辻永

没年月日:1974/07/28
分野:, (洋)

光風会名誉会長、日本芸術院会員、文化功労者の洋画家、辻永は、7月23日午前10時15分、心不全のため東京都渋谷区の自宅で死去した。享年90歳であった。辻永は、明治17年(1884)2月20日、父の任地広島県に生まれ、水戸中学校を卒業、東京美術学校西洋画科に進んでいる。同級生に森田恒友、山本鼎などがいた。黒田清輝、岡田三郎助の指導をうけ「飼はれたる山羊」(明治43年)、「無花果畑」(明治45)、「椿と仔山羊」(大正5)など、初期には山羊の画家として知られ、白馬会系の描写をさらに進めて、大正9年から10年にかけてのヨーロッパ滞在をへてしだいに風景画家としての明確な方向をとっていった。辻は少年時代からとりわけ植物に対する関心がつよく、樹木、花にひかれて日本各地を旅行し、日本の湿った風土の風景を描くことに専念していった。後年植物草花に対する関心は、『萬花図鑑』(12巻、昭和6年、平凡社)、『萬花譜』(12巻、昭和32年、平凡社)となって結実した。戦後、文展が文部省より離れて日展となり、昭和33年、社団法人日展となってからは、辻は理事長となって会の運営にあたり、日展の法王、と称されるほどに日展の中心的な存在となり、また芸術院においても大きな役割をはたした。昭和34年文化功労者、昭和39年には、勲二等瑞宝章をうけている。

略年譜
明治17年2月20日(1884) 父永光の任地広島市に九人兄弟の第七子として生まれる。母はムラ。
明治17年10月6日 父の茨城県兵事課勤務(のち土浦、水戸など各地警察署長、郡長を歴任)にともない、水戸に移り住む。
明治21年4月 小学校に入学するも怪我のため二日間で退学。
明治22年4月 小学校に再入学。
明治29年4月 茨城県立水戸中学校に入学。父が結城岡田豊田郡長に赴任のため、親元をはなれ下宿住いをして通学する。
明治31年 このころから草花の写生に興味をもちはじめ、やがて植物学者か画家たらんとする希望をもちはじめる。スポーツも好きで、柔道、野球、ボート、水泳にはげむ、特に水泳は日本泳法の一つ水府流に長ける。
明治33年 白馬会会員・水戸中学校図画教師丹羽林平の家に同居、油絵の指導をうける。水戸城趾から仙波湖を眺めた4号の作品をはじめて描く。
明治34年3月 水戸中学校を卒業。
明治34年4月 東京美術学校油画科に仮入学、森田亀之助らと同級になる。選科には和田三造山下新太郎、青木繁、熊谷守一らがいた。
明治35年4月 本科1年に進学、岡田三郎助に師事する。選科に森田恒友、山本鼎らが入学。
明治36年 熊谷守一和田三造、柳敬助、橋本邦助らと下谷区に一戸を借り、共同自炊の気ままな画学生生活をおくる。
秋、美術学校の美術祭が催され、熊谷、和田、山下らとパリ美術学生の出しもので多いに気をはく。
明治37年9月 第9回白馬会展に風景画を出品。
明治38年9月 第10会白馬会展に風景画を出品、美術学校買上げとなる。
明治38年12月 和田三造らと伊豆大島に写生旅行、大島で新年を迎える。
明治39年3月 東京美術学校西洋画科本科を卒業、研究科にすすむ。
夏 福岡の和田三造の家に行き、熊本・阿蘇・長崎を旅行する。父の任地佐賀県で、「父の像」「母の像」や「残暉」を描く。
明治39年12月 師黒田清輝の勧めで福井県福井中学校図画教師として赴任する。任期1年。
明治40年3月 父を失い、9月兄を失う。
夏 北陸地方に写生旅行。
年末、任期を終え福井から東京、麻布に母や次弟と住む。
このとし、とくに草花の写生に没頭する。
明治41年8月 渋谷村(現渋谷区)に居を構え、母や次弟とともに住む。弟は山羊園永光舎をひらき、自らは山羊をモデルにして制作をつづける。
明治41年10月 第2回文展に「秋」出品、この頃、黄の色調に関心を示す。
このとし溜池白馬会研究所に通い人体の研究もする。
明治42年10月 第3回文展に「放牧」を出品。李王家の買上げとなる。
明治43年2月 津田青楓橋本邦助、柳敬助らと信濃上林温泉に行き雪景を写生。
明治43年10月 第4回文展に「飼はれたる山羊」を出品。三等賞となる。
明治44年10月 第5回文展に「朝の牧場」を出品するも落選、抗議の意図もあって本郷春木町の仏教会館(のちの本郷絵画研究所)で個展をひらき、気をはく。
明治45年4月 青山熊治と銚子犬吠崎に写生旅行。
大正元年7月 相模吉浜に写生旅行。
大正元年9月22日 岡田三郎助夫妻の媒酌で渡辺岩次郎の娘和加子と結婚。
大正元年10月 第6回文展に「無花果畑」を出品、三等賞となる。今村繁三に300円で売約、第2回個展を赤坂三会堂でひらく。
大正2年 夏 弟光夫婦とハルビンに行き、約1カ月写生にいそしむ。
大正2年10月 第7回文展に「満州」を出品、皇后陛下買上げとなる。(戦災焼失)。
大正2年12月 日比谷美術館で第3回個展を開催。
大正3年3月 大正博覧会に「山羊の牧場」を出品、褒状をうける。夫人同伴で再度ハルビンに赴き、帰途、大連、京城にて個展を開催、6月帰京する。
大正3年10月 第8回文展に「初秋」を出品、三等賞となる。第2回国民美術協会展に「牧場にて」を出品。
大正3年12月 日比谷美術館で第4回個展を開催。
大正4年2月 岡田三郎助と越後五十島に遊び、雪景多数を描く、サンフランシスコ博覧会に「初秋」を出品、銅牌をうける。
大正4年10月 第9回文展に「落葉」を出品、三等賞を受賞文部省買上げとなる(関東大震災で焼失)日本橋・三越で第5回個展をひらく。
大正5年3月 長男昶生れる。
大正5年5月 岡田三郎助と山形県大石田へ写生旅行。
大正5年10月 第10回文展に「葡萄実る頃」「椿と仔山羊」を出品、客観的写実からぬけでた新しい自然観照をみせるもので、前者は特選となる。第6回個展を日本橋・三越で開催。「椿と仔山羊」「林檎咲く」文部省買上げとなる。
大正6年10月 第11回文展に「丘上」「九月の午後」を出品。
大正7年2月 南薫造太田喜二郎らとともに光風会会員となり、第6回光風会展に「晩春」「哈爾賓の二月」を出品。越後地方に赴き雪景を描く。
大正7年6月 次男朗生れる。
大正7年10月 第12回文展に「秋」を出品。
大正8年2月 越後地方の雪景を写生。
大正8年10月 第1回帝展に「剪毛後の或日」を出品、無鑑査に推せんされる。
大正9年4月 印度洋経由渡欧の途につく。カイロ、マルセイユ、パリ、ノルマンディー、イギリスを巡遊し、9月から10月にかけて、三宅克己とベルギー、オランダ、ドイツをまわる。のちスペイン、スエーデンに遊ぶ。この間白絵具を用いずに描いたり、筆を用いず、チューブから直に絵具をぬるなど、いくつもの試みをする。
大正10年1月 イタリー各地を写生旅行。
大正10年2月 パリに戻り、フランス各地で制作旅行をつづける。
大正10年7月 帰国。
大正10年10月 雑誌『中央美術』に滞欧中の日記の一部を掲載、評判となる。第3回帝展に「ブルーヂュの秋」を出品。滞欧作品の個展を日本橋・三越でひらく。
大正11年1月 滞欧作展を大阪・三越でひらく
大正11年2月 雑誌『中央美術』に「倉敷の名画を見る」を書く。
大正11年11月 第4回帝展の審査員となり「雪」を出品(戦災焼失)。
このとしハルビンにも赴く。
大正12年1月 三男瑆生れる。
大正12年2月 赤坂離宮天井絵の補修にたずさわる。
大正12年7月 加藤静児と志摩波切村で制作。
大正12年8月 アトリエを2階に新築。
大正12年11月 彦根松原村で制作。
大正13年1月 母失う。
大正13年7月 師黒田清輝を失う。
大正13年11月 第5回帝展委員となり、同展に「名残の夏」(焼失)「城下晩秋」を出品。
大正14年4月 南薫造とともに朝鮮に赴き京城、開城、平壌各地で制作にはげむ。朝鮮総督府から朝鮮美術研究を依嘱される。雑誌『中央美術』槐樹社展評を書く。水戸常総新聞主催、常総洋画展に審査委員として、岡田三郎助山本鼎らと出席。「水辺の初冬」を特別出品する。
大正14年5月 第4回朝鮮美術展を審査をする。
大正14年10月 第6回帝展に「新秋(焼失)「大利根の秋」を出品。
このとし明治神宮聖徳記念絵画館の壁画揮毫を依嘱される。
大正15年2月 第13回光風会展に「大同江畔」「尼寺の前」など6点を出品。
大正15年4月 第5回朝鮮美術展審査のため南薫造とともに京城に行く。
大正15年5月 聖徳太子奉讃展(第1回)に「赤倉の雪」「微風」を出品。
大正15年10月 第7回帝展審査員、同展に開城風景「暮春」を出品(戦災焼失)。
昭和2年2月 第14回光風会展に「雪」「田舎道」など5点を出品。
昭和2年5月 第6回朝鮮美術展審査員として京城に赴く。
昭和2年6月 明治大正名作展に「無花果畑」「ベルギーにて」がえらばれる。
夏 岡田三郎助和田三造野田九浦らと浜名湖に遊ぶ。
昭和2年10月 第8回帝展に「紅帷の室」「晴日」を出品(ともに戦災焼失)。
昭和3年3月 第15回光風会展に「浜名湖」「湖辺の秋」など6点を出品。常陸涸沼で制作。
昭和3年10月 第9回帝展審査員。同展に「春ゆく頃」を出品。
このとし地下鉄上野駅壁画百号大二面「朝」「昼」を制作する。
昭和4年2月 第16回光風会展に「春の日」など7点を出品。同展特別陳列故山本森之助の追悼文を読売新聞(4日附)に書く。
昭和4年8月 共楽美術クラブを主催していた弟衛を自動車事故で失う。
昭和4年10月 第10回帝展審査員。同展に「人形のある静物」を出品(戦災焼失)。
このとし昭和御大礼奉祝に保田善次郎献上の「放牧」を描く。同時に献上された和田英作の植物図に対して、この絵は動物図ともいわれる。
昭和5年2月 第17回光風会展に「初冬の富士」など10点を出品。
昭和5年3月 聖徳太子奉讃美術展(第2回)審査員。同展に「湖畔の秋」を出品。
昭和5年10月 第11回帝展に「庭」を出品。三越で個展開催。
昭和6年2月 第18回光風会展に「雉子と葡萄」「山羊飼ふ家」など7点を出品。
春 岡田三郎助和田三造らと大島に写生旅行、熱海でも作画する。
昭和6年5月 南薫造と三里塚で桐の花を写生。
昭和6年10月 第12回帝展審査員。同展に「画房の一日」を出品。
このとし30余年間に写生した花の中から約千種をえらんだ『萬花図鑑』全8巻が平凡社から出版される。
昭和7年2月 太田三郎加藤静児と箱根を写生旅行。
昭和7年4月 第19回光風会展に「室内」ほか箱根風景数点を出品。
昭和7年6月 国立公園協会の依頼で北海道釧路、阿寒地方を写生、「摩周湖風景」「阿寒双湖台より」などを制作する。それまで無名のバンケトー、ベンケトー両湖を望む地を双湖台と命名、雄阿寒雌阿寒の両嶽のみえるところを又嶽台と名づける。
昭和7年10月 第13回帝展審査員。同展に摩周湖を描いた「山湖」を出品。約500種の花の写生を収めた『續萬花図鑑』4巻を平凡社から出版。
昭和7年12月 志摩地方を写生旅行。
昭和8年2月 光風会評議員となる。第20回展に「志摩の朝」「雄阿寒」など4点を出品。
昭和8年4月 信濃地方で作画。
昭和8年6月 岡田三郎助和田三造らと十和田湖、佐渡などを写生旅行。
昭和8年7月 久留米、阿蘇、鹿児島、青島、別府など写生旅行。
昭和8年10月 第14回帝展に「風薫る」を出品。絹や紙に油絵具で日本画風に描いた邦風油彩画花卉小品展を高島屋でひらく。岡田三郎助らと信濃地方を写生旅行。
昭和9年2月 第21回光風会展に「信濃の秋」「菅原の晩秋」などを出品。
昭和9年4月 信濃地方で制作。
昭和9年6月  ハルビンに赴き制作。
昭和9年7月 小豆島でオリーブを写す。
昭和9年10月 第15回帝展審査員。同展に「哈爾賓風景」」を出品。政府買上げとなる。
昭和9年11月 岡田三郎助と箱根に写生旅行。
昭和10年2月 第22回光風会展に「天草の辺」「信濃の雪」「哈爾賓の六月」を出品。雑誌『美術』に「片多徳郎の遺作」について書く。東京地方裁判所依頼の風景画を完成、同所に掲げられる。
昭和10年3月 東京府美術館10周年記念現代綜合美術展に「春ゆく頃」がえらばれる。
昭和10年6月 帝展改組に対し、小林萬吾石川寅治金山平三田辺至らとともに不出品の声明を発表。雑誌『現代美術』に随筆「チビの死」を発表。
昭和10年7月 帝展反対の新団体第二部会を結成。
昭和10年10月 第二部会第1回展審査員。同展に「若葉の伊豆」「玻璃器などのある室内」を出品。
昭和10年12月 藤島武二岡田三郎助らとともに高知室戸へ制作旅行。
昭和11年2月 雑誌『塔影』に「雪を描く」ことの感想を書く。
昭和11年3月 制作旅行による土佐風光スケッチ展を藤島、岡田らと松坂屋でひらき、大阪画廊でも土佐風景を主とした小品展をひらく。
昭和11年4月 第23回光風会展に「山峡の秋」を出品。
昭和11年6月 帝展再改組のため第二部会文展参加を表明。
昭和11年7月 岡田三郎助和田三造野田九浦らと琵琶湖、奈良、京都方面を制作旅行。
昭和11年10月 鬼頭鍋三郎らと蓼科高原で制作。雑誌『現代美術』に滞欧中の「スコットランド日記抄」を掲載。
昭和11年文展鑑査展の審査をする。
昭和11年11月 同展招待展に「霞む春」を出品。名古屋・丸善で個展を開催。
昭和12年2月 第24回光風会展に「浅間の秋」「新秋」を出品。
昭和12年4月 大阪市立美術館の明治大正昭和三聖代名作美術展に「無花果畑」がえらばれ出品される。
昭和12年6月 邦風油彩画花卉小品展を高島屋で開催。『辻永邦風油彩花卉画集』を美術工芸会から刊行。
昭和12年8月 雑誌『塔影』に「花の写生」についてを発表。
昭和12年10月 新たにはじまった第1回文展審査員となり、「志賀高原の秋」を出品、京都市美術館買上げとなる。
昭和12年11月 大潮会第2回展審査員。
昭和13年2月 25回光風会展に「春」「秋」を出品。
昭和13年4月 牧野虎雄熊岡美彦らと常陸袋田滝で制作。
昭和13年5月 大阪阪急百貨店で個展開催。雑誌『塔影』に随筆「花卉雑稿」を書く。
昭和13年10月 第2回文展審査員。同展に「湖上霊峰」を出品。
昭和13年11月 箱根強羅に山荘アトリエをつくる。『辻永作品集第一輯』を美術工芸会から刊行。
昭和14年2月 第26回光風会展に「果物」を出品。
昭和14年8月 雑誌『教育美術』に「熱と力」を書く。
昭和14年9月 師岡田三郎助を失う。
昭和14年10月 第3回文展審査員。同展に「新樹匂う(箱根)」を出品。
昭和15年2月 第27回光風会展に「湖畔の秋」「夏の朝」を出品。
昭和15年5月 名古屋丸善で小品展を開催
昭和15年10月 紀元二千六百年奉祝美術展委員となり、同展に「秋映ゆ」を出品。南薫造らと上高地で制作。
昭和15年11月 大潮会第5会展審査員。
昭和16年2月 第28回光風会展「映ゆる朝」などを出品。南支那、仏領印度支那へ赴くも物情騒然のため直ちに帰国。
昭和16年3月 京都市美術館の現代名作絵画展に「山湖」がえらばれ出品される。越後湯沢で雪景を写生。
昭和16年10月 第4回文展審査主任。同展に「華氈上の静物」を出品。
昭和17年2月 第29回光風会展に「山桜咲く」「高原晩秋」を出品。
昭和17年10月 第5回文展審査員。同展に「清秋」を出品(戦災焼失)。台湾総督府美術展審査のため、渡台、台北、台南で制作のうえ11月に帰京。
昭和18年2月 第30回光風会展に「山峡の秋」を出品。光風会30周年記念特別陳列に「残暉」「牧場」「無花果畑」「初秋」「椿と仔山羊」「葡萄実る頃」の6点を陳列。
昭和18年3月 田村一男と蓼科高原で残雪風景を描く。
昭和18年5月 横山大観を会長とする日本美術報国会設立され、木村荘八とともに第二部委員にえらばれる。日本美術及工芸統制協会理事となる。
昭和18年6月 第6回文展委員、審査主任。同展に「高原の雪解くる」を出品(戦災焼失)。
昭和19年3月 第31回光風会展(非公募)に「山湖の秋」を出品。
昭和19年10月 第1回軍事援護美術展に「匂ふ山桜」を出品。戦時特別文展の「箱根の秋」を出品。このとし箱根強羅のアトリエで制作が多い。「雨後」「酣秋」などを描く。
昭和20年5月 空襲のため住居を焼失、作品、美術蒐集品、蔵書の多数が灰燼に帰す。
昭和20年11月 箱根で制作「二の平の秋」「小涌谷の秋」などを描く。
昭和21年3月 文展は文部省主催日本美術展覧会(日展)となり、その第1回展に「錦秋」を出品。蓼科高原で「残雪」などを描く。
昭和21年10月 第2回日展審査員。同展に「二の平の秋」を出品。旧岡田三郎助画室を譲りうけ住む。
昭和22年2月 第33回光風会展に「雪」「強羅風景」を出品。
昭和22年6月 美術団体連合展に「山峡の秋」を出品。
昭和22年9月 帝国芸術院会員となる。
昭和22年10月 第3回日展審査員。同展に「新樹匂う」を出品。中村研一鬼頭鍋三郎田村一男らと知多半島に遊ぶ。
昭和23年3月 第34回光風会展に「信濃の雪」を出品。
昭和23年10月 第4回日展審査員。同展に「初冬の相模湖」を出品。
昭和23年11月 第1回茨城県美術展顧問、「初夏」特別出品。
昭和24年1月 岡山三蟠にて制作。
昭和24年3月 第35回光風会展に「秋の日」「春を送る」を出品。
昭和24年6月 中村研一耳野卯三郎らと勝浦、鵜原に写生旅行。
昭和24年8月 「自画像」及び「妻の顔」を描く。
昭和24年9月 国立自然教育園評議員を依嘱される。
昭和24年10月 日展運営委員会常任理事となる。第5回日展審査員。同展に「駘蕩」を出品。
昭和25年3月 第36回光風会展に「薫風」を出品。中村研一小絲源太郎と琵琶湖を写生旅行。
昭和25年7月 山下新太郎と京都、石山に遊ぶ。
昭和25年10月 第6回日展審査員。同展に「高原に山藤咲く」を出品。
昭和26年3月 第37回光風会展に「森の秋」を出品。鬼頭鍋三郎中村研一らと京都、大津、石山を写生旅行。
昭和26年4月 機関雑誌『光風』創刊号に随筆「春の花」を書く。石川柏亭、有島生馬中沢弘光らと長野地方を写生旅行。山下新太郎と名古屋犬山で制作。
昭和26年5月 岡山牛窓のオリーヴ園で制作、このころから独自の境地をみせる作風となる。
昭和26年10月 第7回日展審査員。同展に「オリーヴの丘」を出品。
昭和27年1月 鬼頭鍋三郎と三河幡豆で制作。
昭和27年3月 小寺健吉中村研一らと京都、須磨地方を写生旅行。
昭和27年5月 岡山玉島で「除虫菊咲く頃」などを描き、能登、高岡をまわって帰京。
昭和27年6月 蓼科高原、岡山オリーヴ園、7月須磨、9月琵琶湖などに写生旅行。
昭和27年10月 第8回日展審査員。同展に「淡路霞む」を出品。
昭和27年11月 山陰地方、12月京都を写生旅行。
昭和28年1月 鬼頭鍋三郎と「志摩浜島で制作。
昭和28年3月 京都市美術館の近代日本美術回顧展に「志賀高原の秋」を出品される。京阪地方で写生。
昭和28年4月 第39回光風会に「高原に藤匂ふ」を出品。夫人同伴で中村研一夫妻と信濃安茂里で杏の写生。
昭和28年5月 神戸、奈良方面で作画。
昭和28年6月 北海道各地を写生旅行。
昭和28年10月 第9回日展審査員。同展に「志摩早春」を出品。
昭和28年11月 熊本にて写生、帰路須磨、宇治、琵琶湖などをまわる。
昭和29年2月 古稀記念展を高島屋で開催、画業50年をたたえて初期から現在まで150点陳列。『辻永作品集』(辻永作品集刊行会)が刊行される。
昭和29年3月 第40回光風会展に「島霞む」を出品。
昭和29年4月 須磨、5月紀州、6月須磨、7月北陸地方を写生旅行。
昭和29年10月 第10回日展審査員。同展に「川奈風景」を出品。
昭和29年11月 古稀の祝賀会が東京会舘でひらかれる。雑誌『アトリエ』に「風景と色彩」についてを書く。
昭和30年1月 第6回秀作美術展に「高原に藤匂ふ」がえらばれる。福岡、唐津方面を写生旅行。
昭和30年2月 日光で写生。
昭和30年3月 第41回光風会展に「一の谷新樹」を出品
昭和30年4月 日本芸術院第一部長となる。日本スポーツ芸術協会理事となる。『萬花譜』12巻の刊行が平凡社からはじまる。
昭和30年5月 京都に遊ぶ。
昭和30年7月 毎日新聞(10日附)に「よき日の学生時代」を書く。
昭和30年10月 日展審査主任。同展に「春の日」を出品。日本洋画名作展(みづゑ50年展)に「無花果畑」がえらばれる。
昭和30年12月 京都、神戸で制作。
昭和31年1月 日光で雪景を描く。
昭和31年4月 光風会は社団法人となり、理事になる。
久留米、島原、雲仙方面で制作。
昭和31年5月 京都で制作。
昭和31年6月 日本芸術院第一部長を辞任。雑誌『造形』に「中沢老を讃える」文を書く。
昭和31年10月 第12回日展審査員。同展に「つゆの晴れ間」を出品。東京都買上げとなる。
昭和32年3月 第43回光風会展に「島浮ぶ」を出品。鬼頭鍋三郎と蒲郡で制作。
昭和32年5月『萬花譜』出版完成記念展を東京丸善で開催、同17日東京会舘で祝賀会が催される。
昭和32年8月 毎日新聞夕刊(4日附)に随筆「花の香」を書く。
昭和32年9月 昭和32年度文化勲章並びに文化功労者年金受賞者選考委員を委嘱される。
昭和32年11月 第13回日展審査員。同展に「橋立春雪」を出品。
昭和33年3月 産経新聞(29日附)に「大言小言」がのる。
昭和33年4月 第44回光風会展に「若葉の頃」を出品。社団法人「日展」の初代理事長となる。岡山オリーブ園で制作。
昭和33年5月 神戸、蒲郡、那須で、6月京都、須磨、琵琶湖、7月日光、、8月箱根、9月琵琶湖、10月日光で制作する。
昭和33年11月 社団法人第1回日展審査委員長。同展に「内海初冬(淡路橋立)」を出品。
昭和34年1月 和歌山地方で写生。
昭和34年2月 文化財専門審議会第三分科会専門委員となる。
昭和34年4月 第45会光風会展に「日光秋景」を出品、大阪府買上げとなる。
昭和34年5月 山崎覚太郎橋本明治らと川奈に、中村研一田村一男らと金沢に写生旅行。
昭和34年6月 ふたたび日本芸術院第一部長におされる。
昭和34年9月 文部省買上作品選考委員を依嘱される。
昭和34年11月 文化功労者として顕彰される。第2回日展審査員。同展に「楠若葉」を出品。『辻永作品集』が日展美術刊行会から刊行される。財団法人日本自然保護協会理事に就任。
昭和35年1月 花のスケッチ展を松屋で開催、東京新聞夕刊(12日附)に「美術芸談」がのる。中村研一鬼頭鍋三郎と名古屋犬山に写生旅行。
昭和35年2月 比叡山、越後湯沢、3月比叡山で制作。
昭和35年4月 第46回光風会展に「春の湖」を出品。
9月、文部省買上作品選考委員を依嘱される。北陸地方、須磨、10月戦場ヶ原などを写生旅行。
昭和35年11月 第3回日展審査委員長。同展に「淡路島山」を出品。
昭和35年12月 須磨、琵琶湖、比叡山などで制作。
昭和36年2月 文化財専門審議会第三分科専門委員を依嘱される。
昭和36年3月 日展役員満期改選、ふたたび理事長となる。
昭和36年4月 第47回光風会展に「山湖萠春」を出品、東京国立近代美術館買上げとなる。
昭和36年6月 命名した「淡路橋立」の建碑式出席のため淡路島に行く。
昭和36年7月 オリンピック東京大会組織委員会芸術展示特別委員会委員を依嘱される。
昭和36年8月 山中湖、9月10日日光周辺で制作。
昭和36年11月 第4回日展に「湖上の朝」を出品。
昭和37年1月 名古屋、蒲郡、日光、箱根で制作。
昭和37年4月 第48回光風会展に「秋日」を出品、琵琶湖、須磨、群馬などを写生旅行。
昭和37年6月 日本芸術院第一部長に三選される。北陸地方を旅行。
昭和37年11月 第5回日展に「惜春」を出品、東京国立近代美術館買上げとなる。
昭和38年1月 有島生馬山崎覚太郎らと名古屋犬山、蒲郡を旅行。
昭和38年3月文化財専門審議会第三分科専門委員となる。日展役員改選、理事長に三選される。
昭和38年4月 第49回光風会展「高原微雨」を出品。長野吉野山、神戸などを写生旅行。
昭和38年5月 文部省買上作品選考委員を依嘱される。
昭和38年6月 日光、琵琶湖に遊ぶ。
昭和38年7月 昭和3年制作の地下鉄壁画補修にかかる。9月完成。
昭和38年9月 広島、宮島、日光などを写生旅行。
昭和38年11月 第6回日展へ「山湖秋日」を出品。
昭和39年1月 名古屋、2月日光、箱根、3月日光で写生。
昭和39年4月 第50回光風会記念展に「雪しぐれ」を出品。大阪、須磨、姫路などを旅行。
昭和39年5月 金沢、鶴木で桐の花を写生。6月日光、熊本、別府、阿蘇、8月琵琶湖、9月日光、箱根などで制作。
昭和39年10月 病いに倒れ築地聖路加病院に入院。
昭和39年11月 勲二等瑞宝章をうける。第7回日展に「凍解」を出品。
昭和40年1月 退院、自宅療養をする。
昭和40年4月 第51回光風会展に「秋」を出品。
昭和40年8月 箱根、9月日光で写生。
昭和40年11月 第8回日展に「春雪」を出品。
昭和40年12月 紺綬褒章を受章。
昭和41年1月 名古屋、蒲郡で写生。
昭和41年4月 第52回光風会展に「新涼」を出品。
昭和41年5月 金沢、6月日光、7月須磨に写生旅行。
昭和41年11月 第9回日展に「霧の霽れ間」を出品
昭和42年4月 第53回光風会展に「丘の小径」を出品
昭和42年11月 第10回日展に「朝」を出品。
昭和43年4月 第54回光風会展に「水ぬるむ」を出品。
昭和43年11月 明治百年記念茨城県特別功績者として茨城県から表彰される。第11回日展に「山湖秋日」を出品。
昭和44年4月 第55回光風会展に「春雪」を出品。
昭和44年11月 第12回日展に「山湖早春」を出品。
昭和45年4月 第56回光風会展に「須磨の海」を出品。
昭和45年11月 第13回日展に「湖上の朝」を出品。
昭和46年4月 第57回光風会展に「雪後」を出品。
昭和46年9月 茨城県立美術博物館で「郷土の生んだ巨匠・辻永展」が開催される。
昭和47年11月 第4回日展に「早春(志摩)」を出品。
昭和48年11月 第5回日展に「山湖早春」を出品。
昭和49年 7月23日午前10時15分、心不全のため東京都渋谷区の自宅で死亡。
(本年譜は、茨城県立美術館における「郷土の生んだ巨匠・辻永展」目録より転載、一部を追加いたしました。)

出 典:『日本美術年鑑』昭和49・50年版(265-271頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「辻永」『日本美術年鑑』昭和49・50年版(265-271頁)
例)「辻永 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9365.html(閲覧日 2024-12-05)

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