有楽町駅に大壁画
1951年12月二五日夜新装なつた有楽町駅の銀座口階段の壁に新制作会員荻太郎作の「子供の群像」大壁画がはめこまれた。千代田生命保険会社寄贈のもの。
二五日夜新装なつた有楽町駅の銀座口階段の壁に新制作会員荻太郎作の「子供の群像」大壁画がはめこまれた。千代田生命保険会社寄贈のもの。
上野駅中央ホールの改札口上に新制作会員猪熊弦一郎作の大壁画「自由」が飾られ、二七日午前一一時から除幕式が行われた。
本年度一億円の予算で建設の予定だつた国立近代美術館は、日比谷公園内や和田倉門テイト・ホテル前空地に新設敷地を求めていたが、いずれも反対され実現不可能となつてもめていたが、このほど天野文相、池田蔵相の話合いで結局当分新設は認められないことになり、同館設置準備会では二〇日委員会を開き「新設出来るまで時期を待つか、既存の建物を買つて改造するか」など白紙に還つて今後の方針を協議した。
昭和一五年九月以来法隆寺国宝保存工事の一環として金堂壁画の模写が二〇余名の画家によつて行われていたが、心血を注ぐこと一二年空前の難事業といわれた八壁画の模写もこのほど遂に完成、二七日午前一〇時から法隆寺講堂前に八壁画を安置、佐伯同寺貫主導師となり壁画模写落慶法要を行つた。
郵政省では法隆寺金堂壁画六号壁の観音を図柄として、薄すみれ色の新一〇円切手を一〇日から発行した。
毎日新聞社が設定した第三回毎日美術賞に高畠達四郎「暮色」(第五回美術団体連合展出品、油絵)、木内克「第五回新樹会出品の諸作品」(彫塑)が決定し、一七日付朝刊紙に発表した。
東京芸大美術学部の日本画教授安田靭彦、小林古径、同講師奥村土牛、同助教授山本丘人、洋画科教授梅原竜三郎、同安井曽太郎、彫塑部教授平櫛田中らはこの月一せいに辞表を提出、美術界に波紋をなげた。(後任は日本画教授に前田青邨、助教授に太田聴雨、洋画科教授に林武、彫塑部教授に菊池一雄が決つた)
文部省では文化財保護委員会委員五人のうち、有光次郎委員だけは一年委員でこのほど任期満了したので後任として元東大学長内田祥三を一日付で発令した。
上野駅中央の列車待合ホールに二六日、二科会々員高岡徳太郎の五百号の馬の絵が、同会彫刻部植木力が東北地方の特産を彫り込んだ大額椽にはめ込まれて飾られた。東洋高圧株式会社の寄贈のもの。
芸術院会員川合玉堂が文化功労者年金五〇万円を辞退、これで日展作品を買上げ文部省に寄付すると申出で日展運営会で選考中であつたが、二八日次のように内定した。▽日本画「蔦のある白い家」堂本尚郎、「うす陽さす春の古城」児玉希望 ▽洋画「雪晴れの港」太田喜二郎、「婦人像」小山敬三、「バレリーナ」鬼頭鍋三郎 ▽彫塑「人間」加藤顕清、「五木の精」沢田晴広、「禿鷹」中村直人 ▽工芸「手織錦躍進壁掛」中村鵬生、「板金馬飾函」中野恵祥。
洋画壇の長老、和田英作、三宅克己、中沢弘光は揃つて明治七年生れ、今年七七の喜の寿になるというので、和田三造、朝倉文夫、山下新太郎、辻永ら美術関係者百数十人が参会、喜寿祝賀会が一一日上野精養軒で開かれた。
日展工芸に対抗して新しい工芸を開拓してゆこうとする在野的工芸団体「生活工芸集団」が一七日結成された。型々工芸、ココ工芸、木彩会三団体の会員二二名が結んだもの。
明治初期における洋画の先駆者高橋由一(明治二七年歿)の墓所が最近渋谷区豊分町香林院に発見されたのを機会に、結城素明、石井柏亭らが発起人となり、二四日二時から香林院で遺業をしのんだ。
上野公園正面入口広場では、三日午前九時半から松坂屋が都に寄贈した日展清水多嘉示作の「みどりのリズム」と題する等身大の二人の少女が手を組んで踊るブロンズ像の除幕式を行つた。
昨年八月イサム・ノグチの個展で話題となつた哲学的彫刻「無」は亡父野口米次郎慶大教授の記念館、新万来舎の前庭に一〇日すえつけられた。高さ七尺、重さ一五〇〇貫の巨像となつた。
昭和八年以来放火、戦火などと三度の厄に遭つた愛媛県松山城はこのほど五カ年工事の新装成り、松山市では工事の完成を祝い、縁りの甲冑、刀剣、古美術品など約八〇点を陳列、一日から一般に公開した。
サンフランシスコで催された日本古美術展に出品された日本美術品は一四日、サンフランシスコ出港のアメリカン・プレシデント・ウイルソン号に積込まれ送り返されたが、同汽船会社々長ジョージ・キリオンは「日本国民の好意と熱意にこたえる印としてわが社は貴重な日本美術品を無料で輸送いたします」と九日語つた。
わが国はじめての近代美術館として期待される鎌倉近代美術館は一七日開館した。板倉準三の設計、総工費三〇〇〇万円。
世界初めてといわれる国際近代建築展覧会が本月より十二月にわたりブラジルのサンパウロ市で開かれるが、主催者のサンパウロ近代美術館長から建築家坂倉準三あてに八月下旬「ぜひ作品をもつて来てほしい」との招請状が届き、これを機会に行われる近代建築家協議会にも出席のため自作品、日仏会館と鎌倉美術館の模型を携えて早大助教授武基雄とともに七日空路羽田を飛立つた。
九日から第五周年展を開いた第二紀会では彫塑部を新設し、同人として川上全次、菅沼五郎、中川為延、松村外次郎、八柳恭次の五名を迎えた。