文部省買上げ美術作品決る

1951年03月

文部省では二五年度中に発表された美術作品の中から次の一四作品を買入れることに二六日決定した。▽日本画=鯉(徳岡神泉)大観先生像(安田靭彦)気球揚る(中村岳陵)▽洋画=千曲川(有島生馬)熱海梅園(高畠達四郎)金魚(三岸節子)静物(林武)▽彫塑=裸像(国方林三)男立像(上田暁)アザレア(船越保武)▽工芸=漆器木蓮額盆(福沢健一)陶器静暁花瓶(楠部弥一)鋳金鳩鈕香炉(杉田禾堂)▽書=唐詩帰田園居(辻村史邑)

埋蔵文化財初の国営発掘

1951年03月

縄文式文化末期の遺跡として著名な愛知県渥美郡田原町吉胡貝塚発掘調査が文化財保護委員会の手で、明大教授後藤守一(考古学)を主任に、人類学、地質学の官民合同の学者等一八名の調査団を編成二二日から四月一〇日まで二〇日間にわたつて行われることになつた。わが国初の国営調査である。

野口英世記念像除幕

1951年03月

野口英世博士のブロンズ像除幕式が二一日午前一〇時GHQサムス准将等来賓多数出席して上野公園内国立科学博物館前の広場で催された。野口博士記念像建設会が昨年四月より全国の小、中、高校四千余校と一般有志から浄財四八〇万円を募り、吉田三郎に委嘱製作した高さ一丈五尺のもの。

ピカソの陶器初公開

1951年03月

喧伝されていたピカソの陶器の現物が日本へ初めて送られて来て、皿一七点、壷一点に石版画六点を加え、一五日より三一日まで文芸春秋新社主催で上野松坂屋で展覧初公開された。

「アヒル会」誕生

1951年03月

画家、作家、音楽家が中心となつて絵筆を楽しもうという会員のつどい「アヒル会」が九日午後四時から日比谷山水楼で発会式をかねて第一回の会合を開催した。

文化切手に狩野芳崖

1951年02月

郵政省では第七回目の文化切手として、明治期の大画家狩野芳崖の肖像を画いた暗緑色の八円切手一種を発行、誕生日に当る二七日から全国郵便局で売出した。同時に東京中央、麻布、下谷三局、出身地山口県の三局で芳崖の代表作“悲母観音”の乳びんを持つ手を図案化したスタンプを使用する。

ロツクフエラー声明

1951年02月

ダレス特使団の文化関係担当者として去月二五日来日したジヨン・D・ロツクフエラーは約四週間にわたつて日本の各方面の人々と日米文化の交流について意見の交換を行つてきたが、二一日内外記者団と会見、声明書を発表、二二日夕空路帰国した。声明書では、両国の人事交流、文化センターの設置、日本研究のための研究所設置、各種美術品の交換、書籍その他資料の交換、等を強調した。

「松園賞」第一回受賞者決る

1951年02月

毎日新聞社が昨春開催した「上村松園とその芸術展」を記念して、日本画女流作家奨励のため設定した上村松園賞の第一回受賞者(一九五〇年度)は二〇日次の通り朝刊紙上に決定発表された。  秋野不矩「少年群像」(第三回創造美術展出品)及び今日までの画績による。

法隆寺壁画移転工事始る

1951年02月

法隆寺金堂壁画が焼けてから二年、この名宝をこれ以上破損せず後世に伝えたいと同寺国宝保存審議会では昨年五月から抜取りのため荷造りに着手していたが、六日朝「抜取安全法要」が工事関係者約一〇〇名が参列して行われ同九時一五分佐伯管長の手により木わくで固められた八号小壁をつるしたトロリーの鎖が引かれ、壁画抜取移転の歴史的作業が開始されることになつた。

国立博物館の機構改革

1951年02月

国立博物館では文化財保護法が施行されてより約半歳、一月三一日、文化財保護法の規定にもとずき、国立博物館組織規程が定められ、文化財保護委員会の付属機関として本二月より従来とは全く面目を一新して発足することになつた。尚人員の配置もきまり、館次長に阪大事務局長田内静三、庶務部長に深見吉之助、学芸部長に石田茂作が任ぜられ、課長以下いずれも三日発令された。

刀剣登録審査始まる

1951年02月

従来公安委員会の監督を受けた日本刀などの所持が教育委員会の所管と変り、美術品としての登録をうけねばならないので、都教育庁は一日から三月三一日まで国立博物館に登録事務所を特設し二日より登録を受付け審査を始めた。

マ元帥へ胸像

1951年01月

神奈川県では二六日のマツカサー元帥誕生日に元帥のブロンズ胸像を贈つた。この像は昨年春他界した故川村吾蔵が県の委嘱によつて完成した最後の作品である。

藤島武二をしのぶ夕

1951年01月

洋画壇の大先輩藤島武二をしのぶ夕が画壇の有志によつて一九日夜、朝日新聞東京本社会議室で開かれ、遺族をはじめ縁故関係者等六〇名が出席して巨匠をしのんだが、命日の三月一九日を中心に銀座松坂屋で「藤島武二代表作展」を開催、東京と郷里鹿児島市に胸像をたてる計画を進めた。

「朝日賞」贈呈式

1951年01月

昭和二五年度朝日賞贈呈式が一五日午後一時より朝日新聞東京本社講堂で行われたが、美術関係では「雲崗石窟の研究」の京大人文科学研究所教授水野清一、長広敏雄の受賞があつた。

奈良初期の仏像現わる

1951年01月

福井県遠敷郡今富村の真言宗多田寺の本尊薬師如来は永年秘仏として公開されず謎となつていたが、七日国宝修理のため来県中の文部省嘱託彫刻家斎藤源二郎、鈴木信春両仏師を招いて鑑定の結果、奈良朝初期の作で、国宝的価値は勿論類例のない重要文化財だと折紙がつけられた。

ユネスコへ広隆寺図録贈る

1951年01月

京都ユネスコ協力会が作つた「広隆寺図録」の贈呈式が一一日ユネスコ駐日本部で行われた。この図録は京都太秦広隆寺の寺宝、建築物など一八〇点を撮影(山本湖舟)、英文の解説をつけ、鳩居堂社長熊谷直清のデザインになる特別織の“正倉院裂”で外装した箱に納めたもので、今後の災害に備える保存の意味もかね、ユネスコ精神にもとずく文化交換としてマ元帥、ユネスコ本部、英米仏の各博物館など、国内では天皇陛下、国立博物館、京都博物館に寄贈して保存するため一〇部だけ作つた。この日同会難波紋吉理事から李ユネスコ駐日代表に贈呈された。

雲崗石窟研究出版に文部省で補助

1950年12月

京大人文科学研究所水野清一、長広敏雄両教授らの雲崗石窟調査の成果は資金の不足から出版不能を惜しまれていたが、文部省ではこれに対し一六〇〇万円を補助し出版を進めることになつた。 

東大戦没学生記念像建立を拒否

1950年12月

さきに完成された本郷新制作の戦没学生記念像「わだつみのこえ」は建立地を東大構内に選び日本戦没学生記念会より同大学に寄附されたが、学校当局はこれを拒否した。

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