山本丘人
日本画革新運動の旗手として知られ文化勲章受章者の日本画家山本丘人は、2月10日午後10時50分、急性心不全のため神奈川県平塚市の杏雲堂平塚病院で死去した。享年85。明治33(1900)年4月15日東京市下谷に生まれ、本名正義。父昇は東京音楽学校事務官だった。上野桜木町に育ち、大正4年東京府立第3中学校から東京府立工芸学校に転入する。7年第1回国画創作協会展を見て日本画を志し、8年卒業後、東京美術学校日本画科に入学。松岡映丘に師事して大和絵を学び、2年生より日本画科選科に移った。13年同科を卒業、映丘の木之華社に入り、新興大和絵運動に加わる。昭和2年第7回新興大和絵会展に「画人の像(松岡映丘)」が入選し、4年同第9回展で「五月雨」が新興大和絵賞を受賞。同会会友となった。この間、昭和3年第9回帝展に「公園の初夏」が初入選、以後帝展に入選を続け、11年の文展鑑査展で「海の微風」が選奨となる。また5年より丘人と号し、7年銀座資生堂ギャラリーで初の個展を開催。6年新興大和絵会の解散後、9年杉山寧ら映丘門下の同志と瑠爽画社を結成し、13年の解散まで展覧会を行なった。18年には川崎小虎を中心とする国土会の結成に参加する。19年奥村土牛とともに東京美術学校日本画科助教授となり、同年第4回野間美術賞を受賞。戦後22年には女子美術専門学校教授(26年まで)となった。また日展で審査員をつとめたが、23年上村松篁、吉岡堅二らとともに創造美術を結成、「世界性に立脚する日本絵画の創造」を目指す。24年第2回創造美術展出品作「草上の秋」により、翌25年第1回芸能選奨文部大臣賞を受賞した。26年創造美術が新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となって以後は同会に出品し、さらに49年日本画部が同協会を離脱し創画会を結成して以後、同会に出品した。36年第25回新制作展「夕焼け山水」、38年第27回「異郷落日」、39年第28回「雲のある山河」などダイナミックで骨太な風景画から、次第に、45年第34回「狭霧野」、49年第1回創画展「流転之詩」、51年第2回春季創画展「残夢抄」など、再び大和絵的な優美な感性の作風へと移行した。また、未更会、五山会、椿会、遊星会などへの出品のほか、26年第1回サンパウロ・ビエンナーレ、27年第1回日本国際美術展、第26回ヴェネツィア・ビエンナーレなどの国際展にも出品。34年にはフランス、イタリア等を巡遊している。39年「異郷落日」により日本芸術院賞を受賞し、52年には文化勲章を受章した。32年ブリヂストン美術館、39年日本橋高島屋、47年渋谷東急で個展を開催、没後62年横浜そごう美術館で遺作展が行なわれた。
出 典:『日本美術年鑑』昭和62・63年版(316頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「山本丘人」『日本美術年鑑』昭和62・63年版(316頁)
例)「山本丘人 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9991.html(閲覧日 2024-12-06)
以下のデータベースにも「山本丘人」が含まれます。
- ■美術界年史(彙報)
- 1950年02月 松園賞設定
- 1950年12月 文部大臣賞授賞式
- 1951年08月 ブラジル国際美術展出品作の内示会
- 1951年11月 東京芸大教授辞表提出
- 1953年02月 第三回上村松園賞
- 1954年02月 上村松園賞決定
- 1964年04月 日本芸術院賞決定
- 1943年03月 国土会結成
- 1977年10月 文化勲章受章者、文化功労者決定
- 1988年04月 成川美術館、足立美術館陶芸館開館
- 1989年03月 個人作家美術館、次々に開館
- 1994年01月 「小林古径」展、「川合玉堂」展、「山本丘人」展開催
- ■物故者記事
- 後藤純男 近藤弘明 朝倉摂 小泉淳作 毛利武彦 髙山辰雄 上野泰郎 田中穣 佐藤多持 加山又造 上村松篁 東山魁夷 浦田正夫 田中青坪 竹山博 杉山寧 吉岡堅二 菊池隆志 岡鹿之助 川崎小虎 太田正弘 小野竹喬 福田豊四郎
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