石井柏亭
日本芸術院会員石井柏亭は12月29日尿毒症のため東京女子医大病院において逝去した。享年76才。本名満吉。明治15年3月28日東京下谷区に生れた。若くして父鼎湖に日本画を学び、日本青年絵画共進会、日本美術協会に日本画を出品した。大蔵省印刷局に入つて彫版、水彩画を学んだが、明治31年浅井忠の門に入り洋画を正式に学んだ。この頃から明治美術会に出品した。浅井の渡欧後は中村不折の指導を受けた。また新日本画に興味を持ち、結城素明、平福百穂等の无声会に加わつて日本画を発表し、さらに明治35年からは太平洋画会に洋画を出品して会員となつた。一時東京美術学校に入学したが、眼疾のため1ケ年で退学した。明治40年以降文展に出品し、大正2年第7回文展「滞船」は2等賞となつた。この間、明治43年から大正元年にわたりヨーロッパ、エジプト等を巡歴した。同2年丸山晩霞、南薫造等と日本水彩画会を結成した。この年文展に第2科を置くことを建議したが容れられず、遂に翌3年山下新太郎、有島生馬等と二科会を創立し、多くの作品をこれに発表すると共に、その運営の中心となつて活躍した。その頃の主な作品に「鰤網の支度」(第3回)「道潅山」(第4回)「溶々水」(第7回)「江の島」(第13回)「果樹園の午後」(第15回)等がある。大正11年ヨーロッパに再遊し、翌年帰国した。昭和10年帝国美術院の改組にあたつて会員に選ばれて二科会と決別し、同11年同志と一水会を結成し、専らこれに出品した。戦後日展の常務理事として運営につくすと同時にこれに出品した。また同25年以来文化財専門審議会専門委員(名勝部会)となり、同29年にはその水彩画を携行して米欧を行脚した。その作品は、油絵、水彩画、日本画など数多いが、いずれも淡々とした色調と軽快な筆致に日本的な独自の画風を示している。文筆にも長け、評伝、画論等に筆を振つた。主な著書に「欧洲美術遍路」「マネ」「浅井忠」「明暗」「日本絵画三代志」などがある。わが国の近代美術の発展につくした功績は大きい。その葬儀は34年1月8日青山葬儀所で一水会葬をもつて行われた。
略年譜
明治15年 3月28日東京に石井重賢(鼎湖)の長男として生れた
明治25年 父の指導により日本画を学ぶ。日本美術協会「八郎弓勢の図」、日本青年絵画共進会「観雁知伏図」
明治26年 日本青年絵画共進会「勿来関図」日本美術協会「曾我復讐図」
明治27年 神田の共立中学校に入学。日本青年絵画共進会「鐘馗の図」、日本美術協会「長年尽忠図」
明治28年 中学を中退し、大蔵省印刷局の彫版見習生となる。日本美術協会「謙信送塩図」、日本青年絵画共進会「雪中斥侯図」
明治29年 印刷局同僚の水彩画を見て独習する
明治30年 父を失う
明治31年 浅井忠に入門。明治美術会10周年展に水彩画出品
明治32年 将来画家として立つことを決心した。はじめて油絵を試みた。明治美術会「墨堤秋雨」(水彩)「菊花秋」(同)
明治33年 新日本画に熱中する。浅井渡欧のため中村不折の指導を受ける。日本画会「躑躅」(和画)
明治34年 下根岸に移る
明治35年 第2「明星」新年号以来挿絵の寄稿家となる。
无声会会員となる。第1回太平洋画会展「少女」(水彩)「意富比宮」(″)「塩浜」(″)、无声会展「千住川」(和画)
明治36年 谷中に移る。第2回太平洋画会展「南部城趾」「北上川」、
无声会展「不忍池畔」(水彩)
明治37年 春印刷局を辞し、中央新聞杜に入社、挿絵を担当。東京美術学校洋画科選科に入り、黒田清輝・藤島武二の指導を受く。第3回太平洋画会展「草上の小憩」
明治38年 慢性トラホーム悪化のため新聞杜及び美術学校を退き、大阪に赴き療養す。第4回太平洋画会展「なげき」「病児」(水彩)「廃屋」(″)「恢復期」(″)
明治39年 眼疾快方に向い多少の画作をなす。京都の浅井を屡々カ訪ねた。第5回太平洋画会展「蔦模様」
明治40年 東京に帰る。雑誌「方寸」を創刊。内外印刷会杜に入杜、図案を担当す。千駄に移る。東京博覧会「廃園」、第1回文展「姉妹」「千曲川」(水彩)
明治41年 内外印刷会社解散、秋創刊の週刊誌「サンデー」に入杜、挿絵を執筆。第6回太平洋画会「嫩草山」「舞姫」(水彩)、第2回文展「火の跡」
明治42年 第7回太平洋画会展「冬の朝」「煎餅屋」、第3回文展「紀の海」「熊野河口」(水彩)褒状
明治43年 新錦絵「東京十二景」をはじむ。12月仏船ポリネシアン号で渡欧の途に上る。第8回太平洋画会展「御殿場の富士」
明治44年 エジプト、イタリアを経てパリに滞在。冬渡英。「旧カイロ」「巴里の宿にて」等水彩画の制作多数。第5回文展「羅馬遺跡」(テムペラ)「サン・ミシェル橋畔」(素描淡彩)褒状
明治45年 スペイン、北イタリア、ドイツ等を旅行。夏渡英。ベルリン、モスクワを経てシベリア線にて秋帰国。第6回文展「独乙の女」(水彩)「和蘭の子供」(テムペラ)褒状
大正2年 4月旡声会展の中に西遊記念の個展を開く。国民美術協会を結成。丸山晩霞等と日本水彩画会を創立。大阪で佐々木加代と結婚。第7回文展「N氏と其一家」「並蔵」(素描淡彩)「滞船」(テムペラ)2等賞、国民美術展「山陰水郷」パナマ・パシフィツク博覧会「美保関」銅牌
大正3年 大正博覧会審査員となる。文展二科設置運動に加担したが建議不調のため同志と二科会を創立。第1回二科展「麦秋」「早春」(素描淡彩)
大正4年 秋「中央美術」創刊、その編輯に関与。国民美術展「堀」第2回二科展「牧柵に凭るめのこ」「鰊倉」「洞爺湖」(テムペラ)等
大正5年 第3回二科展「鰤網の支度」「金沢の犀川」
大正6年 道潅山の新居に移る。第14回太平洋画会展「徳島の女」「阿波吉野川」、第4回二科展「道潅山」「鹿島野」
大正7年 朝鮮、満州に旅行。第5回二科展に「紅蓮」「厨」等
大正8年 春から初夏にわたり中国に旅行。第6回二科展「阿四」(水彩)「某女工像」等
大正9年 朝鮮に再遊。第7回二科展「東大門外」「農園の一隅」「溶々水」「団扇をもてる女」
大正10年 西村伊作等と文化学院を創立。第8回二科展「靹の津」「内海の或午後」
大正11年 東大工学部講師となり建築学科の自在画を指導。平和博覧会審査員となる。12月シベリア丸で米国経由渡欧の途につく。第9回二科展「小木港俯瞰」等。平和博覧会「外套を被たる婦人」
大正12年 1月ニューヨーク着。次いでフランスに渡る。春イタリア、初夏ベルギー、夏イギリス、ノルエー、ドイツに旅行。第10回二科展「ナポリ港」「ソレント」。サロン・ドートンヌ「F夫人像」
大正13年 1月帰国。第11回二科展「アスシジ」「サン・ミシェル橋」「姉妹」「避暑地にて」等特別陳列
大正14年 文化学院に美術部を創設、部長となる。第12回二科展「湖畔の夕」「十和田湖畔」等
大正15年 第13回二科展「麻雀」「最明寺遺跡」等、聖徳太子奉賛展「波斯壷の花」(水彩)、第14回日本水彩画会展「燈下二少女」(水彩)
昭和2年 第14回二科展「牡丹」「水車場」等、燕巣会展「川沿ひの家」
昭和3年 フランス政府からシュヴァリエ・ド・ラ・レジォン・ドンノール勲章を受く。第15回二科展「果樹園の午後」「曇れる日」
昭和4年 春青樹社に個展。第16回二科展「洞」「暑き日」。聖徳記念絵画館「昭憲皇太后広島予傭病院行啓図」
昭和5年 朝鮮展鑑審査のため渡鮮。第17回二科展「画室」「木浦俯瞰」等、聖徳太子奉賛展「江村遅日」
昭和6年 第18回二科展「緑衣」「古器」
昭和7年 生誕50年記念展を都美術館に開く。第19回二科展「中禅寺の冬」「伊香保眺望」等
昭和8年 第20回二科展「佐野瀑園」「天草の或部落」「二科二十人像」(素描淡彩)
昭和9年 1月母を失う。第21回二科展「咢堂先生像」「松浦川朝霧図」
昭和10年 大阪で回顧的個展を開く。二科会の作品を展観するため藤田嗣治等と渡満、帝国美術院会員となり二科会と訣別す
昭和11年 一水会を結成。青樹社に個展
昭和12年 帝国芸術院会員となる。第1回一水会展「葛飾」「村娘」「御岳」「秋晴」
昭和13年 夏陸軍の嘱を受け北支蒙彊に、秋海軍の嘱によつて上海に赴く。日本水彩画会展・米国博覧会「晩春行楽図」(水彩)、第2回一水会展「蒙彊平穏」「康安門」等
昭和14年 秋ソ満国境、朝鮮に赴く。聖戦美術展「双脚懐江南」、第3回一水会展「豆満江」「石神井池」(水彩)等
昭和15年 秋日満文化協会の嘱によつて渡満、各地で講演。紀元2600年奉祝展「農村初秋」第4回一水会展「武蔵野」「吉林」「松花江」
昭和16年 同志と邦画一如会創始。満州国展のため渡満。第5回一水会展「如意湖」「遼西古都」、文展「朝陽城外」
昭和17年 春双台社主催還暦記念展。文展「五十嵐博士像」、第6回一水会展「野尻湖」「琵琶島」「或尼僧」、満洲国献納「手賀沼」
昭和18年 陸軍の嘱を受けてソ満国境に赴き、帰途北京に立よる。文展「十和田湖」、第7回一水会「什殺海」「園中対像」
昭和19年 戦時特別美術展「最上川」
昭和20年 東京住宅罹災、信州浅間温泉東山別館に疎開。第1回日展「山河在」、信州美術展「山辺の秋」(水彩)
昭和21年 第8回一水会展「槍ケ岳」「燕岳」「山荘の朝」、第2回日展「秋の朝」
昭和22年 信州美術会々長となる。第9回一水会「飯土山」「女鳥羽川」
昭和23年 第4回日展「堰」第10回一水会「清澄」「暮雲」
昭和24年 国立公園中央審議会委員となる。第11回一水会展「麦秋」、第5回日展「画家小集」
昭和25年 信州大学教育学部講師、文化財専門審議会専門委員となる。第6回日展「静穏」、第12回一水会展「芙蓉湖」
昭和26年 日展洋画主査となる。第7回日展「湖畔浴泉」、第13回一水会展「湯沢残雪」「山花秋宵」
昭和27年 東京、長野、松本で古稀記念展。新潟大学教育学部講師となる。第8回日展「湖畔の宿」、第14回一水会展「山湖曇日」「自像」「妙高秋晴」
昭和28年 三越で水彩水墨画個展。第9回日展「秋のおとずれ」、第15回一水会展「小西湖晩春」
昭和29年 5月工芸倶楽部で米国携行の水彩画内示展。9月夫人同伴米欧旅行へ出発、米国各地に個展。第10回日展「千代田城」
昭和30年 3月欧州に渡りイタリア、パリ等で写景、6月末帰国。東京及び松本で滞欧米作品個展開催。第17回一水会展「カリフォルニアの秋」、第11回日展「松本城」
昭和31年 ブリヂストン美術館で回顧陳列。十二指腸潰瘍のため金沢大学附属病院に入院手術、第18回一水会展「大山崎晩春」「裸身」
昭和32年 第13回日展「佳人」、第19回一水会展「江の島A」「江の島B」、日米交換版画展「室内」(石版)「早春(リッチモンド)」(″)
昭和33年 改組第1回日展「パイプの男」、「山湖雨後」(和画)第20回一水会展「水かがみ」。3月腎臓を病み一時東京女子医大附属病院に入院、7月退院。この間3月28日上野精養軒で喜寿祝宴、12月11日風邪のため前記病院に入院。同月29日尿毒症のため逝去
昭和34年 1月8日青山葬儀所に於て一水会葬
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「石井柏亭」『日本美術年鑑』昭和34年版(157-159頁)
例)「石井柏亭 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8931.html(閲覧日 2024-12-02)
以下のデータベースにも「石井柏亭」が含まれます。
- ■美術界年史(彙報)
- 1936年04月 聖徳記念絵画館壁画完成式
- 1936年05月 帝院第二部五会員意見書提出
- 1936年06月 帝院第二部四会員意見書提出
- 1936年06月 帝院第二部四会員声明
- 1936年07月 海軍館陳列画執筆者決定
- 1936年12月 一水会組織
- 1937年02月 田中松太郎を慰める会
- 1937年06月 海洋美術会発会
- 1937年08月 二科会名誉会員辞退
- 1937年11月 年賀電報紙図案作製
- 1951年11月 高橋由一顕彰会
- 1938年05月 陸軍嘱託画家
- 1938年07月 従軍画家招待
- 1938年09月 文展第二部審査員
- 1938年09月 日支合同油絵展覧会
- 1938年09月 海軍従軍画家嘱託
- 1938年10月 石井柏亭帰朝
- 1938年12月 昭和十三年中陸軍嘱託画家
- 1938年12月 昭和十三年中海軍従軍画家
- 1939年10月 興亜美術展覧会開設
- 1940年11月 海軍恤兵絵葉書完成
- 1940年12月 邦画一如会結成
- 1940年12月 海軍従軍美術家倶楽部結成
- 1941年04月 伊太利亜政府日本現代美術品買上
- 1941年05月 双台社発会
- 1942年02月 潜水艦に水彩画三十余点献納
- 1942年05月 美術家連盟結成
- 1945年10月 美報解散
- 1946年06月 新日本芸術家連盟結成
- 1946年10月 観光美術協会結成
- 1949年07月 日展運営会規則など決る
- 1949年10月 東京都美術館へ抗議
- 1957年03月 富岡八幡の壁画第一号完成
- 1957年04月 米国に開催の日本水彩画展
- 1957年05月 日本芸術院会員選考委員決る
- 1967年05月 近代日本の版画展開催
- ■物故者記事
- 嘉門安雄 匠秀夫 鈴木良三 木下義謙 牧野正吉 平塚運一 高田誠 高田力蔵 中川一政 中村善策 松田忠一 田崎廣助 鈴木信太郎 濱達也 須山計一 安部治郎吉 不破章 別車博資 普門暁 滝川太郎 松田文雄 田辺三重松 中川紀元 鳥取敏 足立源一郎 有島生馬 池部鈞 川村信雄 藤田嗣治(レオナール・フジタ) 山下新太郎 小杉放庵 篠原新三 西田武雄 真野紀太郎 池田永一治 斎藤豊作 織田一磨 太田正雄 山本鼎
- ■明治大正期書画家番付データベース
- 1908(明治41) 日本書画名覧_807166
- 1913(大正2) 大日本絵画著名大見立_807036
- 1923(大正12) 大正拾弐年度改正東西画家格付表_806936
- 1926(大正15) 増補古今書画名家一覧_807116
- 1927(昭和2) 増補古今書画名家一覧_807121
- 1937(昭和12) 改訂古今書画名家一覧表 附古今書画名家印鑑譜_807016
- ■『美術画報』所載図版データベース(13件中ランダムで5件表示しています)
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