昭和十三年中陸軍嘱託画家

1938年12月

本年度中に於て陸軍省より嘱託派遣された従軍画家の氏名及び従軍方面は左の通りである。 高島祥光(北支)、五味清吉、三橋武顕(以上中支)、川島理一郎(北支)、高橋勝馬(北、中支)、藤島武二石井光楓(以上中支)、栗原信中沢弘光(以上北支)、川端竜子鶴田吾郎(以上北支、内蒙)、伊原宇三郎、榎信太郎、石井柏亭硲伊之助和田香苗永地秀太(以上北支)、吉田博、佐々貴義雄、大野隆徳瀬野覚蔵鳥海青児(以上中支)

昭和十三年中海軍従軍画家

1938年12月

本年度中に於て海軍省より嘱託派遣された画家及び海軍に従軍を許可された画家又は彫刻家は左の通りである。 嘱託画家 藤島武二(未行)、石井柏亭田辺至、石川虎治(以上中支)、中村研一(南支)、藤田嗣治(中支) 従軍画家 神津港人(北支)、吉田初三郎、吉田秀三郎、吉田朝太郎、田坂昇、麻生豊、佐々貴義雄、佐藤克三(以上中支)、水平譲(北支)、伊藤三寿(北、中支)、野上登(青島)、三国久、御厨純一(以上南、中支)、小早川篤四郎(南支)、小嶺伸(中支)、清水七太郎(中、北支)、古島松之肋(中支)、森脇忠(南支)、高橋亮(北支)、服部正一郎(中、北支)、草光信成、木下五郎(以上中支)、山崎省三(南支)、小林茂(北、中支)、輿七郎(南、中支)、吉田三郎、橋本徹太郎、小林喜代吉、斎藤八十八横江嘉純(以上中支)、奥瀬英三三上知治(以上中、北支)、代谷兵二(中支)、鶴田吾郎(北、中支)、光安浩行宮坂勝、田中稲三、金井達三、酒井精一、小泉素彦、一色五郎(以上中支) 

有馬賞設定

1938年12月

有馬農林大臣は土の美術の奨励を志し、小城基を援助して満洲の移民村を主材とする大陸の風物を描かせ、同時に新自然派協会の同人等を動員して全国の農村に主題を求めて製作させ明年早々土の美術の展覧会を開催、優秀作品には有馬賞を出すこととなつた。

郵便切手図案改正

1938年12月

逓信省では郵便切手の図案を全般的に改めることとなり昨年郵便切手図案審査委員会を設け、爾来改正図案の審議を重ねて来たが、この程切手十九種、葉書三種の図案を決定し委員会は廃止した。

太蒼会解散

1938年12月

阿以田治修外五名の洋画家を会員とする太蒼会は十二月解散した。

国際手工業博覧会出品受賞

1938年12月

五月ベルリンで開催された第一回国際手工業博覧会に我が国も参加出品したが、それ等の手工芸品及びその製作過程の映画を作製した国際文化振興会に対し、ドイツ政府及びローマ国際手工業中央会から賞牌と賞状を送つて来たので十二月二十二日国際文化振興会で授与式を挙行した。受賞者は左の通りである。 安藤重兵衛(七宝)、麻布重一(盆)、株式会社大丸(女衣服)、石津重貞(弓)、美濃刀匠擁護会(関兼秀一口)、宮内一(毛筆)、村田吉茂(木綿織物)、高見沢木版社(木版)、たくみ工芸店(茶の湯道具)、竜村平蔵(帯)、山田徳兵衛(人形)、山木茂助(傘)、横田峰斎(竹篭)、南部鉄瓶工業組合(鉄瓶)、舟木久右衛門(椀)、万珠堂(陶器)

黒田子爵記念美術奨励資金買上

1938年12月

同資金委員会では本年度の買上として、文展出品中より安藤信哉作「画室にて」を選定買上げ、大礼記念京都美術館に寄贈した。

民芸品をニユーヨークに送る

1938年12月

国際文化振興会ではニユーヨーク民芸館の希望に応じ、日本の代表的な民族工芸品を送ることとなり、その選定蒐集を柳宗悦に依頼した結果、約半歳に亙り全国各地から漆器、陶器、金工、木工、竹細工、染織、大津絵、絵馬、人形等約百点が集められたので、此等を取まとめ発送することになつた。

紐育桑港万国博覧会参加

1938年12月

明春開催されるニユーヨーク及びサンフランシスコのゴールデン・ゲート両万国博覧会に対する米国政府からの招請に応じ、我が政府では二百八十万円の予算を以て参同することとなり、商工省主管の下に、その参同事務は、日本商工会議所、国際文化振興会、日米協会日本万国博覧会協会の四団体によつて設立された紐育桑港万国博覧会協会が之に当り、本年二月より開始された。  ニユーヨーク万国博覧会はワシンントン大統領就任五十年記念として「明日の世界の建設」を主題とし四月三十日から十月三十日まで、サンフランシスコの金門万国博覧会は桑港湾の二大鉄橋完成記念として、「交通通信の近代的発達」を主題とし二月十八日から十二月二日迄開かれる予定で、我が国では両者に夫々日本特設館及び日本式庭園を建設し、出品は社会生活、観光、交通、工芸、美術及科学の六部に分けて、商工省が出品調査委員を設けて選定することとなつた。委員は工芸に関しては国井喜太郎、秋月透、和田三造水町和三郎及宮下孝雄、美術に関しては川合玉堂横山大観岡田三郎助津田信夫が委嘱された。  紐育博の日本特設館は内田祥三岸田日出刀大熊喜邦の共同設計になる神明造に範をとつたもので延面積約四五〇坪附属庭園は田村剛の設計で寝殿造りに於ける庭園様式をとつたもので面積約九五〇坪、金門博の日本特設館は設計者は同前で、我が国城廓建築を基調とし江戸時代武家邸宅及塗家造の様式を加味したもの、延面積約四一二坪、附属庭園は前者と同じく田村剛の設計で九六八坪。紐青の特設館は十月十八日定礎式挙行、桑港のものは十二月二十日上棟式を行つた。

朝鮮小学校用国史掛図

1938年12月

朝鮮総督府学務局では、小学児童の国体観念養成の為国史教育の充実を図つてゐるが、その為に同局編輯課では内地一流の画家に依頼して約百頁に亙る国史掛図を編纂し全鮮の小学校に使用させることになつた。その内の一図をなす「皇大神宮」は横山大観が揮毫し、十二月二日総督宛に届けられた。

九室会結成

1938年12月

二科展に於て毎年第九室に陳列される前衛画家等三十六名によつて十二月三日九室会が結成された。藤田嗣治東郷青児を顧問に推し来春第一回展を開く予定で、「二科会に於ける最も新鮮な細胞組織として母体の隆盛に寄与」し「我が民族の優秀性を顕揚し衍いては新東洋文化建設の一助」たらしめんといふ。

東亜文化協議会

1938年12月

日支文化提携機関として今夏創立された東亜文化協議会の第二回評議員会は、会長湯爾和ほか二十一名の支那側評議員を迎へ、十二月一日から五日まで東京帝大安田講堂で開催、人文、自然科学の両部会に分れて夫々協議を重ねた。

「南京入城式の図」献納

1938年11月

京都十三日倶楽部及び世界経済研究会により花岡万舟筆油絵「南京入城式の図」が十一月十六日第十六師団に献納された。

日独文化協定公布

1938年11月

日独両国間の文化的協力に関する協定が十一月二十五日東京で調印され同二十六日附官報を以て公布された。協定は左の四条よりなる。 第一条 締約国ハ其ノ文化関係ヲ堅実ナル基礎ノ上ニ樹立スル為努力スベク相互ニ右ニ付最モ緊密ナル協力ヲ為スベシ 第二条 締約国ハ前条ノ目的ヲ達成スル為学術、美術、音楽、文学、映画、無線放送、青少年運動、運動競技等ノ方面ニ於テ両国ノ文化関係ヲ組織的ニ増進スベシ 第三条 前条ノ規定ノ実施ニ必要ナル細目ハ締約国ノ権限アル官憲間ニ於テ協議決定セラルベシ 第四条 本協定ハ署名ノ日ヨリ之ヲ実施スベク締約国ノ一方ハ十二月前ノ予告ヲ以テ本協定ヲ廃棄スルコトヲ得  尚調印と同時に発表された外務省声明によれば、本協定に即応し両国の権限ある官憲に於てとりあへず協議方考慮せらるべき事項は左の通りである。  一、日独文化聯絡協議会設置、二、文化施設の維持、拡充、三、学校教員の任命、四、政府派遣留学生に対する便宜供与、五、教授学生交換、六、青少年団による交驩、七、独逸における日本の学校及日本に於ける独逸の学校に対する好意的措置、八、図書雑誌交換l、九、芸術文化交換、一〇、映画交換、一一、交換放送、一二、運動競技等による交驩

第三部会員脱退

1938年11月

同会員開発芳光は十月脱会したが、上田直次は十一月二日同じく脱退、関係方面に声明書を発した。

新「晨鳥社」結成

1938年11月

西村五雲門下の晨鳥社は五雲急逝の為同画塾解散のやむなきに至つたが、同人協議の結果その精神を体して新に晨鳥社を興し、山口華楊、前田萩邨及び西村卓三の三名を総務とし常務員その他の役員を選任して画壇に活動することになり、十一月九日挨拶状を発した。

日洪文化協定と日本文化賞

1938年11月

十一月十五日ハンガリアと我が国との間に日洪文化協定の仮調印が行はれたが、之を機会として多年両国文化親善に貢献して来た日洪文化協会長三井高陽男の肝煎りで同協会の名によつて日本文化賞を制定、ハンガリア人の手になる日本研究の優れたものに対して贈ることとなつた。

ニユーヨークの新画廊に日本画出陳

1938年10月

ニユーヨークのインターナシヨナル・ビジネス・コーポレーシヨン社長ワツトソンは同社内に画廊を新設し各国の特色ある絵画を陳列することとなり、日本画家の作品出陳を希望して来たので、国際文化振興会では池上秀畝八木岡春山に製作を依嘱製作中であつたが、秀畝は彩色画「黎明」、春山は水墨画「暮靄」を完成し、十月二十五日発送される運びとなつた。

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