- 本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された彙報・年史記事を網羅したものです。
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1938年05月 ドイツ国政府、ドイツ・アルバイトフロント及ドイツ手工業全国団体主催の下に、手工業の経済的社会道徳的、芸術的能力乃至使命を世界に宣示し、又機械万能主義と一切の規格、劃一主義に対抗する手工業的精神の強調を目的として、第一回国際手工業博覧会が五月二十八日から七月十日迄ベルリン・カイゼルダムに於て世界約二十六ヶ国の出品を蒐めて開催された。 我が国も之に参加、漆器、竹細工、金工品、日本刀、人形、七宝、染織品、和紙応用品、小木工品、弓等の固有工芸品を国際文化振興会の手によつて蒐集選定の上出品し、又製作実演の為竹細工の増田蜂斎、弓矢の石津重貞を特派した。
1938年05月 日独交驩の為、日本側青少年団の一行は五月二十七日神戸発で派遣されることとなつたが、この機会に、木戸文相よりヒトラー総統に横山大観筆旭日に富士を描いた絹本横物一幅を贈呈することとなり一行に託した。
1938年05月 戦地にある将兵に給与されてゐたゑはがきは従軍画家等の手になる戦場風景ばかりであつたが、新に陸軍東京経理部では、軍事郵便用のゑはがきとして横田大観、川合玉堂、池上秀畝、飛田周山、和田三造、熊岡美彦の六名に作画を委嘱、内地の風物を写したものを作製し、五月二十六日原画がすべて揃つたので多数印刷の上戦線に送ることとなつた。
1938年05月 同聯盟では同人小林彦三郎を協調の精神に反するものとして除名、同人及び樋口英雄、谷良治、佐々木順、楠奉白光、穂坂静夫、山田菁々は五月二十四日脱退を声明した。
1938年05月 日独文化協会主催で日本工芸展覧会が五月二十一日からベルリン郊外シエーンハウゼン城で開かれた。
1938年05月 商工省主催第四回木、漆、金工関係技術官会議は、五月十六日より四日間大阪府工業会館に於て開催、商工省白井化学工業課長外十一名地方技術官九十四名出席し種々協議を行つた。特に時局に鑑み輸出振興、資源開発、代用品研究等の問題が考究された。
1938年05月 商工省主催陶磁器関係技術官会議は五月十一日から四日間京都陶磁器試験所に於て開かれ、商工省関係官初め全国の技術官等五十六名出席、輸入原料に対する合理的使用、国産代用原料の研究その他の問題につき協議が行はれた。
1938年05月 前記上海軍嘱託として従軍した作家等の外、川端竜子、鶴田吾郎は五月末北支より蒙疆へ、中沢弘光、伊原宇三郎は天津北京を経て山西方面に栗原信は徐州方面に、又八月、九月には石川寅治、石井柏亭、永地秀太、和田香苗、早川三四郎が前後して北支方面に、いづれも陸軍嘱託として従軍することになつた。
1938年05月 上海軍報導部では部長木村大佐、金子少佐等の肝煎りで、支那事変記念画を作製することとなり、衛生上等兵として服務中の長坂春雄の斡旋により、同人を初め中村研一、小磯良平、江藤純平、柏原覚太郎、向井潤吉、朝井閑右衛門、南正善、鈴木栄二郎(軍属服務中)及び脇田和の十名を製作者に選定して事業に着手した。此等の画家達は軍の委嘱により五月上旬上海に至り、戦線を視察の上夫々部署を定めて仕事に取りかゝつた。いづれも二百号の油絵とする筈である。
1938年05月 四月十五日から七月十五日迄ジユネーヴで国際庭園都市計画展覧会が開かれ、わが国では日本造園協会、国立公園協会、国際文化振興会等の諸団体が協力して出品資料を選定国際文化振興会の手によつて発送した。出品は京都を初め全国の諸名園の写真、実測図、鳥瞰図等の外石灯籠名品の写真、国立公園の写真、及び名園紹介の映画、幻灯板等である。五月七日審査発表があり、わが国の出品に対しては第一等賞の銀製カツプが授与された。
1938年05月 鹿子木孟郎は南京入城図を描く為陸軍省嘱託として三月下旬発南京に赴き、多数の写生を作つて五月三日帰国した。
1938年05月 満洲国では昨年訪日宣詔記念美術展覧会が開かれたが、新に官設美術展覧会を開設することとなり、民生部の主催として第一回満洲国美術展覧会を五月二日から十日間、新京記念公会堂並に大経路国民学校に於て開催した。会長、副会長、顧問、審査員長、審査員、相談役、幹事長、幹事等を置き第一部東洋画、第二部油画水彩画、第三部彫刻及美術工芸、第四部法書の四部とする。会長は民生部大臣孫其昌、審査員長は羅振玉で、審査の相談役として前田青邨及び藤島武二が招聘された。 第一回展の統計は左の通りである。 搬入数 入選数 特選 佳作 第一部 二五六 六八 四 一〇 第二部 三四九 一六一 五 一三 第三部 七一 五一 二 七 第四部 一二九 七二 三 九 合計 八〇五 三五二 一四 三九
1938年05月 本年一月サンフランシスコ美術協会から在米中の二科会員国吉康雄を介し、美術を通じて日米親善を図る為、相互交換の洋画展を両国同時に開催する提案があつたので、二科会ではこの程開かれた在野洋画五団体懇話会に付議、満場一致の賛成を得、更に近く懇話会を開いて具体案を考究することとなつた。
1938年05月 谷福太郎外五名の作家により五月、大阪絵画会が結成された。「進歩的である為には先づ芸術作品の価値を広汎な総体的聯関性に於て発見する所から出発せねばならぬと考へ「科学的創造の線に沿つて」努力するものである。
1938年05月 同聯盟では時局に方り東洋平和の確立に邁進すべき我が国民の自覚と奮起に資する為、本年二月ポスター図案、歌詞、標語三種の懸賞募集を行つた。ポスターは四月六日締切、応募数一二三九点の中から五月一日左の通り当選を発表した。 優秀(賞金一千円)大阪市沖原薫 佳作(賞金各一百円)多仲孝次、萩清、湯田泰次、富阪健、轟周平
1938年04月 故日本美術学校長紀淑雄の胸像が同校々庭に建設され四月二十九日除幕式があげられた。
1938年04月 銅鉄の使用制限規則が公布されて様々の波紋を描いてゐるが、日陶聯では金属代用の陶磁器製品を懸賞募集したところ家庭用品六百五十八点、土木建築用品二百十八点、機械器具用品三百五十点、その他四百八十一点、総計千七百七点の応募があり、東京工業試験所熊沢技師が審査長となり慎重審査の結果四月二十八日入選者を発表した。二等三名、三等三名、選外佳作十五名。
1938年04月 支那事変開始以来北支及び中支戦線の陸軍に従軍した画家は数十名の多数に及ぶので、その中の有志が発起して四月二十六日九段軍人会館に会合を開き協議した結果、大日本陸軍従軍画家協会を結成することとなつた。団体として時局に適した事業を行はうといふのである。発起人として当日参集したのは向井潤吉、瀬野覚蔵、古城江観、小林喜代吉、鶴田吾郎、寺本忠雄、等々力巳吉、長谷川春子等で陸軍省新聞班の柴野少佐も加はつた。
1938年04月 前進的洋画青年作家等十九名によつて、創紀美術協会が四月二十五日結成された。「従来前衛絵画の若さに見られたる形式の追随及意識の先行を矯め我等が伝統の母体たる此の祖国の土に立ち飽く迄豊かなる肉体を備へたる新日本の洋画を創造」したいといふのである。
1938年04月 藤島武二は事変勃発以来戦線観察を希望してゐたが、第一回満州国美術展審査の為四月二十五日新京に向つて出発、用向をすませて後上海南京方面スケツチの為陸軍省から派遣されることになつた。