彫塑四団体の解散
1944年10月彫塑界の中堅を網羅する日本彫刻家協会、日本木彫家協会、直土会、ならびに構造社の四団体も十月九日解散を声明、雨田光平、沢田晴広、安田周三郎、野村公雄の四名が各団体を代表して情報局に解散届を提出した。
彫塑界の中堅を網羅する日本彫刻家協会、日本木彫家協会、直土会、ならびに構造社の四団体も十月九日解散を声明、雨田光平、沢田晴広、安田周三郎、野村公雄の四名が各団体を代表して情報局に解散届を提出した。
美術在野団体は二科をはじめ解散続出、解散せざるものも活動停止の状態となつたが、十一月六日には新構造社も解散、美報の一元化に協力することになつた。
「美術展覧会取扱要綱」の決定発表によつて美報以外の在野美術団体は有名無実の状態となつたが、三十年の伝統をもつ二科会も十月六日幹部会を開いて、熊谷守一、正宗得三郎、宮本三郎、向井潤吉、東郷青児、田村孝之介、栗原信、渡辺義知等の評議員が集り、各団体に率先して解消することを決議、その旨声明書を発表した。
二科会の解消声明に引きつづき牧野虎雄の主宰する旺玄社も十二年の歴史を一擲し、十月七日解散の声明書を発表した。
栖鳳逝いて三年竹内家では八月二十三日の命日に三周忌を執行、遺族をはじめ竹杖会の人など、門人知人が打ちそろつて法要が営まれ、巨匠の足跡を偲びあつた。
美術報国会では課題制作による展覧会の開催を議決していたが、その瀬踏みというべき十月同会主催の軍人援護美術展でこの方法を実行することになつた。課題は「軍人援護」で、一定数の美術家に出品を依頼する。
「美術展覧会取扱要綱」に従つて一般公募展は開催されず、院展、二科展、一水会、新制作派など秋の定期的な展覧会はすべて中止されることとなつた。
新京美術院は日本美術文化の紹介のため昨年青竜社員の日本画制作を満州に紹介したが、第二回として現代日本油絵技術の趨勢を紹介することになり、和田英作、藤田嗣治等二十数名に依嘱した新作を送り、七月から新京哈爾賓で展示会を催した後、関東軍に納めることとなつた。なお同院は四月初旬第三回留日研究生の成績展示会を催し、それらの作品も満州に送って七月から新京、哈爾賓、奉天、大連の諸都市を巡回展示することになつた。 小室翠雲、金山平三、中沢弘光、梅原竜三郎、安井曽太郎、南薫造、朝倉文夫、平櫛田中。
さきに催された戦艦献納展に対して今度は陸軍献納美術展が、七月十五日から月末までやはり表慶館で開催され、再び会員の力作が顔を並べることになつた。
美術報国会では海軍記念日にも天然色幻灯で記録画展を催した。一流作家による海軍記録画を再び光村天然色写真研究所で幻灯板に拵えたもので、東宝系映面館で上映された。
軍需生産の増強を美術で推進させようと油絵画家二八名、日本画家二名、彫塑家一四名、漫画家三名計四七名が軍需生産美術推進隊をつくり、四月八日軍需省で結成式を行つた。
四月十六日国画会では去月十六日逝去した会員林重義の告別追悼会を都美術館の国画会展覧会場で執行した。
美術報国会では三月十日の陸軍記念日の特別行事として、油絵の大家中堅十一名を煩わして特に制作した戦争画を光村天然色写真研究所において幻灯版に作成、これを関東関西の一流映画館で一斉に封切り上映した。
戦艦献納の運動は各界に拡がつていたが、帝国芸術院会員の献納作品展が二月一日から一ヶ月間帝室博物館表慶館で催されることになり、横山大観の九点をはじめ各会員の力作が一堂に集つた。
有栖川宮の祭祀を継がせられる高松宮殿下には例年学術振興等の思召から有栖川宮記念学術奨励金ならびに同厚生資金を下賜あらせられるが、一月十五日本年度一月期の受領者が発表された。学術奨励金を受けた一人として前年度から引きつづきの立正大学講師逸見梅栄がある。研究題目は「満州国及び北支那における仏教礼拝像の図像学的研究」。
日本美術及工芸統制会では工芸部の外に新に伝統工芸部を設置、美術工芸の国家公用性を強調し古代工芸の復原等を行うこととなり、学界美術界より代表的な権威四十七名に委嘱して一月二十一日初の委員会を催した。
日本美術及工芸統制協会では美術各部門の資材配給に関し受給者の査定制を断行することになつていたが、一月二十六日石黒農商次官を委員長とする各部査定委員、および査定を要せずして甲種受給者の資材を与えられた作家一〇二〇名の氏名を発表した。その内訳は日本画二九五名、油絵四九四名、彫塑八九名、工芸一四二名で産業工芸だけは全部査定を経ることに決定した。但しこの決定は年々更新される。
京都日本画家連盟では一月七日平安神宮で勤労報国隊の結成式をあげ、つづいて陶芸、染織、漆芸、金工等の工芸作家百名も翌八日平安神宮に集つて美術作家勤労報国隊を結成した。
昭和十八年度の朝日文化賞受賞者は一月十一日決定発表されたが、同賞贈呈式が二十五日朝日新聞東京本社貴賓室で行われた。美術部門では戦争記録画に優秀な技倆を発揮した二科会宮本三郎が賞をうけ、当日午後は児島東大教授等の来賓から各受賞者の功績を讃える記念講演会がされた。
戦局のすすむにつれて国内の戦時体制は次第にきびしくなり、美術界も殆ど戦争を中心として動いた観があつた。戦争の記録画や南方の風物画が展覧会の主流となり、工場や農村の写生画がこれにつぎ、その外では歴史画の傾向がいちじるしく目立つた。これとともに各種の献画運動、軍事や産業人に対する慰問援護運動が活?であつた。恒例の秋の美術シーズンも本年は院展、二科、一水会と由緒ある展覧会がいづれも停止し、情報局から「美術展覧会取扱要綱」が発表されて、美術報国会主催共催以外の一般展覧会は情報局の承認を要することとなり、二科会をはじめ解散する団体も多かつた。年末になると空襲も頻繁となつて自然美術界も不活動の状態に陥り、文展も本年は休止して「戦時特別展」がこれに代つて開催された。