牧野虎雄

没年月日:1946/10/18
分野:, (洋)

洋画家牧野虎雄は10月18日四谷区の自宅で死去した。享年57。明治23年12月15日新潟県高田市に牧野藤一郎二男として生れた。41年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二、黒田清輝の指導を受け同校の特待生となり、在校中第6回文展に「漁村」「朝の磯」の2点が初入選となり早くも頭角を現わした。大正2年に同校を卒業続いて研究科に入つた。以後官展に出品、昭和10年帝展改組以来は審査員も辞し出品も中止した。大正13年槐樹社を起し昭和6年同社解散迄は専ら同展により作品を発表した。又昭和5年に六潮会を起し、これにも毎年出品、昭和6年槐樹社解散後は門下生を率いて旺玄社を創立、後進を指導する傍ら同展により作品を発表した。尚昭和4年帝国美術学校洋画科教授となつたが、同10年に辞し、続いて多摩帝国美術学校の創立に尽力、同校洋画科主任教授を勤めていた。大正初め、初期の作品は重苦しい暗色を多く用いていたが、後、明色による明るい平明な画面となり、晩年は日本画の平面的な表現を取り入れ独自の様式化をみせていた。
略年譜
明治23年 12月15日、新潟県高田市に牧野藤一郎二男として生る。
明治41年 東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝、藤島武二の指導を受けることとなる。
大正元年 在学中、第6回文展に「漁村」「朝の磯」初入選。
大正2年 東京美術学校を卒業、更に同校研究科に入る。
大正3年 第8回文展に「満潮」「汐浴み」入選。
大正4年 第9回文展出品の「紅葉の下湯」は3等賞を受く。
大正5年 第10回文展出品の「渓流に水浴」は特選となる。
大正6年 第11回文展「山間の初夏」出品、無鑑査となる。
大正7年 第12回文展に「山懐の秋色」「麦扱く農婦等」を出品後者は特選となり、又巴里日本美術展にも出品した。
大正8年 帝国美術院創設と共に洋画部推薦となる。第1回展には「庭」「着船場」を出品す。国民美術協会第5回展に「浮雲」を出品。7月、安宅安五郎 片多徳郎、田邊至等20名と共に新光洋画会を起した。
大正9年 第2回帝展に「花苑」「磯」を出品。
大正10年 第3回帝展に「中庭」「燈台の朝」出品。
大正11年 第4回帝展洋画部審査員となる。「百日紅の下」「園の花」出品。
大正13年 槐樹社を起す。第5回帝展に「梧桐」「凧揚」出品。
大正14年 第6回帝展に「春去らんとす」出品。
大正15年 第7回帝展に「罌粟」「裸婦」を出品。
昭和2年 第8回帝展に「晩き夏」「向日葵風景」出品。
昭和3年 第9回帝展に「南の部屋」出品。
昭和4年 第10回帝展に「向日葵」を出品。帝国美術学校洋画科教授に就任。
昭和5年 第11回帝展に「へちま」出品。木村荘八 福田平八郎山口蓬春等と共に美術に関する諸般の研究、及毎年展覧会開催の目的を以て六潮会を創立す。
昭和6年 第12回帝展に「白閑鳥」出品。槐樹社解散す。
昭和7年 第13回帝展に「村の娘達」出品。門下生を率いて旺玄会を創立す。
昭和8年 第14回帝展に「麦秋」出品。
昭和9年 第15回帝展に「秋近き浜」出品。
昭和10年 帝展改組以来は審査員の交渉を受けたが応ぜず、出品もしなかつた。帝国美術学校教授を辞し、多摩帝国美術学校設立者の一人として尽力し、同校洋画科主任教授となる。11月、初期から現在に至る迄の代表的作品120余点を陳べ、大阪朝日会館にて個展を催す。
昭和13年 12月銀座三昧堂で個展(小品20余点)開催。
昭和15年 3月資生堂ギヤラリーにて日本画展開催。
昭和21年 8月「朝顔図」に着手、9月5日頃完成。10月18日没。

出 典:『日本美術年鑑』昭和22~26年版(133頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「牧野虎雄」『日本美術年鑑』昭和22~26年版(133頁)
例)「牧野虎雄 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8688.html(閲覧日 2024-03-29)

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