
国立博物館では四月の日本美術史総合展の後をうけて明治以降の近代美術の主要作品を集めた近代日本美術総合展を一五日から一一月三〇日まで朝日新聞社後援で開催した。
アメリカオハイオ州クリーヴランドの学生ポスター芸術展の依頼で東京商工会議所では観光・貿易・文化など各業界方面の宣伝ポスターから七三枚を選び二三日発送した。
一〇日開かれた重要美術品等調査委員会で絵画一四件、彫刻七件、文書典籍一一四件、刀剣一七件、刀剣附属小道具一三件、工芸及考古学資料四一件、建造物一七件、合計二二三件の新重要美術品等の認定が可決され、一三日文部省から発表された。新重要美術品には狩野探幽の臨画帖・足利義持の寒山図・本阿弥光悦筆立正安国論などがある。
新制作派協会々員洋画家荻須高徳はオランダの蒐集家バツサンジエーとフランス美術評論家テツシエの助力により、一年の予定で渡仏することになり、一一日オランダ船ラングリースコツト号で出帆した。
梅原竜三郎は一八日内閣総理大臣宛てに芸術院会員の辞退を届け出た。
第四回日展の第二科油絵の審査員は芸術院会員のみと決定したが、芸術院会員の中で梅原竜三郎・小杉放庵・須田国太郎・安井曽太郎が審査員辞退を申出た。