石川寅治

没年月日:1964/08/01
分野:, (洋)

日展監事、示現会代表の洋画家石川寅治は、8月1日渋谷区原宿の伊藤病院で敗血症の療養中心臓衰弱のため逝去。享年90才。明治8年高知市に生れ、明治24年上京、小山正太郎の不同舎に入った。はじめ明治美術会に出品したが、同34年明治美術会の解消の後同志と太平洋画会を結成してその主要会員となった。また研究所を設けて後進を指導し、その後身たる太平洋美術学校校長をもつとめた。その間、明治35年から3年にわたって欧米を巡歴した。同40年以降文、帝展をはじめ戦後の日展まで多くの作品を発表した。初期文展で屡々受賞し、のち帝展の委員、審査員を度々つとめた。昭和22年太平洋画会を脱会し、新に示現会を結成してその主宰者となった。また、大正7年以来東京高等師範学校講師となり、昭和24年には東京教育大学講師を依嘱されて多くの学生を指導した。同28年多年洋画界、教育界につくした功績によって日本芸術院恩賜賞を受けた。初期には婦人像が多かったが、のちには好んで港や船をえがき、アカデミックな作風から次第に印象主義的な明るい画調に移った。
略年譜
明治8年 4月5日高知市に石川義忠の長男として生る。
明治24年 2月洋画修業を志して上京し、小山正太郎画塾不同舎に入学。中村下折、下村為山、岡精一筆の後輩として勉学した。
明治26年 明治美術会展に初めて「野鴨」を出品。
明治28年 明治美術会展に「湯浅伍助」を出品。
明治29年 明治美術会展に「農家」を出品。28年より29年に亘り、師、小山が浅草パノラマ館に日清戦争「平壌包囲攻撃」及び「旅順総攻撃」の大画面作製に当り助手を勤めた。
明治30年 明治美術会展に「帰来洗刀」を出品。
明治31年 明治美術会展に「裸婦」を出品。
明治32年 パリ万国博覧会に油絵「竹林」を出品。
明治34年 郷里高知で結婚した。11月満谷国四郎吉田博、中川八郎の同志と太平洋画会を結成。翌年より毎年展覧会を開催。また研究所を下谷区真島町に設置して後進の指導につとめた。
明治35年 10月絵画研究の為アメリカへ渡り、ボストン、バッファロー、デトロイトで所持の水彩画の展覧会を開催。
明治36年 3月ヨーロッパに渡り各国の美術館を見学。
明治37年 6月印度洋を航して帰国。
明治38年 翌39年にわたり師、小山が浅草パノラマ館に日露戦争「旅順総攻撃」及び「奉天会戦」の大画面作製にあたり、助手をつとめた。
明治40年 東京勧業博覧会にパステル画「静物」を出品して3等賞牌を受く。第1回文展に「秋雨」「乙女」(パステル)を出品。
明治41年 第2回文展に「菊」「白百合」「金魚」を出品「菊」は三第賞。
明治42年 第3回文展に「葡萄」「桃の節句」を出品。
明治44年 10月第5回文展に油絵「雨の日」を出品。12月より翌年3月まで琉球に旅行し那覇、首里、中城、糸満等各地を写生した。
大正元年 第6回文展に「鞆の津」「まる窓」を出品。
大正2年 第7回文展に「港の午後」「雨やんだ朝」「虫干」を出品。「港の午後」は2等賞。
大正3年 大正博覧会に油絵「秋晴」「漁村」の真書を出品。第8回文展に油絵「母の着物」「西日さす浜辺」を出品。
大正4年 第9回文展に油絵「深潭」「野うるし咲く頃」を出品。
大正5年 第10回文展に油絵「水郷の黄昏」を出品。サンフランシスコ世界大博覧会に「静物」を出品して三等賞牌を与えられた。
大正6年 台湾に旅行し二ケ月に亘り蕃界に出入して各地を写生し30余点の油絵を描き台北で展観し、更に内地に持帰り東京及び大阪三越で展覧会を開催して台湾の風景を紹介した。立太子礼奉祝献納画台湾風景を描くために渡台して「高雄港」を写生した。第11回文展に油絵「驟雨の徴」を出品。文展規定により推薦以後無鑑査。
大正7年 師、小山の後を受けて東京高等師範学校講師になり図画専修科を担当、爾来15年間図画教育に尽した。10月台湾総督府嘱託になり新庁舎会議室に2面の壁画を描くことになった。同月満州、朝鮮に写生旅行し、大連で展覧会を開催した。
大正8年 台湾に渡り総督府新庁舎の壁画を納入した。文部省教育検定委員会臨時委員となり、昭和8年8月迄15年間勤続。第1回帝展の審査員に選ばれ、同展に油絵「雨歇んだ朝」「深碧の流」を出品。
大正9年 第2回帝展に審査員として油絵「卓上」「深淵」を出品。
大正10年 東京市外滝野川中里にアトリエ並に住宅を建築して移転。第3回帝展に審査員として油絵「化粧」「驟雨の後」を出品。
大正11年 平和記念東京博覧会審査官となり同展に「妙高山」を出品。第4回帝展に審査員として「雨後」「高雄港」を出品。
大正12年 台湾総督府より、明治神宮絵画館へ献納の北画揮毫を依嘱され材料蒐集のため渡台。
大正13年 第5回帝展に委員として「晴れ行く朝」「花園」を出品。
大正14年 中等図画教科書「最新図画」を編輯し冨山房より発行。第6回帝展に「南国の船」「ダリヤ」を出品。
大正15年 聖徳太子奉賛展委員となり、同展に「浴後」を出品。第7回帝展に審査員として「花」「柏島の朝」を出品。台湾総督府より明治神宮絵画館に献納の「北白川宮殿下台北入城」の壁画を完成した。
昭和2年 文部省より教員検定委員会無試験検定調査事務を嘱託する。第8回帝展に「野尻湖」「仔猫」を出品。
昭和3年 同7年まで、朝香宮妃充子内親王殿下並に喜久子女王殿下に絵画教授申し上ぐ。第9回帝展に審査員として「少女」を出品。
昭和4年 第10回帝展に「下田港」を出品。
昭和5年 上海より蘇州、杭州へ旅行、江南風景を写生す。第11回帝展に審査員として「蘇州の春」を出品。
昭和6年 第12回帝展に審査員として「凝視」を出品。
昭和7年 第13回帝展に「雨後の港」を出品。
昭和8年 第14回帝展に「瀞峡」を出品。
昭和10年 第2部会の審査員となり「造船所」を出品。
昭和11年 新文展の委員となり、「鏡前」(臨時、招待展)。
昭和12年 3年間、朝香宮湛子女王殿下に絵画教授申し上ぐ。海軍館に「地中海海戦」を描き、第1回新文展に「憩い」を出品。
昭和13年 第2回新文展審査員となり「港」出品。海軍省嘱託となり、中支那方面に派遣され「渡洋爆撃」「鎮江攻略」の作戦記録画を描く。
昭和14年 海軍省軍務局事務嘱託となる。第2回新文展審査員となり「長江遡帆」を出品。
昭和15年 支那事変に於る勤労により賜品及従軍記章拝受。紀元2600年奉祝展委員となり「出湯の宿」を出品。
昭和17年 第5回新文展に「港」を出品。
昭和18年 第6回新文展に「造船場」を出品。海軍省より「南太平洋海戦」の記録画作製を命ぜられ資料蒐集のためラバール方面に出張、帰還後完成。中村不折の後を受けて太平洋美術学校校長に就任。
昭和19年 11月東京都板橋区に住宅を建築して移転。
昭和21年 3月第1回日展に「裸女」を出品。
昭和22年 東京都美術館参与となる。第2回日展に「農事忙」を出品。11月太平洋画会を脱退し、新に示現会を結成しその代表となる。
昭和23年 第4回日展に油絵「佐渡金山」を出品。
昭和24年 東京教育大学講師となる。第五回日展審査員となり「新緑の頃」を出品。
昭和25年 日展参事となる。第6回日展に「新緑の庭」を出品。
昭和26年 第7回日展審査員となり「山間の温泉郷」を出品。
昭和27年 第8回日展「岩風呂」を出品。10月上野公園精養軒で喜寿の祝賀会を開催。
昭和28年 5月多年の功績により恩賜賞授与。第9回日展に審査員として「白川村の春」を出品。
昭和29年 第10回日展に「川なかの温泉」を出品。
昭和30年 第11回日展に審査員として「銚子の海」を出品。
昭和33年 日展改組され社団法人日展となり監事に就任。
昭和38年 米寿祝賀会及び記念会展を開催。
昭和39年 8月1日没

出 典:『日本美術年鑑』昭和40年版(133-135頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「石川寅治」『日本美術年鑑』昭和40年版(133-135頁)
例)「石川寅治 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9158.html(閲覧日 2024-03-29)

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