山下新太郎

没年月日:1966/04/11
分野:, (洋)

一水会委員、日展顧問の山下新太郎は、4月11日老衰のため、港区芝の自宅で死去した。享年84才。明治14年東京根岸、御隠殿前の表具師の家に生れ、東京美術学校で黒田清輝の指導をうけた。後フランスに留学して、ラファエル・コラン、フェルナンド・コルモンに師事し、滞欧中ベラスケス、ルノアールに傾倒してその感化をうけた。初期文展で受賞し、大正3年石井柏亭らと二科会を創立し、その幹部として活躍した。又絵画の修理についての関心も深く、第一次、第二次渡仏の際在仏東洋画の修復にあたった。その功績により昭和7年仏国政府よりレジョン・ドヌール勲章を受けた。昭和10年二科会員を脱退し、帝国美術院会員となり、同12年一水会々員となった。尚この年帝国美術院は勅令改正により帝国芸術院会員となった。同30年文化功労章を受領。著書に「油絵の科学」(昭和23年好学社)がある。
年譜
明治14年 8月29日東京都荒川区山下七兵衛(表具師)の長男として生る。
明治18年 幼時より画を好み、特に天神像を好むことより、父と昵懇であった狩野芳崖に天神図の小品を依頼し手本とする。
明治25年 この頃父の友人である新岡久頼(号旭宇)に書を習う。
明治32年 西田長左衛門(義兄)に就いて英語、漢文を習う。
明治34年 藤島武二に師事し、東京美術学校西洋画科選科に入学。
明治37年 同校卒業。東京外国語学校仏蘭西語撰科に学び、後暁星校に転ず。
明治38年 4月、米国経由渡仏。はじめコラン塾に学び、次いで国立巴里美術学校に入学。フェルナンド・コルモンの指導をうけた。
明治40年 5月、スペイン旅行、(プラド美術館でベラスケス作「ブレダ開城」他の模写に従事)。グラナダ、セヴィリアをみて暮に巴里へ帰る。
明治41年 「窓際」巴里サロンに出品。
明治42年 「読書」「読書の後」巴里サロンに出品。
明治42年 夏の終り頃健康を害し、スイス経由イタリアに旅行す。(ミラノ、ベニス、フローレンス、ナポリ等)11月マントン、マルセーユを経て、巴里に帰る。この年「靴の女」制作。
明治43年 6月、帰国(スエズ経由)。
7月山崎誉花と結婚。第4回文展「読書の後」(三等賞)「読書」「靴の女」。
明治44年 第5回文展「窓際」(三等賞)。
明治45年 長女出生。
大正3年 長男出生。石井柏亭らと二科会創立。
湯浅一郎と朝鮮旅行。(朝鮮鉄道局依頼により京城鉄道局経営朝鮮ホテルの壁画を描く)。
大正4年 再度渡鮮壁画完成す。
9月、第2回二科展(日本橋・三越)「端午」(長男登10ケ月の像)「供物」(誉花像)。
大正6年 奈良に旅行。
大正7年 三光町新居落成。
昭和4年 16回二科展「鹿子紋」他4点。
昭和6年 5月、朝鮮美術展審査員となり、小林万吾と渡鮮。9月23日神戸より渡仏。
昭和7年 6月21日巴里発、7月24日神戸着帰朝。年末仏国政府よりシュバリエ・ド・ロルドル・ナショナル・ド・ラ・レジョン・ドヌール勲章を授与さる。第19回二科展「春近きセーヌ河」他35点(滞欧作特別陳列)。
昭和9年 第21回二科展「神苑」、「薔薇」「海棠」。
昭和10年 二科会を脱退。帝国美術院会員となる。
昭和12年 同志と一水会を創立。第1回一水会展「神苑朝」「姉妹」。帝国芸術院会員。
昭和13年 第2回一水会展「少女林泉」「少女」「中禅寺湖朝」「初夏」。
昭和14年 第3回一水会展「北窗」「南窗」「奈良公園藤」。
昭和15年 奉祝展「白樺の若木」。
昭和21年 第1回日展「露台」。
昭和22年 第9回一水会展「群青石の頸飾」。
昭和30年 文化功労章受領。
昭和36年 日展顧問。
昭和41年 4月11日逝去。

出 典:『日本美術年鑑』昭和42年版(140頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「山下新太郎」『日本美術年鑑』昭和42年版(140頁)
例)「山下新太郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9172.html(閲覧日 2024-03-29)

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