恩地孝四郎

没年月日:1955/06/03
分野:, (版)

版画家恩地孝四郎は6月3日心臓衰弱のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年63歳。品川区の高福院で告別式が行われた。明治24年、当時裁判官の職にあつた恩地轍の四男として東京に生れた。東京美術学校に入学、洋画、彫刻を学んだが間もなく中途退学した。その頃から詩と版画の雑誌「月映」を創刊し抽象的な作品を発表、更に萩原朔太郎を中心とする「感情」の同人にも加わり、詩や版画、或は装幀にも活躍した。作品は帝展及び日本創作版画協会(後の日本版画協会)に出品していたが、まもなく帝展を離れ、版画協会で作品を発表、同会の発展には終始尽力した。また国画会版画部の会員でもあつた。大正初期以来、創作版画の振興に尽力し、また版画に於て抽象作品を描きつづけた最も早い一人であつた。木版画家であるが、フロッタージュの技法をとり入れたモノタイプの作品も多く、また製本装幀を得意として、すぐれた才能をみせた。晩年は好調で、ブラジル・サンパウロやスイスのルガルノ、或は米国に於ける展覧会に招かれて出品、大変好評であつた。
略年譜
明治24年 7月2日、東京府淀橋に生れた。
明治42年 独乙協会中学校卒業、白馬会洋画研究所に学ぶ。
明治44年 東京美術学校洋画科予科に入学。翌年彫刻部に移る。
大正2年 再び洋画部に戻る。田中恭吉等と詩と版画の雑誌「月映」を創刊、既に抽象的な作品を発表する。
大正3年 東京美術学校中途退学。
大正4年 4月、小林のぶと結婚。6月、室生犀星萩原朔太郎を中心に同人雑誌「感情」を創刊、同誌の装幀もする。
大正5年 「卓上社」展その他で版画作品を発表。画集「幸福」出版。この頃より盛んに装本の仕事を初める。
大正8年 日本創作版画協会の会員となり、毎年出品する。
昭和4年 昭和2年よりこの年まで帝展に出品、以後帝展を離れる。
昭和6年 日本創作版画協会は発展解消して日本版画協会となり、同会々員となる。
昭和11年 国画会版画部に会員として参加。
昭和14年 自宅に、研究会「一木会」を作る。
昭和17年 「工房雑記」「博物誌」を発行。
昭和18年 エッセイ集「草・虫・旅」、版画と詩集「虫・魚・介」を発行。
昭和26年 ブラジル・サンパウロ国際展に招待出品「リリック11」、スイス、ルガルノ展出品「リリック12」ほか。
昭和27年 日本橋三越で個展開催。アブストラクト・アートクラブ会員となる。「日本の現代版画」「本の美術」発行。
昭和28年 アメリカ、リバーサイド美術館に於ける日米アブストラクト展に「リリック29」を出品。
昭和30年 サンパウロ国際展に「フォルム7」ほか5点を出品。6月3日午後自宅で没。作品は「ポエム」「フォルム」「リリック」「オブジェ」等各々数年に亘る連作のほか「山田耕筰像」(昭和15年)「氷島の著者像」(昭和18年)「或るバイオリニストの印象」(昭和22年)等木版肖像作品も多い。

出 典:『日本美術年鑑』昭和31年版(151頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「恩地孝四郎」『日本美術年鑑』昭和31年版(151頁)
例)「恩地孝四郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8825.html(閲覧日 2024-04-17)

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