堂本尚郎 (どうもとひさお)

没年月日:2013/10/04
分野:, (洋)

 洋画家の堂本尚郎は10月4日、急性心不全のため死去した。享年85。
 1928(昭和3)年3月2日、京都市下京区下河原町(現、京都市東山区下河原町)において、父堂本四郎、母恵美子の間に長男として生まれる。父の四郎は日本画家・堂本印象の弟で、同居していた印象には幼い頃より非常にかわいがられたという。40年3月清水尋常小学校を卒業、同年4月に京都市立美術工芸学校(現、京都市立芸術大学)絵画科へ入学する。病気による休学や太平洋戦争激化にともなう学徒勤労動員を経て、45年3月同校を繰り上げ卒業。同年4月京都市立美術専門学校(現、京都市立芸術大学)日本画科へ入学した。在学中の48年には第4回日本美術展覧会(日展)に日本画「畑のある丘」を出品、初入選する。以後ヨーロッパへ留学する55年まで、伯父印象についてヨーロッパ旅行へ出かけた52年の第8回展を除いて毎年入選を果たし、51年には「蔦のある白い家」で、53年には「街」で特選を受賞している。
 49年京都市立美術専門学校日本画科を卒業、研究科に進級。51年に大阪・高島屋で開催された現代フランス美術展サロン・ド・メ日本展を見て、同時代のフランス最先鋭の表現に強い衝撃を受けた。翌52年には京都市立美術専門学校研究科を修了、新聞社の特派員として渡欧する伯父印象に随行して初めてヨーロッパを訪れた。半年の間イタリア、フランス、スペイン各地の寺院や美術館を巡り、パリではグランド・ショミエールに通ってデッサンや油絵を学び、「モンマルトルの坂道」「女」など初めて油彩画を制作。ヴァチカンのシスティナ礼拝堂では、ミケランジェロの天井画「創世記」を見て衝撃を受け、自らの制作活動に対して疑問を抱くようになる。帰国後はフランス留学を志す一方で、日本、延いては東洋を改めて見つめなおすことに力を注いだ。
 54年フランス政府の私費留学生試験に合格、翌55年フランスへと旅立つ。このときの費用は留学があくまで短期間であり、帰国後は日本画家として活動することを暗黙の前提として、父四郎と印象が出資したものであったが、乾燥したパリの地での日本画制作に限界を感じ油絵に転向。今井俊満や高階秀爾、芳賀徹らと親交をもち、当時パリの地で絶頂を迎えていたアンフォルメル運動の主導者であるミシェル・タピエとも知遇を得、自身もその渦中に身を投じた。そんな中、57年のはじめ頃、腎臓結石を患い手術を受け、麻酔から目覚める際に周囲のすべてがホワイト・アウトするかのような感覚を経験する。自ら「白の中の白」と呼ぶこの体験から、堂本は白の表現を追求するようになり、「アンスタンタネイテ」などの一連の作品を制作、同年11月にスタドラー画廊において開かれた個展で、パリ画壇への華々しいデビューを遂げた。こうしたフランス画壇での成功や、伯父の印象自身が抽象画へと傾倒していったことから、堂本のパリ滞在は結局10年余りにも及ぶこととなった。
 58年にはパリ国立近代美術館が新しく制定した外国人画家賞でグランプリを獲得、受賞作はパリの日本人画家の中で最も日本的であると評され、翌59年には前衛美術のみによるビエンナーレ、第11回プレミオ・リソーネ国際美術展において第2位特別賞を受賞した。また、58年にはデュッセルドルフで、59年にはニューヨークとローマで個展を開催。翌60年5月には、東京・南画廊において日本での初個展を開き、同月に東京都美術館で開催された第4回現代日本美術展で国立近代美術館賞を受賞、その存在が日本においても広く認められることとなった。しかし一方で、アンフォルメルが西欧文化の積み重ねの上に出来上がったものであることを意識するようになり、日本人である自分自身の文化とはなにかを模索するようになる。そうして生み出された「二元的なアンサンブル」シリーズは、あたかも屏風のような二連画形式を採用し、モノクロームの色面をしばしば撥ねやしたたりを伴いはしご状に反復することで構成された作品であったが、すでにタピエの許容範囲を超えていたため、彼が顧問を務めるスタドラー画廊とも契約を解除されてしまう。このような難局のなかにおいて、「二元的なアンサンブル」は車の轍の跡を連想させる「連続の溶解」シリーズへと展開され、63年の第4回サン・マリノ・ビエンナーレ展〈アンフォルメル以後〉で金メダルを、翌64年の第32回ヴェネチア・ビエンナーレではアルチュール・レイワ賞をそれぞれ受賞、アンフォルメル後の新しい抽象絵画の可能性を示すものとして受容された。66年3月よりほぼ一年間、個展準備のためにニューヨークに滞在し、翌67年9月、パリのアトリエを閉鎖し日本へ帰国する。帰国後は円を主な構成要素とし、「惑星」「流星」など天体に関係するタイトルの付けられた一連の作品が発表された。同じ頃、水で溶解する素材が心地よかったとして、画材をアクリル系の絵具へと変えている。円を用いた作品は、70年代から80年代にかけて「蝕」「宇宙」「連鎖反応」といったシリーズで引き続き制作され、次第に波打つ水面を連想させる画面へと展開されていく。この間、75年9月に伯父印象が亡くなり、同年11月に生地京都での初となる個展を開催した。
 86年ごろには、不規則な漣状のパターンに正方形や長方形が重ねられた「臨界」シリーズが開始され、2004(平成16)年からはカンヴァスに油絵具を垂らすオートマティズムの手法で制作された「無意識と意識の間」シリーズが開始された。
 83年、国際ポスター展においてユネスコからの依頼で制作した「Peace」が平和賞を受賞、同年フランス政府から芸術文学文化勲章(シュバリエ)を授与され、88年には第11回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞する。91年、京都国立近代美術館の活動を支援する目的で発足された財団法人堂本印象記念近代美術振興財団(2003年解散)の理事に就任。95年には秋の叙勲で紫綬褒章を授与され、96年にはフランス政府からレジョン・ドヌール章シュバリエを、01年には同じくフランス政府から芸術文学文化勲章(オフィシエール)をそれぞれ受章。03には秋の叙勲で旭日小綬章を授与され、07年文化功労者に叙せられた。
 食事をとるように絵を描き、描かずにいられるような人間は真の芸術家ではないと語ったという堂本は、半世紀以上にわたる制作において、断絶を繰り返しながら次々と新しい表現に挑戦した前衛の画家であった。画家の堂本右美はその娘である。

出 典:『日本美術年鑑』平成26年版(464-465頁)
登録日:2016年09月05日
更新日:2019年02月13日 (更新履歴)
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