都下で初の“木炭棺”

1951年06月

国学院大学考古学教室では一〇日から北多摩郡狛江村の古墳の発掘を開始したが、古墳時代前期に行われた埋葬法に使用されていたという木炭棺が一〇日和泉亀塚で発見された。都下ではじめてのものだという。

中尊寺金色堂内陣床に割れ目

1951年06月

さる七日第一次国宝指定を受けた岩手県平泉の中尊寺金色堂の内陣の床に、数日前突然原因不明の大きな割れ目が出来、驚いた中尊寺当局では一一日県に報告、原因の究明と対策について申請した。

スタジオ飾るキリスト像

1951年06月

一一月頃第一声をあげる予定の日本文化放送協会ではこのほどローマ法皇から贈られたキリスト像と祭壇が着いたので新宿区若葉町の第一スタジオに取付けることになつた。像の製作者はイタリヤの著名な彫刻家A・ビニヨリーで一九五〇年完成のもの。像高五尺、一二貫のブロンズ製。祭壇は大理石製。

第一次国宝指定発表さる

1951年06月

文化財保護委員会では四日から新しい国宝の審査を行つていたが、七日の専門審議会で第一次の国宝として一八一件を決定発表した。内訳は建造物三七件、絵画二六件、彫刻二四件、書跡五三件、工芸三九件、考古民俗資料二件。

二科会に漫画部

1951年05月

“マンガも芸術である”というので二科会に漫画部が設けられ清水崑、近藤日出造らが会員に推挙された、(横山隆一にも交渉中)。今秋の二科展から発足、漫画部会員の推薦による招待出品の他ひろく公募も行うことになつた。

米高校生から名画コピーの贈物

1951年05月

マチス、ボナールなどの名画のコピー六点が二四日紐育のデビス・ハイスクールの生徒たちから目黒区の駒場高校へ飛行便で送られてきた。昨年一〇月同ハイスクールの生徒たちがパリのユネスコ本部を通じ文部省に、日本の高校生に贈物がしたいと申出てきたことから美術科を持つ都内ただ一つの高校の駒場高校がこのプレゼントを受けることになつたもの。二四日同高校に飾りつけた。

第三回装幀賞決る

1951年05月

九日から日本橋三越で開催の装幀相談所主催第三回装幀美術展では五日間の大衆投票を参考に一五日の審査委員会で今年度装幀賞を次の通り決定。▽一般教養書一位「思ひ川」(鍋井克之装幀)二位(二点)「親友ピカソ」(美術出版社装幀)「パリ」(渡辺一夫装幀)▽専門書一位「新都市の形態」(亀倉雄策装幀)二位「日本の時計」(館公明装幀)▽児童書一位「小川未明童話全集」全五巻(初山滋装幀)二位(該当者なし)

舞台美術作品オスローへ

1951年05月

国際演劇協会のオスロー大会と同時に開かれる舞台美術展へ作品を送ることになり、同協会日本センター創立準備委員会で協議の結果次記の模型舞台が決定、一七、八日ごろ航空便で積出すことになつた。伊藤熹朔「ミカド」、吉田謙吉「ロメオとジユリエツト」、古賀宏一「祇王村」(春陽会に出品したもの)、歌舞伎模型舞台、他に歌舞伎の絵看板、デザイン等。

トーテムポールが東京都へ

1951年05月

インデアンの礼拝物であるトーテム・ポールが日米親善の永久記念物としてシヤトル市民と同市商工会議所から東京都へ送られ一四日日比谷公園で岡安都副知事等関係者に渡された。一七日から七月三日までシヤトル市で開催される日本貿易博覧会にちなみ同市から都におくつて来たもの。都ではこれを井の頭公園に月末建てた。

法隆寺出火事件に判決

1951年05月

法隆寺金堂出火事件の最終公判は一〇日午前一〇時半から奈良地裁玉置裁判長係りで開かれたが、元法隆寺国宝保存工事事務所長、現国立博物館国宝保存修理課長大岡実は無罪、他三名は罰金一千円の判決言渡しがあつた。

天皇陛下に書画集を献上

1951年05月

現在の日本文化を代表する文学者画家三六人の手による書と画を陛下に献上、戦前戦後のご苦労をおなぐさめするという計画が生成会(代表安倍能成)の手で進められ、四日上下二冊が完成、近く献上されることになつた。三六歌仙にならつて約一年半がかりで集めたもの。

フランス美術作品の版権料取立て

1951年05月

戦後フランス美術作品の複数掲載に関する事務はすべてフランスミツシヨンで取扱われていたが、一昨年末総司令部とフランスミツシヨンによつて新たにフランス著作権事務所が設置され、三月中旬パリのフランス芸術財産組合から来た申込みによつて日本におけるフランスの彫刻、絵画などの複製版権問題に関する事務を一手に行うことになり従来の無干渉主義を改め、このほど各雑誌社、美術出版社、アトリヱ社などに対し「ブラツセル条約にもとづいて版権料を取立てる」と厳重な通告を発した。

「平和の群像」除幕さる

1951年05月

昨年七月創立五〇周年を迎えた日本電報通信社の記念事業の一つとして昨年五月一日から新制作派会員菊地一雄によつて製作されていた「平和の群像」は三宅坂角旧寺内元帥銅像跡に据付けられ、一日除幕式を行つた。

「美術教育ゼミナーレ」に招請

1951年04月

国連主催で七月イギリスのプリストル大学で開かれる「美術教育ゼミナーレ」に代表一名を派遣するよう本月中旬、ユネスコ本部から駐日代表部を通じて文部省に招請状が届いた。この招請は始めてで七月七日から二八日まで各国代表約三〇名を集め美術教育上の諸問題について活発な討議が行われることになつており、代表者資格は美術教育関係の教職員、博物(美術)館、図書館の美術教育計画の指導者に限定されているという。

美術雑誌「ミユーゼアム」創刊

1951年04月

国立博物館では世界各国の博物館、美術館の出版物との交換をかねて日本美術の正しい紹介をするために月刊美術雑誌「ミユーゼアム」を編集し、四月号を創刊号として宗達、光琳派を特集、美術出版社で発行した。

アンリマチス展ひらく

1951年03月

待望のアンリ・マチス展は読売新聞社と国立博物館の共催で三一日より五月一三日まで表慶館において開催された。陳列はヴアンス礼拝堂のための作品三六点、油絵一六点、デツサン四〇点、挿絵本八点、切紙絵一点。(なお会期四四日間の入場者は一五万一千八百人におよんだ。)

文部大臣賞決る

1951年03月

美術、文学、映画、演劇、音楽五部門にわたる二五年度美術芸能関係の文部大臣賞受賞者が三一日決定した。美術部門次の通り。▽日本画=吉岡堅二「楽苑」(創造美術)▽洋画=三岸節子「山梔(くちなし)」(新制作派)▽彫刻=横江嘉純「大悲に歩む」(日展)▽工芸=信田洋「金工芙蓉置物」(日展)

芸術院賞受賞者決る

1951年03月

日本芸術院では二五年度恩賜賞、芸術院賞受賞者一〇名を決定三一日発表した。美術部門では次記の通り。▽恩賜賞(一名)=洋画三宅克己 ▽日本芸術院賞(九名)=〔日本画〕鯉(第六回日展出品)徳岡神泉、〔洋画〕横臥裸婦(第六回日展出品)寺内万治郎、〔工芸〕硝子「光りの美」(第六回日展出品)岩田藤七〔書〕楷書「酔古堂剣掃語」(第六回日展出品)川村驥山、以下他部門略。

イサムノグチ再び来日

1951年03月

昨年来日した日系米人彫刻家イザム・ノグチは二八日羽田空港着で再度来訪した。

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