庄司栄吉
日本芸術院会員の洋画家庄司栄吉は肺炎のため2月7日に死去した。享年97。
1917(大正6)年3月20日大阪に生まれる。生家は東南アジアから亜鉛を輸入し、酸化させて白色粉を生産する工場を経営しており、家業の関係で転居が多く、小学校高学年から中学校3年生まで奈良に居住。1935(昭和10)年、大阪外国語学校フランス語部に入学。同校在学中に赤松麟作の主宰する赤松洋画研究所に通い、38年に大阪外国語学校を卒業して東京美術学校油画科に入学。池袋パルテノンと呼ばれた椎名町に下宿し、41年、文展出品を目指していた制作中であった「庭にて」の下絵を見てもらうため、藤本東一良の紹介で寺内萬治郎を訪ねて以後、寺内に師事する。同年第4回新文展に「庭にて」で初入選。42年第5回新文展に「F嬢の像」で入選。同年、第29回光風会展に「M嬢の像」で初入選し、レートン賞受賞。同年10月に美術学校を繰り上げ卒業となり、44年に海軍教員としてセレベス島に派遣される。46年復員し、しばらく大阪に居住。47年寺内萬治郎の勧めで上京し、同年の33回光風会展に「読書」「小児像」を、第3回日展に「バレリーナ」を出品。50年光風会に「室内」「母の像」を出品してO氏賞受賞、翌年同会会員に推挙される。52年、当時の神学の権威であった熊野義孝(1899-1981)をモデルとした「K牧師の肖像」によって日展特選及び朝倉賞受賞。56年第42回光風会展に「画室の女」「青い服の肖像」を出品して南賞受賞。58年藤本東一郎、渡辺武夫、榑松正利らと北斗会を結成し、第一回展を東京銀座・松屋で開催し、以後毎年同展に出品を続ける。58年第1回新日展に「人物」を委嘱により出品。同作品は対象を色面に分割してとらえる方法で描写され、それまでの穏健な再現描写を踏まえた画風の展開が見られる。翌年の第2回新日展出品作「家族」はバイオリンを弾く少女を囲む群像を簡略化した人物描写でとらえており、音楽を奏でる、あるいは聴く人物像というモチーフとともに、晩年まで続く作風を方向付ける作品となっている。67年日展にチェロを弾く男性を描いた「音楽家」を出品して菊華賞受賞。70年日展審査員。71年日展会員。81年第67回光風会展に長いドレスの女性とギターを持つ男性を並立するように描いた「踊子とギタリスト」を出品して辻永賞受賞。86年日展評議員。同年12月資生堂ギャラリーにて個展。87年第19回日展に弦楽カルテットを描いた「音楽家たち」を出品し文部大臣賞受賞。2000(平成12)年3月に日展出品作「聴音」で恩賜賞・日本芸術院賞を受賞し、同年12月に日本芸術院会員となった。赤松麟作、寺内萬治郎を師と仰ぎ、穏健な再現描写を基盤とし、穏やかな色の筆触を重ねて対象を浮かび上がらせる作風で音楽家や踊り子などを描いた。
【新文展出品歴】新文展第4回(1941年)「庭にて」(初入選)、第5回(1942年)「F嬢の像」、1943年、44年は不出品
【日展出品略歴】第1、2回不出品、第3回(1947年)「バレリーナ」、第4回不出品、第5回(1949年)「室内」、第6回「画室の父」、第7回「坐像」、第8回「K牧師の像」(特選・朝倉賞)、第9回「婦人像」、第10回(1954年)「青衣少女」、第11回「赤い服の女」、第12回「腰掛けた女」、第13回(1957年)不出品
【社団法人日展】第1回(1958年)「人物」、第5回(1962年)「耳野先生像」、第10回(1967年)「音楽家」(菊華賞)
【改組日展出品略歴】第1回(1969年)「作曲家」、第5回(1973年)「白鳥」、第10回(1978年)「すぺいん舞踊家」、第15回(1983年)「舞踊団の人たち」、第19回(1987年)「音楽家たち」(文部大臣賞)、20回(1988年)「ギタリスト」、第25回(1993年)「ピアニスト」、第30回(98年)「調弦」、第35回(2003年)「ヴィオロニスト」、第40回(2008年)「聴音」、第45回(2013年)「セロ弾き」
【改組新日展出品歴】第1回(2014)年「演奏家」、第2回(2015年)「バレエ団の人たち」(遺作)
登録日:2018年10月11日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「庄司栄吉」『日本美術年鑑』平成28年版(528頁)
例)「庄司栄吉 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/808971.html(閲覧日 2024-10-10)
以下のデータベースにも「庄司栄吉」が含まれます。
- ■美術界年史(彙報)
- 2000年03月 日本芸術院賞受賞者決定
- 2000年12月 日本芸術院新会員内定
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