京都工芸指導所生る

1945年12月

上京区元誓願寺智恩院の社団法人日本美術及工芸会京都支部に工芸指導所京都支部を設置、十二月七日開所式が行われた。

米国へ渡る戦争画

1945年12月

戦時中戦線へ動員された美術家によつて多くの戦争画の力作が作られたが、これらの記録画は陸海軍あわせて百余点に及び、美術的にも価値高いものがあるので、連合軍総司令部ではこの種の作品を上野美術館にあつめ、優秀作品のみをアメリカに運び、各地で展観する計画が立てられ、藤田嗣治がその説明のため正式の嘱託をうけた。 

新日本美術会発会

1945年10月

国際的に平和日本を顕揚しようと十月二十八日市川市の中村勝五郎邸で新日本美術会が発会式を挙げた。会員は帝室技芸員や芸術院会員や一般の新人三十数名を平等の資格でふくみ、すべて合議制の運営でゆくという。

二科会再出発

1945年10月

戦時中解散した二科の在京旧会員東郷青児渡辺義知高岡徳太郎等が中心となり、疎開中の会員とも連絡して、ふたたび二科会が結成された。今までのような会員中の段階制を止めて、審査には全員があたることとし、工芸部等を新設、面目を一新することになつた。

日本アメリカ文化協会創立

1945年09月

全国大学教授連盟ではかつてアメリカに在留したことのある全国大学教授によびかけ「日本アメリカ文化協会」(J・A・C・A)を設立、九月三十日日本大学本部で創立総会を開いた。

美報解散

1945年10月

大日本美術報国会では十月四日理事会を開催、会長横山大観をはじめ石井柏亭、同鶴三、高村豊周加藤顕清辻永野田九浦、斎藤素厳、平櫛田中児玉希望等の各理事、文部省犬丸文化課長、下田情報局第二部第三課長等の関係者が出席、美術界の官製団体としての性格を取りはらい、自主的活動に入るため、昭和十八年以来の報国会を解散することに決定した。

民間の刀剣所持厳禁

1945年09月

民間で所持する刀剣類の処置について、内務省では連合国軍の一般武器引渡準備命令に基き、九月十九日民間所持の刀剣類はすべて個人所有を厳禁し、最寄りの警察署に登録の上保管させることに決定、同日地方長官あてこの旨の通牒を出した。但し美術骨董品として価値ある刀剣は保管について常に入念の手入れを要し、少からざる手数がかかるため、警察署で保管するのは各種の支障があり、一応所持者に厳重保管させることとなつた。

美統改組

1945年09月

戦争中美術工芸の保存と工芸家への資材配給に活躍した日本美術及工芸統制協会は、今までの統制的な性格を一擲して社団法人美術振興会と改称、国内的な振興をはかるとともに、対外的な輸出振興にのりだすことになつた。

帝室博物館接収の噂

1945年09月

ニユーヨーク・タイムス九月二十八日によれば、重慶の支那文化資産保護委員会は満洲事変以来日本側に掠奪破壊された中国の貴重な美術品を追求し、かつ賠償を求めるために、代表団の東京派遣を準備中であり、また同委員会はマツクアーサー元帥に対して帝室博物館の接収を要請した、と報ぜられた。

降伏文書調印

1945年08月

八月二十八日はじめて連合軍は神奈川県厚木飛行場に空輸着陸これを皮きりに完全な無血占領が行われ、第一次進駐の完了をまつて、九月二日東京湾上のミゾリー号上でマツカーサー元帥以下連合国代表と帝国代表との間に降伏条件に対する正式調印が行われた。以後日本は正式に連合軍の占領管理下に入ることとなつた。

文部省美術展復活

1945年09月

文部省では昭和十八年を最後として中止していた文展を復活、来春約一ヶ月の会期で開催することとなり、九月十七日文部省並びに帝国芸術院の懇談会が開かれた。満場一致開催の希望で、今秋開催の案も出たが、資材その他の都合で来春と決つた。

日伊協会懸賞論文当選決定

1945年04月

日伊協会ではさきに設定されていたレオナルド・ダ・ヴインチ賞懸賞論文のかわりとして「日伊協会懸賞論文」を募集したが、四月十日三論文を選定授賞することになつた。一等に選ばれたものに「伊太利の塔」佐原六郎(慶応義塾高等部主任)がある。

ポツダム宣言受諾

1945年08月

昭和十六年十二月八日開始された戦争は八月十五日戦争終結に関する詔書の玉音放送によつて終りを告げ、ポツダム宣言受諾による日本の無条件降伏は内外に闡明された。

在阪画家の義勇隊

1945年02月

在阪著名画家七十余名は二月大阪府男子勤労義勇隊の画人分隊を結成したが、直に大陽製作所で勤労活動に入つた。

戦争記録画天覧

1945年04月

天皇、皇后両陛下は四月八日宮中豊明殿並びに千種の間において、戦争記録画を御覧になつた。記録画は日本画三点、油絵二十点で、陸軍省の依頼をうけた陸軍美術協会の二十余名の作家が現地を調査、また提供された明確な資料に基いて作画したものである。なおこの記録画は十一日から四月一杯都美術館で展示された。

海軍軍需美術研究所設置

1945年04月

舞鶴海軍軍需部の指定によつて京都画壇の作家三十余名を動員、海軍軍需美術研究所が設置され、四月十日洛西の某国民学校で発会式が行われた。

(冒頭言)

1945年00月

昭和二十年に入り空襲はいよいよ激化し戦争も最後的段階に至つて、美術界の動きは殆ど停止状態となつた。大部分の作家は勤労動員により、また罹災、疎開などにより活動を妨げられ、資材不足も頂点に達してまとまつた制作等は全く不可能となつた。僅かに年頭、美術推進隊主催の軍需生産美術展の開催をみた位で、展覧会も殆ど開かれず、ことに工芸品等は有閑品として省みられなかつた。また資材の封鎖により彫刻、建築等の分野も何ら注目すべきものがなかつた。 八月十五日終戦以後事態は一変したが、一般に精神的な低迷はまぬがれず、本年中には徐々に活動の萌しが見えてきたにすぎない。連合軍の進駐後まもなく美術報国会が解散となつて統制から解放され、文部省による新しい官展の立案、旧二科会の復活、行動美術協会の結成などが見られたが、いずれも具体的活動は翌年廻しとなり、僅かに小規模の展覧会が二三開かれたばかりであつた。

講書始の御儀に滝博士御進講

1945年01月

恒例の講書始の御儀は一月十八日午前十時から天皇、皇后両陛下出御、御儀の間において行わせられたが、国書進講者の一人として東大名誉教授文学博士滝精一が挙げられ、「僧空海の画論と芸術」と、いう題目で三十分間御進講申しあげた。

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