ハンガリア画家作品寄贈

1938年03月

ハンガリア一流の画家ヤシツク・エー・モシユは自作の「勇敢なるヤノシユ」十一枚綴りのオペラ画を、文化使節として来朝の在ブダペスト日洪協会副会長メイゼイシユトワーン博士に托し、日洪協会々長鍋島直和子爵の斡旋で、三月十七日早大演劇博物館に寄贈した。同館では同二十四日から四月三日迄之を陳列公開した。

補助貨幣模様図案懸賞募集

1938年03月

大蔵省では新鋳補助貨幣図案の懸賞募集を行ふこととなり、三月八日の官報を以てその規程を発表した。種類は十銭、五銭及び一銭で有孔のものと無孔のものとの二種とし、内容は日本精神を宣揚するものたるべきことを要求してゐる。三月三十一日締切、審査は大蔵省が行ひ賞金は当選両種各一点五百円、選外佳作各五点百円づつ、但し選外佳作の図案の一部が貨幣模様の一部として採用せられたものに付ては三百円までの範囲で増額することあるものとする。

日本工芸品シカゴ陳列会

1938年03月

昨秋開かれた商工省輸出工芸展出品中から七二八点を選択、日本輸出工芸聯合会の主催により、日本工芸品シカゴ陳列会を三月七日より同市に於て開いた。

日本実用工芸品展

1938年03月

三月六日から一週間ライプチツヒに於て開催された一九三八年春季見本市を期し、国際文化振興会及びフエライン・フユア・ドイツチエス・クンストゲウエルベによつて日本固有の現代実用工芸品が特別出品された。出品は国際文化振興会が市場から選定購入した日用品で、目ざる、渋団扇、茶道具、のれん、すり鉢、茶碗、花造り道具、蛇の目傘、盆、大工道具、鉄瓶、菓子鉢、重箱、風呂敷、蒲団、筆、和紙、紙入れ、煙管入れ、火鉢、屏風、用箪笥、乱れ箱、針箱等約五百点であつた。

ヴエネチアに日本式庭園

1938年03月

ヴエネチア市では日伊親善の表示として純日本式庭園を同市立公園隣接地に作る計画を立て堀田大使を通じて外務省に斡旋を申込んできたので、同省では国際文化振興会と協力し、一流の造園家を委嘱して設計建設の実現に努力することとなつた。

女子人形学院創立

1938年03月

人形製作の流行につれて講習会など多く行はれてゐるが本格的に人形芸術の教養を与へようといふ女子人形学院が麹町区九段四ノ十五ノ十六に設立され、三月上旬から授業を開始することになつた。

ZIGZAG解散

1938年03月

大阪に於ける美術団体ZIGZAGは、「昨秋の第四回大阪新美術家同盟展参加を契機として再組織の必要を来し、茲により新しき進展を目指し」て三月解散した。

国際手工業博参加

1938年02月

ドイツ政府主催の第一回国際手工業博覧会は参加国三十余ヶ国、五月二十八日から六月二十六日迄ベルリン、カイゼルダムで開催されることとなり、予て勧誘をうけてゐたわが国では、外務商工両省及び国際文化振興会の間で協議の結果参加する事に決定、二月二十四日正式回答を発した。この企ては世界最初のもので、国際手工業特別展、文化史展、製作展、文献展、国際流行展、手工科補助器具専門部会、特別催しものなどの部門に分かれてゐる。

映画美術家協会結成

1938年02月

映画界の各方面に働く美術家達によつて映画美術家協会が結成され、二月二十三日第一回例会を兼ねた発会式があげられた。

玖窓会結成

1938年02月

東京美術学校日本画科昭和九年度卒業の有志十名は玖窓会を結成、二月十七日より五日間銀座資生堂で第一回展を開いた。

京都陶磁器輸出振興会設立

1938年02月

京都陶磁器の積極的な海外新市場の開拓及輸出増進を図る為京都陶磁器工業組合では、協議の結果加盟当業者を以て同組合輸出部内に京都輸出陶磁器振興会を組織することとなり、二月十五日その発会式を兼ねて府、市、関係者その他参集懇談協議する所があつた。

岡田三郎助に寿像を贈呈

1938年02月

昨年文化勲章拝受の光栄を記念し、知人、門下等五百余名が岡田三郎助に寿像を贈ることとなり二月十五日東京府美術館でその贈呈式をあげた。像は和服姿の坐像で吉田久継の作になる。

新美術人協会結成

1938年02月

昭和九年以来新日本画樹立を目指して研究を重ね来つた新日本画研究会員は、その目的達成の為新美術人協会を組織し五月第一回公募展を開くこととなつた旨二月十一日発表した。

憲法発布五十年祝賀式記念画

1938年02月

二月十一日帝国議会議事堂で憲法発布五十年祝賀式が盛大に挙行され、秩父御名代宮殿下の勅語御捧読以下の盛儀が行はれたが、貴族院ではこの歴史的光景を油絵にして永く伝へることとなり、委嘱を受けた伊原宇三郎は当日同式場を拝観、油絵によるスケツチを行つた。

絶対象派協会結成

1938年02月

前衛派作家等によつて組織されてゐた黒色展はこの程解散されたが、その旧同人その他五名は絶対象派協会を結成し、二月六日発会式をあげた。

日本画会解散

1938年02月

明治三十年創立以来四十年間に亙つて存続し、毎春展覧会を開催して来た日本画会は、時代の推移に伴ふ四囲の都合上解散することとなり、二月一日会員総会を開いて之を決定、諸方面に挨拶状を発送した。

日本万国博覧会準備

1938年01月

昭和十五年に開催予定の紀元二千六百年記念日本万国博覧会準備は着々進捗し、一月二十五日同博覧会規則を制定発表、同時に国務大臣、内閣参議、枢密顧問官、枢、貴、衆三院正副議長等五十五名を名誉顧問に推挙した。又同博覧会の主標として建設し永久に伝へんとする肇国記念館は、旧冬募集した一等当選作の設計に多少の変更を加へることとなり、その敷地は月島埋立四号地正面に内定した。

印度奥地に日本風宮殿建設

1938年01月

印度パテイアラ王国のマハラジヤーが日本風の庭園及び宮殿造営の希望を有し、適当な技師派遣につき昨春カルカツタ駐在米沢総領事に斡旋を依頼したので、爾来外務省文化事業部と国際文化振興会とでその実現方を考究中であつたが、人選の結果建築家谷一東と造園家西川浩の両名を委嘱同会より派遣することとなり、両名は一月十二日出発した。

美術調査会報道さる

1938年01月

文部省では美術行政一般に関する根本的方策考究の為美術調査会設置の意向なる旨昨夏発表する所があつたが、近く成案を得て実現することとなつたとの報道が一月五日諸新聞紙上に伝へられた。

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