図画工芸協会組織さる
1940年12月図画会の一分科会(工芸部)として「図画工芸協会」が組織された。
図画会の一分科会(工芸部)として「図画工芸協会」が組織された。
海洋美術の研究と其普及の為文部省練習船に便乗遠洋航海をした画家により「七洋美術会」が結成された。
旧日本陶彫協会を更新し、陶磁彫刻作家の組織的活動に依つて国家の文化的使命に協力する為、沼田一雅を中心に十二名の組織委員により「日本陶磁彫刻作家協会」が結成された。
横山大観は奉祝展覧会出品画「日出処日本」を 天皇陛下に献上、更に同画題の四尺幅の作品を 皇后陛下に、「富士山」及び「竹林煙雨」の両図を皇太后陛下に献上し、それゞゝ皇室に対し奉祝の誠を捧げた。又秩父宮殿下にも明春の勅題「漁村曙」の図を献上した。
洋風画家藤田嗣治、石井柏亭、小杉放庵、津田青楓、中川一政等は今回新団体「邦画一如会」を結成、新たに日本画の研究発表を行ふこととなつた。
今事変に際し海軍に従軍せし石井柏亭、石川寅治、藤田嗣治、中村研一等約六十名の画家に依り「海軍従軍美術家倶楽部」なる親睦団体が結成された。
国民美術協会は秋季総会を兼ね十二月十九日同会評議員にして理事たりし坂井犀水の追悼会を開催した。
社団法人日本出版文化協会では十二月十九日情報局に於て創立総会を開き、伊藤情報局総裁及び各省関係官をはじめ官民代表五十名出席、会長に鷹司信輔公を推し専務理事一名、常務理事二名、理事六名の役員を決定した。
図画会は美術団体聯盟に十二月十四日不参加を次の如く声明した。 「美術団体聯盟は団体を単位とするが故に無所属作家を加入せしむる便なく、全画壇を包含するものとならず、情実多き既成団体を強化し反つて其の旧弊を助長する恐れあり、時勢の推移に従ひ必要ある場合は個人を単位とし組合を組織するを妥当とす」。
美術本来の精神に徹し、民族性の特質と時代の認識を強調し、我国文化の向上発展に寄与せんが為、洋風画の無所属作家阿以田治修、大久保作次郎、安宅安五郎等に依て創元会が結成され、十二月十七日発会式を挙げた。
紀元二千六百年奉祝の事業として、大日本護王会が厚生省前濠端に建設した佐藤清蔵作和気清麿公の銅像除幕式が十二月十八日挙行された。寄贈者石川博資の令息令嬢の手で除幕され、続いて建設委員長林銑十郎大将の式辞、松平宮相祝辞、首相、文相、内相の祝辞代読があり、盛大に行はれた。
新体制に呼応し、尾川多計、荒木季夫、柳亮、今泉篤男、富永惣一、田中一松、大口理夫、水沢澄夫、相良徳三、森口多里、土方定一等を発起人とし「美術問題研究会」が生れ、十二月六日丸の内エーワンに発会式を挙げた。
海軍では紀元二千六百年記念の一として恤兵絵葉書を作成、在支海軍部隊をはじめ各地海軍病院等に配布した。第一輯は竹内栖鳳「海」、横山大観「黒潮」、川合玉堂「山村の春」、第二輯は石井柏亭の「軍艦出雲」、吉田博「海軍航空隊の爆撃行」、古城江観の「海南島警備の陸戦隊」である。
工芸指導所は昭和三年以来仙台に本所を置いてゐたが、工芸指導の重要性により東京移転に決し、十二月二日官制改正公布と共に仙台より東京に本所を移転した。
十一月十六日急逝した挿絵画家小村雪岱の追悼会が十二月三日明治生命マーブルに於て行はれた。
皇后、皇太后両陛下には十一月二十七日上野公園帝室博物館に行啓、同館に特別陳列された正倉院御物を御覧あらせられた。
高村豊周は商工省嘱託海外工芸調査員として、北、中、南米各地に於ける工芸調査並に民族視察の為、横浜出帆靖国丸にて渡米した。
東京府では美術的工芸に生きる管下関係者を糾合してその大同団結をはかり、統制経済下に於ける法令の遵法と工芸技術の研鑽につとめ、東京工芸品の卓越性を宣揚するとともに輸出振興に貢献する為東京府工芸協会を創立し、十一月二十五日創立総会を開いた。