女流画家協会結成
1946年11月各派各会の女流画家を網羅して女流画家協会が結成された。女流画家の地位の向上を目的とし選挙制による委員によつて運営し、二二年七月東京都美術館に於て自由出展制の公募展を開いた。
各派各会の女流画家を網羅して女流画家協会が結成された。女流画家の地位の向上を目的とし選挙制による委員によつて運営し、二二年七月東京都美術館に於て自由出展制の公募展を開いた。
文部省社会教育局芸術課長今日出海は依頼免本官となり、一二日新に檜垣良一が任命された。
第五回野間賞が決定し、一七日講談社で授与式が行われた。美術関係では村田泥牛、木下義謙が美術奨励賞を、河目悌二が挿画奨励賞を受けた。
美術による観光日本の紹介宣伝のため観光美術協会が創立された。中沢弘光、石井柏亭、藤田嗣治、三宅克己が顧問、鶴田吾郎、向井潤吉らが理事となり運輸省、商工省が後援して、第一回展を二九日から一〇日間東京日本橋高島屋で開いた。
学校家庭一般社会に対する美術教育の普及徹底を目ざし、全国的な社会教育事業を行う財団法人美術教育会が二九日文部省の認可となり、寺内万治郎を理事長として発足した。
昭和一五年紀元二六〇〇年記念に一部展観された以外全く一般に公開されなかつた正倉院御物三三点が二一日から一一月九日まで奈良博物館で正倉院特別展として開かれた。非常な注目を集めて入場者は約一五万人にのぼつた。
各新聞社美術担当記者の連絡と親睦を目的として美術記者クラブが二四日発会式を挙げた。
帝国芸術院第一部会員富本憲吉は九日芸術院会員を辞任した。
機構改革にも抱らず論議の多い中に、文部省主催第二回日本美術展覧会が一六日から一一月二〇日まで東京都美術館で開かれた。
九月二七日の総会で新しい規約による新会員が内定し一日公表された。第一部では日本画の福田平八郎、奥村土牛、野田九浦、洋画の辻永、工芸の松田権六が選ばれた。
在野団体から公選された日展審査員のうち、病気又は日展反対の立場から第二部洋画の金山平三、坂本繁二郎、須田国太郎、小磯良平、山本鼎、第三部彫塑の雨宮治郎、加藤顕清の七名が辞退し、次点者を繰上当選とした。洋画と彫塑の両方に当選した石井鶴三は洋画審査員だけを受諾した。
帝国芸術院では九月二七日戦後初めての総会を開き会則の一部を改正し一日発表した。新しい規約は第三部の音楽、雅楽、能楽の他に演劇、舞踊を加へることと会員の補充は各部門毎に会員の選挙によるいう二点である。
明治三八年創刊された美術雑誌「みづゑ」は「美術」等と改題されて発刊されていたが、今月から「みづゑ」の名称に復した。
日本美術出版株式会社より日本画を専門とする月刊美術雑誌「三彩」が今月から創刊された。
美術の鑑賞と研究を通じ美術普及を目的とする帝室博物館談話会が同館の事業の一つとして設立された。
改革案を示し全美術団体に参加を求める日展に対し、在野団体のうち青竜社、行動美術協会、新制作派協会、独立美術協会などは不参加を決定、日展不参加協議会を開いて在野各方面に呼びかけた。
美術の振興普及と美術行政の民主化のために具体策を政府へ建言し、その実現を促進するいう目的で美術行政審議会が二一日衆議院内で創立総会を開いた。貴衆両院の各派代議士と新聞通信関係者によつて構成されている。
二七日の議会で政府から芸術関係政策の立案・管理を行う文化建設本部、文化院設置案が提出され論議された。
二科会では八月三一日総会を開いて官展に参加せずといふ規約削除を決議し、日展参加問題をめぐつて分裂した。あくまで反官展を唱へる林是、西田明史、松村外次郎、渡辺義知、名井万亀の不参加組は二日声明書を出した。これに対して民主化した日展には参加するといふ態度をとる東郷青児、高岡徳太郎等は三日不参加組を除名し声明書を発表した。