日仏印派遣教授決定
1942年12月第二回日仏印交換教授は国際文化振興会の派遣による日本側教授として京都帝国大学教授文学博士梅原末治に決定、仏印側からは仏印図書館総長ポール・ブーデと決定された。
第二回日仏印交換教授は国際文化振興会の派遣による日本側教授として京都帝国大学教授文学博士梅原末治に決定、仏印側からは仏印図書館総長ポール・ブーデと決定された。
陸海軍将士に報ひようとの気運が芸術界に澎湃として高まり、二十四日及び二十六日の両日、芸術各界の代表者が大政翼賛会に集り、これを全芸術界挙つての愛国運動とすべく打合せ会を行つた。両日は日本画の安田靫彦、石塚彰吾(小室翠雲代理)、洋画の梅原竜三郎、木村荘八、彫刻の石井鶴三(北村西望代理)や日本文学報国会事務局長久米正雄、日本音楽文化協会理事長中山晋平をはじめレコード文化協会、芸能文化聯盟等の各代表者が、あらゆる機能を総動員して戦艦献納の挙国運動に邁進することを申し合せた。
前興業銀行総裁宝来市松は今回斯学の権威に諮り、昭和十六年度を初年度とする東洋美術史論文奨励賞を提供することとなつた。本賞は単行図書を除き毎年一月一日より十二月末日までに雑誌に発表された東洋美術史関係論文中最秀一篇に賞金五百円を贈与するものである。
肇国以来現代に至る吾が国史の跡を回顧し、皇国文化の発展の様を伝へ、わが民族文化の振起と顕揚とを図る為紀元二千六百年奉祝会では国家的記念事業として「日本文化大観」(歴史編上・下、現勢編、図録上・中・下の六巻)を刊行することになり、昭和十四年二月官制により日本文化大観編修会を設け鋭意編纂中のところ、その第一巻(歴史編上)特製版七百部が刊行されたので、十四日歌田奉祝会幹事長は宮内省に出頭、皇室並に各宮家に献上の手続を了した。書型は大約規格判B4番型、背及び角革麻布表紙、本洋綴、見返しは正倉院御物色紙中の雲麒麟文様を薄墨色に複製し、用紙は千年の保存に堪へる三椏製局紙、天金、背文字金を使用せる豪華なものである。
野間奉公会昭和十七年度野間賞贈呈式は、十七日小石川区音羽町大日本雄弁会講談社講堂に於て挙行された。受賞者は野間美術賞(賞杯及賞金壱万円)平櫛田中、野間美術奨励賞(賞杯及賞金壱千円)中村研一、挿絵奨励賞(同上)川上四郎であつた。
日本赤十字社に於ては、予て皇太子殿下御降誕奉祝記念会としての献上屏風の製作を河合玉堂に依嘱中であつたが、「揺ぎなき大和島根」なる六曲一双の屏風が完成したので、二十二日献上の手続を了した。
李王垠、同妃、王世子殿下には御揃にて六日太平洋戦争美術展覧会に御成り遊ばされた。
賀陽宮恒憲王、同妃殿下には邦寿王、治憲王、章憲王、文憲王、美智子女王各殿下と御揃にて六日太平洋戦争美術展覧会に御成り遊ばされた。
朝香宮殿下には三日太平洋戦争美術展覧会に御成り遊ばされ、緒方朝日新聞社主筆の御案内で出陳の絵画を御覧遊ばされた。
李鍵公、李?公、同妃殿下には五日太平洋戦争美術展覧会に御成り遊ばされた。
李王妃、李鍵公妃殿下には十四日文部省美術展覧会に成らせられた。
天皇、皇后両陛下には畏くも二十九日皇太子殿下、孝宮、順宮両内親王殿下と御揃にて宮中千種の間及び豊明殿に於て入江侍従の御説明にて陸海軍部隊の様を描ける陸海軍作戦記録画三十九点を天覧並に台覧あらせられた。
絵画研究及び日本画材料による試作品を発表する為に洋風画家猪熊弦一郎、伊藤廉、硲伊之介、林倭衛、林重義、曽宮一念、野口謙蔵、里見勝蔵、木下孝則、須田国太郎、鈴木保徳、鈴木新太郎等に依り竹頭会が結成された。
東伏見宮妃、賀陽宮妃、伏見若宮妃殿下には、九日文部省美術展覧会に台臨遊ばされた。
久邇若宮、賀陽若宮殿下には十三日文部省美術展覧会に台臨あらせられた。
美術を通じて勤労者の生活に豊なる創造の温床を与へ、優秀なる技能と正しく美しき生産と更に健全なる新文化の発展を期し、大政翼賛会及び大日本産業報国会後援のもとに桐原葆見を理事長として生産美術協会が結成され、七日日比谷三信ビル東洋軒に於て披露式を挙げた。
岡倉天心偉績顕彰会は、茨城県大津町五浦の天心遺跡を米山辰夫より寄贈を受けたのを機会に、これを保存し併せて同邸内に記念碑の建立を計画しつゝあつたが、その工成つたので、八日除幕式を挙行した。
横山大観は第二十九回院展出品の「正気放光」を展覧会終了後海軍省を通じて江田島海軍兵学校に寄贈した。
日本画家報国会は軍用機献納の資とする為会員の作品を去る三月日本橋三越に於て「軍用機献納作品展覧会」として開催、続いて大阪に於ても同作品の展観を行ったが、会場を提供した三越は日本画家報国会と協議、これ等百八十四点の作品を購入し、東京帝室博物館に寄贈した。
日華両国の工芸、建築其の他の造形運動の連絡提携を図り、以て中華民国の造形文化を指導振興し、延て東亜諸国の生活文化の連絡に資する為日華両国の工芸家、興亜院、商工省の間に国策的な文化団体結成の計画が進められてゐたが、藤山愛一郎を会長として興亜造形文化聯盟が創立され、四日丸の内大東亜会館に於て結成披露会を行つた。