向井潤吉

没年月日:1995/11/14
分野:, (洋)
読み:むかいじゅんきち

 行動美術協会創立会員で民家を描く画家として知られた洋画家の向井潤吉は11月14日午前5時30分、東京都世田谷区弦巻の自宅で急性肺炎のため死亡した。享年93。明治34(1901)年11月30日、京都市下京区仏光寺通柳馬場西入東前町406番地に生まれる。生家は代々宮大工に従事し、潤吉の父才吉は東本願寺の建築にもたずさわったほか、職人を抱えて輸出向け刺繍屛風や衝立の制作をも行っていた。大正3(1914)年京都市立美術工芸学校予科に入学するが、在学中に油彩画に強い興味をいだき、同校を中退して画業を手伝いながら関西美術院に学ぶ。沢部清五郎、都鳥英喜に師事。同8年関西美術院での友人たちと麗日会を開催。また同年第6回二科展に「室隅にて」で初入選する。同9年5月に上京して新聞販売店に住み込み、新聞配達の仕事をしながら川端画学校に通う。同年第7回二科展に「八月の鉢」が入選。同年京都に帰り、翌年春大阪高島屋呉服店図案部に勤務し始める。同年12月京都の歩兵第38連隊に入営するが2ヶ月で除隊し、再び高島屋に勤務する。翌15年第13回二科展に6年ぶりに「葱の花」を出品して入選し、本格的に画家を志した。昭和2年秋、シベリア経由で渡欧し、アカデミー・ドラ・グラン・ショーミエールに通う。翌年サロン・ドオトンヌに出品する。同5年1月帰国。滞欧中にドイツ・イタリア・スペイン・オランダなどを訪ねている。帰国の年、京都大毎会館で個展を開いたほか、東京、大阪、京都の画廊でも個展を開催。同年の第17回二科展に「力土達」等11点を特別出品し樗牛賞を受賞、同8年同会会友、同11年会員に推挙される。同12年秋中国に個人の資格で従軍し翌年5月中村研一らと上海に赴き上海軍報道部の委嘱により記録画を作成する。同13年大日本陸軍従軍画家協会設立とともに同会会員となり、同14年陸軍美術協会の結成に伴い同会会員となる。同15年紀元2600年奉祝展に「黄昏」を出品し、同年昭和洋画奨励賞を受賞する。同16年二科会評議員となる。また同年国民徴用令により報道班員としてフィリピンに赴く。同18年ビルマ方面に従軍して同19年8月に帰国する。戦中に日本の民家の図録を見てその美に注目し、終戦後は民家を描き続けようと志し、同20年秋に新潟県川口村をモティーフとした「雨」を制作して以後、終生民家を描いた。終戦まもなく再興した二科会には参加せず、行動美術協会を結成してその創立会員となる。以後行動展を中心に、日本国際美術展、現代日本美術展、日本秀作美術展などにも出品。同34年再度渡欧し10ヶ月ほど滞在。同41年訪中日本美術家代表団の一員として訪中し北京、上海、蘇州などを訪ねる。同49年3月京都府立文化芸術会館で民家を描いた作品約50点による自選展を聞いたほか、5月には東京銀座のセントラル美術館において初期からの画業を90点でふりかえる「向井潤吉還流展」を開催。翌年横浜高島屋で「向井潤吉民家展」を開催し70余点を展示する。昭和8年から世田谷区弦巻町に居住し、同57年同区名誉区民となった。同61年世田谷美術館において「向井潤吉展」を開催、年譜、参考文献などは同展図録に詳しい。平成4年自宅兼アトリエとともに300余点の作品を世田谷区に寄贈したのを受け、世田谷美術館内に向井潤吉アトリエ館が設置された。同年「向井潤吉アトリエ館開館記念展 郷愁と輝き・向井潤吉と民家」が開かれている。その土地の気候、風土、人々の暮らしが作り上げてきた民家のかたちを写実的にとらえ、失われていく景観を描きとどめた。スケッチによってアトリエで完成させる方法をとらず、現地での制作を重視した。描かれた民家は北海道から鹿児島まで1500に及ぶ。

出 典:『日本美術年鑑』平成8年版(330-331頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「向井潤吉」『日本美術年鑑』平成8年版(330-331頁)
例)「向井潤吉 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10637.html(閲覧日 2024-04-19)

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