加藤顕清
日本芸術院会員、日展常任理事、日本彫塑会会長加藤顕清(本名、鬼頭太)は、気分すぐれず藤沢市の自宅に引籠り中、9日午後2時半ごろ二階アトリエの階段から誤って転落、藤沢の別府外科病院に入院したが、11月11日午前4時35分不慮の事故による脳内出血、骨盤骨折のため急逝した。享年71才。葬儀は日本彫塑会葬で17日港区芝の青松寺で行なわれた。明治27年12月19日、岐阜県に生まれ、まもなく移住して、幼少年時代を北海道に育った。上京して大正4年東京美術学校彫刻科に入学、同9年3月同科塑造部本科を卒業、12年同研究科を修業した。引続いて西洋画科本科に再入学して油絵を修め、昭和3年3月卒業した。彫刻科在学中の大正10年第3回帝展に「静寂」が初入選し、以後毎年入選した。昭和3年第9回帝展で「女人像」が特選に挙げられ、第10回・11回展と連続特選の栄を担った。その後長年に亙って、帝展、文展、日展等の審査員をつとめるなど、終始官展系の有力作家として活躍し、また後進の指導育成に尽したことは、下記の略年譜で明らかであるが、殊に戦後芸術完成の境地に達した昭和25年第6回日本美術展出品の「人」、第7回展の「人間像」(昭和26年展、日本芸術院賞)の頃より、あたかも死去の時、第9回日展開催中で絶作となった「呼びかける人間像」に至るまで一貫して、造形、精神両面にわたる人間性の追究に重点を置き、そのよりよき表現に向って専念するところが窺えた。一方、早くからヒルデブラント美学を根底にした独自の造形理論を確立し、それに関し、また西洋美術史に対する見解などについて、随時依頼に応じて執筆した原稿も、この世代の実技家として比較的多かった。なお死去直前まで、明治百年記念の北海道開拓者顕彰像を制作中であったが、完成をみずして終ったことはまことに惜しまれる。
略年譜
明治27年 12月19日岐阜県に生まれる。
明治27年 北海道雨竜郡に移住す。
大正2年 北海道旭川中学卒業。(現旭川東高等学校)
大正3年 上智大学哲学科入学中退。
大正4年 東京美術学校彫刻科入学、高村光雲教授、白井雨山教授の教を受く。
大正9年 東京美術学校彫刻科卒業、奈良にて古代彫刻の研究をなす。
大正10年 第3回帝展に「静寂」を出品し初入選、その後毎年入選。
大正12年 東京美術学校研究科修業。
東京美術学校油絵科に再入学、藤島武二教授、長原孝太郎教授の教を受く。
昭和3年 東京美術学校油絵科卒業。
第9回帝展に「女人像」を出品、特選受賞。
昭和4年 第10回帝展に「群像」を出品、特選受賞。
昭和5年 第11回帝展に「立像」を出品、特選受賞。
昭和6年 帝国美術院展覧会審査委員仰付らる。
奈良にて上代彫刻の研究(専ら飛鳥仏像について)
昭和7年 北海道庁嘱託。
昭和8年 阿寒国立公園その他北海道内国立公園の美化施設及びアイヌ人の彫刻技術指導。
東京美術学校講師嘱託。
昭和9年 日本彫刻家協会創立、会長。
昭和10年 北海道庁千島調査委員委嘱、南北千島樺太踏査。
昭和11年 文部省美術展覧会審査員委嘱。
綜合北方文化研究会常任理事。北方の文化、自然及び生活様式、生産様式の綜合的研究。
昭和13年 北海道第二拓殖計画委員委嘱。
昭和16年 第4回文部省美術展覧会審査員委嘱。「コタンのアイヌ」を出品。
昭和17年 海軍省嘱託アリューシャン方面戦線最高顧問、キスカ島施設監督官。
昭和18年 第6回文部省美術展覧会審査員委嘱。
昭和21年 東京芸術大学講師。
日本彫刻家連盟委員長。
東京都都市美委員会委員委嘱。
昭和23年 日本美術展覧会審査員委嘱。
昭和25年 日本美術展覧会審査員委嘱。
日展参事。
昭和26年 文部省著作権審議会委員委嘱。
昭和27年 日展出品「人間像」に依り26年度芸術院賞受賞。
昭和29~30年 イタリー・ローマにてギリシャ古典彫刻の研究。フランス・パリにて近代美術の研究。ドイツ・ミュンヘンにてアドルフ・ヒルデブラントとハンス・マレーヌの研究。スエーデン、デンマーク、ノールウエーにて北欧新古典彫刻の研究。
昭和30年 フィンランド、ラップランド、ナルビーク、アイスランド、アラスカ等北方圏旅行。
日本、イタリア美術協会会長(在ローマ)。
昭和31年 再度奈良にて上代の彫刻及び中国古代彫刻の研究。
昭和32年 日本美術展覧会審査員委嘱。
日展評議員委嘱。
昭和33年 日展実行委員委嘱。
昭和35年 日展審査員委嘱。
日本都市建設協会技術委員。
昭和36年 東京都都市美協会常務理事。
アジア善隣協会長、足立正氏の委嘱によりインドネシア・ジャカルタ市にカルティーニ像建設の為出張。
昭和37年 2月日本芸術院会員任命。
3月日展理事。
昭和38年 3月東京教育大学講師委嘱。
8月カルティーニ像完成建設除幕式の為インドネシア国に招へいされ再度出張。
ジョクジャカルタに滞在ボルブドゥールにてヒンズー教彫像の研究。
昭和39年 1月日本放送協会(NHK)美術顧問嘱託。
4月文部省中等教育美術講習会講師委嘱。
9月弁財天と世界女性群像(江の島・湘南港)完成除幕。
昭和40年 2月日展常任理事。
4月文部省中等教育美術講習会講師委嘱。
10月キスカ会名誉会長。
昭和41年 6月日本彫塑会会長就任。11月11日没。
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「加藤顕清」『日本美術年鑑』昭和42年版(147-149頁)
例)「加藤顕清 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9040.html(閲覧日 2024-12-03)
以下のデータベースにも「加藤顕清」が含まれます。
- ■美術界年史(彙報)
- 1936年05月 日本彫刻家協会結成
- 1951年05月 日本陶彫会結成さる
- 1951年11月 玉堂年金の買上げ作品内定
- 1953年03月 国際彫刻コンクールに参加
- 1962年02月 芸術院新会員決定
- 1964年10月 江の島湘南港に弁財天像完成
- 1938年06月 友田伍長立像
- 1943年05月 日本美術報国会創立
- 1943年05月 日本美術及び工芸統制協会創立
- 1945年10月 美報解散
- 1946年10月 日展審査員辞退
- ■明治大正期書画家番付データベース
- 1923(大正12) 大正十二年帝國絵画番付_807086
- 1937(昭和12) 改訂古今書画名家一覧表 附古今書画名家印鑑譜_807016
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